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 カタカタとキーボードを叩く音が、リズムよく響く。杏子は自分の指が立てるその音に、小さな満足を覚えた。若い人ほど速くはないが、この年にしてはなかなかのもの。子育てもすっかりひと段落したおばさんの、ちょっとした自慢。
 周りの席から聞こえてくるタイピングの音は、テンポこそ杏子より早いけれど、どこか苛々した調子で、リズムが乱れがち。自分の手元の音と重なると、ちょっとした不協和音のよう。そんなことを考えながら、杏子は書類に目を走らせる。
 今日はほとんど、書類を整理するだけの単純作業。量は多いが、気持ちは楽だ。こんなことでお給料がもらえるなら、御の字というもの。いつもこんな仕事ばかりならいいのに。忙しいことそのものは、杏子にとって苦にならない。フルタイムで働きながら夫の面倒を見、二匹の怪獣を育て上げた日々に比べれば、なんてことはない。
「そのまま直帰します」
「お疲れ」
 そんな会話とともに忙しく出入りする、営業社員たち。書類を忘れて戻ってくる、そそっかしい新人君。投げかけられる、ちょっとしたからかいの声。
 五分と沈黙することのない、外線電話の着信音。誰かが三コール目で取って、愛想のいい声を披露している。
 この会社もなかなか忙しくなった。杏子は肩を竦める。昔だってなかなか忙しくはあったのだが、不景気を受けて社員が減らされ、しかし減った人数ほどは仕事が減らず、ますます気ぜわしさが増した。
 また外線の着信音が響く。杏子は受話器を上げようと手を伸ばしたが、近くの席の誰かがちっと舌打ちをして、先に取った。
「お電話ありがとうございます」
 心から感謝しているように聞こえる、その愛想の良い高音を聞いて、外線に出たのが誰だったのか、杏子にも分かった。先ほどの舌打ちを聞いていなければ、同性でもうっとりと聞きほれたかもしれない、美しい声。
 はい、はいと、何度も重ねられる相槌。はい、分かりました。はい、大変失礼いたしました。はい、お客様の仰るとおりです。
「はい、大変ご迷惑をおかけいたしました。誠に申し訳ございません」
 いかにも殊勝げな謝罪。実際に受話器を持ったまま頭を下げているのが、視界の端に入る。後が怖いぞと思いながら、周囲の席の者は身構えて、一様に自分の手元の書類やパソコンの画面を見つめている。
 その通話も終わらないうちにかかってきた次の電話には、今度こそ杏子が出た。決まりきった挨拶と名乗り。人に取り次ぐだけで済む用件。簡単なものだ。
 あの子と逆だったらよかったのに。杏子はちらっとそう思ったが、こればかりは運任せだから、仕方がない。
「はい、そのようにいたします。ご指導ありがとうございました」
 横から聞こえてくる美声。本当に感謝しているように聞こえるから、恐ろしいものだ。なんたる自制。なんたるプロ意識。拍手してあげたいくらい。
 相手が電話を切るのを待っているのだろう、少々長い沈黙の後に、がしゃんと受話器を叩きつける音が響いた。皆、ちょっと首をすくめるばかりで、口に出しては何も言わない。顧客が電話を切るまできっちり待ってからやっているのだから、聞かなかったことにするのが大人の対応というものだ。事なかれ主義とも言うけれど、できるだけ丸く収まる方法があるならば、それを選ぶのは、ある種の義務で、知恵なのだ。群れることで長らえてきた動物の、偉大な叡智。

 せっかく皆が聞かないふりをしたけれど、彼女は受話器に当たっただけでは気がすまなかったらしい。美しい声が少々耳に耐え難いような罵倒を小さく囁いたのを、杏子は不幸なことに、ばっちり聞いてしまった。
 横目でちらりと声の主を見る。派手にならない程度に染めてあるきれいなセミロングが、今日はどことなく乱れている。残業疲れか食生活の乱れか、肌も荒れているようだ。気の毒に。
「怖っ」
 男性社員の誰かが笑い混じりに小さく囁いたのが、杏子の耳にはまたしてもしっかり入ってしまった。聞かないほうが幸せなことなんて、本当にいくらでもある。
 言われた彼女はぱっと振り返り、笑った相手をじろりと見ると、再びまっすぐに前を向いて、また果てしないタイピング作業に戻った。怒りに血の気が引いているのか、その横顔が白い。
 そのうち脳ミソの血管でも切れるんじゃないだろうか。思わず同情してしまう。そんなに苛々しなくてもいいのにと苦笑しながらも、彼女の気持ちは、杏子にもよく分かった。そういう時期があるのだ。何でも素直に受け入れられる年齢はとっくに過ぎて、いろんなことにすっかり諦めがついてしまうにはまだ早い。正義感と向上心がまだ胸に灯っている年頃。彼女と同じ三十代のときは、杏子自身もそうだった。
 毎日残業、残業、残業。日中はひっきりなしにかかってくる外線を取り、書類は次々に机の上に詰まれ、上司はろくに見もせずに判を押すくせに、その責任をとるつもりなんてまるでない。総合職なんて名ばかりで、来客があればお茶まで汲まされる。そりゃ、ストレスも溜まるよね。
 杏子はマウスを操作して、入力し終えた書類を印刷すると、さり気なく立ち上がって、共用のプリンタまで取りに行った。席に戻る途中、今思いついたような顔をして、彼女に囁きかける。「ね。今日、お弁当?」
「いいえ、どこかに買いに行こうかと」
 彼女は突然掛けられた言葉に困惑したようすで、それでも律儀に答えを返してきた。
「私もさ、今日は寝坊して作れなかったの。一緒にいかない? ほら、あそこの角の」
 杏子は小声で言って、ビルの外を指差す。六百円でなかなか美味しいランチを出す店があるのだ。小さい店だが、今のうちに予約の電話を入れておけば、すぐ入れる。
 もしや説教でもされるのだろうかと、一瞬彼女の表情が憂うつそうに揺れるのが、杏子には見て取れた。それでも根の真面目な彼女は、戸惑いがちに頷く。杏子は微笑んで、「あとでね」と囁いた。頷く彼女は、まだどこか不安そう。
 大丈夫よと、胸の中でだけ、杏子は呼びかけた。『これだから女子社員は』なんていう偏見の目でしか見てこない、頭の固いおじさんたちのように、決まり決まった説教なんかしやしないから。あの人たちはわかってない。人生の先輩面なんてしてみせても、こういうタイプの子は、ただ頑なになって殻に籠もるだけ。
 人が人にしてあげられることなんて、ほんのちょっとしかないのだ。そう、美味しいランチをおごって、話に水を向けて、愚痴を聴いてあげるくらい。
 何人かの社員が、面白がるように視線を投げてくるのを笑顔で黙殺すると、杏子はデスクに落ち着いて、次の書類を作るべく、リズムよくタイピングを再開した。


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 制限時間:60分
 お題:「白」「脳ミソ」「叩きつける」
 縛り:ストレスの溜まった三十代の女性を登場させること
 


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