小説トップへ


 湿り気を孕んだ風が、ひとすじ強く吹き抜けて、その先でまたひとつ、古いビルが崩れた。
 朽ちて崩れていくのは廃墟ばかりではない、足元の路面もまた、舗装の下から生えてきた雑草に押し上げられて、罅割れ、歪んでいる。
 その罅の下から、小さな黒い虫が一匹、這い出した。
 思わず足を止めて見ていると、虫は何かを探すように、ひび割れだらけの路面を、小刻みに跳ねて行く。やがて着地した先には、人骨がひとつ。かつては服だったものの残滓を纏って、ビルの外壁に凭れ、足を投げ出している。虫は、その上腕のあたりに飛びうつると、その場でじっと動かなくなった。
 服の破れ目に覗く腰骨や肋骨の隙間から、葉の尖った草が、ちらほらと顔を出している。そのすぐ脇で、犬か何かのものだろう、一回り小さな骨が、飼い主の骨と半ば混じりあうようにして、雑草に埋もれている。その首もとに鈍く光る錆びた金属の欠片と、まとわりつく赤い化学繊維の名残だけが、僅かにかつての姿を偲ばせた。
 犬の骨のかたちを目で追っているうちに、虫はいつの間にか、姿を消していた。
 顔を上げ、歩き出す。視線の先にはまっすぐな道。両側にずらりと並んだビルの背は高く、そこに挟まれた曇り空が、一本の線のようだ。
 路上にまばらに散乱する、人骨の群れ。倒れ伏しているもの、うずくまった形のままのもの、崩れ落ちてもとの形を留めていないもの……

 あたりの空気には、頭骨たちが囁き交わす幽かな声が重なり合って、満ち満ちている。生きるもののいない荒野で、誰からも忘れさられた巨岩に空いた穴を、気まぐれに吹き抜ける風のような、うつろな声だ。
 ふと、足元に落ちる人骨の一つが、見覚えのあるカーキ色の服の成れの果てを纏っていることに気が付いて、再び足を止めた。屈みこんで耳を寄せると、頭骨の空洞を吹き抜ける風が、亡者の嘆きを伝えてよこす。
 ――畜生、畜生。あいつら。こっちが先に、ミサイルをぶっぱなしてやったのに。照準も完璧だった、天候も万全だった。あとちょっとでおれたちの勝ちだったのに。あいつら、やりやがった。畜生、畜生。
 嘆く兵士の、耳のあったとおぼしき場所に向かって、せめてもの慰めを囁きかける。なに、あいつらもとっくに死んで、今ごろは灰だ、こっちはあらかた骨にされちまったが、奴らは骨も、燃え残っていまいよ。
 兵士の頭骨は、少しの間沈黙したが、またすぐに、うつろな囁きを繰りかえし始めた。
 ――ああ、あとちょっとでおれたちの勝ちだったのに。ああ、悔しいなあ。畜生、畜生……
 兵士の亡霊は、あとはただ、同じことを繰り返すばかりだった。

 地面にうずくまる人骨の群れのほかに、ぼんやりとした灰白の、路上を彷徨うものもある。確かな生前の姿を留めるものはなく、薄っすらと透ける、朧げな影ばかりだ。
 踏みしめるのが亡霊の足であっても、地面はかすかな音を立てる。硬い靴底の立てる足音とは違う、すぐにも風に浚われて消え入りそうな、かそけき音。生者がその場にひとりでもいれば、命の気配に紛れて消えてしまうような、ほんの幽かな音だが、死者しかいないこの町では、それがさざ波のように重なりあい、繰りかえし響いている。
 まばらな影たちは、何ごとかを呟きながら、茫洋とした足取りでどこかへ向かっていく。あるいは当て所なく、同じ場所を回っている。
 その中でも、いくらかはっきりした形を留めた女の影がひとつ、不意に近づいてきて、ほんのわずか、風を震わせた。
 ……ねえ、どこにいるの。
 地面の頭骨たちの囁きは、荒野を吹く乾いた風に似ているが、透き通った影たちの呟きは、暗闇に沈む地下洞窟で、尖った鍾乳石の先から、命を知らぬ地底湖へと間遠に垂れ落ちる、うつろな水滴の音のようだ。
 影の背に垂れ下がる長い髪が、この世のものではない風に揺られて、ゆらりと翻る。
 ……どこにいるの、返事をして。
 ちょうど道の反対側から、もうひとつの朧な影が、ふらりとやってきて、何ごとか聞き取りづらい呟きを漏らしながら、先ほどの女の影に向かっていく。見守っていると、ふたつの影は、ゆらゆらと近づき、やがて互いの存在に気付きもしないで、擦り抜けて行き違った。
 ……どこにいるの。ねえ。
 あれでは、目当ての相手と行き逢うことがあっても、互いにそうとは気付くまい。
 踵を返してまた歩き出す。その背中から、水滴の落ちるような呟きが、追いかけてくる。
 ……ねえ、返事をして。

 街路の一画、居並ぶ廃ビルが比較的もとの形を留めているあたりに、ひときわ小さな赤子の骨が転がっている。そのすぐ脇に、成人の、骨盤からすると女性のものらしき骨が、寄り添うようにしがみついていた。
 ――ああ、ああ。泣かないで。痛かったね。ああ、かわいそうに。ごめんね、ごめん。お母さんが悪かったんだ、あんたを連れて、遠くに逃げなかったから。ああ、ああ、かわいそうに。痛かったね。ごめんね。
 屈みこんで、耳を傾けてみる。子どもの頭骨は、沈黙している。もうそこに残ってはいないだろう。いままで見てきたかぎりでは、幼い子どもの声ほど、消えてしまうのも早い。
 もう、苦しんではいないだろうよ。屈みこんでそう言ってみるが、若い母親の耳には、届かない。
 ――ああ。泣かないで。かわいそうに。痛かったね、痛かったね……
 仕方なく立ち上がり、すすり泣く母親の声に背を向けて、歩きだす。悲しみが風に浚われきってしまうまで、待つしかない。あと何年、何十年かかるかは知らないが、いつかは息子と同じ処に逝くだろう。

 見つけた。
 両側のビルが崩れて、道がほとんどふさがりかけた一画だった。
 ビルの瓦礫に半分がた埋まって、ひとり分の骨が、ばらばらに崩れ落ちている。むき出しの肋骨に、焼け溶けたのだろう、着ていた軍服の名残がこびりついて、黒ずんでいた。
 その首もと、頚椎に貼り付くように、見覚えのある鎖が二本、絡んでいる。錆び付いて崩れかけたものが一つ。細い銀色の、もう少しましな形を保っているものが一つ。その先に垂れ下がる二枚のドッグタグと、軍人にはいかにも不釣合いな、小さなメダイ。
 間違いなかった。
 けれど、屈みこんで耳を近づけても、頭骨を吹き抜ける風の音は、何も伝えてこない。
 耳を澄まして、待ってみる。
 やがて、大きな雨粒がぽつりと、メダイの上に落ちた。くすんだ銀のメダイは、雨の雫が流れ落ちるまでの一瞬だけ、かつてのように輝いた。
 薄い雲から、雨はまばらに落ちてくる。その雨音の隙間を縫うように、背中から、見知らぬ亡霊たちの呟きが、聞こえている。遠く、さざ波のように重なり合って。

 やがて雨が上がり、ぼんやりとした陽光が射しても、目の前の骨は、沈黙したままだった。
 遅すぎたのだ。
 しばらく、そこに座り込んでいた。ぼんやりとした見知らぬ影が、こちらに気付きもしないようすで、そばを通り過ぎていく。何ごとかを呟きながら、あるいは無言のままで。
 やがて立ち上がって、もう一度、足元の骨を見下ろした。黒々とした眼窩の奥には、空洞があるばかりで、その目はもう、何も語らない。
 踵を返し、背を向けた。戻らなくてはならない。

 ……ねえ、聞いてよ。ねえ、そこのあんたったら。
 急に呼びかけられ、振り向くと、白い影がひとつ、立ち止まってこちらを向いていた。
 ……ああ、あんたは聞こえるんだ。よかった。ちょっと聞いてよ。こう見えてもあたし、ちょっとは知れた歌手だったのよ、天使の歌声なんていわれてさ。
 濃密な嘆きが、その吐息には滲んでいた。これほど鮮明な感情を遺した声を聞いたのは、どれくらいぶりだろうか。
 ……ほんとうに、自慢の喉だったのよ。歌ってるときだけは、何も辛いことなんてなかった。なのに、こんなんじゃもう、澄んだ高い声なんて、出せやしない。出せるのは、くぐもった陰気な音ばっかり。あたしの声は、こんなものじゃなかったのよ。ほんとうよ。ねえ、信じてくれる? 自慢の声だったんだから。
 その話は、素直に信じる気になれた。そう言い募る彼女の声が、うつろな水の音のようになっても、まだ美しかったからだ。
 けれどそう言っても、慰めにはならないのだろう。気の毒にと返すと、女の影は大仰に、何度も頷くような仕草をした。その動きに合わせて、舞台衣装なのだろうか、きらびやかな裾が翻ったような気がしたけれど、目を凝らしても、茫漠としてよくは分からない。
 ……ああ、いやだ。あんた、軍人なのね。
 そのことに気付いたとたん、女の美しい声が、怒りの気配を孕んだ。
 ……ねえ、どうしてなの。なんであんたたちは、兵器だとか、強い軍隊だとか、そんなものばっかり欲しがるの。ねえ、どうしてよ。
 その非難に答える言葉は、ひとつも持たなかった。
 歌手の影はしばらくの間、じっとうらめしそうな視線の気配だけを寄越していたが、やがては諦めたように背を向け、去っていった。
 気を取り直すまでに、少し時間がかかった。けれど、影が見えなくなるのを待って、もとのとおりに歩き出したら、先ほどまで自分が何を考えていたのかも、あっという間に、遠く、朧になっていった。

 街は変わり果てて、どこもかしこも、知っている姿とは違っている。気を抜くと、自分のいる場所も見失いそうだった。ときおり足を止めて、周りを見渡しても、何度も通った場所のようにも思えるし、初めて見るような気もする。
 それでもこちらだろうと思う方に、どれほど歩いただろか、街路を埋める瓦礫を乗り越えて、視界が開けると、そこが広場だった。
 ああ、ここだった。
 何かの銅像があった土台が崩れ落ち、噴水は枯れ、その周りを囲んでいたベンチも、とうに朽ち果てている。それでもすぐに分かった。見覚えのある建物の並び、遠くに見える青い山の頂。
 空を見上げる。低い空を、灰色の雲が風に流されていく。
 あの日からずっと、曇ってばかりいるような気がする。それでも今も、雲の薄くなったところから、弱々しい陽光がかろうじて届いている。わずかな陽射しを受けて、街の成れの果てを覆うように、苔や蔦、背の低い草木が、あたりを侵食していく。
 とうとう敵の軍隊も踏めなかったこの地を、緑の軍勢がゆっくりと、けれど確実に踏み分けていく。石の隙間に根を食い込ませ、錆びた金属に絡みつき、いつかは全てを土に返し、埋もれさせていくだろう。
 やがて悠久の時の果てには、ここは、豊かな森になるだろうか。
 視線を地上に戻す。足元に目を凝らしながら歩き回ると、街灯だった錆びたポールの根元で、探すものをみつけた。
 ぼろぼろの軍服の肩に張り付いた、意味をなくした勲章の残骸。ほんのいっとき離れていただけなのに、それはどこか見知らぬもののように思えた。
 けれど間違いなかった。頚椎にまとわりつく鎖の切れ端、ドッグタグの表面の文字は、まだかろうじて読み取れる。
 ゆっくりと手を伸ばす。なぜだろう、それほど長く離れていたつもりもないのに、やけに久しぶりのような気がする。
 ようやく帰ってきた。
 自分の頭骨を抱き締めて、その中に吸い込まれる一瞬、かつての賑やかだった広場の幻覚を、この目に見たような気がした。
 

(終わり)
拍手する



小説トップへ

inserted by FC2 system