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    1  父の口癖


 父ちゃんがなんとかしてやる、というのが父の口癖だった。
 父といっても実父ではない。母は二十歳そこそこで相手のわからない娘を、それも二人も産み、あげくにそれを子供の父親でもない男に押しつけて逃げるような女だった。わたしが小四のときの話だ。ふたつ下の妹にいたっては、母の顔さえまともに覚えていない。
 それからの十年あまり、わたしと妹は、血のつながらないこの若すぎる父親と三人で暮らした。
 家事も必然的に分担したけれど、実のところ母と暮らしていたころに比べれば、生活はずっと楽だった。知り合いの小さな会社に雇われて電気工事の仕事をしている父は、帰宅時間にずいぶんと配慮をしてもらっていたようで、たいして残業もせずに帰ってきて、毎日わたしたちのご飯を作ってくれた。
 洗濯や掃除はわたしと妹の仕事だったけれど、わたしが高校に上がるころまでずっと、料理は父の担当だった。わたしたちがもっと大きくなるまでは火や包丁を扱わせたくないというのが、その理由だ。
 父の料理はいつもがさつで大味で、見た目も栄養バランスも満点とはいえなかったけれど、とにかく量だけはいつも食べきれないほど山盛りだった。満腹したわたしたちが根を上げると、父は脂汗を垂らしながらでも、残りをぜんぶたいらげた。
 それくらいなら最初からもっと少なめに作ったらよさそうなものなのにと、わたしも妹もよく呆れたけれど、もし足りなくてわたしたちがお腹をすかせたらという想像に、父は勝てないらしかった。
 その父はことあるごとに胸を張り、にっこりと歯を見せて、おもむろに言った。
「任せとけ。父ちゃんがなんとかしてやるからな」
 その「なんとか」の中身はたいていアバウトで、たとえば体操服のゼッケンをよれよれに縫いつけることだったり(徒競走の途中でとれてしまった)、妹が欲しがった玩具ではなく、そのひと世代前のもう誰も欲しがらないシリーズのグッズを知り合いからもらい受けてくることだったりした。
 そんな具合にピントがずれていたのは確かだけれど、それでもわたしも妹も、父のことが好きだった。そのおっちょこちょいな誠実さを、わたしたちは愛した。母の気まぐれで大仰で、けれど口先だけの愛の、それはちょうど真逆のものだった。
 わたしと妹はしばしば父の過保護ぶりだったり、年頃の娘たちの前をパンツ一丁でうろうろする無神経さだったり、細かいところに気の回らない大雑把さだったりということに対して、ぶうぶう不平を鳴らした。
 文句を言えば父に捨てられるのではないかなんていうことは、わたしも妹も夢にも思っていないという、それは一種の表明だった。父はわたしたちの愚痴や文句をいつもどこか嬉しそうに聞いていたし、ときには拗ねたり大人げのない口げんかに突入したりすることもあったけれど、それもじゃれ合いの範疇だった。
 逆にわたしたちが何かに遠慮するそぶりをみせようものなら、父はたちまち萎れて右往左往した。ひどいときには近所の居酒屋の店長(父の幼なじみだ)を相手にさめざめと泣きついて迷惑がられていた。
 そこに泥酔した父を引き取りに出向くのは、非常に恥ずかしいことだった。中学生の女の子が酔っ払ってめそめそ泣いている中年の男をなだめなだめ手を引いて家に帰る姿は、近所のいい笑いものだっただろう。
 父はとにかく感情表現が豊かで、わかりやすいひとだった。底抜けに人がよく、子供好きで、わたしたちを溺愛していた。あるいはそういうふうに振る舞いたがっていた。
 それが彼の本性だろうが、そういうふうにあろうと望んで努力しているのだろうが、そこの違いは重要ではなかった。わたしたちは護ってくれるものを必要としていて、この人はわたしたちを見捨てることはないだろうと信じていられた。そのことが肝心だった。

 妹は中三の夏、年上の彼氏を作った。
 当然、あの子はそのことを父に隠そうとしていたし、わたしもあえて告げ口はしなかった。妹を庇ったというよりも、父の心の平穏のために。
 けれど間の悪い話はあるもので、ある日父が出かけていった現場が、ちょうどその彼氏のバイト先の目と鼻の先だったらしい。そしてもっと間の悪いことに、妹はそのバイト先であるところのコンビニに押しかけて、仕事中の彼氏にちょっかいをかけているところだった。
 わたしが帰宅したとき、父は可哀想なほどに狼狽していた。わたしがアパートの玄関を開ける音を聞きつけて、はっとして立ち上がり、入ってきたのが妹ではないと気がつくと、あわてて座り直した。それからタバコをぷかぷかとせわしなく吹かした。ふだんは廊下かベランダか、とにかく外でしか吸わないようにしているのに、それも忘れて。
 タバコがまだ半分も減らないうちに火を消して、父は狭い部屋の中をうろうろと、熊のように歩き回った。わたしが話しかけても、ああとかううとか上の空の相槌を返すばかりで、急にがりがりと頭をかきむしってみたり、とっくに空になったビール缶を何度も傾けてみたりしたあげく、ついにはばたんと大の字に寝そべって唸りはじめた。
「だってまだ中学生なんだぞ」
 その一言でわたしはいっぺんに状況を察した。
 妹が帰宅してからが大騒ぎだった。あの男は誰なんだからはじまり、男女交際なんていうものはまだ早すぎるだの、仲はどこまで進展しているのかだの、間違いがあってからじゃ遅いだのと、頑として譲る気のない強硬さで、父はひたすらまくしたてた。
 妹のほうはいくら家族でも干渉していいこととそうでないことがあるとか、中三にもなって彼氏をつくるのが早すぎるも何もないとか、開き直ってかなり頑張ったのだが(それについてのわたしの意見は差し控える)、とうとう父がさめざめと泣き出したのにすっかり参ってしまって、
「わかった」
 と一言だけ残して、自分の部屋に籠もってしまった。
 籠もるといっても狭いアパートだったから、鍵もないどころか、六畳間をカーテンで仕切ってわたしと共有していたくらいだった。その薄っぺらいカーテン一枚の向こう側で、妹が枕を壁に投げつけたり、洟をすすったりしている気配を感じながら、わたしは父に同情した。
 本人は認めたがらないかもしれなかったが、妹には少し、母と似たところがある。父はそれを心配しているのだ。
 だけど、まさか妹に面と向かってそうは言えないから、よけいな理屈をつけてごねている。自分でもそれがわかっているから、らしくもなく陰に籠もって、くよくよと拗ねているのだった。
 そう、拗ねていた。妹の洟の音にうんざりしたわたしが居間に戻ると、父は片膝を抱えて、小学生の男の子も顔負けのいじけた目つきをしていた。
 振り返ってじとっと見上げてくるその目を見ていれば、まったくどちらが子供かわかったものではなかった。わたしが思わず吹き出すと、父はますます恨みがましい目をして、それからため息を吐いた。
「暁美さんは若い頃から、きれいだったからさ」
 普段にはないことだった。母の名前は、このアパートでは長いあいだ、ほとんど禁句のようなものだったから。
 父の方では、話題に出すことでわたしたちに母親から捨てられたことを思い出させるのではないかと心配している節があったし、わたしたち姉妹のほうでは最初のころ、父にあのひとの存在を思い出させれば、彼が本来は二人の娘を育てる何の義務もないのだということまで思い出してしまうのではないかという不安があった。それでいつからか、はじめから父娘三人きりの家族だったかのように振る舞うのが、我が家の暗黙の了解になっていた。
 そのルールを破って、父はくよくよと続けた。
「それこそ中学生とかのころから、周りの男が放っておかなかったよ。中にはろくでもないやつらもいてなあ……。暁美さんがまた」
 言いさして、父は続きを飲み込んだ。母がまた、そういうろくでもないのとばかり好んでつきあったと言いたかったのだろう。
「きれいな女の子は、損だよ。だから俺はお前のことも明里のことも、心配なんだ」
 襖一枚を隔てただけだ。その言葉は妹にも聞こえていただろう。
 口論はその夜の一度きりだった。妹はじきに彼氏と別れた。



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