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 それが自分の思い出せる中で、たぶん一番古くて、一番鮮やかな記憶だ。
 流れの浅い疏水を見下ろすと、底に沈んだラムネ瓶がきらきらと光を弾いている。すぐそばに水神様の小さな祠があって、その上を二匹、つうっと滑るように飛んでいくトンボが、ちょっと見ないような鮮やかな青色だ。
 溝蓋と道路の間に張った蜘蛛の巣には、獲物はひとつもなく、ただ落ち葉だけが絡んでいる。その奥で、足の長いきれいな蜘蛛が一匹、じっとうずくまっている。
 電柱の上の方に止まった蝉が、力いっぱい鳴いている。虫取り網を持ってこればよかったと思いながら、頭上を振り仰ぐ。
 普段は近所の悪ガキどもと遊びまわっていたが、その日に限って誰も都合がつかず、仕方なくひとりで町内をうろうろしていた。空を仰げば、抜けるような青い空が見えているけれど、その半分ほどは、何層にもなる濃淡とりまぜた雲に覆われている。西のほう、低いところに薄っすらとかかった灰色の雲の、さらにずっと奥に、目の痛くなるような白くて分厚い雲が、高く見えている。
 あちらこちらを忙しく見回しながら、陽炎の立ち上る道路を歩いていくうちに、駄菓子を置いた露店があって、アイスキャンデーのノボリが目に入る。気になって、風に揺れるノボリを何度もちらちらと見るけれど、ポケットには拾ったばかりの蝉の抜け殻がふたつみっつあるきりで、小銭も持っていない。
 建てかけの家から、カン、カンと釘を打つ高い音が響く。アイスキャンデーに後ろ髪を引かれながら、音を頼りに近づいてみれば、建てかけの家の足元で、何人もの男たちが忙しく立ち働いていた。棟梁が張り上げる鋭い指示の声。若い大工の返す勢いのある返事。
 アスファルトの上に、銀色に光る小さなものがいくつか落ちていて、屈みこんでよく見ると、真新しい金釘やナットだった。もの珍しい思いで、屈みこんで拾っているうちに、足音がひとつ、近づいてくる。
 坊主、どうした、こんなところで。声をかけられて顔を上げると、見覚えがあるけれど名前を知らない男が、すぐそばに立っていた。
 よく日に焼けて皺深い顔、白いTシャツ一枚の上半身、足元は裾の広い作業ズボン。五分狩りにした半白の頭を、首に掛けた古タオルで拭っている。
 ――べつに。歩いてた。なんとなく照れくさいような気持ちがして、そう答えながらも、ナットを急いでポケットに入れた。
 ほうか、なんか面白いもんでもあったか。男がそう聞いてくるので、反対側のポケットから蝉の抜け殻を出して、ぐいっと突き出して見せると、男はにやりと笑った。おお、いいもん持ってんなあ。
 そう笑う男の顔は黒いのに、口元にのぞいた歯は真っ白だった。
 けどなあ、じき、夕方んなるぞ。そろそろ家に帰り。そう言われて空を見上げると、いくらか日が低くなってきていた。頷いて歩き出し、ふと振り返って手を振ると、男は律儀に手を振り返してきた。
 ぼうず、母ちゃんによろしくなあ。男の声が、背中から追いかけてくる。
 空気がひどく蒸していた。頬を伝って唇に入った汗の、しょっぱい味。
 ふと蝉が鳴き止んだ。すぐそばの空き地から漂ってくる草いきれに混じって、きゅうにむっと立ち上がる、アスファルトの濡れる匂い。顔を上げれば、見る間に雲が頭上にかかりだしていた。
 真っ直ぐに続く道路の向こうから、ざあっと音を立てて、ものすごい速さで夕立が近づいてくるのが、目でも見えた。
 やはり雨のにおいを嗅ぎつけたのか、近所の主婦が、大慌てで家から飛び出してきて、たいへんたいへんと騒ぎながら、洗濯物を取り込んでいく。その途中で、雨に追いつかれた。
 どこかの軒先に駆け込んでもよかったのだろうけれど、面白がって、そのまま道端で雨に濡れていた。大粒の雨が、痛いくらいに頭や顔を打つ。あっという間にパンツまで濡れた。空を見上げて、わざと口を開いてみる。雨の味が口の中に広がった。
 やがて振り出したときと同じくらい唐突に、雨が止んだ。
 鳴き止んでいた蝉が、いっせいにジージーと騒ぎ出す。着ていたシャツの裾を絞ってみると、ぼたぼたと滴が地面に落ちた。
 そのあとも、ぶらぶらとよそ見しながら家の方向へ歩いた。通り掛かった家の塀と軒先の間に、頑丈そうなくもの巣が張っていて、あれだけの雨にも壊れなかったのか、光る雨粒を載せてきらきらしている。いつの間にか夕焼けに染まりはじめた空の端で、金色の雲の隙間から、白い光が斜めに射していた。シャツも短パンも、歩いているうちにすっかり乾いてしまった。
 あれだけ五月蝿かったクマゼミの声が、いつの間にかひぐらしに変わっている。家々の窓から、炊事の音と、何か揚げ物のおいしそうな匂いが漂う。ふと背中に追いついてきた寂しさをごまかすように、腕を振り回して駆け出した。
 ただいま、と叫んで玄関の引き戸を開けるなり、カレーの匂いがぷんと漂ってきた。
 カレー自体は大好物だったのだけれど、中に南瓜が入っていた。食卓についてから、匙を入れたところで黄色い欠片に気付いて、手を振り上げて抗議したけれど、一欠けでもいいから食べなさいとやんわり諭されただけだった。
 カレーを食べ終えたあと、しばらく畳敷きの居間に転がっていた。父はまだしばらく帰ってこない。
 座布団の白いカバーに顔を押し付けると、洗いたてのいい匂いがした。扇風機の寄越す生ぬるい風に揺られて、蚊遣り豚から細く煙がたなびいている。
 ささくれてちくちくする畳に転がっていると、母親が洗い物をひと段落させて、ボウルに入れたざく切りの西瓜を運んできた。ただ切っただけではなく、白砂糖と、かき氷をざっくりと混ぜてある。
 あけぼの、っていうのよ。おばあちゃんに教えてもらったの。割ぽう着の母が説明して寄越す、かすれた甘い声。立ち働いたらますます暑くなったのだろう、隣に腰を下ろした母の白い額に、玉の汗が浮いていた。後れ毛が汗でひとすじ、頬に張り付いている。
 母ちゃん、今日、工事現場で会ったおっちゃんが、母ちゃんによろしくって。母は不思議そうに首を傾げた。そう、いったい誰かしら。
 ごま塩頭で、やせてて、黒かった。そう言うと、母は思い当たったように微笑んだ。ああ、それならきっと――さんね。
 これだけ鮮明な記憶が残っているのに、その人の名前だけがすっぽりと抜け落ちている。母は懐かしむような顔をして、スイカを口に運んだ。最近、忙しくしてらっしゃるみたいね。あなた、小さい頃に遊んでもらったのよ。覚えてる?
 覚えていなかったので、正直に首を横に振った。扇風機のタイマーが切れて、ぶうんとひとつ強く唸ると、止まってしまった。母は立ち上がってスイッチを入れなおすと、また隣に戻ってくる。
 でもあんまり、工事現場に近づいちゃだめよ。何か落ちてきたら、危ないからね。母はそう続けて、優しく頭を小突いてくる。
 その手を振り払うのも忍びなく、かといって素直に甘えるには恥ずかしく、黙ってスプーンですくって、西瓜を口に入れた。砂糖が強烈に甘く、きんと冷たい。種を縁側に吐き出しながら、しばらく黙々と食べた。
 ぬるい風が吹き込んで庭の木を揺らし、縁側に吊るした風鈴がちりんと鳴る。隣の家からテレビの音が漏れ聞こえ、向かいからは親子喧嘩の怒鳴り声がしている。どこか遠くで、犬が吠えた。
 記憶はそこで途切れている。
 何ということのない夏の日の出来事だが、それらの全てが、あまりにも鮮明に思い出されるので、その記憶が正確なのかどうか、かえって自信が持てない。最近まですっかり忘れていたから、なおさらだった。
 それを母が亡くなったあとになって、急に何度となく思い出すようになった。もしかすると、後から自分の中で作り出した光景かもしれないと、そんなふうにも思う。現に、あの大工の棟梁が誰だったのか、まるきり心当たりがない。
 母は去年、病気がわかってからわずか半月ほどで、あっけなく逝ってしまった。
 葬式を終えて家に帰ったあと、なんだかぐったり疲れてしまい、居間で少し昼寝をしようとした。そのとき枕代わりにした座布団のカバーから、ふわりと洗剤の匂いが香り、途端にその記憶が、奔流のように押し寄せたのだった。
 以来、雨の匂いを嗅いだり、蝉が鳴くのが聞こえると、この日のことを思い出す。本当にあったかどうかも分からない、夏の日の記憶。

(終わり)
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