2話へ  小説トップへ


 
 
 またニュース画面に視線を戻して、須田原は思い出したように、自分の分のお茶を啜った。
 沈黙を挟まれたのがいけなかった。
 投げ込まれた物騒な言葉に、想像力が悪いほうに暴走した。やめようと思っても、新品のふすまに目が行ってしまう。ここで何があったんだろう。この家で。
 須田原はいったい、何をしたんだろう。
 ぞっとした。それから、自分をぶん殴りたくなった。何を馬鹿なことを。考えすぎにもほどがある。それこそ推理小説の読み過ぎだって。
 だけど、そう、須田原はなんで一人暮らしなんだろうとか。男の家にのこのこ上がるなんて、何かあったら世間的には女のほうもどうかって言われる状況だなんて。お邪魔するときにちらっと考えたことなんかが、この余計なタイミングで、ぱっと脳裏によみがえったりして。
 馬鹿馬鹿しい。だってそんな、ついうっかり想像しちゃったような、ほんとうに怖いことがあったんなら、須田原だっていきなり他人にぺらぺら喋ったりするわけないし、
 須田原は視線を上げなかった。うつむいたまま、話を続けた。
「――覚えてるかな、あの法案が決まって、一年くらいしてからさ、アメリカの、殺人遺伝子の研究がニュースで何回も取り上げられ出してさ」
 そっちのほうは、わりと記憶に残っていた。だけどうなずくにうなずけなくて、自分の膝を意味もなく掴んだまま、黙っていた。
 生まれつき、犯罪者になりやすい体質の人がいる。そしていまの技術なら、その遺伝子を、容易に特定できる。そのニュースはたしかに一時期、お茶の間を騒がせたのだ。
 須田原は湯飲みの縁を爪で弾いて、ふっと息を吐いた。
「ニュースになったとき、まさかねなんて言って笑い飛ばしてたのに、やっぱり不安になって、DNA登録したときの控えをひっぱりだしてさ。見方もよくわからなかったけど、ネットで調べて。やらなかった?」
 聞かれて、それにはかろうじてうなずき返したけれど、須田原はこちらを振り向かなかった。
 そう、たしかにわたしにも、同じことをした記憶があった。家族全員で顔をつきあわせて、軽口なんか叩きながら。
「確かめたら、まんまでさ。嘘だろって……やっぱさ、ちょっとびびるじゃん。別にいま誰か、ぶっ殺したいようなやつがいるわけじゃなくても、お前は将来人殺しになる可能性が高いなんて、そんなこと言われたら」
 だけど、と言葉を切って、須田原はちょっと唇をゆがめた。
「だけどさ、」

    *
 母親はさ、否定してくれると思ってたんだよ。そんな検査結果ひとつで、自分の子供を見る目が変わるような人じゃないって、思いたかった。
 たしかに否定してくれたんだ。馬鹿馬鹿しい、こんな紙切れ一枚のことで。雄ちゃんこんなの真に受けちゃだめよ、テレビってこんなとき無責任なんだから。
 口ではそう言うんだよ。だから俺も、最初はちょっと安心してさ。
 だけど、俺を見る目が、なんていうのかな。
 何をしてても、無理して普段どおりにしてるのが、わかるんだ。ニュースで殺人事件とか流れたら、すぐチャンネル変えるし。普通に喋ってても、すぐ何か家事とか、いつでもいいような作業とかはじめて、さりげなく目を逸らしてさ。本人は自然にやれてるつもりだったんだろうけど……よく夜中に、親父とふたりで何か、長いこと話し合ったりしてて。
 あの報道があってから、すぐだったな。特定遺伝子保持者の登録に関する法律案――言葉だけすり替えてごまかそうって魂胆見え見えの、あのうっとうしい名前、な。最初だけ、マスコミが殺人予備軍監視法なんて言ってたけど、すぐあのふざけた正式名称に変わってさ。
 親父はずっと、冷静だったな。『その遺伝子を持っている人間の大半が犯罪に走るというならともかく、ほとんどは普通に暮らしてるんだ。それならただ可能性の問題でしかないだろう』なんて、俺のことかばうみたいなこと言い出して。生まれてはじめてっていうか、多分そんときだけだった気がする、俺、本気で父親に感謝したの。
 だけど、監視法、そのまま通っちゃったな。なんだっけ、海外の地震かなにかがでっかく報道されてる間に、気がついたら可決されててさ。親父が、こういう大事な法律はたいてい、ほかに大きなニュースのあるときに決まるんだって、怒ってたの覚えてる。

 ほら、このあいださ、俺とつるんでたら迷惑かかるかもって、言っただろ。
 ――俺、監視されてるんだ。
 そんなずっといつも誰か張り付いてるわけじゃないよ。日本の警察ってそんなに暇じゃないだろ。金もないだろうし、盗聴器とかもないと思う。いっぺん調べてもらったことあるんだ。そういう業者の人にさ。
 見てわかると思うけど、ふだんはほんとに、普通に暮らしてるんだよ。ただ警察の、何ていうのかな、戸別調査? あれがやたら多くて。年に何回も来て。そんなに見張ってなくていいよって、何もしないよって言ってやりたくなるくらいさ。皮肉が通じる相手でもないのはわかってるけど。
 普段はそれくらいのことなんだけど。ただ、何かあったときにさ、たとえば近場で事件があったときとか、まっさきに警察が俺んとこの近所に、聞き込みに来るんだ。
 ふつうさ、ドラマとか警察小説とかだと、家宅捜索って、捜査令状とらなきゃ任意になるじゃん。あれがないんだ、俺。警察来たら、令状なくても、ぜったい拒否できないらしいの。問答無用で部屋のなかのものとか、パソコンとか全部見られて、通信記録とか取られて、家の中ひっかきまわされてさ。
 やましいことないなら別にいいだろって、あいつら言うけど、引っかき回された家片付けんの誰だと思ってんだろうな、ほんと。
 実際に何回か、そういうことがあってさ。
 それでも最初のうちは、馬鹿じゃねえのって、笑ってられたんだよ、そこらへんの普通の高校生が、殺人事件起こしたその日の部活にも当たり前に出てさ、のんきにげらげら友達と馬鹿話なんかしながら帰ってくるって、本気でそう思ってんのかよ、ってさ。
 だけど俺より先に、母親のほうが参りはじめて。
 親父が一緒にいるときはいいんだ。母親しか家の中にいない時間に、俺が部活から帰ってきたりするだろ。そしたら顔見て一瞬、びくってするんだ。それからわざとらしく、あら帰ってきてたの、考え事してて気づかなかった、なんてさ。

 一回、やめろよ傷つくだろって、わざと冗談っぽく言ったんだよ。俺に殺されるとでも思ってるのかよってさ。そしたら、やめてよそんなこと冗談でも言うのって、すげえ怒り出して。でも、そのあとすぐ、目、逸らすんだよ。
 そういうのが、毎日毎日、ちょっとずつ、積み重なってってさ。
 なんだよ、まったく信用してないんじゃん、って。
 最初はちょっと傷ついたくらいのことだったんだけど、何回も続いたら、だんだん、腹立ってきて。別に俺、それまで問題児だったとかでもないのに――そりゃまあ、もともとあんまり気の長いほうじゃないし、たまにはかっとなって怒鳴るくらいのことはあったけど。でも、そんくらいのこと、誰にだってあるだろ。
 なのになんで俺、こんなに疑われなきゃなんないのかなって。
 普段から暴力沙汰とか起こしてたんなら、まだわかるよ。だけど自分じゃ普通にしてたつもりだったしさ、それなのに世間様どころか母親からまで、毎日そんな目で見られ続けたらさ。
 ――親父が、母さんを責めるなって言うんだ。最初に警察が来てからずっと、近所の人からちょっと変な目で見られたりしてたから。それで母さんもいまちょっと参ってるんだって。母さんが悪いんじゃない、責めてやるなって。
 じゃあ何だよ、俺が悪いのかよって思ったら、なんか余計に、腹、立ってきて……

 いっぺん、帰ったら家に誰も居なくて、部活帰りで腹へってたから、勝手に冷蔵庫のなか漁って。ハムかなんか見つけてさ。切って食おうと思ったんだ。それで包丁、手に持ってたら、そこに母親が帰ってきたんだよ。
 間が、悪かったんだよな。
 息、飲むのが聞こえたんだ。ほんとに一瞬なんだけど、逃げるみたいに、後ずさりして。
 そんとき、ああもう無理だって思ったんだ。
 このままだと、いつか俺、ほんとにこの女のこと殺したくなるんじゃないかって――

    *
 すぐ近くで大きな車が止まる音がして、インターフォンが鳴った。
 金縛りから解けたように、顔を上げた。ずっと身動きひとつできずにいて、気がつけば体中が強ばっている。
 宅配でーす、というのんきなお兄さんの声がして、須田原が玄関に向かった。
 宅急便のお兄さんとのやりとりが、居間までぜんぶ聞こえてきて。もしかしてここは逃げ出すべき場面なんだろうかとか、そんなようなことを、痺れたような頭の隅で、ぼんやり考えていた。いや別に、須田原に何かされたってわけじゃないんだけど、でも。
 ふすまの血しぶきに目が行く。でも、だって。
 動けないでいるうちに、あっさり玄関ドアの閉まる気配がした。須田原がやたらと大きな段ボールを抱えながら、引き返してくる。須田原はなんだかばつの悪いような顔をしていて、
「実家からだった」
 思わず、ぽかんと見上げた。
「――実家?」
「ん」
 須田原は無造作にガムテープをはがして、中身を見るなり、いやそうに顔を顰めた。
 野菜だった。それもタマネギとかジャガイモとかカボチャとか、どこにでも売っているようなものばかり。箱が大きいと思ったら、底の方にはどうやらお米も入っている。
「悪い、ちょっと電話していい?」
「……あ、うん」
 須田原は廊下に出ながら電話を掛けた。声が少し遠ざかって、それでも会話の中身は漏れ聞こえてくる。
「――母さん? 荷物届いたけど。あのさ、気持ちは有難いけど、一人暮らしの男にカボチャなんか丸ごと送って、いったいどうしろっつうんだよ」
 とっさに伝票を見た。須田原いずみ。お母さんの名前なのだろう。住所は隣県の県庁所在地だった。
 ふは、と口から変な笑いが出た。カボチャ。丸ごと。
 それまでの緊張の反動で、やたらと笑いがこみ上げてきて困った。もう、ここまできたら自分に呆れるしかない。何を勝手に怖い想像を膨らませてたんだろう。
 本気で推理小説の読み過ぎだった。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ひとしきり笑ってから、ものすごく気が咎めた。
 須田原はすごく真面目な話をしていたのに、わたしはひとりで勝手に、ひどい想像なんかして。須田原が本当にこの家で、お母さんを殺しちゃったんじゃないかなんて、そんな馬鹿なこと。
 たかだか何年か前にそんな事件があったんなら、いまここで須田原がふつうに暮らしてられるわけもないのに。
「悪い」
 電話を切りながら戻ってきた須田原に、気まずいながらも、どうにか普通に笑いかけられた、と思う。「ここが実家なのかと思ってた」
「え? ああ」
 須田原は目をしばたいたあと、小さく笑った。「違う違う。ちょっと前に祖母ちゃんが死んで、ここ住む人間がいなくなったからさ。――何か変な想像した?」
 したした、と答えながら、ばつの悪いのを吹き飛ばそうとした。須田原は苦笑して頭を掻きながら、野菜の入った段ボールをつついた。
「さっきの話の続きになっちゃうけど。――このまま一緒に暮らしてたら駄目だ、本気で母親殺したくなるかもしんないって、そんとき、けっこう真剣に思ってさ。それでこっちの大学受けて、移ってきたんだ。あいつと一緒に」
 須田原が指さした先の廊下には、いつのまにか、トラ猫が座っていた。
 いつから居たのだろう。ふすまの向こうから半分顔を出したまま、じっとこちらの様子をうかがっていた。お祖母さんが亡くなって、いったんは向こうの家に引き取っていたのを、須田原が移ってくるときにまた連れてきたのだという。
「客がいると、いつも隠れちゃうんだよ」
 これもこいつ、と須田原が指さしたのは、一枚だけ新しいふすまだった。「昔っから気ぃ弱いくせに、なんでかあるときいきなり勢いよく窓から飛び出してってさ、野良と派手に喧嘩して戻ってきて、その勢いでばりばり。これもそんときにやられて」
 笑いながら須田原が袖をめくってみせた二の腕には、まるで刃物でざっくりやったような傷あとがあった。血しぶきはそのときのものだろう。
 わかってみれば、本当に、笑ってしまうような話だった。
「なあんだ。実は、そこ何があったんだろうって思って、ちょっとびびってた」
 口にしてしまってから、ものすごく微妙な発言だったかと思ったけれど、須田原は笑い飛ばしてくれた。

 気がつけば雨はすっかり止んで、雲の切れ間から射し込む夕日は、重く鈍い金色をしていた。それが暗い色の雲とまだらになって、きれいなような、気味の悪いような空模様だった。
 いつの間にか、けっこう長居をしていたことになる。慌てて腰を上げた。
「そろそろ帰るね。ありがと、お茶とかタオルとか、あと漫画も」
 ほっとしたら、なんだかやたらに肩の力が抜けた。ものすごく馬鹿みたいだった。自分の想像力に振り回されて、どんどん怖いことばっかり考えて。
 ぜんぶ朝の夢見の悪さのせいだ。それまで夢のことなんか忘れていたくせに、都合よくそう思うことにした。そのほうが精神衛生上いいような気がしたので。
 気をつけて、とかなんか言いながら、須田原は玄関先まで見送りに来てくれた。
「悪いな、へんな話聞かせて」
 ちょっとばつの悪いような顔でそんなふうに謝る須田原に首を振ってみせて、靴を履いた。本で持ち重りのするショルダーバッグを肩に掛けて、まだ濡れている靴がちょっと気持ち悪いな、なんて考えながら何歩か歩いて、そこで唐突に、
 なんでそこで余計なこと、考えちゃったんだろう。
 それこそ、朝の夢見が悪かったせいかもしれない。それともおかしな色の夕焼けのせいで不安になったとか、そういうことなのかも。
 本当かな、と、思ってしまったのだ。
 だって須田原がほんとうにお母さんに電話をかけていたどうかなんて、わからないじゃないか、なんて。
 まるで刃物にやられたみたいだと思った二の腕の傷も、ほんとうに刃物なんじゃないのかとか。もみ合ううちにどうにかなって、自分の持ってた包丁で怪我をしたとか、
 ここの庭にはひとりぶんの死体くらいじゅうぶん埋められる広さがありそうだとか、
 そういう益体もないことを、考えてしまったのだ。
 須田原がハハオヤというときのあの硬い声音は、離れて暮らすようになって和解したというには、ちょっと冷たすぎやしなかっただろうかとか、そういうことを。
 たとえばだ、たとえば秘密を誰かに打ち明けたくなって、だけど途中で犯罪の告白に耐えられなくなって、話をすりかえてごまかしたとか、そういうことは。
 たとえば、いま振り返ったら、須田原が刃物を手にそこに立っていたりとか、そういうことは。
 ――くだらない想像だ。
 冷静になって考えたらすぐにわかる。それはものすごく馬鹿げた、馬鹿すぎる妄想だった。だってそのために須田原は、前もって宅急便に野菜の仕込みをして時間指定で配達させたことになる。途中で告白をやめたくなったときに、わたしをごまかせるように、ただそのために。
 そもそもこの家にお邪魔したのだって、急な雨が降ったからだし、須田原にそんなことが前もってわかっていたはずがない。ほら、無理がある。
 だけど一瞬、ほんとうにその一瞬、魔が差したとかしか思えないようなそのくだらない考えに突き動かされて、つい、振り返ってしまったのだ。
 そうしたら、まだこっちを見送っていた須田原と、目が合った。
 わたしはいったい、どんな表情をしていたんだろう。
 須田原は顔を強ばらせて、無言のまま、わたしを見つめかえした。
 そのまま見つめ合っていたのは、ほんの何秒かのことだったと思う。
 やがて、ふっと笑って、須田原は目を伏せた。
 色んなことを諦めたような、どうしようもない笑顔だった。
 その顔を見てわたしはようやく、自分が絶対にやってはいけないことをしたのだということに気がついた。

 須田原はすぐに顔を上げて、何もなかったかのように、笑って手を振ってくれた。わたしもすぐに表情を取り繕って、笑い返した。それでももう、取り返しがつかないのだということは、わかりすぎるくらいにわかっていた。
 この日の、この瞬間のことを、わたしはこの先ずっと後悔するだろうと思った。
 たとえば次の日に大学で須田原をつかまえて、昨日はごめんねなんて言ったとしても、須田原はあの愛想笑いでフタをして、何のことだよとかなんとか言って流すだろう。これからも話しかければ、笑って返事をくれるかもしれない。だけどその目尻には、あの見慣れた皺はない。もう水曜日に図書館で会っても、須田原が視線でカフェのほうに誘ってくることはないし、それは多分、わたしのほうもそうなのだ。
 これから先、ニュースで殺人事件が報じられるたびに、わたしはまさかと思いながら、テロップに知った、ちょっと珍しい名前が入っていないか、つい目で探してしまうだろう。違うとわかればほっとしながら、そのたびに小さくない罪悪感に苛まれるだろう。
 もし本当に、そこによく知った名前が登場するようなことがあったとしたら、わたしはそのとき果たして、自分のことを許せるだろうか。

 いくつか、あとになって気がついたことがある。
 須田原の人当たりがいいのはおそらく、わたしみたいに要領よく生きてゆくためなんかじゃなくて、何か身の回りで事件があったときに、あいつならやりかねないなんて、そんなふうに言われないためだということ。
 あんなふうに屈託を抱えていながら、それでもお母さんから荷物が届いたら律儀に電話するような、優しい男の子だったということ。
 親しくしていたらわたしにも迷惑がかかるかもしれない、なんてことまで気にしていた須田原は、あの話をわたしに打ち明けるかどうか、たぶん、ぎりぎりまで迷っていた。

 とりかえしのつかないこと、というのが、世の中にはある。
 これは、そんなこともわかっていなかった、救いようもなく馬鹿だった七月のわたしの話。

   (終わり)

拍手する



2話へ  小説トップへ


inserted by FC2 system