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 争いの種は、何も金銭や嫉妬に限ったことではない。与えられない愛情を求め続けたときに、満たされない愛はやがて憎しみに変わる。あるいは自分の傷つく心を守るために、あるいは自分とよく似た誰かの上に近親憎悪を覚える。そういうときにどんなふうに人が人を憎むか、私は昔からよく知っていた。そのつもりだった。


 窓辺に止まった鳥の愛らしい声で目が覚めたとき、真っ先に、台所で妻が包丁を使う、軽やかな音が耳に飛び込んできた。その弾むような調子を怪訝に思い、すぐに思い出す。久しぶりに彩が帰ってきているのだ。張り切って、何か凝った料理でも作っているのだろう。普段、何を食べても同じことしかいわない私と二人きりで、料理にも張り合いがなかろうから。
 一人娘の彩は、去年の春から大学に通うために一人暮らしをはじめたきり、とんと帰ってこなくなった。この前の帰省はいつだっただろう。何度も念を押してようやく、正月に顔を見せたくらいか。
 味噌汁の匂いが鼻をくすぐった。炊飯器が鳴る音が追いかけてくる。そろそろ朝食が出来上がる頃合なのだろう。
 もう一度寝なおそうか、とも思った。妻は休日に寝坊している私を、わざわざ起こしにはこない。昨日の仕事の疲れも残っているし、彩と顔を合わせるのも、正直、少しばかり気まずかった。彩は中学を卒業する前後くらいからか、ひどい反抗期に入り、一時期は顔を合わせれば大声を張り上げて喧嘩ばかりしていた。さすがに高校を卒業する頃には、前のように頻繁に怒鳴りあうことはなくなったが、これといった和解のきっかけもないまま、進学して家を出てしまったから、いまでも顔を合わせれば、何を話していいかわからない。
 けれど目はすっかり冴え、匂いにつられて腹の虫も鳴りだした。覚悟を決めて起き上がるなり、妻が彩を起こす声が、階段の下から聞こえてきた。


「おはよう」
 呼びかけても、案の定というべきか、彩はちらりと私を見たきり、何の挨拶も返してこなかった。妻も、以前にはよく返事をしなさいと叱りつけていたが、諦めたのか、それとも久しぶりの帰省中に口論になるのを避けたいのか、今は咎めようともしない。
「今日は豪華だな」
 食卓の上に並んだ豪勢な朝食を見て、思わずそういうと、妻が小さく照れ笑いをこぼして、私の前に、炊き込みご飯をよそった茶碗を置いた。それが普段の茶碗と違っていたのに、私は思わず苦笑した。それは彩が中学の修学旅行で土産に買ってきた、夫婦茶碗だった。わざわざ食器棚の奥から引っ張り出してきたのだろう。妻の浮かれぶりが伝わってくるようだった。
 彩はそれに気づいているのかいないのか、食欲がなさそうにしながらも、黙々と口に料理を運んでいる。母親に対して、気を遣っているのかもしれない。見ていると、煮物の中からカボチャをいやそうに避けている動作が、子どもの頃とまるきり違わず、思わず頬が緩んだ。
 彩は私のことは嫌っていても、妻とはそれなりに仲がいい。わがままをいうのも、甘えているだけのようで、喧嘩をしてもすぐにけろっと元通りに話している。父親というのはつまらないものだと、つくづく思う。懐いてくれるのは小さいうちのいっときだけだ。


 何くれとなく娘に話しかけ、世話を焼いていた妻は、昼食の片づけまで終えると、一人で買い物に出かけていった。娘と二人、気まずく取り残された私は、手持ち無沙汰にテレビのリモコンをいじった。何か観たい番組があるわけでもない。ひとしきりチャンネルを変えてから、思いついたように、コーヒーを飲んでいた彩を振り返った。
「何か観るか」
「べつに」
 そうか、と相槌を打つと、会話が終わってしまった。昨日の夜も似たようなものだった。元気でやっているのか。ふつう。勉強、楽しいか。べつに。ちゃんと食べてるのか。ふつう。そうか。
 情けない父親だ。溜め息を堪えて、ニュース番組にチャンネルを合わせる。とたん、胸の悪くなるような記事が目に飛び込んできた。無理心中。生活苦から、心中を図ろうとして妻と子どもを殺したという、その当人だけが皮肉にも一命を取り留めた……
「そりゃもう、心中じゃなくて、殺人だよな」
 思わずぽろりと口からこぼれた言葉に、彩は何も返事を返してこなかった。
「何も家族を道連れにしなくても、一人で勝手に死ねばいいのに」
 路頭に迷うよりも死ぬほうがマシだなんて、奥さんや子どもも同じように思うとは限らないのに。何気なくそういうなり、視線が鋭く刺さって、振り向いた。彩が皮肉に唇をゆがめて、私を睨みすえていた。
「父さんだったら、自分ひとりで死ぬって思ってる?」
 思いがけず強い口調でいわれて、思わずひるんだ。それでも何も間違ったことをいったつもりはなかったから、きっぱりと頷いた。
「そうするよ。もしものときはな」
「それで、そういう自分が、この人よりマシだって思ってるんでしょ」
 ひどく毒を孕んだ口調だった。返す言葉を失った私から、彩は視線を逸らした。
「心中するほうがましだと思うのか」
「まさか。そういうことをいってるんじゃないよ」
 嘲るような口調に、反射的にむっとして、私は思わず声をいくらか荒げた。
「そういってるじゃないか」
「違うよ。父さんは、この人がどれくらい辛い立場にあって、どんなふうに思いつめていったのかとか、助かってしまったあとで、どんなふうに苦しんでいくのかとか、そういうこと、ちっとも考えてないでしょ。だからそうやって、他人事だと思って簡単に間違ってるって、責められるんじゃない。違う?」
 彩の目が、ぎらぎらと輝いていた。その目を見れば、それは昨日今日に思ったようなことではないのだということが、厭になるほどよくわかった。この子はずっと前からこんなふうに、私を嫌ってきたのだ。
 反論する気力も失せて、私は肩を落とした。
「喧嘩はよそう。せっかく帰ってきてるんだ」
 力なくいうと、彩は鼻で笑ってソファを立った。自分の部屋に引っ込もうとするその背中に、私はつとめて感情を抑えながら、呼びかけた。
「彩、ちょっと話しておきたいことがあるんだ」
「……何」
「彼氏がいるんなら、一度、つれてきなさい」
 彩は振り返って、眉を顰めた。妻が先日、一人暮らしをしている彩の部屋を訪ねていったときに、気配をかぎつけてきたのだった。ペアの食器、スリッパ、二人分の歯ブラシ。防犯用なら、ベランダに干しておく男物の下着一枚ですむだろう。わざわざ洗面所にまで気を配る必要はない。
「ばっかじゃないの」
 彩は小さく鼻で笑った。喧嘩はよそうといった端から、とっさにかっとなって、私はさっそく声を荒げてしまった。
「何が馬鹿なんだ」
 彩は答えなかった。平然と、冷たい笑いを唇に貼り付けている。その表情にどこかで見覚えがあると、気持ちの片隅でちらりと思ったが、ともかくいまはそれどころではなかった。
「こっちまで連れてくるのがいやなら、父さんたちがそっちに行くから」
「そういうんじゃないし」
「じゃあなんだ、お前は、付き合ってもいない相手の歯ブラシを、部屋に置いてるのか!」
 私は怒鳴りながら、誤解だよ、たまに女友達が泊まりに来るんだよと、彩がそんなふうに弁解するのを、心のどこかで期待していた。母親の勘もたまには外れるのだと、安心したかった。けれど、彩は唇に冷笑を貼り付けただけだった。
「どうなんだ」
「放っておいてよ。どうせあたしのことなんて、普段は興味ないくせに、こんなときだけ父親面して。ばっかじゃない」
「父親なんだ。しょうがないだろう」
 心配するのは当たり前だ。そういうと、彩はつまらなさそうに笑い飛ばした。
「その人と、結婚とか、考えてるのか。それならそれでいいんだ。彩が選んだ相手なら」
「だから、そんなんじゃないって」
 思わず拳を振り上げそうになった。彩は動じなかった。私の上げかけた拳に、冷笑を投げかけるだけだった。
「結婚なんか考えてないよ。するわけないじゃん」
 その言葉は、底冷えのするような色を含んでいた。
「なんでするわけないんだ」
 私は怒りに震える声で問いただしたが、彩はやはり片頬で笑うだけで、何も答えなかった。私はその態度に腹を立てる一方で、恐れてもいた。自分と妻が、彩の小さいころによく喧嘩していたのが、悪い影響を与えたのだろうか。親類が父の遺産の分配で長く揉めていたところも、なるべくこの子には見せないようにしてきたけれど、誰かの口から耳には入ったらしい。そういう色々なものが積み重なって、彩は家族や親類という枠組みに、いい印象を持てずにいるのかもしれなかった。
「結婚するのがどうしてもいやなら、それでもいいさ。でもな、子どもはいたほうがいい。絶対にいい」
 私は必死の思いで、そういい諭そうとした。人の親にならないとわからない喜びがある。将来のこともある。だが、彩は目の色を変えて、真正面から私に睨みかかってきた。それまでの冷笑よりも、ずっと温度の高い怒りの気配に、私はたじろいだ。
「なんでよ」
 彩の声には、挑発するような色があった。その感情の変化の理由がわからず、戸惑いながらも、私はなるだけ冷静に答えようとつとめた。
「いまはいいさ。友達だっているだろうし、お前は若くて、やりたいことだってあるだろう。でもな、あと何十年かして、お前が年をとったときに、誰もいないのは寂しいぞ」
 私はそう口にしながら、いまはもう亡き親類の女性の顔を思い浮かべていた。夫に離縁されたきり、子もなく一人きりで生涯を過ごした大叔母は、晩年、寂しい寂しいと会うたびに嘆いていてた。いがみ合う親戚たちの間に、それでもしょっちゅう顔を出して、嫌われながらも愚痴ばかりこぼしていた。それぞれに家族を持った周囲の人間を、いつも際限なく妬んでいた。ある日姿を見せなくなったと思ったら、一人暮らしていた古いアパートの一室で、冷たくなっているのを発見された。彼女の遺体をみつけたのは、親類の誰かではなく、アパートの隣人だったそうだ。その大叔母の晩年の姿が、頭の中をちらついていた。
「自分の世話をさせるために、とりあえず子どもを産んでおけって?」
 彩の顔に、冷笑の気配が強くなった。その声に滲む悪意に、私はもどかしいような思いで手を振った。そういうことをいいたいのではなかった。けれど怒りのあまり、うまく言葉にならなかった。
 私が怒りに声をなくしているのを、彩はしばらくじっと観察して、それから冷たい声で、いった。
「逆に、父さんに訊きたいんだけど。自分のときはどうだったの。自分の遺伝子を残そうなんて、よく思えたね」
 絶句した。その声の中にあった、軽蔑の響きにではない。彩のいうのが、身に覚えのある感情だったからだ。
 堕ろせと、私はいったのだった。身ごもったばかりの妻に向って。とても育てる余裕はないからと。当時は私もまだ若く、稼ぎは悪かったから、口に出してはそれを言い訳にしたのだったが、本音はそうではなかった。自分の子を愛せる自信が、欠片もなかったのだ。
 あのとき妻が、何が何でも産むといい張らなかったら、彩はこの世に生まれてはいなかった。
 その話は彩の耳には入らないよう、私も妻も、気を配ってきたつもりでいた。他の親類も、知らないことのはずだった。それとも、しらず私の態度に出ていただろうか。
 いざ生まれてみれば彩は目に入れても痛くないほど可愛く、私はがむしゃらに働いた。妻にも働きに出てもらい、苦労をさせもしたが、どうにか彩を大学に入れることができた。もともと親戚中で一番下だった私は、小さな子どもにどう接していいか分からず、必要以上にきつく叱りすぎたり、言うべきことを言えなかったことも、数え切れないくらいあった。それでも彩が生まれてきたことそのものを、後悔したことはなかった。そのつもりだった。
 それでもどこか無意識に、私の態度にそれが滲んでいただろうか。彩に映る自分自身の影を憎んだことが、一度もなかったとは、私にはいいきれない。
「お前は、自分が嫌いなのか」
 声の震えを、抑えきれなかった。彩は口に出しては何も返事をしなかったが、その表情が答えを告げていた。
 私はまた既視感を覚えた。先ほどどこかで見たことがあると思った、彩の表情。それがまた、娘の顔の上に浮かんでいた。私がそこに見たのは、私自身の感情ではなかったか。彩に投影された、自分自身の影ではなかっただろうか。私はいつかどこかで、争いいがみ合う親類を、皆どこかで似たような愚かしさを持ち合わせる世間の人々のすべてを、何より自分自身を激しく嫌いぬいていた。歳とともにその感情から目を逸らすことを、どうにか覚えたのではなかっただろうか。妻が、彩は私に似ていると口にするたびに、戦々恐々としてきたのではなかったか。
「おまえは」
 落ちる涙を、堪え切れなかった。みっともないと思いながらも、私は鼻を啜って、声を振り絞った。
「自分が生まれてこないほうがよかったと思うのか」
 彩は口ごもった。その表情から、先ほどまでの冷笑は拭い去られていた。娘は私から目を逸らし、何かをいいかけては、飲み込んだ。何度も何度も、そうした。
 なにより私自身が、いつか遠い昔には、そう思っていた。生まれてこないほうがよかったと。自分の親と反りが合わず、いがみあう兄姉に囲まれて、誰のことも愛せないと、自分など生まれてこないほうがずっとよかったと、そんなふうに思っていた。彩が生まれてくるまでは。
 彩を育てていくうちに、そんな昔の屈託も、忘れたつもりでいた。結局はただ、忘れようとしていただけだったのだろうか。胸のうちにしまいこんで、目を逸らしただけで、その思いは変わらずそこにあったのだろうか。彩が、自分自身を愛せないと、生まれてこないほうがよかったというのなら、私の生きてきた意味など、どこにもないように思われた。
 彩は何かをいいかけて、やめて、何度もためらって、そうして長い沈黙のあとに、ぽつりと言葉を落とした。
「わかんない」
 泣き出しそうな、子どものような声だった。
 憑き物が落ちたように、私の体から力が抜けた。いつの間にか立ち上がっていた尻を、ソファに落ち着けて、私は震える声で、そうかといった。涙をぬぐいながら、何度もそうかと繰り返した。それから手で顔を抑えたまま、彩の顔を見ることができないままで、悪かったと呟いた。何に対して謝っているのか、自分でもよく分からないまま、二度重ねていった。彩はもう何もいわなかった。
 彩はやがて踵を返して、自分の部屋へ引き上げていった。小さく鼻を啜る音だけが、リビングに取り残された。
 ほかに何をしようもなく、私はただぼんやりと、窓の外に視線を投げた。空は無闇に晴れている。真昼の月が天に懸かり、淡い光を地上に投げかけていた。

 

(終わり)

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必須お題:「期待」「愛はやがて憎しみに」「真昼の月」
縛り:「読み手を涙させるものを書く(目標、ただし涙の種類は問わず)」「ペア(人またはもの)を出す」「蟲目線で書く(任意。蟲の概念についての解釈は自由)」「起承転結と序破急を意識しない(任意)」
任意お題:「ガール」「ビジネス」「燐光」(使用できず)



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