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  3  煙草


 ある晩、妹と父が口論をはじめた。原因はテレビのことで、何度思い出してもものすごくくだらない話だった。いわゆるはずみとか言葉の綾とかいうやつで、父が、妹の好きなアイドルにけちをつけたのだ。
 かちんときた明里が、父ちゃんと違って何とか君はデリカシーがあって気配りの人だとかなんとか、そんなことを口走った。そして、言うなり後悔したようだった。
 父はそう見えなくても、デリカシーも気配りもある、優しい男だった。そして、父自身より妹のほうが、よほどそのことをわかっているはずだった。
 父が何か言うより、
「明里」
 とわたしが口を挟むほうが一息早かった。
 父が何か言い返すなりふてくされるなりするのを、あのときわたしはどうして待てなかったのだろう。
 そうすればくだらなくも恒例行事の、仲の良い父娘の口げんかですんだはずだった。明里の失言よりも、わたしのそのたしなめる口調や、ばつの悪いようすで唇をかみしめた妹の表情のほうが、よっぽど父を傷つけただろうに。
 だけど、父は大人だった。普段は子供のようにあけすけに振る舞っていても、わたしたちより二十年ばかり長く生きて社会に揉まれ、たくさんの人と関わってきた大人だった。
 大人というのは、何も無かったふりをするのがうまい。気がつかなかったふりをするのも。
 父はほんの一瞬だけ、寂しそうな目をしたけれど、気のせいかと錯覚するようなすばやさで、拗ねたように唇を突き出した。
「どうせ俺はデリカシーも気配りもない足のくさい冴えない中年男ですよ」
 笑うかどうか、とっさに反応できなかったわたしと、ほっとしたふうに表情を緩めた明里を交互に見て、父はいじけた口調のままで続けた。「だけどなあ、明里の好きなアイドルだって、二十年もしたら腹も出るし、へたしたら頭も薄くなって、中年オヤジになっちまうんだぞ。二十年も経たなくったって、きっと足も臭いし家じゃ屁もこく」
 そこから何とか君の足は臭くないだの足の臭くない男なんかいないだのじゃあ父ちゃんアイドルの足のにおい嗅いだことあんのだの、二人は延々とくだらない口げんかを続けた。
 怒った明里が部屋に閉じこもってしまうと、父は「タバコ吸ってくる」と言い残して、ふらりと部屋を出た。
 五分待って、わたしも玄関を出た。アパートの廊下で、父は手すりにもたれて町並みを眺めながらタバコを吹かしていた。
「何だよ。年頃の娘がこんな遅い時間に外に出るんじゃないよ」
 父は顔をしかめてそんなことを言ったが、わたしは首をすくめて、父の隣で同じように手すりにもたれた。まだ夜の九時にもなっていなかった。遅いも何も、いまどき小学生だってまだ塾の帰り道だ。
「タバコって、そんなに美味しいの?」
「うまくはねえなあ。苦えし」
「じゃあ、なんで吸うの」
「何でかなあ。……吸うなよ、父ちゃんの目の黒いうちは酒もタバコも許しません。体に悪ィからな」
「自分は吸ってるじゃん」
「父ちゃんはいいの」
「横暴」
「父親の権利だ」
 言って、父はにやりと笑った。責任や義務とは言わないところが父の気遣いだ。わたしは目を逸らして、夜の町並みを眺めた。
 三階建てのアパートから見る住宅地は、夜景というにはあまりに生活感に溢れていた。
 向かいのマンションのベランダで同じように煙草を吸っているらしい蛍族の赤い火や、前の道路を歩くサラリーマンが手にもった携帯電話の画面の四角い灯りや、家に急ぐらしい学生の自転車のライトが揺れながら流れていく様子を、ぼんやり眺めながら、そうか、みんなちゃんと帰る家があるんだなと思った。
 自分のいま立っている場所の不確かさが、ふいに胸の端を掠めて、わたしは手すりを強く握りしめた。
「父ちゃん」
「ん?」
「ごめんね」
 謝ればよけいに傷つけるんじゃないかとまでは、気が回らなかった。父は大人で、わたしはどうしようもなく子どもだったということだ。
 父は微苦笑してタバコを消すと、わたしの頭をぐしゃぐしゃにかき回した。「そんなに大人にならなくていいよ」
 急に寂しくなって、わたしは唇をとがらせた。
 血のつながっているわけでもない子どもを、それも二人も押しつけられて、文句も言わずに溺愛して育てる男というのが、絶滅危惧種なみに貴重な存在であることくらいは、世間に疎い十七と十五の小娘ふたりにだってよくわかっていた。父は、そんなことをわかっていてほしくなかったのかもしれないけれど。
 どうして、という一言を、わたしはずっと飲み込み続けていた。ただ単に底抜けに人がいいというそれだけで、人はこんなふうに進んで重荷を抱え込んでいられるものだろうか。
 わたしはこの男が母のことを悪く言うのを、一度も聞いたことがなかった。結婚して一年も経たずに出て行った女を、そうまで愛していたとでもいうのだろうか。そのむちゃくちゃな身勝手さごと? こんな目に遭わされても恨み言ひとつ出てこないくらいに?
 それとも、わたしたちへの同情か、あるいは責任感から、飲み込み続けてきただけなのだろうか。
 訊けば父は怒っただろうし、傷ついただろう。それがわかっていたから、その疑問を口に出したことはない。
「父ちゃん」
「ん?」
「わたしが彼氏を連れてきたら、どうする? やっぱり反対する?」
 火をつけようとして咥えていた新しいタバコをぽろりと落として、父はわたしを見た。その顔があまりにも真剣だったので、わたしはたじろいだ。
「……いるの?」
「いや、いないけど」
 父は大きく嘆息を吐いて、ずるずるとしゃがみ込んだ。「っだよ、大人をからかうんじゃねえよ」
「もしもの話だよ。だってさ、いつかはさ」
 父は落ちたタバコを拾って、何度か失敗しながら火をつけた。そうして気短にスパスパとふかしてから、不機嫌そうに呻いた。
「とりあえず、父ちゃんよりいい男じゃないと許さないからな」
「それは婚期が遅れそうだなあ」
 熱っ、と叫んで、父は手をぶんぶん振った。
「危ないなあ。大丈夫?」
 大丈夫大丈夫、と手のひらをこすって、父は複雑そうな顔をした。「何だよ、一丁前に嬉しがらせやがって。遅れろ遅れろ、嫁になんか行くな」
 軽口のように言って、それから父はふっと黙り込み、タバコの火を踏み消した。吸い殻をわたしが拾おうとすると、父は顔をしかめて、
「いいよ、んなことしなくて」
 そう言いながら自分で吸い殻を片付けて、ふいと、拗ねたように背中を向けた。


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