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 ――きみが好きなんだ、と、そういった彼の声は震えて掠れ、誰もいない廊下の空気中に、すうっと吸い込まれていった。
 面食らった。彼の気持ちがまったく予想ができなかったというわけではない。前からなんとなく、察してはいた。
 それでも、いつまでも何もいってくる気配もないし、何なら私から口説き落としてもよかったのだけれど、いつも揺れるまなざしで、何かいいたそうにしていたから、待っていた。大学の入学式の少しあとから、ずっと。そうしているうちに二年生になり、春が過ぎ、夏も終わって、秋の風が冷たくなってくるころになって、ようやく彼はその言葉をいった。
 だから意表をつかれたのは、言葉そのものにではない。その思いつめたような、必死さのほうにだった。
 ――だけど、と、彼は続けた。わずかに目を伏せて。唇を何度も湿して、ためらいためらい、なにか、愛よりもよほど重大な告白をするかのように。
「ぼくは、君にさわれない」
 は? と、間の抜けた声が自分の口からこぼれた。
「さわることができないんだ。君に、だけじゃなくて、誰にも」
 私はぽかんとしていた、のだと思う。彼はうすい唇をかみしめるようにして、男の子にしては小さな手を、そろりと、私のほうに伸ばしてきた。
 わりと小柄で、手足も顔も小作りな彼だけれど、指は長くて、きれいなかたちをしている。その指先が、私の手のすぐそばまで伸びてきたので、私はそれを、とっさに掴もうとした。
 そうしたら、彼はびくっとして、熱いものにでも触れたように(実際には、触ってもいなかったのだけれど)、慌てて指を引っ込めた。
 私たちの間に落ちた沈黙は、気まずかった。しばらく言葉を失ったあと、私はようやく、口を開いた。
「それは、どういう」
 冗談なの、と続けようとした言葉を、私は飲み込んだ。思いつめたような彼のまなざしが、ぜんぜん冗談をいっているふうではなかったので。
「自分でも、理由がわからないんだ」
 彼は、きつく拳を握り締めながら、視線を落とした。情けない己を恥じるような、あるいはなにかが悔しくてたまらないというような、その力なく落ちる肩の線を、私はまだどこか、唖然として見つめていた。
 ――でも、と、彼はいった。
「君のことは好きなんだ。……ほんとに好きなんだ」
 そういう彼は、泣き出しそうに見えた。男の子のくせに、と、私はとっさに思ったけれど、口にはださなかった。そのかわりに無言で、すっと手を伸ばした。
 彼はびくっとして、半歩を後じさる。私はそれを追いかけるように、彼に近づく。彼はまた下がる。
 彼の足取りは、それでも、一目散に逃げ出さないように、意志の力でどうにか体を抑えていると、そういうように見えた。
 壁に彼の背中があたったところで、有無をいわせず、すばやく彼の手を握ってみた。これではなんだか、男女が逆じゃないのかと思いながら。
 彼は悲鳴を上げて、火がついたように、手を振り回した。哀れっぽい声だった。何か、恐怖映画で幽霊か怪物に迫られたヒロインみたいな激しい勢いだった。
 ぱっと手を放して、私は一歩、後ろに下がった。彼は荒い息をついて、ひどく青ざめながらも、どうにかそこにとどまっている。
 からかわれているのではないかと、気持ちのどこかでは、まだ少し思っていた。ドッキリじゃないけど、中学生よろしく誰かと結託して、手の込んだ冗談で私をおちょくろうとしているのではないかと。
 けれど、目の前にいる彼には、どこをどう見ても、そんな余裕はないように見えたし、彼と結託した第三者らしき気配が、廊下のどこかにもれているというわけでもなかった。
 それにたしかに思い返してみれば、彼が、私も含むほかの人間や、親しくしている友達と、ふざけて小突きあったり、じゃれあったりするところは、一度も見たことがないのだった。
 それでも思わず、聞き返した私は、意地悪だろうか?
「きみが、私のことを、何だって?」
 彼は口ごもって目を伏せたが、それでも、逃げ出す気配はなかった。しばらくの躊躇のあとに、ごめん、とその唇が弱々しく動いた。
「信じてくれないかもしれないけど。でも、小さいころから、ずっとこうなんだ。気が付いたときには、自分の親にも、ぜんぜん触れなかった」
 なにか、途方もない恥を吐き出すように、彼はいった。
「こんなんだから、ぼくは一生、誰も、好きになんかなれないと思ってた。でも」
 でもと、二回繰り返して彼は言って、口ごもった。私はなんだかその必死さが気の毒になって、ゆっくりと頷いた。彼はそれに勇気付けられたように、震える声で、話を続けた。
「もしかして、君のことなら触れるんじゃないかと思った。手をにぎるチャンスを探してたんだ、気づいてたかもしれないけど」
 私は頷いた。しっていた。一緒に映画を観にいったとき。皆と飲みにいって二次会に移動する途中、皆から少しだけ離れて歩きながら話したとき。講堂に残って喋っていて、最後の二人になったとき。でも、彼は結局、いつも何もしなかった。
「できなかった。好きなのに、気持ちでは、ふれたいと思うんだ。でも、実際にそうしようとしたら」
 彼は言葉を切ると、息を詰め、おずおずと私のほうに手を伸ばして、またすぐに慌ててその指先を引っ込めた。
「……あきらめようと思ったんだ。何回も。でも、どうしても」
 どうしても君が、と、彼は二度いって、目を伏せた。その声の震え方が、可哀想だった。
 うん、と、私は頷いた。
 それから少し、考えた。
「話はわかった」
 私がそういうと、彼はぱっと顔を上げて、疑りぶかいまなざしで、私の顔を覗き込んだ。本当にいまの話を信じたのかと、そういう目だった。いつか誰かに、信じてもらえなくて苦しんだことが、あるのかもしれなかった。
 私は彼の着ているシャツの袖に、そうっと、ゆっくり、手を伸ばした。彼は逃げなかった。身を縮め、じっと固まって、恐怖心を抑えているようだった。
 指が、長袖の上から、しずかに彼の腕に触れた。彼は逃げなかった。緊張して息を詰めているのが、よくわかった。鼓動が聞こえそうだ。
「服の上からなら、大丈夫なんだ?」
「直接さわる、よりは」
 震える声で、彼は答えた。まったく平気というわけではないらしかった。それでも彼は、じっと固まっていた。
 じんわりと、服越しに熱が伝わる。
「うん。……ね、付き合おうか、私たち」
 いうと、彼は驚いたように顔を上げた。口をぱくぱくさせて、なにか言葉をいいかけて、また飲み込んだ。私は彼の袖から手を放さないまま、じっと待った。
「だけど」
「だけど?」
「……もしかしたらぼくは一生、この……病気、を、克服できないかもしれない」
 病気、と、無理やり抵抗をのみくだすようにして、彼はいった。その声の調子だけで、彼がどれくらいこのことで悩んできたのか、わかるような気がした。
 うん、と私は頷いた。
 彼はしばらく、黙り込んでいた。それからゆっくりと、ためらうように、唇を開いた。
「でも、手も握れないし、キスもできないし、それに」
 自分から告白してきておいて、ずいぶん臆病ないいぐさだった。私はそれを遮るように、かぶせていった。
「でも、デートはできるし、いっしょに生活もできるし、結婚もできる」
 彼は口を噤んだ。それからおそるおそる、いった。
「それで、いいの?」
「いいかどうか、わかんないけど」と、私は答えた。
 それは、同情だっただろうか? 自分ではよくわからなかった。彼を気の毒だと思っていたことはたしかだ。だけど、それだけでもないつもりだった。
 私だって、いつかは結婚したいし、子どもだってほしい。彼のその病気、が、いつ治るのか、いつか治るものなのか、まるで見当がつかないのを考えたら、馬鹿な答えなのかもしれなかった。
 でも私だって、前から彼のことが好きだった。彼の、あんまり男の子らしくないやわらかい話し方が。穏和なまなざしが。ノートをとるときに長い指がなめらかにペンを運ぶ手つきが。人のためにドアを開けて支えたまま待つときの、丁寧でゆっくりしたしぐさが。そのひとつひとつが。
 だけどそこに、同情が少しでも含まれていたら、やっぱり彼と交際しようというのは、間違いなんだろうか。少なくとも、手も握れない恋人なんて、不健全で非建設的な関係だろうか。私には、よくわからなかった。
「わかんないけど、君と一緒にいたいよ」
 彼は唇を引き結んだ。それから慎重に、ゆっくりと手を伸ばして、私の手を握るかわりに、私の服の袖口を握った。
 私は思わずちょっと笑ったけれど、袖が伸びちゃうよ、とはいわなかった。彼の伏せた目蓋から、堪えそこなったような涙が落ちるのが見えたから。
 私は愚かだろうか。
 だけど彼の、君のことが好きだといったあの声の切迫した響きに、必死の手つきで私の袖を掴んできた指先の、かすかな震えに、思いつめた熱を孕んだまなざしに、ほかにどうしようがあっただろう。
「私も、君のことが好きです。つきあってください」
 あらためてそういうと、彼は言葉を詰まらせて、ゆっくりと頷いた。何度も何度も頷いた。私はそれに頷き返して、彼につられてちょっと泣きながら、やっぱり男女が逆だと、小さく笑った。

(終わり)

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お題:「切迫した」「結託した」「結婚した」
縛り:「ちょっと変わった恋愛関係が出てくる(任意)」


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