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 東の空に、僅かに薄雲がかかっている。五月も後半のことだ。日が昇れば暑くなるだろうが、まだ夜も明けきらない今は、むしろ冷え冷えとしている。
 深夜からずっと河べりをひとり、とぼとぼと歩いている。川幅は広く、昨日の夕方まで雨が降っていたからか、水かさは高い。
 ゴミの浮きつ沈みつする濁った川面にときおり銀色の鱗がきらりと跳ねる、その煌きをぼんやりと眺めては、また視線を前に向ける。土手に沿って張り巡らされたガードレールはあちこち錆を食い、居眠り運転の車でも突っ込んだのか、何箇所もひどく折れ曲がっている。
 何百メートルか歩くたびに気力が尽き、そのたびにガードレールにもたれて休む。座っていることに疲れると、また立ち上がる。そんなことを繰り返して、見知らぬ町をどれだけ歩いたのだろう。帰るあてがない道行きに、心細いような、果てしなく自由なような、その二つの感情が交互に訪れて、その振幅の大きさに疲れ、また足が止まる。
 どこにでも行ける。そんなことを時々胸のうちで呟く。
 でも、どこに行こう。
 鳶だろうか鷲だろうか、鳥の種類などまるで分からないが、ともかく小さな黒い影がひゅうと川面を浚う。目当ての獲物を捕らえたのだろう、一瞬銀色の煌きを跳ね上げて、意気揚々とまた空へ昇って行く。その軌跡が潔い。
 鳥は生きるために迷うことなどないのだろうか。

 早暁の薄暗い道に似合わない、赤い灯が視界を掠め、顔を上げると、いまどき見ないようなレトロな赤提灯が揺れている。いつの間に繁華街に足を踏み入れたのかと、思わず辺りを見回すけれど、何をどう見ても周囲は古びた家屋の連なる住宅街で、道行く人もいない。当たり前だ、犬の散歩をするにもまだ早すぎる。
 だが赤提灯は幻でも何でもなく、近づけば、道路の端にちんまりと、屋台が煮炊きの煙をほのかに燻らせている。
 ふと風向きが変わって、匂いが流れてくる。味噌ラーメンだ。
 一晩中忘れていた空腹の虫が、匂いにつられて目を覚まし、盛大に騒ぐ。帰る場所はないが、薄い財布なら尻ポケットに入っている。ラーメン代くらいはあるだろう。

 近づいてみれば赤提灯はとうに煤け、屋台骨は歪んでひん曲がっている。斑に色あせた暖簾をくぐると、狭いカウンターと三つばかりの席があり、品書きも何も見当たらない。愛想の無い老人がぎょろりと一瞥をくれたきり、手元に視線を戻して鍋をかき回している。いらっしゃいのひと言もない。
「味噌ラーメン、一つ」
 それだけ頼めばとりあえず間違いないだろうと注文しても、老店主は僅かに頷くばかりで、復唱もしなければ愛想のひとつもない。
 ぼけっと待っているうちに、どこか遠く、おそらくは河の向こう側で、静寂を破るように鶏が意気揚々と鳴いて、それに釣られたように、今度は犬が吠え出す。一匹が吠えれば、それに対抗心を煽られるのか、また違う声音の吠え声が続く。それに何だか分からない鳥の声が割り込み、河の向こう側はずいぶんと賑やかにしているようだ。鶏に呼ばれてそろそろ気の早い家々の灯りがともり始め、炊事の煙が上がるのだろう。暖かそうな台所の想像が、当て所のない我が身をますます寒々しく思わせる。

「ラーメン一丁」
 ようやく初めて口をきいて汁を飛ばさんばかりにどんと器を置く親爺の、低く野太い声にも動作にも、商売気などありはしない。もっともそんなものがあるなら、もう少し繁華な通りに屋台を引いているに違いないが。
「いただきます」
 律儀に手を合わせ、一口啜ると、味よりも何よりもまずその熱さがじんと沁みるようで、空腹よりも寒さが体にこたえていたのだと、ようやく気付かされる。親爺が何も言わずにどんと置いた水のコップはふちが欠けていたが、何も言わずに飲むことにする。
 腹がくちくなった途端、強烈な眠気が襲ってくる。どこか素泊まりのホテルか旅館を探そうかと考えるうちにも、一瞬、意識がどこかに飛んだようで、ラーメンに顔を突っ込む寸前ではっと目が開き、慌てて首を振る。親爺はそういう主義なのか、それともただの偏屈なのか、何も話しかけてこない。なにやら背を向けて一心に仕込みを続けている。
 麺を啜っていると、背中の方からアスファルトをこつこつと高く叩く、おそらくはヒールの靴音が近づいてくる。こんな時間に? 耳を疑って思わず振り向いたところに、ビジネススーツの女が腰を屈め、暖簾を潜っている。上等そうなスーツをぴしりと着こなしていて、いかにもやり手のように見える。何本ものピンでまとめている髪からは、後れ毛の一本もはみ出していない。その今から商談か会議にでも出ようかという堅い身なりと、小汚いラーメン屋の取り合わせが、まるで現実感がない。
 ラーメン、とだけ女が声を掛ける。常連なのか、あるいはそもそもメニューが味噌ラーメン一種類しかないのか、親爺は微かに頷いただけで何も言わずに手を動かし、女も背筋を伸ばしたまま、じっとその動作を見つめている。
 女の、よく見れば薄く小さな肩は、スーツという名の戦闘着に鎧われて、実際よりも大きいように見える。上品な手つきで箸を割った女は、器を手に持って無言でラーメンを啜りはじめる。まるで音も立てず、しかし優雅な仕草のわりには矢鱈な早食いで黙々と食べる。その食いっぷりを見ているうちに、つられて自分もまだ腹が減っているような気がしてくる。
「こっちにも、もうひとつ」
 思わず老店主に声をかけると、女はちらりとこちらを見たけれど、すぐに視線をラーメンに戻して、まるでこれを食べねば戦に向かえないとでもいうほどの真剣さで、引き続き器用に麺を啜り込み始める。
 夜明け前の時間にぴしりとしたスーツ姿で、こんな寂れた住宅街の屋台で、背筋を伸ばしてラーメンを啜る女。いったい何者だろうか。疲労で回らない頭でそんなことを考えるうちに、相手はさっさと食べ終えて、小銭を置いて出て行ってしまう。
 その颯爽とした足取りと、ぴしっと背筋の伸びた後ろ姿が、やはり決戦に向かう兵士のように見え、行き場さえ定めきれずに迷っているのは自分ばかりかと思うと、つい溜め息が漏れる。
「辛気臭えツラだな、そんなに不味いか」
 気付けば老店主が器を洗う手を止めて、ぎょろりと睨みつけてきている。慌ててかぶりを振るが、親爺の眉間の不機嫌そうな皺は少しも緩まない。
「おいしいです。さっきの溜め息は、そうじゃなくて」
 言い訳がましく首を振りながら、肩が落ちる。「そうじゃなくて……」
 遠く、微かな振動と、踏み切りの音が聞こえる。始発が動き出したのだろう。店主は黙って止まっていた手を動かし、皿洗いに戻る。
「運命を感じたことって、ありますか」
 何を口走ってるんだろうな。言いながら、自分で可笑しくなってくる。
「ねえよ」
 無視されるかと思いきや、老店主は顔も上げないで吐き捨て、たいして興味もなさそうな顔で、鍋の火を調節している。
「一目で、夢中になったんです」
 本当に、自分は何を言っているんだろう。見知らぬ人間にこんな愚痴を零して、何がどうなるというのだろう。だが、一度口から零れ始めた言葉は、なかなか止まらない。
「ようやく会えたと、思いました。どうしてもっと早く、妻よりも先に、彼女に出会えなかったのかなんて、そんなことを嘆いて」
 言いながら、顔を上げられない。老店主は何も言わず、ただスープをかき回す音だけが聞こえる。呆れているだろうか。
「彼女が笑うと、それだけで幸せでした」
 彼女と一緒にいる間は妻のことは頭から消え、彼女があの鳶色の瞳にときおり浮かべる深い苦悩の色に堪えられず、問い詰めて事情を聞きだして、騙されて借金を背負っているのだと聞けば居ても立ってもいられず、妻の目を盗んでこっそり通帳を持ち出し、それでもまるで追いつかなくて、そして――
「妻に顔向けできない」
 彼女に頼まれて保証人になり、「貴方のためなら何でもする」と感極まって泣いたはずの彼女と、じきに連絡が取れなくなって、部屋を訪ねてみればもぬけの殻。そこでようやく我に返ったはいいけれど、家に戻って妻の顔を見る勇気はとても湧いてこない。とっさに駅で目に付いた電車に飛び乗って知らない町へ来て、何のあてもなくふらふらと川辺を歩き通しながら、今も胸のうちのどこかで「これは何かの間違いだ」と思っている、自分の馬鹿さ加減に呆れるほかない。
「で?」
 黙って話を聞いていた老店主が、短く話の続きを促す。
「どこかへ逃げてしまおうと思って」
 そんなことを言いながらも、ここは家からせいぜい電車で一時間といったあたりだ。このままどこかへ逃げよう、姿を消そうと思う頭の片隅で、まだ「呑みすぎて駅で寝ていた」とでも言えば、このまま家に戻れるんじゃないかと、そんな甘いことを考えている。しかし、洗いざらい妻に話して許しを乞う決心もつかない。
「……こんなこと、聞かされても迷惑ですよね。すいません。おいくらですか」
 立ち上がり、財布を出す。「千二百円」呟くように店主が答えた金額を出しながら、残りの現金を目で数える。このまま遠くに逃げるには中身が心細い。けれど、借金をそのままに逃げれば、取り立ては妻のもとに行くだろう。この上さらにクレジット会社から借り倒して、知らない振りをして逃げようとまでは思えない。妻にしてみれば、大差ないかもしれないが。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
 小さく頭を下げて、背を向ける。暖簾を掻き分けると、すぐ前には川面に朝陽が眩しく反射して、白く輝いている。水位は高い。
 生命保険、の四文字が頭をよぎる。加入したばかりでなければ、自殺でも下りるんだったか。それで、逃げた彼女の借金をまかなえる額になるだろうか。もっとよく証書を読んでおけばよかったなんて、今さら思っても、そのためだけに一度家に戻る気にもなれない。
「待ちな」
 呼び止められて振り向くと、店主が屋台を出てきて、仏頂面で皺だらけの手を伸ばし、何かの紙切れを差し出している。
「なんでしょう」
 見れば、名刺のようだ。シンプルだけど上品なデザインで、女性の名前と電話番号が書かれている。手書きの携帯番号も添えられている。名前の前についている肩書きは――
「弁護士、ですか」
「さっき来ただろう」
 あの姿勢のいい女性のことか。手の中の名刺をぼんやり見つめる。
「相談してみるといい。話くらいは聞いてくれるだろう」
「常連さんですか」
 頭がうまく回らず、どうでもいいようなことを聞くと、店主はぶすっとしたまま「娘だ」と呟いて背を向け、暖簾を潜ってさっさと戻ってしまう。
「あ……ありがとうございます」
 店主は返事をしない。手の中の紙切れを見つめるうちに、希望と不安がないまぜになってこみ上げてくる。弁護士に相談したら、果たしてどうにかなるものだろうか。
 だがあの紙切れに、保証人として同意の上で署名捺印したのだ、自業自得だと自分でも思う。
 もう一度、川面に視線を落とす。朝陽が斜めに差し込んで、直視できないくらいに眩しい。ここに飛び込むしかないんじゃないか。
 ふらふらと歩き、店を少し離れたところで、あらためてガードレールに手をかけ、下を覗き込む。水位はやはり高く、流れも速い。自分は泳げない。これならうまく死ぬことができるかもしれない。ポケットに名刺を突っ込んで、川面を見つめる。手に力を込めて、片足を上げる。
 足が動かない。
 たった一瞬、どうにかなるかもしれないと思ってしまったのがいけなかったのか、くたびれた革靴のつま先は、ぴくりとも上がらない。
 気を取り直して、何度か深呼吸をする。よし、と呟いて、足を上げようとする。
 できない。
 目を閉じて息を吸う。一旦頭を空にする。とりあえずは飛び込むんじゃなくて、まずはガードレールをまたいで、向こう側に立ってみるだけでいい。そう自分を騙そうとしてみる。目を開けて、もう一度ガードレールを掴む。
 そんなことをやっているうちに、道の向こうからジョギングの女性が近づいてくるのが目に入る。川向こうには、犬の散歩をする老人が歩いている。
 溜め息が零れる。我ながら、どこまでも度胸がない男だ。
 仕方なく、しまったばかりの名刺をポケットから出し、胸ポケットから携帯を引っ張り出す。そこでようやく気付いたが、ボタンを押す手がみっともなく震えている。思わず自分に向かって苦笑する。死ぬのがそんなに怖いか――。
 怖いに決まっている。
 震える指先で、不器用にボタンを押す。コール音を聞きながら視線を向けた先の川面に銀色の鱗が跳ね、光を弾く。黒い影が餌を浚い、まっすぐに空にのぼっていく。

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制限時間:60分(大幅オーバー)
必須お題:「味噌ラーメン」「運命を感じた」「小さな肩」
縛り:地の文の文末に過去形、過去進行形を使わない。
任意お題:「裸で何が悪い」「めがね属性はない」「ポニーテール萌えなんだ」「チキンラーメンの卵が固まらなくて途方に暮れています。助けてください」(使えず)


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