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 いつになく雨のない日の続いたある午後、コダは河辺で一人の子供を拾った。
 夕暮れが迫ってもなお太陽は容赦のない陽射しを地上へと投げかけ、乾ききってひび割れた風が、飛沫を上げる水面をわたってようやくひと息をついたというように、わずかばかりの涼気をまとって吹きつけていた。その風の溜まる場所、折れた木の枝だの水草だのが吹き寄せられて集まったあたりに、その子供は落ちていた。
 子供といっても、彼自身とさして変わらない年頃の少年だったのだが、コダがそうと気づくには、少しばかりの日にちが要った。何故というならその行き倒れは、あまりに長いことまともな食べ物を口にしていなかったがために、痩せさらばえて骨と皮しかなかったばかりか、背丈もひどく小さかったからだ。
 とはいえコダがこの少年を拾ったのは、何もその姿を哀れに思ったためではなかった。彼はヨキヌの里の首長(ウートラ)の息子だ。彼の祖父の祖父のそのまた祖父が生きていた時代、このあたりの地方が遠い都におわす王様の領土と定まったときから、ウートラは税吏も兼ねるようになったから、里の人々は誰もこれに頭が上がらない。その息子に対する態度も似たようなもので、表立ってコダにたてつく者は、大人も子供もいなかった。それだからコダは当然のこととして、我がままで気まぐれな乱暴者に育った。気にいらないことがあれば、ほんの小さな童でも容赦なく小突きまわす。それでいて取り入る者を可愛がってみせるほどの知恵もないものだから、しぜん誰からも嫌われる。嫌われていることが判らないほどには愚鈍でもないから、腹を立ててよけいに他人を虐める。
 そういう性分の少年だったから、行き倒れを見かけたところで、そうそう拾って助けてやったりするものではない。むしろ追い打ちとばかりに踏みつけて、侮辱の言葉のひとつくらいは投げかけてもおかしくなかった。コダがそうせずに少年を拾って家に連れ帰ったのは、この子供が行き倒れていた場所が、アッロス河のほとりだったからだ。
 これは遥かな北の高地から脈々と流れ下る豊かな河で、いくら獲っても獲りつくせぬほどの魚を擁するうえに、ここいら一帯の田畑を潤してもくれる、まさしく恵みの水だ。だがひとつ難があって、何かの拍子に雨が続くと、見る間に氾濫する。河辺の漁師小屋が流されるくらいのことはしょっちゅうで、悪くすれば里じゅうがすっかり水に浸かる。そんなときには収穫を目の前にした作物を、きれいに舐めて総ざらいにしてしまう。
 そうした土地だから、里の人々は古くからこの大河に棲まう水神をおそれ、その怒りを買うことに怯えながら暮らしてきた。コダの祖母はわけても信心深い一人で、そのため彼は赤ん坊の頃から、水神にまつわる昔語りを繰り返し聞かされて育った。そうしたわけで、自己本位で人の話になど耳を貸さないこの少年にも、ひとつ美徳があった。人を人とも思わぬ所業をするが、神は畏れる。
 晴れ続きで水嵩の減ったアッロス河のほとりで、流れに顔を半分突っ込むようにして行き倒れている小汚い少年を見かけたとき、コダはまず、このままにしておいては水神さまの怒りを買うのではないかと、そのことを考えたのだった。
 コダは行き倒れのそばに駆け寄って、ものも言わずにその襟首をひっつかむと、そのまま流れから離れたところに少年の体を放り投げた。その手ごたえのあまりの軽さに、コダは憐れみよりも、むしろ薄気味の悪さを覚えて顔をしかめた。
 だが次の瞬間、彼は息をのんで目を瞠った。
 なすすべもなく転がされた少年が、そのとき初めて身をよじり、閉じていた瞼をわずかばかり持ちあげた。そこから覗いた瞳は、澄んだ、あざやかな緑色をしていた。
 それは森の奥にひっそりと横たわる淵の色、木漏れ日を受けてきらめく、木陰を映しこんだ水面の色だった。瞼はすぐに再びおりて、瞳はその下に隠れたが、コダはいっとき息を詰めたまま、身動きもとれずに立ちすくんだ。
 こんな色の瞳をした人間を、コダは見たことがなかった。そのため彼は、もしやこの少年が水神さまの化身か、あるいは遣いの類ではないかと考えた。もちろんその思いつきは単なる空想にすぎず、コダ自身にもそうとは判っていて、けして確信というようなものではなかった。だが、もしやという思いは、信心深い少年の体を竦ませた。
 そうしたわけで、コダは行き倒れを背負い、彼の屋敷へと連れて帰った。
 水神さまの話に詳しかった祖母はとうに老いて死んでいたが、ともかく家に戻れば、誰かもう少しこの子供の正体に察しをつけきれるものがあるだろう。そう考えたコダが、枯れ枝のような腕をつかんで自分の肩に回させると、垢にまみれた少年の体は、饐えたいやなにおいを立てた。
 少年はかすかにみじろぎをしたが、はっきりとした意識を取り戻す気配はなかった。河に浸かって冷やされていたはずの体は、気味の悪いほど熱くしめっていた。一歩を歩くごとにごつごつと尖った骨が背中に当たって、コダは臭いとその痛みとにひどく閉口した。

 コダの母親のエレテは、息子の背負ってきた行き倒れの姿をひとめ見るなり、悲鳴をあげて激しく手のひらを振った。そんな汚いものを家に入れるなというわけだった。仕方なくコダは家の前で痩せた浮浪者の体を下ろし、井戸の水を女中に運ばせた。少年の体を洗い、そのついでに自分も頭から水を被ると、体からはじきに湯気が上がった。
 夕陽の沈もうとする中、女中に手伝わせてよく洗ってみると、少年はすっかり見違えた。緑の瞳は開かれなかったが、それでもそばにいた女中たちはどの娘もかすかに息を呑んで手をとめ、その姿に見とれた。癖のある黒髪は痩せていかにもみすぼらしく額に張り付いていたし、体じゅうどこもかしこも肉が落ち、頬はこけて頬骨が尖っていたが、それでもなおその異相は、女たちの眼を捉えて離さなかった。
 すっかり臭いがしなくなると、エレテはようやく少年を家の中に入れて介抱することを許した。そうしてようやく客用の寝台に横たえられた少年の姿を間近に見たとき、彼女もまた呆気にとられたように口を開いて、ものも言わずに見入った。
 そんな母親をよそに、コダは少年の濡れた髪を念入りに拭いてやり、そんなふうに他人の世話を焼く彼の姿など目にしたことのなかった家人らをひどく驚かせた。
 この少年を背負って運ぶ間じゅう、コダが感じとっていたとおり、少年は熱を出していた。だがコダは、この子供が死んでしまうかもしれないとは端から思いもしなかった。今にも死にゆこうという者の手がこんなに熱いわけがないと、彼にはそんなふうに思えたのだった。
 それは人の体の仕組みなど知りもしない子供の浅はかな思いこみにすぎなかったが、結果的に少年は回復した。一晩じゅう高熱を出して苦しげに身をよじった挙句、夜明け前になってようやく穏やかな寝息を立て、翌朝の日が昇るのに合わせたように、その緑の目を開いたのだった。
 その直前になって数日ぶりの雨が降り始めて、少年の目覚めが雨を呼んだのだという錯覚をコダにもたらした。
 普段の傍若無人ぶりをどこかに追いやって、コダは一晩じゅう、甲斐甲斐しく少年の世話を焼いていた。女中に教わったとおりに、濡れた布で少年の唇を湿し、不器用な手つきで汗を拭いてやった。
 そうしてようやく目覚めたというのに、少年の深緑の瞳は茫洋と宙をさまようばかりで、ちっともコダをとらえようとはしなかった。そこには安堵もなければ驚きもなく、怪訝なようすも、戸惑いや警戒の色さえ、かけらも浮かばなかった。
 女中を呼びつけて、少年に飲ませる水を持ってくるように言いつけると、コダはそのまま枕元に残った。そのまま視線を落として、自分の手元ばかりを見た。意識を取り戻した少年の目をまっすぐに見ることには、気遅れがしていた。柔らかく窓を叩く雨の音が、ますますその畏怖を大きくした。
 少年は横たわったまま、ふっと目を伏せた。コダにも自分がいま置かれている状況にも、なんの興味もないというふうだった。
 それでコダはようやく、再び少年の姿を直視できるようになった。そうしてみれば、見慣れぬ異相の容貌をしてはいても、ただそれだけの、ただの子供ではないかという気がしてきた。そうすると今度は、自分よりもずっと体の小さな少年ひとりを畏れていたのだという考えが、にわかに羞恥を呼び起こした。それでコダは無理にぞんざいな口調を作って、
「お前、どっから来たんだ」
 そう訊いた。だが少年は返事をしなかった。それどころか、視線を上げることもなく、身じろぎのひとつさえもしなかった。
「名前は?」
 重ねて訊いたところで、少年はやはり、何の反応も見せなかった。それでコダはようやく、この少年は耳が聞こえていないのではないかという可能性に思いいたった。
 その思いつきを確かめるために、コダがさらに何か話しかけようとしたとき、足音が近づいてきた。
 水を持った女中とともに、エレテが客間に入ってきた。
「目を覚ましたのですって?」
 まさか助かるとは思わなかったという口ぶりで、エレテはいった。だからといって、少年の回復を喜ぶというふうでもなかった。彼女は少年に近寄ろうとせず、遠巻きに少年を見遣った。その母親に向かって、コダは訊いた。
「こいつ、うちに置いてもいいだろ」
 エレテはうなずかなかった。戸惑ったように目をしばたいてから、
「さあ、どうかしら。お父様に訊いてみないことにはね」
 そういって、落ち着かないふうに小さく肩をゆすった。
 彼女の夫でありコダの父親であるウートラは、漁についてのとりきめを交わすべく、川下にある隣の里に出向いているところだった。
 留守のあいだによそものを家に上げたことについて、夫が怒るのではないかと、彼女は考えたのだった。ウートラは吝嗇家で、わずかといえど彼の金を使って、浮浪者などに施しをしたと知れば、少なくとも不機嫌になることは間違いなかった。
 コダにとってもそうしたウートラの性格は承知のことで、父親が無駄飯ぐらいを増やすような真似を許すとは、とうてい思えなかった。可能性があるとすれば、少年が給金のいらぬ小間使いとして、家のことなりウートラの仕事を手伝う道だったが、耳が聞こえず口もきけないとなれば、それも難しいだろう。
 だが意外にも、宵の口に帰宅したウートラは、少年を家に置くことを認めた。
 帰ってきて、妻の口からことの顛末を聴くと、はじめ彼は家人の予想どおり、機嫌を損ねて眉間にしわを寄せた。だが、実際に客間に寝かされてぼんやりと天井を見つめる少年の姿を目にするなり、ころりと態度を変えた。目に見えて上機嫌になり、口には珍しく笑みさえ浮かべて、「まあ、いいだろう」と言った。
 父親の心中に何が起きたのか、コダには計りかねた。それはエレテにとっても同じことだった。自分の得にならないことのためには指一本動かすことさえ嫌がるこの男の性分を、二人とも知りぬいていた。
 だがウートラは心境の変化について家族に説明しようとはしなかった。ただ客間ではなく、コダの部屋に少年を移すように言いつけた。彼の客間は、首府から役人がやってきた場合に供えて、辺境の鄙びた里には不似合いにすぎるほど、調度に金をかけてあった。どこの馬の骨ともしれぬ子供を泊めるのに、この客間を使わせるものがあるかというので、彼は妻を叱りつけたが、小言はそれきりだった。

 そうしたわけで、少年の居場所はコダの部屋の隅になった。
 死んだコダの祖母が使っていた、すっかり古びてやたらと軋む寝台が運び込まれると、彼の部屋は途端に窮屈になった。名前の判らないこの痩せた子供は、日がな一日その上で、天井をぼんやりと見上げて過ごした。
 少年は目を覚ましていても、眠っているのと同じほど静かだった。いくら体が弱っているとはいえ、果たして生きた人間がこうもじっとしてばかりいられるものかと驚くほど、ほとんど身動きらしい身動きをしなかった。与えられるものは素直に口にしたが、何も与えられなければそのまま静かに飢えて死ぬのではないかと見えた。黙って女中に体を拭かれる間も、嫌がることもなければ、感謝のようすをみせることもなく、ただ感情の見えない緑の眼を、何もない宙に向けていた。
 その無表情を見ているうちに、もしかすると本当にこれは水神さまの遣いなのではないかという考えが、しばしばコダの胸に戻ってきた。
 女中たちにしてもそれは同じことのようで、彼女らは腫れものに触るように、おっかなびっくり少年の世話をした。ときに少年の緑の瞳に見とれては、はっと我に返って怖がるそぶりを見せた。そうして、家人がそばにいないと見るや、こそこそとひそめた小声で、少年の正体について不安げに噂をした。
 エレテもまた似たようなものだった。たまに気まぐれのように様子を見に来ることがあったが、いつもどこか怯えを隠すような目をしていて、けしてみずから少年の世話を焼くことはなかった。
 彼女に新しく増えたこの家人を歓迎するそぶりはまるで見られなかったが、追い出そうとすることも、またなかった。それもそのはずで、もとよりエレテは夫の決めたことには一切の文句を言わない女だった。
 夫を頼み、その判断を信頼しているというわけではない。自分のいまの暮らしが、夫の地位あってのことだというのを、重々承知しているがためだった。
 エレテは若い時分、近隣でもっとも美しいといわれていた女だった。また、そうした自分の美貌を鼻にかける女でもあった。持てる者は妬まれやすく、憎まれないためにはそうでない人々よりも一層の注意と努力を必要とするものだが、そうした種類の知恵の回らない女でもあった。
 近隣のほかの里からも、男たちがたびたび訪れて彼女に求婚したが、そのことで彼女は余計に周囲の女たちの妬みを買った。里の中でエレテの身の置き所は、月日を追うごとに狭くなってゆく一方だった。そんな中、とうとう彼女はウートラになったばかりだった男に見染められた。
 彼女は後に夫となったこの男を、けして好いてはいなかった。彼が貧相な体格をした、どうにも見栄えのしない男だったためということもあったが、それ以上に若きウートラが、その地位を嵩に着た、権高な男だったためだ。
 鏡に映る自らの醜さを、人は憎むものだ。エレテはこの若き権力者を嫌悪した。だが男のほうは、まだそのときには彼女が己の鏡になるだろうことに気がついてはいなかった。得てして女の方が己の本性を隠すことに長けているものだ。
 かくしてウートラは半ば強引に彼女を娶った。それに逆らうだけの力は、彼女にも、彼女の父親にも持ち合わせがなかった。
 エレテは望まぬまま首長夫人となり、いくつかの月の満ち欠けを経たのちには、夫のほうでも徐々に彼女を疎むようになっていった。
 だがその頃には彼女のほうで、新しく得た立場を手放す気がなくなっていた。贅沢な暮らしといっても、鄙びた辺境の里のことで、ましてや吝嗇で知られた夫のもとではたかが知れていたが、ともあれ里の人々は彼女に頭を下げた。少なくとも面と向かって彼女を馬鹿にしたり、嫌がらせをしたり、恥をかかせて笑い者にしようという女はいなくなった。そのことのほうが、暮らしの豊かさよりもなお、彼女にとっては重要だった。
 彼女はじきにコダを産んだ。夫の言い分にはすべて黙って従い、夫の不貞に見て見ぬふりをし、けして愛されはせずとも理由をつけて追い出すほど邪魔にはならぬ、都合のいい妻の座に落ち着いた。
 そうした夫婦だったから、コダが物心ついてからこちら、彼らの間に愛情らしき愛情のあったためしがなかった。育つにつれて父親に似てきたコダを、しだいに両親のどちらもが疎むようになったが、エレテは彼を産むときに腹を痛めて以来、次の子を孕むことがなかったから、ひとりきりの子供を否応なく大事に育てるほかなかった。
 この家の中にあったのは、利得と打算、それに体裁と保身だった。女中は無理の透けて見える態度で彼に頭を下げた。誰も彼に向かって本音でものをいわないことを、コダは当然のこととして生きてきた。
 それだから、新しく家に入ってきたこの少年の徹底した無関心は、コダにとってはむしろ新鮮だった。少年が口をきかないことも、ほとんど苦にはならなかった。年若い少年がふたり、部屋で黙り込んでじっと顔を突き合わせているというのは、傍から見ればいかにも妙な図だっただろうが、コダは気にしなかった。口がきけるからといって、どのみち嘘と建前ばかりの言葉しか吐き出さないぐらいなら、いっそ何も言わないでいるほうがよほどましというものではないか。
 コダは家から出歩くことをめったにしなくなった。出掛けても、せいぜいが河沿いにひとけの少ない時間を選んでぶらぶらと歩き回り、そのまま誰にも会わずに帰るばかりだった。以前には機嫌の悪い日にはよく里の子供らを虐めて憂さを晴らしていたが、どのみちたいした気晴らしになりはしないのだ。どこにいっても、いるのは表立っては愛想よく振る舞って、殴られてもへらへらと笑って見せながら、さげた頭の下では舌を出す人間ばかりだった。そんな里の人々に、彼は飽き飽きしていた。
 返事の返ってこない相手に向かって、コダは時おり、思いつくままに話しかけた。祭りの日にだけ振る舞われる酒を、大人たちの眼をぬすんでくすねたときの武勇伝だの、アッロス河の流れを月のない晩にさかのぼってくる魚の大きさがどうのというような、たわいのない話ばかりだった。ときにはそこに、死んだ祖母が彼に語り聞かせた昔話が混じった。かつて水神の怒りを鎮めるべく河に捧げられた生贄の子供らのこと。水神の化身が大蛇の姿をとって姿をあらわし、里の娘を攫って山に姿を消したときの話。そうした話にも、少年はとりたてて反応を見せなかった。
 話題が何であれ、少年の無関心は徹底していた。やはりこの子供は何も聞こえていないのだろうと、コダは納得した。それでも気にせず、コダは気の向くままに話した。耳の聞こえない相手に向かって話すことにいったい何の意味があるのかと、自分でもときどき馬鹿らしく感じはしたものの、妙なもので、どうせ相手には聞こえていないのだという気楽さが、かえって口を軽くした。
 そんな彼らの姿を見咎めて、女中たちは薄気味の悪そうな目つきをしたが、コダは気にしなかった。嫌われるのも気味悪がられるのも、どのみち彼にとっては大差がなかった。


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