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 野崎は店の前まで来ると、携帯を出して時間を見た。七時五分前。ちょうどいい頃だ。
 相手はこの辺りに詳しくないだろうからと、店は野崎が決めた。会社から歩いてすぐの小さな居酒屋。暖簾をくぐって店内を見渡すと、相手の姿はすぐに目に入った。
「よう」
 嶋村はこちらに向かって手を挙げて、昔から変わらない、くしゃっと崩れるような笑顔を浮かべた。そうするともともと柔和な感じの顔立ちが、ますます人が良さそうに見える。ああ、懐かしいなと、野崎はその笑顔を見ながら思った。今年の正月は帰省しなかったから、ほとんど一年半ぶりになる。
 店員に向かって生、とだけ伝えて、野崎はテーブルについた。嶋村は先に始めていたようで、中ジョッキの半分ほどが空いていた。
「元気にしてたか」
「ああ」
 野崎は答えながら、嶋村が椅子に掛けている上等そうな背広に気付き、声には出さずに、ああ、そうだよなあ、と思った。考えてみれば、帰省したときには普段着で会うから、背広姿の嶋村を見るのは初めてだ。
 自分の仕事着は作業服だ。会社で着替えるから、通勤は私服。今日も安物の白いTシャツにジーパンだった。気にしすぎかもしれないが、背広姿の相手と向き合って呑むのは、少々落ちつかない。
 野崎は気まずさを誤魔化すように、わざと明るい口調を作った。
「どうだ、本社勤務ってやつは」
「うーん、まだ勝手が分かってないかな。まあまあ忙しい」
 そう答えた嶋村の喋り方に、どこか関西弁の名残があることに気付いて、野崎は思わず笑ってしまった。
「抜けないな」
 それだけで察した様子で、嶋村は苦笑した。
「三年も住めば、なかなかなあ」
 つい先ごろまで、嶋村は大阪支社に勤務していた。生まれ育ちは二人とも九州なのだが、関西弁というのは妙に影響力が強い。すっかりうつってしまったらしく、前に会ったときには、すでにエセ関西弁になっていた。
「なんか、変な感じがするな」
 嶋村が自分の格好を見下ろして、そう苦笑した。野崎の戸惑いが伝わったのだろう。野崎は笑いながら答えた。
「分かる。何か、いつまでも高校のときみたいな気がすんだよな。お前の顔見ると」
「そうそう。そうなんだよな」
「今、どこに住んでるんだ」
 嶋村が答えた住所は、埼玉の端の方だった。
「けっこう遠いんじゃないか」
「片道一時間半かな」
「うわ、大変だな」
 野崎は思わず同情した。嶋村も一度だけ遊びに来たことのある野崎の部屋は、築三十年で風呂なしの狭くて汚いアパートだが、場所だけはいい。この辺りから三十分で着く。
 やっと店員が運んできたジョッキを受け取って、野崎は軽く掲げた。
「そんじゃ、一応」
「お疲れ」
 乾杯するのも何となく照れ臭いような気がして、二人、笑いながらジョッキをぶつけた。

「でさ、そのとき吉岡がさ」
「ああ、そうそう。あったよな」
 近況を話していたはずなのに、話題はつい思い出話に移ってしまう。二人はいつしか、高校の頃の馬鹿話を懐かしく語り合っていた。
 嶋村と知り合ったのは、高一のときだった。入学直後、同じクラス、隣の席。野崎と同じ中学から入ってきた奴は少なかった。それで何気なく隣にいた嶋村に話しかけたら、ちょうどそのとき同じゲームにはまっていて、どうでもいいような話題でめちゃくちゃ意気投合した。それが最初。
 馬が合ったということだろう。今になってみればアホかと思うくらい、たびたびくだらないことで盛り上がった。息が合いすぎるのか、二年の時には同じ女子を好きになって、一度は友情にひびを入れかけた挙げ句、結局その子は同じ部活の先輩と付き合い始めてしまって、揃って告白前に失恋した。
 そこそこ仲良くしていた連中は他にもいたが、今でも会うのは嶋村くらいだ。やはり九州は遠い。皆、仕事や学校の都合で毎年帰省するとも限らず、だんだん疎遠になっていく。
「あいつら元気かなあ。連絡、とってるか」
 野崎が懐かしさに目を細めながらそう聞くと、嶋村は首を横に振った。
「いや、最近全然。ああ、吉岡からはこの前メール来たな。神戸の会社に決まったって」
「え、福岡で働いてたんじゃなかったか」
「ちょっと前に上司と喧嘩して辞めちゃったんだってさ。あいつも、気が短いからなあ」
 自分には何の連絡もなかった。野崎は胸に落ちてきた一抹の寂しさに気付かないふりをして、小さく笑った。
「そうか。それにしても、よかったなあ。このご時勢だろ。よく、すぐに決まったな」
「そうだな。仕事の中身までは聞かなかったけど、続くといいな」
 嶋村がそう言い終えると同時に、嶋村の携帯が鳴り出した。
「あ、悪い」
 嶋村はすまなそうに言って、電話を取った。
「ああ、うん。いや、今ちょっと――何? ちょっと待って」
 嶋村は困ったような顔をして、こちらに小さく手刀を切ると、席を立った。喧騒が邪魔で向こうの話がよく聞き取れないのだろう。
 嶋村の口調から、相手は友達だろうという気がした。中学以前、あるいは大学時代の友人だったら、野崎の知らない相手だ。嶋村は福岡の四大に進学したが、野崎は高校卒業と同時に上京して、以来ずっと父親の知人がやっている小さな印刷会社で働いている。
 ジョッキを傾けて空にすると、野崎は店員に何杯目かのおかわりを注文した。そのついでに、入口のところで話している嶋村をちらりと見る。何か困りごとがあって、頼られているのだろうか。喋る嶋村の横顔を見ていると、なんとなくそんな気がした。
 昔から、嶋村は人に頼りにされる。周りに自然と人が集まってくるのだ。今の会社でも、きっとそうなんだろうなと、テーブルに向き直ってそんなことを考えている野崎の耳に、背後からぼそりと低い声が聞こえた。
「お前と違ってな」
 ぎょっとして、野崎は振り返った。自分が思っていたことを無意識に言葉に出して、それに嶋村が返事を返してきたのかと錯覚したのだ。見れば、嶋村はちょうど電話を切って戻って来ようとしているところだった。
 いや――今の声は、嶋村の声とは違っていた。もっと低かったし、それに、随分近くから聞こえたようだった。
 誰か他の客が、たまたま会話の流れでそんな言葉を言ったのだろうか。そう思って、野崎は客席に視線を巡らせた。だが、それらしい人影は見当たらない。
「ん、どうかしたのか」
 挙動不審な野崎に、嶋村は怪訝な顔をした。その顔を見ていると、自分の空耳だったのかという気がしてきて、野崎は首を振った。
「いや、なんでもない」
「そうか?」
「ああ。それより、どんなもんだ。高層ビルから見下ろす景色ってのは」
 野崎は無理やり話題を変えようとした。だが、そう言ってしまってから、しまったと思った。自分の口調が卑屈にならなかったか、そんなことが気になった。
 嶋村はそんな野崎の葛藤には気づかない様子で――あるいは気付かないふりをしているのかもしれないが、苦笑して首を振った。
「全然、フロアから夜景を見降ろすって感じじゃないよ。余裕ないない」
 そりゃ、大企業の正社員なんだもんな、忙しいよな。そう言いそうになって、野崎は慌てて言葉をすりかえた。
「そんなもんか」
 野崎はジョッキを傾けて、自分が浮かべた表情をごまかした。嶋村は野崎が飲み込んだ言葉に、何となく気付いたような様子だった。何も言わなかったが、長い付き合いだ。表情でだいたい分かる。
 このくらいの気まずさを、昔のように軽口にして笑い飛ばせない。そのことに嶋村との距離を感じて、野崎はふと寂しくなった。
 嶋村の今の勤務先はこの近く、野崎の勤める会社のすぐ数件先にある。三十何階建てだかの高層ビルの、二十七階。そのフロアを一階分まるごと借り切っているらしい。
 そのビルは野崎にとってずっと、単なる風景の一部だった。だが最近は出勤するたびに、銀色に光る高層ビルの壁面を、つい見上げてしまう。小さな貸しビルの三階にある、勤務先のロッカールームの狭い窓から。
 それまではずっと、意識していなかった。嶋村が在学中に、誰でも聞いたことのあるような大企業に内定したと聞いたとき、野崎は我がことのように喜んで友人の成功を祝福した。そこに妬みも僻みもなかったと、断言できる。嶋村が大阪支社にいる間も、その気持ちは変わらなかった。
 それなのに今さら、嶋村がすぐ目と鼻の先に転勤してきて、その見上げると首が痛くなるような馬鹿でかい高層ビルの二十七階にかつての友が勤めているのだと、それを目の当たりにするようになると、野崎は急に我が身との差を意識するようになった。こいつは毎日上等の背広を来て、都内を見下ろす高層ビルの上でデスクワーク。自分はしがない印刷工。給料がいくら違うのかなんて、自分がそんなことを気にするような器の小さい男だと、これまで野崎は気付いていなかった。
 嫌な考えを頭の中から追い出すように、野崎はジョッキをぐっと傾けた。

 冬の日だった。登校するときには気配も見せなかった雪が、昼前ごろから急に吹雪き、帰る頃にはすっかり道路を塗り替えていた。二人の地元では雪が積もるのはせいぜい年に一、二度あるかどうかといったところで、皆が慣れていないから、通学に使っていた路線バスは、あっさり止まってしまった。
 二人とも帰宅部で家もわりと近かったので、普段から同じバスで帰ることが多かった。時にはどちらかの家に寄って一緒にゲームをしたり、マンガを読んだりしていた。
 その日、延々と雪道を歩いて帰らなければならないことを嘆きながら、途中にあった商店に寄って肉まんを買っていこうかという話になった。だが、普段からバスには定期券で乗っていた野崎の財布には、さっぱり現金がなかった。諦めて何も腹に入れずに一時間歩きとおすには、その日はあまりに寒くて、野崎はたった百円を、必死の形相で嶋村にたかった。嶋村が困り顔で出した財布にも、百円しか入っていなかった。
 肉まん一個を半分に分けて、明日絶対五十円返すの、いいやお前はすぐ忘れるから言わないと返さないのと、そんなことを言い合って、くだらない話に馬鹿笑いしながら、延々と雪道を歩いて帰った。寒い寒いと大騒ぎして、バス会社に文句を言って、前の日に読んだ少年ジャンプの話題で盛り上がって。
 あの頃、何でもないようなことがいちいち楽しかった。振り返ればほんの少し前のことのようなのに、あまりに遠い日々だ。
「ちょっと呑みすぎじゃないか?」
「馬鹿言え、このくらいで」
 野崎は反射的にそう答えたが、それはただの見栄だった。ペースが早すぎると自分でも思ったのに、野崎はどうしてか素直に頷けなかった。話を逸らすために、嶋村の栄転を揶揄おうとした。
「しっかし、すごいんじゃないか。本社勤務って、それ、出世コースに乗ったってことなんじゃねえの。やるなあ、お前」
「なんだ、羨ましいのか」
 その言葉に、野崎はかっとなって怒鳴りかけた。だが、口を開きかけたところで固まった。
 今の声は、嶋村のものじゃない。
 嶋村の口元は動いていなかった。自慢話が苦手な嶋村は、ちょっと困ったように苦笑しているだけだった。
 野崎は店内を見渡した。店員達は厨房や客席でそれぞれ忙しく立ち働いているし、客は潰れて畳に転がっている一人を除き、皆顔を赤くして自分達の話に熱中している。
 野崎は前に向き直った。不振な挙動に、嶋村が眉を顰めてこちらを見ていた。
「どうした、何かあったのか?」
 嶋村は野崎がまじまじと見つめているので、自分の背後に何かあるのかと思ったらしく、訝しげに振り向いた。だが、変わったものがあるはずはない。その先には店内トイレの扉があるだけだ。
 まさか、今のがこいつの本音なのか。嶋村の後頭部を見ながら、野崎は疑った。野崎の耳に届いたのは、嶋村が口に出さなかった心の声ではないのか。いや、そんな馬鹿な話はない。自分にそんな超能力があるはずはない。
 だが、それなら誰が言ったというのか。
「い、いや。気のせいだった。悪い」
 野崎はとにかくそう言って、平静を装おうとした。成功したとは言いがたいが、嶋村は怪訝そうにしながらも、とりあえずは頷いた。
「やっぱり、ちょっと呑みすぎじゃないか」
「ああ、うん、そうかもな」
 嶋村は立ち上がると、お冷や用のコップを取って、冷たい水を汲んできてくれた。野崎は素直にそれを受け取って、口に含んだ。
 そうだ、呑みすぎだ。酒が聞かせた幻聴に違いない。こいつがあんなことを思ってるなんて、そんなはずが――「本当にそうか?」

 野崎は目を瞬いた。目の前から嶋村が消えていた。それどころか、その後ろにあった居酒屋の壁も従業員も、テーブルさえ姿を消していた。
 どこまで目を凝らしても真っ暗な背景。壁も天井も無く、床らしい部分も、塗りつぶしたような黒だった。そこに自分と、腰掛けていた椅子だけが残っている。
「な――なんだ、これ」
「なあ、ホントに嶋村は、お前を見下してないと思うのか」
 また、声がした。先ほどと同じ声――いや、その前から、どこかで聞いたことがある声だ。誰のものだったか……。
 正面を見ると、少し離れたところに人影が立っていた。だが、辺りが暗いせいで顔がよく見えない。白っぽい服を来た上半身だけが暗闇の中に浮かび上がっている。
「何だ、お前」
 野崎は恐怖に駆られてそう叫んだ。だが、相手はその問いには答えない。
「なあ。ホントの所はどう思ってるんだよ。今でも自分たちは対等だって、思ってんのか。高校の頃と一緒だって、本気でさ」
 その言葉は、異常な状況を忘れさせるくらいの強さで、野崎の胸に刺さった。
「妬ましいんだろ。昔はつるんで一緒に馬鹿をやって、同じところに立ってたはずなのに、今のこの違いは何だって、そう思うだろ」
「そんなこと、思ってねえよ……」
 野崎は搾り出すように否定した。
「何でだよ。そう思ったって、普通だろ。友達と思ってた奴がいつの間にか先を行ってたら、悔しいのが当たり前じゃないか」
「今だって、友達だ」
 影はにやにやしていた。顔は見えないのに、野崎には何故かそれが分かった。
「そうか? 向こうはそう思ってないんじゃないのか。いいカッコしいだから、昔の親友に冷たい顔するのが体裁が悪くて、仕方なく付き合ってるだけじゃないのか」
「……違う」
「何だよ。だって絶対あいつ、見下してるぜ。今どき大学にも行かないから苦労するんだ、でもまあ高校のときから馬鹿だったから、仕方ないかってさ」
「違う!」
 野崎は叫んだ。高校の三年間、いつもつるんでいた。しょっちゅうくだらないことで盛り上がって、ときどき喧嘩もして、ちょっとしたことで助けてもらって、たまには反対に手を貸して、そうやって過ごしてきた。あいつの性格は自分が一番よく知っている。
「そんな奴じゃない! 嶋村は――」
 影は、話の途中でつかつかと歩み寄ってきた。野崎は言葉の続きを飲み込んだ。目の前で立ち止まった、そいつのニヤケ顔は――
 野崎自身のものだった。

「――い。おい?」
 はっと瞬きをすると、嶋村がひどく心配そうに、野崎の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か? めちゃくちゃ顔色悪いぞ」
 野崎は目を瞬いた。顔にも背中にも、嫌な汗をびっしょり掻いていた。
「あ、ああ……」
 野崎はどうにか返事をして、顔の汗をTシャツの裾で拭った。野崎よりも、その様子を見守っている嶋村の方が、心配のしすぎで顔色が悪かった。
 そうだ。こいつは昔から自分の都合は後回しにして、人の心配ばかりしていた。誰かが困っていたら声を掛けずにいられない。皆で遊んでいて具合を悪くした奴がいたら、真っ先に気付いて声をかける。そういう奴だった。
 こいつは変わっていない。何も変わってなんかいなかった。変わったのは自分の方だ。
「もう、帰ろうか。別の日に飲みなおそう」
 嶋村はそう言うと、野崎の肩を支えて立たせようとした。
「ああ、そうだな」
 野崎は今度こそ素直に頷いて、ふらつきながら立ち上がった。何だったんだ、さっきの幻覚は……。まだ頭は混乱していたが、嶋村に話せるはずもなかった。
「家まで連れて行こうか。お前、引っ越してないよな」
 嶋村はそう言って、野崎の背を擦った。
「心配しすぎだ。大丈夫、自分で帰れるよ」
 野崎はそう答えながら、内心で恥じた。全部、自分の声だった。おかしなことに気を取られて距離を作っていたのは自分で、嶋村ではなかった。
「嶋村」
「ん? どうした」
「悪かった」
 野崎が頭を下げると、嶋村は首を振った。
「馬鹿、気にするな。具合悪いときに無理するなよ。これからは近くなんだから、会おうと思ったらすぐ会えるんだし」
 嶋村は謝罪の意味を勘違いしたようだったが、野崎は否定せず、「そうだな」と頷いて、どうにか普通に笑った。
 お前、そんなお人よしで、この先やっていけるのか。大企業のホワイトカラーで出世コースなんていったら、派閥だなんだと上手に立ち回らないといけないんじゃないのか。野崎はそう思ったが、言うのはよした。
「なあ、お前、一時間半って言ってたよな」
「ん、ああ」
「たまに、会社帰りにでも泊まりに来いよ。コンビニで酒でも買って、飲み明かそうぜ」
 野崎がそう言うと、一瞬きょとんとした嶋村は、すぐに昔と同じように顔をくしゃっと崩して、嬉しそうに笑った。

(終わり)

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 某所において、企画に投稿した作品でした。
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