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 It's a beautiful day...と、凛が歌っているのが耳に入ってきて、ふとキーボードを叩いていた手を止めた。窓にちらりと視線を投げてみるけれど、天気はちっともよくない。土砂降りの雨がさっきからずっと、空を叩いている。暗い空には稲光まで光った。
 歌詞の意味まで意識しているのかどうか、リラックスした横顔を見せて、凛は包丁のリズムに合わせて歌いながら、手を動かしている。コンロにかけた鍋から、醤油のいい匂いが立ち上り始めた。何を煮ているのだろう。
 思い出したように、ふと包丁を止めて、凛はいった。
「雷、すごいね。夏って感じだね」
「いま気づいたの?」
「失礼な。さっきから気づいてたよ」
 凛は包丁を振り上げるまねをした。顔が笑っているので、ちっとも怖くない。
「そういえば、今年は海、行かなかったね」
「行ったじゃないか。墓参りのときに」
「ああいうのは、ちらっと見ただけっていうの。車の窓から眺めただけじゃねえ」
「何のロマンスを求めてるんだよ、いまさら」
「んー。そうだなあ、あたしのセクシーな水着姿を見て、省ちゃんが惚れ直しちゃうかもしれない」
 思わず鼻で笑ったら、丸めたキッチンペーパーが飛んできた。
 降参のポーズをとると、凛はすぐにまな板の前に戻って、料理と鼻歌を再開した。その明るい横顔からは、帰宅時の不機嫌は、もう読み取れない。


 ちょっと聞いてよ省ちゃんと、びしょぬれの凛が愚痴をこぼしながら帰宅したのは、午後八時を回ろうかというころだった。当たり前のように毎日でも残業のある凛の職場は、それでもぼくらが結婚したばかりのひところのように、連日深夜にわたるということはなく、トラブルがなければ午後七時ごろには帰宅するのが、この頃の常となっている。
 あらかじめ遅くなると分かっているときには、凛は朝から一声かけて出かけていく。だからこの日は、思いがけずトラブルに巻き込まれたのだろうと、いわれる前からなんとなくわかってはいた。
「今日ねえ、へんなお客さんに絡まれちゃってさ」
 ヒールの低いパンプスを脱ぎ捨て、ぼくが渡したタオルで頭を拭きながら、凛はぼやいた。
「用件を聞いてるうちにね、ひとりで怒り出して、話してるうちにだんだん、自分の言葉にヒートアップして、気が立ってきたみたいでね。最後には腕を振り回して、こう、あたしたちを睨みまわしたあと、ほかのお客さんの待ってるところにばっと振り向いてね、『こいつらとか、お前らみたいに、金に汚い連中ばっかりがのさばってるから、世の中がおかしくなってるんだ。金の亡者はみんな死ね!』って。自分だって、お金の相談で来たのにねえ」
 それ、大丈夫なの。思わず真剣になって訊くと、凛は歯を見せて笑った。
「支店長が警察を呼んだんだけど、一通り怒鳴ったら気が済んだみたいで、おまわりさんが来る前に、帰ってった。もううちの支店には用事もなさそうだし、来ないとは思うけど」
「でも、気をつけないと。気が済んだっていうけど、凛、そいつに気に入られちゃったんじゃない?」
 ヘンなのに付け回されたりしたら、とぼくがいうと、凛は、一瞬真顔になって、それから声を出して笑った。
「笑ってる場合じゃないよ。だいたい、そういう客の応対は、男の上司に代わってもらいなよ」
「そうだね、ありがと。行き帰りは人の多いところを通ってるし、大丈夫だとは思うけど、でも、うん。気をつけるよ」
 いいながら、凛はけろっとしている。
「それより、おなか空いたよね? そのごたごたの報告とかで、長引いちゃって。ごめんごめん。いま簡単に作るから」
 怖くないはずがないと思うのだけれど、でも、凛にとっては日常茶飯事……というのは大げさでも、珍しいことではないのだ。さすがに『みんな死ね』発言は、そうよくあることではないだろうけれど、頭のネジが何本か完全に飛んでる(……なんていうと、差別的な発言になっちゃうのかな。でも正直、その表現が一番しっくりくる)人間は、わりとどこにでもいるし、とりわけ毎日たくさんの客に会う仕事をしていると、いちいち怯えていてはきりがない。いつだったか凛自身が、笑いながらいっていた。そこに強がりが入っていないとは思わないけれど、八割は本音だろう。
 ぼくは無理だった。前にはぼくも、凛と同じように、接客メインの仕事をしていた時期がある。だけどぼくは、凛のように笑い飛ばせない。そういうトラブルに巻き込まれるたびに、少しずつ体の奥にじわじわと降り積もっていく毒が、少しも溶けて消えなくて、だんだん煮詰まって、濃度を増していく。
 その毒の名前を、ぼくはうまくつけられないでいる。たぶんそこには、相手への怒りとか、憤慨とか、そういう攻撃的な思いもあるし、冷たい軽蔑の感情もある。それから正直なところ、抑えきれない恐怖も。あるいは嫌悪、同情、憐憫、厭世……
 そういうとっさの精神の働きを、べつに恥じる必要はないのだと、いつか落ち込むぼくを見て、職場の先輩がいった。当たり前の防衛反応だ。攻撃されれば自分の精神をまもろうとする、ごく正常な脳の働きだ。自分の心が汚いなんて、思う必要はない。客に面と向って罵られたり、ちくちく厭味をいわれても、心の底からちっとも怒らなかったら、そいつはもう聖人だ。体に十字架の痣でも浮いてくる級だ。
 いわれて頷いたぼくにも、頭ではその話は理解できた。でも気持ちが追いつかない。給料をもらう仕事として接客をしている以上、相手に見せられるはずもない黒い感情は、複雑に交じり合って、体の奥の奥、深いところにわだかまる。同僚に愚痴をこぼしても、いっそう重ねて心に浸みていくばかりで、ぼくはその毒を、凛のように、うまく受け流したり、吐き出したり、飲み込んで浄化したりすることができない。だからいまはこうして、在宅で半端な仕事をしている。
 ぼくはいま、人づてに話をもらって、ぽつぽつとフランス語の翻訳をしたり、なかなか賞もとれない文学まがいの小説を書いてみたり、この二年はそんなことばかりやっている。完全に部屋に引きこもっているわけではなくて、買い物にも行けば散歩もする。学生時代の友達にもあう。厭世観を感じてはいても、対人恐怖症というほど重くもない。翻訳の謝礼は、月あたりでおおざっぱに平均してみれば、学生バイトほど低くはないが、同世代の男の平均所得と比べてみれば、鼻で笑うようなものだ。それでも少しずつ仕事の話が増えてきてはいるから、まだ安定とはほど遠いが、それでもあと何年か投げずに頑張れば、胸を張って往来を歩けるくらいにはなるかもしれない。家事は分担制、掃除と洗濯とゴミ出しはぼく。主だった買い物と料理は凛。いまのところ、そのバランスはうまくいっていて、たまに凛が遅くなるときに、ぼくも包丁を揮ってみようかとするのだけれど、あたしから生きがいを取り上げないでといって、凛はむしろ怒る。料理が好きなのだ。下手の横好きだというひとことを、本当はいえた立場ではないのだけれど、ぼくはときどき笑っていう。好きこそものの上手なれよと、凛も軽く拳を振り上げつつ、自分でも笑う。それは本当で、少しずつ少しずつではあるけれど、凛の料理は前よりもおいしくなってきている。
 凛の給料は実際、かなりいい。今のところぼくらの間には子どもがいないけれど、ぼくの半端仕事の分とあわせたら、ひとりやふたり育てるくらい、何とかなるだろう。転勤があるのがやや難だけれど、いよいよ通えないところに異動になったら、そのときはぼくがついていく。だから暮らし向きのことは、正直、困ってもいない。
 それでもぼくの中のどこかには、逃げた、という思いがあって、いつもではないのだけれど、ときどき思い出したように心のなかのもうひとりのぼくが、情けないやつだと笑うのだ。人間が怖くて、社会から逃げ出した、根性の座っていないやつだ。
 もっと頑張って、あと何年か踏ん張れば、もしかしたら自分流のコツを見つけて、うまく折り合いがつけられるか、あるいは人の悪意に打たれてもどうにか耐えられる、強い男になっていたのかもしれない。実際、ほとんどの社会人が、そうしているはずなのだ。しんどくて、へこたれて、弱音を吐きながらも、どうにか毎日出社して、終業まで踏ん張って、帰宅後の一杯を楽しみに、客のクレームに頭を下げ、上司の叱責も部下の陰口にも、腹は立てても顔では笑って受け流す。
 でもぼくは逃げ出した。辞表を出したとき、思いとどまるようにと個人的にいってくれた先輩はいても、会社は一瞬も引き止めてくれなかった。あっさりしたものだった。ぼくもまあ、そんなものだろうと思った。ドラマの中のように辞表を懐に突っ込んで、これは自分が預かっておくからもう一度よく考えるように、なんていってくれる上司はいなかった。いや、もしかしたら普通にそのあたりにもいるのかもしれないけれど、少なくとも不況のあおりをくらって人減らしの計画を進めている会社では、引き止めてもらえると思うほうがどうかしている。


 それから翻訳の仕事が増えてくるまでの何年かは、あまり大勢の人と話さないでもすむアルバイトを、ぱらぱらとこなしていた。いまでもときどき、酒の入った拍子なんかに、情けなくてごめんとこぼすぼくを、凛はあっけらかんと笑いとばす。それから真顔になっていう。あたしはさ、生まれて初めてついた仕事が、いきなり天職だったのよね。
「銀行の窓口での細かい計算なんてさ、性格的にぜんぜん向いてないと自分で思ってたんだけど、それよりも、接客のほうがさ。へんなお客さんに絡まれても、気の毒な身の上話を聞いてもさ、その最中はね、むかつくなあこのハゲとか、気の毒だなあ、何もしてあげられなくてホントに悪いなあとか、あたし冷たかったかなあとか思って、しばらくはクヨクヨするんだけどさ、夜寝るときにはもう、けろっとしてるもんね。いや、もっと早いかな。ゴハン食べるときには、だいたい忘れてるもんね。考えてみたら、もともと昔から何かに腹を立てても、失恋しても、ぱーっと怒ったり、一晩泣いたりしたら、それでだいたい、気が済んじゃうほうだったし」
 凛はいつも、そんなふうにいうのだ。けれど自分でいうほど、気にしていないわけでもないのを、ぼくは知っている。
「省ちゃんはさ、すごくそういうの、気に病んじゃうじゃん。怒られたこととか、失敗したこととかもだけど、気の毒な人とか見かけたり、人を傷つけたりするとさ、自分まで傷つくし、長いこと、ずっと気にするでしょ。でも、それってさ、前に省ちゃんがいたような、ああいうところでバリバリ仕事するには、大変だけどさ。あたしからしたら、もっと気楽に考えたらいいのにって、ときどき思ったりもするんだけど。でも、でもね、それって、省ちゃんの、いいところなんだと思うよ。人間的にっていうかさ、省ちゃんが書いてる小説とかさ、そういうのには、きっと、」
 いいことなんだと思うよと、凛はそんなふうにいう。それから自分の真面目な発言に照れたように笑って、こっちの背中をばんばん叩いてくる。だいたい、ぼくが弱音を吐くのは、少し酔っているときだから、その頃には凛のほうはたいてい、もっと酔っているのだ。


 It's a beautiful day...
 凛はまだ口ずさんでいる。
 仕事で客にからまれて、怖い目もみた。帰りには土砂降りで、雨にまで濡れた。そんな日の夜に、よりによってそんな歌だ。それでも皮肉とか、自虐的な表情とかは、凛の横顔にはちっとも浮かんでいない。
 なにか奇跡を見るように、ぼくは凛の白い頬に見惚れた。そこには十字架の形の痣なんて、浮かんではいないけれど。
 フライパンの上で、炒められた野菜が湯気を上げている。炊飯器が音を鳴らして、炊き上がった白米の匂いが広がった。その匂いを、胸いっぱいに吸い込むと、妙なもので、凛の上機嫌に、自分まで感染したような気がしてくる。だんだん、今日がいい日だというような気になってくる。
 つられてなんとなく、口ずさんでみる。イッツ・ア・ビューティフルデイ。なんて素晴らしい日!


(終わり)

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お題:「ビューティフルデイ」「海」「墓参り」
縛り:「匂い、香りの描写をする」
任意お題: 「うなじ」「インディアンの教訓」「バッキンバッキン」「関西人、イン東京」(使用できず)


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