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 かすかに、雪が降っていた。
 帰宅途中、私はふとそのことに気付いて、空を仰いだ。今年初めての雪だ。
 歩いていたのは、住宅街の真ん中だった。辺りはもうすっかり暗くなっていて、家々の窓からは暖かそうな明かりがのぞいている。
 しんと冷たく鼻をくすぐる、懐かしい香り。雪の匂いは、私に弟のことを思い出させた。雪が好きだった、幼い頃の弟。その無邪気な笑顔。
 私は歩きながら何気なく手を伸ばして、舞い落ちる雪をすくおうと、掌を上に向けてみた。だが、ふわふわとした軽い雪は風に流されて、手の上から逸れていってしまう。
 すぐ近くの家の窓ががらりと開き、小学校に入ったばかりといったところだろうか、小さな男の子がはしゃいだ声を上げた。
 お母さん、見て、雪。雪だよ、と、男の子は手をぶんぶんと振って母親を呼んでいた。それに応える母親の声が、私の耳にもかすかに届いた。そうね、きれいねと。
 その声に重ねるように、「リュー、寒いからもう閉めてよ」と、小学生くらいの女の子の声が聞こえてきた。男の子の姉だろうか。
 男の子は姉の文句など聞く気はないようで、さらにはしゃいだ声を上げて雪を掌に受け止めようと一生懸命になっている。
 ねえ、つもるかな。明日、雪だるま作れるかな。
 そう家の中に叫ぶ男の子の声を聞いているうちに、何かを思い出しそうになって、私は足を止めた。
 ――ねえ、おねえちゃん。ゆき、つもるかな。
 悠斗が訊ねかけてくる無邪気な声に、私は何と答えたのだったか。きっと、積もらない方がいいよ、学校に行くのが大変だからと、そう言ったのではなかっただろうか。
 そうだ。私は突然、鮮明な記憶が自分の中に蘇ってきたのを感じて、自分で驚いた。もう何年前の話だろう。
 私がそんなふうに否定すると、弟は雪が降ったらお休みだよと言い返した。そうだった。
 雪が積もっても、必ずしも休校になるとは限らない。そう言おうと思って、だけど小学校低学年だった八つ下の弟に、どう言い聞かせたら分かるだろうかと考えるうちに、結局は面倒くさくなって、そうだねと適当に答えたのだった。
 そう。その次の日は、本当に雪が積もった。私が思ったとおり、学校は休みにはならなかったが、それでも弟は大はしゃぎで登校して行って、家に帰ってからも、休み時間に友だちと作った巨大な雪だるまの話を、何度もくり返していた。
 私は弟の面影を思い浮かべようとした。浮かんでくる顔と言えば、赤ん坊のときの無邪気な笑顔、小学校に上がりたてのときに犬に吼えられて泣いていた顔、小五のときに鉄棒で打った顎に湿布を貼っていたバツの悪そうな照れ笑い。そんなものばかり。
 最後に会ったときは、もう弟は高校生だったのだけれど、不思議なほど、小さいときの顔しか浮かんでこない。
 ぼんやりしながら歩いていると、家々の間から、賑やかなバースデーソングが聞こえてきた。誰の誕生日だろう、けっこうな大人数が集まっているようだ。
 こういうお祝いを、私もしてあげればよかったと、急にそんなことを思った。
 両親はそれぞれの仕事に夢中で、弟が三つになる頃からは、二人してほとんど家を開けていた。以降、弟は半ば私が育てたようなものだった。
 二親は、生活に必要なものを私たちに与えてくれた。虐待というような放置はなかったし、愛情が全く無いというわけではなかった。それでも、私たちが起きるよりも早く家を出て、眠りについた後に帰ってくる二人は、子ども心にはとても遠かった。揃うことの無いたまの休みには、どちらも疲れてきっていて、せっかくの休みに子どものわがままにかまうのはうんざりだと言いたげな空気が、言葉の端々に滲んでいた。実際、どこかに連れて行ってもらったという記憶は無かったし、遊びに連れて行ってと言い出せる雰囲気はなかった。
 中学校から高校にかけての私は、弟の面倒を見続けることにうんざりしていた。小さいころは保育園に迎えに行かなければならなかったし、小学校に上がった後だって、そうそう夜まで一人にさせておくことはできなかった。
 部活も諦め、友だちの家に遊びに行くことも、皆で学校帰りにカラオケに行くことも諦めて、店屋物ばかりだと体に良くないと言って、ときに弟が食べたいものを作るために急いでスーパーに向かうような生活が、いつまで続くのかと。周りの友達は皆、自分の楽しいことばかりを追っているように見えた。放課後も無邪気に遊びまわっている彼女たちが、たとえようもなく羨ましかった。
 弟に当たることを堪えながら、そして時々は堪えることに失敗しながら、私はいつもうんざりしていた。私もまだ、子どもだったのだ。
 大学を卒業し就職すると同時に、私は家を出た。おりしも、不況の就職難のと騒がれた時期だった。家から通えるところでは働き口が見つからなかったのだと、私は誰にでも堂々と言うことが出来た。それは絶好の言い訳だった。
 私は両親が嫌いだった。基本的に子どもに無関心なくせに、気まぐれに愛情を示そうとする中途半端な姿勢の親が、大嫌いだった。いっそのこと、あんたたちになんて興味ないのよと、はっきり言ってくれればいいと思っていた。
 今にしてみれば、本当に虐待されるよりは、放任されるほうがずっと良かったのだけれども、当時はそんな風に思うことができなかった。
 私はそうやって両親を嫌いながらも、求めていた。待っていたのだ。愛情が与えられるのを。だから、欲しいものを与えてくれない親のことを、嫌った。嫌うことで自分の寂しさから目を逸らそうとした。
 その無関心な親もほとんどいない家に、中学生の弟を残して、私は家を出た。それきり、ほとんど実家には帰らなかった。
 初めての一人暮らしは、楽しかった。何もかも自分のやりたいようにできた。同僚と帰りがけにお茶をしたり、飲みにいって騒いだりするのが、ひたすら楽しかった。やがて、何度か恋人もできた。毎日が幸せだった。一人のアパートで過ごす時間を、孤独とは思わなかった。
 それきり、私は子どもの頃の寂しい思いにフタをしていた。
 ある日、母から電話がかかってくるまでは。
 悠斗が突然いなくなった。そちらに行ってはいないかと、何ヶ月ぶりかに話す母は、憔悴した声でそう聞いてきた。
 私は仰天した。だけど同時に、納得が行くような気もしていた。あんな家にずっと一人でいるのは、耐え難かったのだろう。与えられることのないものを待つよりも、自分から振り切って捨てた。あの子も、私と同じだったのだ。
 だが、弟からは電話の一本もなかった。私も弟にとって両親と同じ、自分を見捨てて好きなようにやっている冷たい人間の一人なのだと、私は悟った。ずっと前から、頭の隅ではいつもその可能性を考えていた。だが、見ない振りをしていたその事実を目の前につきつけられると、急に胸を掴まれるような思いがした。
 何か分かったら互いにすぐに知らせることを母と約束して、私は電話を切った。それ以降、かつて無かったほど頻繁に実家に電話してみるけれど、何年も経つ今になっても、弟の行方はまるで分からない。
 きっと、自分の意思で家を出ただけだ。もういい年をした男なのだから、心配はいらない。そう考えるようにしていても、何かの事件に巻き込まれたのではないかという思いはどうしてもぬぐえず、時にたまらない後悔が胸をついた。
 弟は今、どこにいるのだろう。
 頬を真っ赤にして雪の庭を駆け回っていた、小さな悠斗。どうして私は、もっとあの子を可愛がってあげなかったのか。仕方なく面倒をみるのではなく、ちゃんと愛してあげられなかったのか。同じように親の愛に飢えて辛い思いをしていたはずのあの子と、ぬくもりを分け合って生きていくことが、どうしてできなかったのか。
 そうするには、私は幼すぎた。いつも自分のことばかり考えていた。それは動かせない事実だった。後になって幾ら悔いても、過去は消せない。
 考え事をしながらの道のりは、長いようで短かった。いつの間にかアパートの前に着いていたことに気付いて、私ははっと顔を上げた。
 雪はもの思いの間に、細かい粉雪に変わっていた。これは、本当に積もるかもしれない。
 ひんやりした金属製のポストを覗くと、そこには珍しく一通の葉書が入っていた。
 私は凍える手で鍵を引っ張り出して、ポストを開けた。どうせダイレクトメールの類だろうと思いながら。
 だが、取り出した葉書を見て、私は息を飲んだ。
 ――結婚しました。
 シンプルな手書き文字。よくある形式の、式の写真で上半分を飾った結婚通知。
 微笑を浮かべた弟が、そこに映っていた。
 呆然としたまま葉書を見つめていたのは、何分ほどの間だったろうか。私はすっかり冷え切った身体に気付いて、慌ててアパートの階段を上がった。
 部屋に入って電気を灯し、明るい場所であらためて葉書を見る。差出人のところに書いてあったのは、間違いなく弟の名前だった。
 花嫁の顔に、見覚えはなかった。ブーケを抱え、満面の笑顔で弟に寄り添う可愛らしい女性。美人という感じではないが、笑顔が温かく、愛情深そうに見えた。
 弟は、すっかり大人の顔になっていた。その当たり前のことに衝撃を受けて、私は何度も写真を見返した。しかしよく見るとわずかに、幼い日の弟の面影が滲んでいる。
 その顔に浮かぶ照れたような笑顔は、幸福そうに見えた。
 ――よかったね。
 私は写真の弟にやっと微笑みかけて、葉書を裏返した。そうして、そこに書かれている番号に電話するべく、携帯電話を手に取った。
 
(終わり)

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