空が暗くなる頃になって、ようやくエトゥリオルは歩きだした。 宵の口から風が強まったためか、湖畔にはすっかり人の気配がなくなっていた。湖面に映りこんだ半月が、風に吹きちぎられて千々に乱れている。 戻るのには、勇気がいった。 いったん頭が冷えてしまえば、馬鹿なことをしているという気持ちだけが残った。エトゥリオルはとぼとぼと歩きながら、羽をしぼませる。 前にもこんなことがあった。ジンはただ心配してくれているのに、自分が勝手にそれをひがんで。 湖をちょっと離れると、さっきまでの自然豊かな風景が嘘のように、整然と整えられたテラ人たちの都市が、目の前に広がる。 マルゴ・トアフは広い。実際に暮らしてみて、異星人たちの人口の意外なほどの多さを、エトゥリオルは知った。 トゥトゥは一般に、大きすぎる集団を嫌う傾向がある。O&Wのような巨大な会社もほとんどないし、各国の首都でさえ、ひとつの街に住むトゥトゥの人口は、ここよりもずっと少ない。 ピュートゥのようなトゥトゥがテラ人を嫌うのも、もしかすると、そうしたところへの反発があるのかもしれない。ふっと、そういう考えが頭の隅をよぎった。 そんなふうに考えてみるのは、初めてのことだった。彼らが地べた這いなんて憎まれ口をたたくのも、ただテラ系の人々を馬鹿にしているというだけではなくて、そこには強がりが含まれているのかもしれなかった。 その広い街並みの、まっすぐな整った道を、ひたすら歩きながら、エトゥリオルは自分の足がどんどん重くなっていくのを感じた。 メインストリートに近づくにつれて、人通りが増えてゆく。飲食店の前を通ると、人々のにぎやかな話し声が耳に飛び込んでくる。 クビだっていわれたら、どうしよう。 入社と同時に渡された就業規則という文書を、エトゥリオルは律義にすべて読んでいた。平易なセルバ・ティグで書かれたそれは、トゥトゥの一般的な企業で交わされるような契約にくらべると、ずいぶん細かく文章化されていた。 その中には、無断欠勤と解雇についても記されていたように思う。あれはどれくらい厳密に適用されるものなのだろうか。 ときどき弱気に負けて、足が止まった。そうすると、次の一歩を踏み出すまでに、また気力をふるい起さなくてはならなかった。 もしO&Wではなくて、たとえば前にエトゥリオルがしていたような、トゥトゥの会社での半端仕事だったなら、そのまま辞めて、自分から逃げだすことも考えたかもしれない。トゥトゥは自分に合う仕事を探して、職を転々とするのが普通だ。 けれどここは、そうではない。マルゴ・トアフの社会は、その規模にくらべて、意外なほど狭い。そのことを、エトゥリオルはすでに理解していた。企業同士の、横のつながりが強いのだ。 母星を遥か遠く離れた異邦の地で商売をやっていくのには、協力関係が必須ということなのだろう。妙な辞めかたをしたら、ほかの会社で雇ってもらえないということも、充分に考えられた。 それに――エトゥリオルは瞬きを繰り返す。彼は、O&Wで働きたかった。ほかではない、この会社で。 その気持ちだけが、かろうじて足を前に押し出していた。 社屋の前に着いたときには、すっかり夜も更けていた。 時間も遅かったが、残業しているスタッフはいるかもしれない。ともかく一度、戻らなければならないと思った。 事情を知らない顔見知りが声をかけてくるのに、気もそぞろに答えながら、エトゥリオルは廊下を歩く。もしクビになったらと思うと、ぎゅっと心臓が縮むような気がした。 設計部の前まで来て、足が止まった。 謝らなくてはならない。 わかっていても、手がなかなか伸びなかった。ドアにつけられた小さな機械を、じっと見つめたまま、エトゥリオルはいっとき躊躇していた。 通りかかった人が、怪訝そうに彼の方を見ては、声をかけづらそうにして通り過ぎる。三人目の姿が遠ざかったところで、ようやくエトゥリオルは覚悟を決めた。 なんども深呼吸したあと、ようやくIDを通して設計部に入ると、中はまだ皓々と明るく、何人ものスタッフが残っていた。 アンドリューがエトゥリオルに気付いて、笑顔で振り返る。「よう、大丈夫か」 「――すみませんでした」 反射的に謝って、顔を上げると、残っていたスタッフがそれぞれに、気遣って声をかけてくれた。エトゥリオルを責める者はいなかった。それがかえって申し訳なくて、小さくなりながら、エトゥリオルは何度も頭を下げた。 「気にすんな。何を話してたか知らんが、まずジンが悪い」 アンドリューが笑って断言するのに、エトゥリオルは必死でかぶりを振った。横から別の同僚が声をかけてくる。「ジンとは会えたの?」 エトゥリオルは目を丸くして、羽毛を逆立てた。そのようすで、察しがついたらしい。周りにいたスタッフがそろって顔を見合わせた。 「なんだ、まだ会えてなかったのか。あいつ、変なところでトロいよなあ」 「もしかして、あのあと――」 「お前を探しにいったきり、戻ってないよ。いつまでうろうろしてるんだろうな――心配性なんだか何なんだか。お前だって、大の大人だってのになあ」 怒ってもいいんだぜと、アンドリューはいったけれど、エトゥリオルは小さくなって首を振った。子どものようなことをしているのは、どう考えても自分のほうだ。 「連絡、なかったのか?」 びくっとして、エトゥリオルはポシェットを探った。携帯端末は、湖畔で受信機能を切ったままだった。 その薄っぺらい端末を、まるで爆弾かなにかのように、エトゥリオルはおっかなびっくり取り出した。そのしぐさをみた同僚たちから笑われても、恥ずかしく思う余裕は、エトゥリオルにはなかった。 画面を開くと、何度も連絡の入った痕跡があった。ジンの個人端末のIDだ。 「過保護な母ちゃんみたいなやつだなあ」 アンドリューがにやにやしながら覗き込んで、早く連絡してやれよといった。その軽い調子に助けられて、かろうじてエトゥリオルは、端末を取り落とさなくてすんだ。 『――リオか? いまどこにいる?』 通話が繋がるなり、勢い込んで訊かれて、エトゥリオルは口ごもった。アンドリューが笑って、横から口をはさむ。「お前、いったいどこまで探しにいってんだよ」 ――戻ったのか、と安堵したような声がして、エトゥリオルは縮こまった。 「ごめんなさい……」 『――無事ならいい』 もう寮に戻れといって、ジンは通信を切った。ぶっきらぼうな調子だった。 「聞いたか、あの声」 アンドリューが、腹を抱えて笑っている。ますますいたたまれなくなって、エトゥリオルは端末を握りしめた。 「――ほんとに、今日はごめんなさい。あの、僕、欠勤は……」 「休暇届を出しといたから、大丈夫よ」 横から同僚が声をかけてくれるのに、エトゥリオルは頭を下げた。 「ご迷惑をおかけしました……」 恥じ入るエトゥリオルを見て、皆が笑う。アンドリューがエトゥリオルの背中を叩いた。 「だいたいお前ら、ふたりとも真面目すぎるんだよ。そんなに堅苦しくやってたら、いちいち肩が凝るだろ」 エトゥリオルは首をかしげる。凝るような肩は、トゥトゥにはない。気付いて可笑しくなったらしく、アンドリューはひとりでげらげら笑った。 寮の廊下で、ジンを待っていた。 待ち合わせたわけではないのだけれど、今日のうちに、ひとこと顔を見て謝りたかった。 待つあいだ、何度も弱気がさして、くじけそうになった。ジンは怒っているだろう。まだ戻ってこないということは、かなり遠くまで探しにいってくれていたのではないか。 ひとりでじっと黙っていると、次から次に自己嫌悪が襲いかかってきた。 エトゥリオルはO&Wに入社した日のことを思い出す。あの日、自分に与えられたデスクを前にしたとき、何よりもまず、一人前の働きをできるようにならなくてはと思った。それだというのに、いつまでも周りに迷惑をかけては、心配ばかりされている。 「リオ? 待ってたのか」 ジンの声がして、エトゥリオルは飛びあがった。 とっさに逃げ出しそうになった。踏みとどまったのは、ジンの疲れた顔に気付いたからだ。 「――今日は、本当にすみませんでした」 情けないほど、小さな声しか出なかった。 いや、と首を振ってから、ジンは言葉を探すような顔をした。 エトゥリオルのほうでも、謝るだけではなくて、ジンと話さなくてはならないことが、あるような気がした。けれど、待つ間にいくらでも時間はあったはずなのに、考えはうまくまとまらなかった。 ジンがなにか、口を開こうとした。そのとき、軽快な足音が近づいてきた。 顔を上げた二人は、山もりの野菜籠と、そこから生えた人の足を見た。 籠には、何種類もの野菜が積み上げてある。トゥトゥが日常的に食べる種類のものばかりだ。よほどうまく詰めてあるのか、よく崩れないなと不思議になる高さだった。それだけの荷を抱えているのに、持ち主の足取りは軽い。 ぽかんとする彼らの前を、一度は通り過ぎてしまってから、ベイカー女史は立ち止まった。視界を遮るほど山積みの荷物を抱えていたら、それは前方に立っている人間の顔にも気付かないだろう。 「ああ、ちょうどよかった。約束の報酬を持ってきたのよ」 そうにっこりと笑って、女史はエトゥリオルに籠を差し出した。もう日も落ちてずいぶんになるというのに、またしてもなぜか、顔には泥がついている。いまのいままで農作業を続けていたのだろうか。 とっさに手を伸ばして、籠を受け取ってしまってから、エトゥリオルはそれが先日の手伝いの礼だと、ようやく気がついた。「あ――わざわざありがとうございます」 「こちらこそ。また何かあったらよろしくね」 女史はそこでようやくジンに気付いて、きょとんと首をかしげた。 「――あら? お取り込み中だったかしら?」 「いえ……」 首を振ってから、堪えかねたように、ジンが吹き出した。 彼が声を立てて笑うのを、エトゥリオルは初めて見たような気がした。 「失礼ね、人の顔を見て笑うなんて」 ベイカー女史がふてくされてみせたあたりで、エトゥリオルもつられて、つい笑いだした。 女史も、本気で気を悪くしているわけではなさそうだった。わざとらしく肩をすくめて怒ってみせてから、レイチェル・ベイカーは自慢の野菜を手のひらで示して、目を輝かせた。 「わたしにはあなたたちの味覚はわからないけど……」 そう前置きして、女史は胸を張った。「検査結果の数字からしたら、きっとトゥトゥにも美味しくできてると思うのよ。今度、感想を聞かせてね」 エトゥリオルが何度もうなずくと、満足したようににっこり笑って、女史は去って行った。弾むような、軽やかな足取りで。 「――それ、全部食うのか」 ジンはまだ笑っていた。エトゥリオルは自分の手の中の籠を見おろす。たしかに、ものすごい量だった。 ふつうのトゥトゥは大喰らいだから、ベイカー女史はそのつもりで持ってきてくれたのかもしれない。それにしても、小柄な彼女がよくもこれだけ抱えてきたなというような、ずしりとした重みがあった。 「ええと……食堂に持って行って、使ってもらおうかと思います」 それがいいとうなずいて、ジンはようやく笑いをおさめた。そして、ふと改まって、真顔でいった。 「――リオ、君は、飛行機は好きか?」 エトゥリオルは面食らった。いまさら何でそんなことを――ほとんどいいかけてから、気付いた。 自分はそのことを、口に出していったことがない。 ジンの前だけではない。誰の前でも、ずっといえなかった。そのことを、いまやっとエトゥリオルは自覚した。 口に出すのが怖かったのだ。 何が怖かったのか。自分の胸の内を、エトゥリオルは振り返る。不相応だと感じるからだろうか。トゥトゥが飛行機を好きだなんて、おかしなことだと、いつの間にか自分でも、思い込んでいたのだろうか。 顔を上げて、エトゥリオルははっきりといった。 「好きです」 ジンはいっときエトゥリオルの目を見返して、それからうなずいた。 「――わかった」 それだけだった。それですべて話は終わったというように、ジンは話題を打ち切った。 「まだ、晩飯も食ってないんじゃないのか」 いまのいままで空腹を感じる余裕はなかったけれど、いわれてみれば、そのとおりだった。エトゥリオルはうなずいて、それからジンも同じだろうということに、ようやく気がついた。 社員食堂は、まだかろうじて開いている時間だ。ジンは野菜籠に視線を投げて、目の端でちらりと笑った。 「半分持つから、そいつを厨房にあずけて、飯にしよう」 慌ててうなずいて、エトゥリオルはおっかなびっくり、籠の持ち手を差し出した。 ※ ※ ※ 食事を終えて部屋に戻る途中、エトゥリオルの端末に、メールの受信を知らせる表示があった。 画面を見るけれど、発信元には見慣れない署名があって、それもほとんど文字化けしている。画面に触れても、アクセスできない――携帯用の小型端末では閲覧できない、特殊な形式のデータということだ。部屋に戻らなければ、中身を見ることができない。 コンピュータウイルスの類は、あまり心配していなかった。ものを持ち歩くことを嫌うトゥトゥたちは、積極的にネットワーク技術を活用したがるから、社会全体でセキュリティ対策が進んでいる。 誰だろう――エトゥリオルは首をかしげる。 ふつう、知り合いはたいていメールを送りつけるにせよ、話すにせよ、携帯している端末のほうに直接連絡をとってくる。こんな形でメールが届くというのは、そうそうないことだ。それに、この見慣れない形式。 自分の部屋に戻ると、真っ先に端末に向かった。 そこに表示されたデータにどきりとして、エトゥリオルは画面に見入った。私物の小型端末では文字化けしていた発信者名が、こちらではちゃんと表示されている。 船籍番号EVS2−01002N。英語でそう書かれていた。 『やあ、リオ? 元気にしてる?』 そういって、画面の向こうで笑っているのは、サミュエルだった。エトゥリオルはぽかんと口を開けて、映像に見入る。 『――なんだろう、これ、あらたまって喋るの、ちょっと恥ずかしいね』 照れくさそうに頭を掻いて、サムはいう。背景には、宇宙船の内部なのだろう、見慣れない金属光沢のある壁が映っている。壁のいたるところにモニタがあって、何かの装置があって、パネルがある。喋っているサムの背後を、小型のロボットが通り過ぎて行った。あれは何をする機械なんだろう―― 『まだまだ地球までの道のりは遠いんだけど、でも、そっちの太陽はもうちっともわからなくなった。縮尺図で見てても、なんかスケールが大きすぎて、あんまりぴんとこないけど――やっぱり早いね。クルーの人から、理屈を教えてもらったけど、難しくて、さっぱり。君ならもっと分かるのかな』 後ろで誰かの抗議の声と、笑い声が混じる。画面には映っていないけれど、そばに人がいるのだろう。 映像のなかのサムは、鼻をこすって、ちょっと笑う。 『君のほうは、もう仕事はすっかり慣れたころかな。いまどんなことしてる? 僕はまだ無重力に慣れないよ。よくいろんなところにぶつかってる。完全な無重力じゃないんだけど――なんか、遠心力を利用して、擬似的に低重力状態を作るんだって――でもやっぱり、体がふわふわしてる。ちょっとジャンプすると、すぐ天井に頭をぶつけるんだ。ほら』 いって、サムは軽くその場でジャンプしてみせた。力を入れたようには見えなかったのに、彼の体は高く跳ね上がる――危なっかしく天井に手をついて、下りてくるときによろめいた。 『こんな感じ。そのうち慣れるだろうけど、でも地球は、そっちよりもちょっと重力が強いっていうから、どうかな。向こうに着いてからのほうが、苦労するかも』 画面の向こうで、サムは微笑む。 いつかまた、そっちに戻るつもりだけど、でも、みんなの話を聞いてたら、やっぱりけっこう大変みたいで――いまはほら、僕、うちの親のオマケみたいなもんだから、いろんなことをずいぶん免除してもらってるんだけど。本当は、宇宙船に乗るだけでも、なんか難しい資格がいるんだって。 こういう船の乗組員になる資格に比べたら、乗客として乗るのはもうちょっと簡単だっていうけど、やっぱりけっこう、時間がかかるかもしれない―― でも、かならず戻るよ。その前に、まずは地球をめいっぱい見物してくる。面白い風景があったら、向こうからメールする。 メールっていえば、ほんとなら、こうやって通信を送るだけでも、お金がかかるんだって――思ったほど高くはないみたいなんだけど、僕、いまは自分で使えるお金なんて、ほとんど持ってないしさ。どうしようかと思ってたら、会社のひとが、こっそり支社あての通信と同送してくれるって――あれ、これ、このメールで言っちゃってよかったのかな。 ――O&Wは情報管理がしっかりしてるから、プライヴェートの通信をのぞき見するようなふとどきな社員はいません、だって。社用便に私用メールを紛れ込ませちゃうふとどき者はいるみたいけど――ごめんなさい、感謝してます! ほんとだって! もう、友達あてのメールなんだから、ちょっとは遠慮してよ――うん、大丈夫。操作は覚えたよ。わかった。 人が離れていく気配がする。いっとき後ろ頭を見せていたサムが、あらためて振りかえって、カメラに向かって微笑む。ちょっと緊張したような表情。
あのさ、僕、ずっと君に、いわなきゃって思ってたことがあるんだ。
リオ――君はさ、たぶん君が自分で思ってるより、ずっといいやつで、すごいやつなんだよ。だから、もっといつも堂々としてたらいいのにって――ごめん――ほんとはときどき、思ってた。だって君、いつもなんか遠慮して、小さくなってばっかりでさ。――君のそういうところ、いいところだとも、思うんだけど。君、ぜったいひとを見下したりしないもんな。 ハイスクールでだって、君、皆から好かれてたのに――まあ、いやなやつもいたけど。だけど僕、君といっしょじゃない授業のときに、ほかのやつらが君の噂をしてるの、たくさん聞いたよ。――いい噂だよ、念のためにいっとくけど。 そんなの、いまさら何って思うかもだけど、君、なんだかそういうこと、ちっとも気付いてないみたいに見えたから。 いつか、いおういおうって思ってて――でも顔を見てたら、なんか恥ずかしくってさ。 でも、よく考えたら、こんなふうに一方的にいうことじゃなかったかな。 ――あんまり長い時間は無理だって、いわれてたんだった。地球についたら、またメールするよ。 君も、もし都合がついたら、いつか返事をくれたらうれしい。――元気で、リオ。 ひとりきりの部屋で、エトゥリオルはちょっと泣いた。 今日、二度目の涙だと思って、誰も見ていないのに、自分で恥ずかしくなった。子どものころの泣きべそが、いまさらぶり返したみたいだった。 ※ ※ ※ 翌朝、出勤するなり、エトゥリオルは大量の図面や仕様書を押しつけられた。 アンドリューはじめ、何人ものエンジニアから、次から次にだった。ひとつひとつは難しい案件ではないし、たいした分量でもない。いまのエトゥリオルなら、ひとりでしっかりこなせる内容だ。 目を白黒させながらデータを受け取って、エトゥリオルはいたたまれなくなった。昨日、ここを辞めることまでちらりと考えたのを、口に出してもいないのに、みんなに見透かされている気がした。 「お前らな……自分でやれよ」 横で見ていたジンのほうが、途中で怒りだした。 「チームワークだろ? 手のあいてるやつにどんどん任せなきゃな」 飄々というアンドリューに、ジンが顔をしかめて、何ごとか、耳打ちをした。 アンドリューは眼を丸くして、口笛を吹いた。それからにやりと笑って、エトゥリオルに押しつけた仕事のいくつかを、引きとっていった。 なんだろう? 首をかしげながらも、なんだか訊きづらくて、エトゥリオルはまばたきをした。 押しつけられた仕事で、午前中はやたらとあわただしかった。失敗のないようにという気持ちと、早く片付けたいという気持ちのあいだで目まぐるしく立ち働いていると、ほかのよけいなことを考えている暇がなかった。 午後の始業から間もなく、設計部の部長が、ジンのデスクに近寄ってきた。 「――支社長の了解が出たよ」 ジンがそっけなくうなずくと、部長はエトゥリオルのほうに向きなおって、目じりに皺を作って笑った。それから彼の翼のあたりを、ぽんと軽く叩いて、去っていった。 普段はあまり親しく話す機会もない、偉いひとだ。そんな相手にとつぜん背中を叩かれて、エトゥリオルはおろおろした。周りを見渡しても、みな忙しそうにしていて、気付かない。アンドリューだけが、何か事情を知っているようで、エトゥリオルを見てちらりと笑った。 「リオ。ちょっといいか」 ジンに呼ばれて、エトゥリオルは顔を上げる。真剣な顔が、そこにあった。 「昨日、あれからよく考えたんだ。もし、君さえ望むのなら、俺は――」 ジンはそこで、一度、言葉を切った。 それからジンが説明した内容を、エトゥリオルは即座に理解できなかった。 言葉の意味をよく飲み込めないまま、その声は、エトゥリオルの耳を通り過ぎて行く。改良設計――操縦系の大幅な設計変更――テストパイロット。 それらの単語の意味が、まともに彼の頭にしみこんできたのは、だいぶ経ってからだった。 ジンは一呼吸おいて、いった。 「――俺は君に、空を飛ばせてやりたい」 |