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  その空間に足を踏み入れると、いつも不思議な安堵が僕の胸を満たした。
 普通はビルとビルの隙間といったら、少なくとも両手を軽く広げることができるくらいの幅があって、壁面には埃の塊をぶらさげた空調の室外機が据えつけてあったり、従業員もきっと使いたくないだろうと思うような汚い裏口があったり、ビルの一階に入った飲食店が生ゴミを入れておくポリバケツが置かれていたりといったような、そんなイメージがある。
 だが、当時小学生だった僕の記憶を信用してよければ、どういったわけかそこの隙間には、クラスでも特に小柄だった僕でさえ身体を斜めにすれば通れるというくらいの幅しかなかった。僕は社会に出てずいぶん経つ今でも法律には明るくないし、建築分野に関してはもっと詳しくないが、その僕でさえ建築基準法に照らしてあれはどうだったのだろうかと今さら疑問に思うような隙間だった。そして、その隙間の前を横切る通りそのものでさえ、建物同士の隙間と言ったほうが相応しいくらいに狭くて圧迫感のある路地なのだった。
 僕が誰も見ていないのを確認しながらその隙間に身体を滑り込ませると、そこは何度足を踏み入れても毎回立ちくらみがするくらい、別世界のように薄暗かった。
 見上げてみると、左手の方のビルは十階建てくらいの高さがあって、外壁にはベージュ色のペンキが塗られていた。外の通りから見える方の壁は何度か塗りなおされてそれなりに体裁をつくろっていたのに対し、その隙間の内側から見上げた方の壁は、当然ながらいつまでも塗りなおされることなくあちこち剥げかかって、雨だれの跡だろう不規則な縦じま模様が幾筋も染み付いていた。もちろん外の通りからは見えないのだから塗りなおす必要もなかったのだろうが、そもそもあの狭い空間でペンキを塗るとなれば、いったいどうやってペンキ屋を入れて作業をやらせればいいものなのか、僕にはまったく想像がつかなかった。いっそのこと屋上からだらっと塗料を垂れ流しにするしかないのではないかと、当時の僕は呆れ気味にそんなことを考えていた。だが、今改めて考えてみれば、そんなことをしたらお隣のビルにまでペンキの飛沫がひっかかって大変なことになっただろう。
 そのお隣のビルの方はというと、左のビルよりもほんの少し背が高かったような記憶がある。こちらはそもそも外壁にペンキを塗ってさえおらず、ただ打ちっぱなしのコンクリがむき出しになっていた。左の方のビルはまさかペンキ屋がこの隙間で身体を斜めにしたままむらなく塗ったというわけでもないだろうから、きっと左のペンキ塗りのビルが先にあって、右手のお隣さんの方があとから建てられたのだろう。
 その汚くて薄暗いビルの隙間を、斜めにした体の向きのせいで変な歩き方になりながらもぐんぐん奥に進んでいくと、じきにぼんやりしたピンク色に塗られたいくらか背の低いビルに突き当たった。離れたところから一見した限りではそこで行き当たりのように見えるのだが、すぐ壁の前まで行ってみると、そこからさらに右側に、先ほどまでよりもほんの少しばかり幅の広い隙間がまた延々と続いていた。反対側の左手はというと、やはり同じような隙間が五メートルほど続いていたが、その先は謎の廃材のようなものが積み上げられて、すっかり行く手をふさいでいた。
 その右側の隙間をさらにしばらく歩いて抜けると、そこにはなぜかぽっかりと、三メートル四方ほどの謎の広場があるのだった。
 そこに入るといつも、かび臭いような埃臭いような、科学塗料と腐りかけた廃材と土埃と、それからなぜか生ゴミの匂いを微かにブレンドしたような、何とも形容しがたい臭いが鼻についたものだった。
 やって来た方から見て右側と奥の方は、エル字型になった背の高いビルの内側の角になっていた。手前には歩きながら左手に見ていたピンク色のビルが、左にはやはり十階ほどの高さで煉瓦作りのような見た目のビルが建っていて、それぞれに四方をふさいでいた。
 やってきた通路以外のビル同士の隙間はというと、通り道にした最初の隙間よりよほど狭く、人間の子どもどころか普通サイズの野良犬でさえも通れないくらいの空間が、かろうじて細々と奥に続いていた。そのわずかばかりの隙間さえも途中でそれぞれに別の建物の壁や廃材などに遮られていて、向こう側の道が見通せるというわけでもなく、ただ時おり野良猫がまさに隙間を縫って、ふらりと訪れるばかりだった。
 その広場は、どう考えても誰かが意図して作ったわけではないようだった。実際の事情がどうだったのかは知らないが、少なくとも僕の目には、ただ単にそれぞれのビル主が持っていた土地の配分と建設計画の適当さによって何をどうやっても有効利用できない隙間が残ってしまった、といったふうに見えた。地面にはコンクリが打ってあったわけでも何かものが置いてあったわけでもなく、ただ土がむき出しになっていて、日射が足りないせいかやたらと貧弱な雑草が北側半分にだけまばらに生えていた。
 その空間の真ん中に立ってそれぞれのビルの壁面を見比べてみると、左手の煉瓦色のビルにだけは、こちらが南向きにあたるからか、いくつか窓が並んでいた。あとの二つの建物は、周囲が背の高いビルで囲まれることを承知の上で建てられたせいだろうか、この広場を向いた窓がそもそもなかった。どの建物にも裏口のようなものは見当たらず、その広場までやってくるには、本当にビル同士の隙間を縫ってくるしか方法がないようだった。

 その頃の僕は生意気にも、日常の中のさまざまなことに対して一々意味を考えるようになり出していた。それで四六時ちゅう自家中毒ぎみの情報過多に苛まれて、何となく気疲れするような気がしていた。
 そんな僕にとって、その誰にも必要とされておらず何の意味もないような空間が、ひたすらシンプルで心地よかったということなのだろう。当時、家にはいつも母と四つ下の弟がいて、静かに過ごしたくとも一人になる時間がなかったというのも大きかった。
 また、もしこの空間にいるときに何かあったら、誰にも気付かれず白骨死体になるまでそのままなのではないかと、僕は広場の真ん中に立って時々そんなことを考えた。そういう空想は思春期に入りかけた少年の心に、恐怖よりも、変に後を引く甘さをもたらしたのだった。

 さて、その広場に立って上を見ると、それぞれのビルに切り取られた狭くいびつな空があった。当然ながら、そこからまともに日が射しこむのは、太陽がほぼ真上にあるほんの僅かな時間のことだった。
 小学校高学年だった頃の僕は、学校の人間関係なんかでひどく嫌なことがあると、晴れの日の三時間目が終わった辺りに学校をこっそり抜け出して、この広場へやってきた。そうして、たまにやってくる野良猫を餌付けしようと隠し持ってきた食べ物の欠片なんかを、結局猫が来なくて自分でかじったりしながら、その時間を待っていた。
 やがて時が来ると、ピンク色のビルの天辺近くだけを照らしていた日差しが、じれったいくらいの速度で少しずつ下の方へ降りてきて、薄暗かった空間を徐々に明るく染め替えていった。
 その日差しの境界線は、ビルの壁の一番下まで到達すると、さらにそこからゆっくりと地面に侵食していくのだった。それが地面にひょろりと生えた貧弱な雑草たちの上をじりじりと通り過ぎていくのを、僕は息を詰めてじっと見つめていた。
 その埃舞う空間を照らす安っぽいスポットライトは、ゆっくりと、だが目で見ていてわかるような一定の速度で場所を移していき、やがて反対側のエル字のビルの壁へとたどり着くと、今度は逆に壁面を少しずつ這い登っていった。
 一日の中でほんのわずかな間だけ当たり前の昼間のように明るくなっていたその空間は、それから段々と日暮れ時のようにほの暗くなっていき、やがて本物の夜とはまったく違うぼんやりと湿った薄闇に、元通りに占拠されていくのだった。
 その経緯を最初から最後までただぼけっと見つめてさえしまえば、僕は大体満足して、あとは野良猫が来ていれば食べ物をちらつかせてかまってみたり、こそっと家からランドセルに忍ばせて持って来ていた漫画本を読んでみたりするくらいのものだった。僕はそれだけで、それまでの嫌なことの何もかもをリセットしたような心持ちになって、晴れ晴れとした気分で家路に着くことができた。
 その儀式のような一連の時間さえ過ごすことができれば、家に帰ったあと学校をサボタージュしたことがばれて父親から散々に拳骨を喰らっても、学校の先生に呼び出されて説教をされても、次の日学校で同級生たちにこそこそと陰口を叩かれたり突かれたりしてみても、そんなことはどれもたいして怖くはなかった。

 その変てこな隙間に忍び込んで偽物の夜明けと日暮れを眺めるという僕の習慣は、本当にただそれだけのものだった。一か月か二か月に一回くらい眺めに行っていたその光景はほとんどいつも同じで、季節による光の角度の違いや通過時間の変化以外には、変わったことも何もあったものではなかった。
 だがある日、たった一度だけ、いつもと違うことがあった。
 それは僕がその奇妙な習慣を行うようになって、二年ほどが経った秋の日だったと思う。そのとき僕は、六年生の後半に入った頃だった。
 その日の僕は、朝に家を出るときには既に何かでむしゃくしゃしていて、例によって三時間目が終わり次第いつもの隙間に行くつもりでいた。それが、たまたまそれほど親しくもない子に話しかけられたか何かで、学校を抜け出しそびれたのだった。
 それでも諦めきれなかった僕は、四時間目が終わってからようやくこっそりと学校を脱出することに成功して、もう日がほぼ真上に昇りきった頃にその隙間に行った。
 毎週楽しみに見ているアニメの前半に間に合わなくて悔しい、というのと同じような気持ちを抱えながら、僕は急いでそこに向かった。それでも後半には何とか間に合ったことが嬉しくもあり、息を切らして入口の路地へ辿り着いた僕は、身体を斜めにしたまま急ぎ足で奥へと向かった。
 そうやって駆けつけた広場の真ん中に、それはあった。
 僕は突き当たりを折れてあとは真っ直ぐ広場に向かうだけという通路の途中で、遠目に何かが地面に落ちていることに気付き、訝しく思って目を凝らした。
 僕はその隙間の空間で他の誰かに会ったことは一度もなかったし、その秘密を誰かと共有したこともなかった。だから初めは、知らない誰かがこの広場の存在に気付いて何かしらの物を持ち込むようになったのかと思って、不愉快な気持ちになった。
 だが、遠くからは小さくて正体が分からなかったそれは、近づいて見ると誰かの忘れ物などではなく、ときどきその場所で見かけていた、トラ縞の年寄り猫だった。
 ちょうど真上からスポットライトのように射し込む日差しに照らされて、茶色のトラ猫はこちら側に腹を向け、四肢を投げ出すように寝そべって、目を閉じていた。
 僕は一瞬、その猫が単に昼寝をしているのではないかと思った。だが、野良猫暮らしの長いらしいこの老猫は、ふだん餌をやってもこちらが近くにいると警戒して食べないほどの用心深さで、僕が見ているところで寝ていたことなどそれまで一度もなかったし、まして腹を見せている姿なんていうのは信じられなかった。
 僕は恐る恐る老猫に近づいた。もしかしたら、すぐにびくっと身体を起こして逃げていくのではないかと、頭の中のどこかで期待しながら。
 だが、猫は逃げなかった。いくら近づいても、僕がそっと触っても、ぴくりともしなかった。
 僕はこの猫の毛並みに、そのとき初めて手を触れた。日に当たっていたというのに、それはどこかしんと冷たかった。友達の家で変われている毛並みの良い家猫とはまるで違う、所々禿げてばさばさした、短い毛。
 本当に死んでいるんだなと、僕はぼんやり考えた。だが、そのときはまだ実感が湧いてこなかった。
 車にはねられて死んだ猫の死体はそれまでにも見たことがあったが、この老猫の体にはそういう目だった傷はなかったから、多分病気か寿命のどちらかだったのだろうと思う。
 僕はしばらく猫の死体の傍で、いつものように偽物の日暮れを見守った。
 やがて日差しがビルの上の方へすっかり移動してあたりが薄闇に包まれてしまうと、他にすることがなくなったので、僕はぼうっとしたままの頭で、猫を埋葬しようと考えた。
 そういえば、動物が死んだら埋めるものだと、人はどこで覚えるのだろう。母が動物嫌いだったため、子どもの頃は金魚一匹飼ったことがなかったし、学校で飼育していた動物が死んだというような経験もそのときはまだなかった。その日以前になにかの動物の墓を作った経験はなかったと思うから、いつの間にか漫画やアニメにでも刷り込まれていたのだろうか。
 とにかくそのときの僕は、いったん廃材がビルの間をふさいでいるところまで引き返して、そこから一番小さな板切れを引っ張り出してきた。それで広場の隅の地面を掘ろうとしてみたが、地面は堅く、とても一人で掘れたものではなかった。
 仕方ないので、僕は老猫の死体を恐る恐る抱き上げた。そうしてみると完全に脱力した猫の体は変なバランスで僕の腕にぐったりとぶら下がり、僕はそれでやっと、そこにはもうたしかに命がないのだと実感した。
 それが、僕が初めて体験した身近な生き物の死だった。

 僕は動かなくなった猫を抱えて、一人でびいびい泣きながら家まで辿り着くと、玄関を開けるなり母に大声でシャベルを要求した。母は居間から出てくると、まだ学校のある時間に帰ってきた僕に説教をしようとして、そこで僕の腕の中の猫の死骸に気付き、悲鳴を上げた。
 母はそのとき、この子は一体なんてものを持って帰ってくるのだという表情になったが、それでもそれを口に出して言うのをぐっと堪える様子で、黙って納戸からシャベルを出してくれた。
 そのとき弟はまだ低学年だったから授業が少なくて、先に家に帰ってきていた。母の悲鳴に驚いて出てきた弟は、訳がわかっていたのかいなかったのか、やがて僕に釣られるようにしてわんわん泣き出した。
 僕たちは二人がかりで庭の隅に老猫の死体を埋め、その辺りから石ころを集めて墓のようなものを作った。それでも僕の悲しみはおさまらず、辺りが本物の日暮れに包まれても、いつまでも泣いていた。
 やがて帰ってきた父は、その日の夜だけは僕のサボタージュを怒らなかった。

 僕はその一件からしばらくすると、その隙間には行かなくなった。猫のことがショックだったというのもあるが、じきに中学校に進んだというのが、理由としては一番大きかったと思う。慣れない中学校をさぼって抜け出す勇気はすぐには出てこなかったし、逆に入学してしばらく経つ頃には、僕はクラスの中で人間関係をそれなりに良好に保つためのコツを覚えたのだった。
 つまるところ、僕は以前のようにはその広場を必要としなくなったのだ。
 それでいつの間にか、あれだけ通い詰めたその隙間の存在そのものを、長いことすっかり忘れ去っていた。それがついこの間、ほぼ十年ぶりに帰郷した僕は、路地を横切る野良猫を見かけた拍子にふとそれらのことを懐かしく思い出したのだった。そうしてみると当時の記憶はやけに鮮明で、あれから二十年近くの時が経ったとはとても思えないほど、まざまざと胸に蘇ってきた。
 それで記憶を頼りにその隙間のあったはずの路地に足を踏み入れてみたのだが、辺りのビルはのきなみ建て直されており、当時の面影などまるで残していなかった。
 おそらくはこの辺りだったと思える場所に建つビルとビルとの間には、ちゃんと大人が歩いて通れるような幅があって、片方のビルの周囲には「ここは私有地です」と力いっぱい主張するような柵に仕切られた空間があった。ビルの壁からは埃まみれの室外機がこれでもかと突き出していて、左側のビルには従業員が出入りするのだろうどこか油染みた裏口があり、そのビルの一階で営業している飲食店が生ゴミを一時的に入れておくらしい蓋つきのポリバケツがでんと置いてあって、僕の記憶の鮮明さとはうらはらに、そこにはもう感傷の入り込む余地などひと欠片も残っていないのだった。

(終わり)
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