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 視界の上の方で、白い光がちかちかと瞬いて、瞬きをした。作業に集中しているところだったが、手を止める。目線を上に向けると、すっと視界の端に現れたインターフェイスの上部に、You've got mail(メールが届いています)と、小さな文字が流れた。
 無視しようか。メールのアイコンと手元のケーブルとを見比べて、一瞬だけ迷ったが、緊急連絡だといけないと思い直す。目だけを動かして開封ボタンを見ると、封筒のアイコンがもう一度ちかりと光って、文字が流れ出した。

 送信者:リョーコ 件名:助けて!

 思ったとおり、あいつからのメールだった。何があったか知らないが、三十八万キロも離れた場所で働く俺に助けを求めて、あの女はいったいどうする気なのだろうか。
 いつものことだ。どうせ大したことではない。そう思い、作業を続けようとしたが、どうしても気になる。舌打ちして、もう一度メールのアイコンに視線を向けた。
 開封すると、文字がすっと視界をスクロールした。

 本文:チキンラーメンの卵が固まらなくて途方に暮れています。助けてください。

 一気に脱力した。卵がなんだというのだ。人が危険作業に従事しているというのに、あの女は。口の中で文句を言いながらも、思わずチキンラーメンの香りを思い出して、正直な胃袋が盛大に鳴った。ああもう、むかつく。自分だけいいもん食いやがって。
 返信。

 件名:無題 本文:生で食え

 視界の中のソフトキーボードだけでは、長い文章は打ちづらい。それだけを手短に返信すると、視線でカーソルを操ってタスクを終わらせ、インターフェイスをSleepにして隠す。できるだけ視界をクリアにしておかないと、危険に繋がることもあるのだ。
 作業再開。手に持っていたケーブルを軽く引いて、感触を確かめる。しっかりしているようだ。念のため、目を近づけてよく見る。特に劣化している様子はない。
 宇宙服の袖のスイッチを押して、足に取り付けてあった無骨なでっかいレンチを取り出した。地道に手作業で、機械の蓋をこじあける。内部、見た目の異常なし。
 取り外せる部品は全て、一旦取り外さなくてはならない。宇宙服の左腕から外せる工具入れのケースは、スイッチを切り替えると磁力をオンにできるので、外した部品はとりあえずそこにくっつけておく。磁気を近づけたらまずいものは、必ずどこかに小さな取っ手がついているので、細いワイヤーで足に結ぶ。紛失でもしたら目も当てられないから、どんなに面倒でもいちいちそうする。
 部品を外した奥の方に、パネルが見えた。System All Green(異常ランプなし)。目で見える部品の劣化なし。オーケー。
 一旦手を止めて、もう一度視界にインターフェイスを起こす。普段からソフトのメンテナンスも怠らないから、コンマ二秒で立ち上がる。これは自慢できる数字だ。レポートを呼び出して、点検項目をチェックする。

 再び、You've got mailの文字。今度はいったい何だ。

 件名:問題発生 本文:それがさ、卵の賞味期限、一週間前なの。生はヤバいよね?

 この女は。いらっとしながら、返信ボタンを視線で撫でた。

 件名:無題 本文:お前ならいける。当方危険作業中

 送信。これでしばらくは静かになるだろう。
 四年前、脳を弄って小さな端子を埋め込み、視野の端に開閉可能なインターフェイスを焼き付ける手術を受けた。俺が試した頃は、まだ目新しい技術で、あまり一般に広まってもいなかった。つまりけっこう勇気のいる決断だったわけだが、その後、特に副作用の報告も聞かれず、最近は段々普及してきている。ひと昔前であれば、いちいちモバイル端末を携帯しなければネットに接続できなかったのに、便利になったものだ。
 施術を受けたばかりのときは、情報量の多さと操作感覚にてこずったが、慣れてみると楽でいい。メーカーから、合わなかったら消去手術は安価でできるという説明はあったが、一旦この手軽さに慣れたら、旧式のモバイルに戻れるはずもなかった。
 ただ、いつどこに居ても、首に鈴をつけられた猫のように掴まえられてしまうのが難点だ。通信端末をどこかに置き忘れた、という言い訳は聞かない。実はスイッチをオフにすることはできるのだが、つい緊急連絡が怖くて、スリープモードにしてしまう。

 さて、作業に集中しなくては。
 今いるここは月面都市の外っ側、だだっぴろいドームの、屋根の上。いくら重力が小さい月でも、地表から軽く五キロメートルはあるのだ。命綱はしっかりしているつもりだが、何かの拍子に落ちでもしたら、ひとたまりもない。
 今日はこのエリアの暖房設備の点検。こうした設備や機械類のメンテナンスは、普段は専用のDOLL(無人機)が勝手にやっているが、どの設備も、年に一回は生身の人間が宇宙服を着て、直に点検しなければならない規則。こういう仕事は、どれほど技術が進んでもなくならないのかもしれないなどと、思わず胸の中でぼやく。

 一時間くらい、集中して点検を続けただろうか。真っ暗なドームの外側で黙々と手を動かし続けていると、段々、寒々しいような気持ちになってくる。
 スーツ内の温度は一定になっているから、本当に凍えているわけではなかったが、それでも気分的に苦しくなってきた。作業がひと段落したところで、自主休憩にする。真面目にやらないと人命に関わる仕事だからこそ、集中力が切れないよう、休憩が重要。新人のときに仕事を教えてくれた先輩の至言だ。
 腰を下ろし、宇宙服の稼動範囲内で肩を回すと、視界のインターフェイスを起こした。ついでに、宇宙服の右腕を操作して、薄い小型キーボードを取り出す。これは便利なアイテムだ。無線で脳内の端子にもすぐ繋げるので、オフのときにも私物を手放さず携帯しているが、仕事用の支給品の方が、性能はやっぱり段違いにいい。

 件名:休憩中 本文:どうせ、お湯がちゃんと沸いてるか確かめなかったんだろ。腹は下ったか?

 少しして、返信が来た。

 件名:無事 本文:敵は弱卒、しょせん私の胃袋に勝てる相手ではない。そっちは大変ね。お仕事お疲れさま!

 添付ファイルを開く。空になったチキンラーメンの器を手に、海を背景にして笑うリョーコが映っていた。一階の縁側で撮った写真らしい。
 普段は何か月でも平気で月面都市に留まりっぱなしの俺だが、それでも、海の映像を見ると、無性に帰りたくなるような気がする。リョーコのアパートは海の目の前、いつも海の匂いがしていて、潮騒がうるさいような場所だ。
 映る青い海は、陽光を弾いてきらきらしていた。暗い空を見やると、やや空の低いところにある三日月形の地球の、わずかに雲間に除く青い色が、ちょうど同じ色だった。
 インターフェイスを視線でなぞって、カレンダを呼び出す。ちょうど満潮の頃だ。地球にいたときは、海の満ち引きなんて気にしたこともないのに、こうして自分が月面にいて、リョーコが海の傍で笑っているのを見ると、潮位表まで探してしまう。今座っているこの月が、どのくらい地球の表面の、リョーコが立っているその場所と近づいているのか、そんな意味のないことを考えて。

 写真をもう一度眺めると、思わず頬が綻んだ。うっとうしいメール攻撃も、時には気分を和ませる役に立つ。
 どれだけ高性能の宇宙服に包まれ、どれだけ注意深く作業をしていても、真空に囲まれての高所作業は緊張するものだ。もう何年もやっているのに、恥ずかしいようだが。

 リョーコとつきあうようになって、五年。超・遠距離恋愛というやつだ。
 もともとは地球の片隅の同じ町で生まれ育った、いわゆる幼馴染みというやつ。久しぶりに会った同窓会で盛り上がって、たまに二人で会うようになったのが始まりだった。普段は月面都市にアパートを借りて技師をしている自分と、日本の端の懐古趣味漂うエリアで昔ながらの暮らしをしているリョーコ。よくもまあ、続くものだ。
 会えない分を埋めるつもりか、やたらと送られてくるリョーコのメールは、ものすごくくだらないことばかりだ。この前なんて、「助けて。料理してたら手を切った! 絆創膏が行方不明、救急箱の場所知らない?」だ。住んでいる本人が知らないことを、月にいる俺が知るはずもない。「ネイルアート」という件名に、青い猫型ロボットをペイントした爪の写真が添付されていたこともあった。レトロ趣味もいいけれど、いい年した女が古典アニメのキャラクターを手に塗って喜んでいるのはいかがなものか。

 そういえば、メールを意味する、この四角と三角を組み合わせたシンプルなアイコン。小さい頃から見慣れているものの、考えてみれば何をかたどっているのだろうかと、一度気になると頭を離れなくて仕方が無かったのだが、リョーコ曰く「これは旧式のペーパーメールを入れた、封筒なのよ」とのこと。古い映画が好きな彼女は、一般常識はすぽんと抜けているくせに、ときどき何の役にも立たないような豆知識を披露することがある。

 にやけていた顔を引き締め、ちらりと周囲を見渡す。とりあえず、同僚は誰も見咎めてはいないようだ。さっとメールを打つ。

 件名:次の休みには 本文:帰投の予定。喜べ、今年のリフレッシュ休暇は二週間!

 わずかなタイムラグで、返信が来る。地球・月間をデータが行き交う時間差を考えると、驚くほど早い。端末に張り付いて、着信するなり即座に返信したのだろう。

 件名:それはそれは 本文:腕によりをかけて、美味しい料理を作っちゃうぞー。楽しみにね!

 頬が引き攣った。賞味期限切れの生卵なんか食わされたらたまらない。
 返信。

 件名:遠慮する 本文:たまの休暇くらい、まともなものを食いたい。作業に戻るので、緊急時を除き二時間は連絡しないように。

 インターフェイスを閉じて、周りを見渡した。皆、熱心に作業中だ。俺もそろそろ作業に戻ろう。いつまでもさぼっていて、残業なんてつまらないことはしたくない。
 気分だけ腕まくりをして(宇宙服の袖なんかまくれないが)、立ち上がる。まだまだ作業の行く先は長かったが、三十八万キロの彼方、海の近くのアパートの、日焼けした畳敷きの部屋で、メールの内容に怒っているリョーコの顔を想像すると、真空の寒さも何となく和らぐ気がした。



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制限時間:1時間(30分オーバー)
必須のお題:「絆創膏」「爪」「満潮」
任意のお題:「チキンラーメンの卵が固まらなくて途方に暮れています。助けてください」「救急箱」
縛り:舞台を月面都市にする


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