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 十九時四八分、『彼女』は一軒のスーパーの前に立っていた。季節はもう春だが、寒の戻りと言うやつか、昨日からやけに風が冷たい。道行く人々は、慌てて引っ張りだしたらしい季節はずれの冬物を着込んで、足早に行き交っている。時おりびゅうと吹き付ける風に、わずかに混じる雨滴が、ますます体温を奪っていくようだ。
『彼女』は困り顔で、何度もスーパーの中を覗き込んでは、落ち着きなく辺りを見回していた。そんな『彼女』の挙動を不思議に思うらしい人々が、『彼女』に目を留めては足を緩め、迷い迷いしながらも通り過ぎていく。あるいはわざと『彼女』の姿を見ようとせず、視線を逸らしてますます足早に行き過ぎる。
『彼女』はそんなふうに自分が悪目立ちしていることに、まるで気付いていない。ただ心配げに、何度も店内を覗き込んでいる。
 どうやら『彼女』は、店内にいるはずの誰かを探しているようだった。中に入ればさぞ暖かいだろうに、そうしようとはしない。ただ落ち着きなく視線を彷徨わせながら、何度となく店内を眺め、二の足を踏んでいる。

 二二時三十分、彼は帰宅途中にスーパーの前を通り掛かり、溜め息を吐いた。時間が遅いだけあって、店内に人気は少なく、手の空いた店員が掃除を始めている。
 彼は背広の尻ポケットから薄くなった財布を取り出し、その軽さにどきりとしながら、ちょっと目を閉じた。アパートの部屋を思い出す。もう米の買い置きは無い。給料日まであと半月。財布の中身は、どう節約しても一週間が限界というところだ。
 昨日の夜、急に上司から呑みに誘われ、断りそこなった。「やあ、今、金ないんすよ」冗談に紛らせて言ったが、彼の上司は本当に冗談だと思ったようだった。たまに仕事が早く終わるたびに、すぐ家に帰るのが嫌で部下を誘う課長には、誘った以上は会計を持とうという切符のよさは、持ち合わせがないようだった。
 仕方なく彼は今日の昼休み、会社を抜け、近くのATMに並んだ。もう預金残高が少ないという自覚はあったが、手持ちがなくてはどうしようもないので、とりあえず五千円だけ下ろそうとした。
 一人暮らしも長い彼にとって、ATMの操作は慣れた手順だ。何も考えずにタッチパネルに触れて、引き出し、五、千、と入力し、確認ボタンを押した。
 エラーが出た。
 何が起きたか分からなかった。彼はしばらくその場で固まっていたが、後ろに並ぶ人々の殺気立った視線に気付き、とりあえず列を離れて、そこでようやく気付いた。たったの五千円さえ、口座には残っていないのだ。
 初めは何かの間違いじゃないかと思ったが、いつも給料はカードで降ろしていて、明細票もろくに見ていなかった。通帳は長いこと記帳していない。自分が携帯や公共料金の引き落としの日付さえ把握していない事実に気付いた頃、鈍い納得がじわじわと胸に広がっていった。
 あらためて並びなおして、ATMの画面をよく見ると、残高は五百円あまりだった。彼は思わず他人事のように笑ってしまって、それから真顔になった。ATMの前を離れながら携帯を出して、日付を確認した。給料日までは間違いなく、あと十五日あった。
 実家に頼るべきか。出来の悪い息子が飢え死に寸前と聞けば、米くらいなら送ってくれるだろう。彼はちらりとそう思った。だがそこには、東京で無理に一人暮らしを続けるよりも、実家の酒屋を継いで嫁でも貰えと、そんな説教がついてくるに違いない。お断りだった。上京したのは、若さゆえの都会への無責任な憧れなんかではない、地元に職が無かったせいでもない、郷里の水がどうしても合わなくて、やむなく飛び出してきたのだ。今さら戻る気はない。
 彼は冷たい風の吹くスーパーの前で、肺から空気を搾り出すような溜め息を吐いた。そうすると、無性に煙草が吸いたくなった。無意識に胸ポケットを探ったが、それも残り少ないのを思い出して、彼はますます肩を落とした。あと半月、食うにも困ろうかというのに、煙草を買っている場合ではない。それよりも、できるだけ安くて腹持ちのするものを買うべきだ。カップ麺とか賞味期限の近い安売り品とか、そういうものを。
 とにかく、部屋には食糧がないのだ。いくら財布の中身が寂しくても、何かは買わなければならない。スーパーに入ろうとする彼の頬を殴るように、小雨交じりの風が吹き付けた。冬が戻ってきたような、ひどく冷たい風だった。

『彼女』は何時間も待ち続け、疲れきっていた。いつまでも待ち人は現れず、スーパーの前を離れるに離れられない。ただ待つということが、こんなに心細かったことは今までなかった。
 冷たい風の吹く屋外にもかかわらず、思わずうとうとしかけていた『彼女』は、覚えのある匂いに気付き、はっと顔を上げた。待ち人がようやく来たのかと思ったのだ。
 だが、違った。振り返った『彼女』の視線の先には、見覚えの無い男がしょぼくれた背中を見せているだけだった。見れば、待ち人とはまるで似ていない。似ているのは、待つ相手がいつも吸っているのと同じ、煙草の匂いだけだった。
 くたびれた男は、ふらつくような足取りで店内へ入っていった。『彼女』はそれを見送ると、また俯いた。
 いったいどうしたのだろう。「いい子で待ってるんだよ」と言って、ちょっと困ったような笑顔で『彼女』の頬を撫でて、あの人は中に入っていった。それからもうどれくらいの時間が過ぎたのか、中でトラブルでもあったのだろうか。『彼女』は気が気ではなかった。だが、中には入ってこないようにと、あらかじめ厳しく言い渡されていた。その言葉に従うほかない。
『彼女』は思わずうろうろと歩き回って、明るい店内を何度も見た。だんだんと行き交う人の数も少なくなってきた。スーパーの明かりに惑わされて気付いていなかったが、夜空はすっかり黒く塗りつぶされている。こんな時間まで、どうしたというのだろう。
 でも、あの人はここから入っていったのだから、待っていればここから出てくるに決まっている。『彼女』はそう思い直して、静かに待つことにした。このスーパーの南側に、もう一つ出入口があることを、『彼女』は知らない。

 彼は安売りのカップ麺だけを手にとって、とぼとぼとスーパーの出口に向かった。普段ならば買い物に時間をかけたりしない。さっさと買いたいものを買って店を出る。だが、今日ばかりは選択を間違えると命に関わると思った。何度もあちらこちらのコーナーを往復して、真剣に値札を見比べた。商品のカロリー表示まで食い入るように見たのは、人生で初めてのことかもしれない。
 たかがカップ麺を買うのに、三十分ほど粘ったところで、彼はようやくレジで待機する店員の迷惑そうな視線に気付いた。もう閉店時間なのだ。そうして見渡せば、客は他に誰もいなかった。別の店員が入口近くを掃除しながら、シャッターを下ろしたそうにしている。赤面しながら彼はレジに急いだ。
 三七八円です、と淡々と告げる店員の声が、どことなく冷たい気がするのは、聞く方の問題だろうか。安い買い物で粘りやがってと、顔には出さなくてもそう思われている気がして、彼はそそくさとレジの前を離れた。
 レジ袋をガサガサさせながら、店を出ようとしたそのとき、彼はようやく『彼女』の存在に気付いた。彼の視線を感じたのか、『彼女』の黒くつぶらな瞳もまた、ふっと彼の方を見上げた。『彼女』は一瞬何かを期待するような顔をして、それからすぐにがっかりしたようにそっぽを向いた。
 人の顔を見るなり、失礼なやつ。彼はちょっと顔を顰めたが、『彼女』はそんなことはお構いなしで、がっくりと項垂れている。あまりにしょげかえった様子に、彼は困惑して、何となく立ち止まってしまった。
「あれ、まだいたのか、お前」
 シャッターを下ろそうと待機していた店員が、困ったようにそう言った。「そっか、飼い主が置いていったんだな……」
 背後で、店内の電気が半分落とされた。『彼女』は項垂れるのをやめて、自動ドアの前から店内を見渡した。だが、『彼女』が探す相手は、きっと中にはいない。たった今、閉店間際の最後の客だった彼には、それが分かった。
 だからといって彼に何が出来るわけでもない。部屋に連れて帰るわけにもいかない。彼は『彼女』から気まずく視線を逸らした。
 他の店員たちも事態に気付いたのか、何人かが集まってきた。
「どうします?」
「どうするったってなあ……確信犯だろうしなあ」
 困惑したように話し合う店員たちの声を聞きながら、彼はスーパーの前から立ち去ろうとした。自分にはどうしようもないのだからと、何度も口の中で呟きながら。
「交番……いや、保健所かな」
 彼の耳がぴくりと動いた。だが、それでも振り返らずに、彼は一歩前に足を進めた。自分も食うや食わずやのときに、何ができるだろう。
「可哀相じゃないっスか」
「うん、でも交番に連れて行っても、結局は保健所行きなんじゃないかな。飼い主がわざと置いてったんならさ」
 責任者らしい男が、後ろめたそうにそう言った。彼は背を向け、耳を塞いで通り過ぎようとした。
「でも、そんなことしたら……」
 最初に『彼女』に気付いた店員が、焦ったような、憤るような、そんな声を出した。「保健所って、引き取る人がいなかったら、薬殺とかするんでしょ」
 振り返るまい、と、彼は思った。振り返ってしまったら駄目だ。
「なら、お前が連れて帰るか?」
「あ、いや、うちはお袋がアレルギーなんスよ……」
 店員達の間に、気まずい沈黙が降りた。彼は自分の足が止まっていることに気付いた。振り返ってはいけない。財布の中身を思い出そうとした。目を閉じて、瞼の裏に三桁だった通帳の残高を目に浮かべた。
「きりがないんだよ、こういうのは。可哀相に思ってもさ」責任者が、何かを宥めるような口調で、そう言った。

 彼女は頭上を飛び交う人間たちの会話をよそに、その場に伏せた。お腹がすいたし、とにかく寒かった。暖かい場所に移りたかったが、彼は待っているように、と言ったのだ。勝手に動くわけにはいかない。兄弟たちの中で、『待て』は彼女が一番得意だった。目の前に大好きなおやつがあったって、『よし』の合図まで、何時間だって、じっと堪えることができる。
「無責任だよな。飼い主ってのはさ、自分たちの都合だけで好き勝手言って」
 誰かがそんなことを言いながら、首輪をぐいと引っ張ろうとしたので、彼女は抵抗してさらに低く伏せた。
「ほら、いい子だから、こっちにおいで」
「ごめんな」
 あくまで動こうとしない彼女を見て、他に二人いた男たちが、加勢に回るようだった。彼女は苛立って、低く唸った。手の主は怯んで、半歩ほど下がった。それでも彼女の首輪から手を放そうとはしない。
「怒るなよ、しょうがないだろ。恨むならお前のご主人を恨んでくれよな」
 彼女はさらに唸った。吠えようかとしたそのとき、覚えのある匂いが鼻をくすぐった。
「あの」
 彼女は伏せたまま、横目で振り返った。
「ドッグフード、ありますか」

 小学生の頃、実家で犬を飼っていた。がさつな父親がろくに確かめもせずにシロという名前をつけたが、白い毛並みが上品な、きれいな牝犬だった。
 そんなことを思い出しながら、彼はレジ袋を引っ繰り返した。カップ麺が三つと、手のひらサイズのドッグフードの缶詰が三つ。
 大袋入りのドライフードを買うだけの金もなかったので、本当にとりあえずのつもりで、ひとつだけ買って帰ろうとした。閉店前に粘る客に嫌な顔をしていた店員たちも、一様にほっとしたような表情で彼の買い物を待っていた。出際、母親のアレルギーがどうこうと言っていた店員が、小走りに彼を追いかけてきて、無言でもう二つ、同じ商品を彼の手に押し付けてきた。「すんません」小声でそう言って目を伏せる相手をまじまじと見ると、まだ少年といっていいような年だった。
 彼女はその間も、じっと入口の傍で伏せていた。「待て」を命じられているのだと、気付かなければいいのに、気付いてしまった。我慢強く待っている記憶の中のシロと、彼女のじっとうずくまる姿が、重なってしまったのだ。
 やらなければいいのに、彼は試しに「よし」と声を掛けた。それから彼女の頬を包むように撫でた。それでも彼女が抵抗すれば、どうしようもないと自分に言い聞かせる口実になると思った。
 だが、くうーんと鼻を鳴らした彼女は、ちょっと戸惑った様子を見せたあと、やがて彼の後をついておとなしく歩き出した。それでようやく、覚悟が決まった。
「よしよし、ちょっと待っててな」
 彼は彼女の頭を撫でて、缶詰の蓋をあけた。彼女は小声でくうんと鼻を鳴らしただけで、吠えはしなかった。明るい部屋でよく見れば、どことなく賢そうな顔をしている。
 ペット用品なんか持っていないから、とりあえず自分の皿にドッグフードを開けて、「よし」と言うと、彼女は勢いよく鼻を突っ込んだ。店員の話によると、夕方からずっとあそこにいたそうだから、腹が減っていたのだろう。その食いっぷりを見ながら、彼は苦笑を漏らした。自分の食べ物にも事欠くのに、とんだ酔狂だ。
 部屋はあたりまえだが、ペット禁止だ。大家に泣き落としを掛けたら、いっときでも置いてもらえるだろうか。吠え癖はないようだし、こっそり飼って真夜中に人目を避けて散歩するのと、どちらが賢い選択だろう。彼は首を捻りながら、部屋を見渡した。
 持ち合わせはないが、オーディオでもCDでも、少しでも金になりそうなものは、とりあえず質に入れるか売るつもりだった。古着屋はこのあたりにあっただろうか。そうやって給料日までなんとかしのいで、いつか余裕ができたら、少しずつ買いなおせばいい。
「裸一貫、ってか」
 言いながら、彼は苦笑した。それは言いすぎか。部屋を追い出されたわけでもない。少なくとも今はまだ。
 彼の独り言に、彼女が鼻面を突っ込んでいた皿から顔を上げて、不思議そうな表情になった。

 彼女は煙草の匂いの混じる畳の部屋で、おとなしく座って、彼が缶詰を開けてくれるのを待っていた。
 ここまで来る道々、「静かにしてるんだぞ」と言い含められていたので、唸ったり吠えたりはいっさいしなかった。難しいことはともかく、人間の話すことは、大体分かる。
 男は皿に缶詰を開けると、「よし」と彼女の首を柔らかく叩いた。朝ごはんを最後に、何も食べていない。とにかく空腹だった。彼女はむさぼるように食事を摂った。ドッグフードは、偶然かどうか、昨日まで出されていたものと同じだった。
 彼女がドッグフードを食べ終わって皿を舐めていると、頭上で男がぽつりと呟いた。
「裸一貫、ってか」
 彼女は不思議になって、皿から顔を上げた。男は一人で苦笑している。
 人間の言葉はだいたい理解できるが、ときどきよく意味が分からないと、彼女は首を傾げた。裸で何が悪い。



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任意のお題:「金魚すくい」「可愛いと思うのです」「もなか」(使えず)
縛り:最初の一文を「一九時四八分、『彼女』は一軒のスーパーの前に立っていた」で始め、最後の一文を「裸で何が悪い」で終えること。


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