13 ちいさく折りたたんで 瀬尾を家に呼んだのは、大学四年の秋のことだ。ふたりとも無事に県内の企業に内定をもらって、卒論の準備が本格化する少し前の時期だった。
結婚を急ぐような年齢でもないし、家族に紹介するのなんて、もっとあとでもよかったのかもしれない。就職して何年かしてふたりとも仕事に慣れたころとか、そのくらいでも。 だけど瀬尾は卒業を待たずに結婚を切りだした。何もすぐに籍を入れようということではなかったのだけれど、いざ働き出してしまえばすれ違いも増えるかもしれないし、仕事を覚えることに必死で、一緒に居られる時間も減るかもしれない。だからこそいまのうちに約束だけでもと瀬尾は言って、わたしに異論はなかった。 週末、父に予定を開けておくように頼んで、わたしは駅まで瀬尾を迎えに出た。妹はそのころちょうど試験対策で忙しくしていて、家では父がひとりで待っていた。残暑のきつい中、家までの坂道を汗を流して歩きながら、瀬尾は緊張しているのかやたらと落ち着かず、わたしは大袈裟だと笑った。 けれど結果から言えば、ぜんぜん大袈裟ではなかった。 「君が瀬尾くん?」 部屋に上げて顔を見るなり、父が歯を見せて笑って、そう呼んだ。 「はい!」 「人の可愛い娘を盗りにきたんだから、それなりに心の準備はしてきてるよなあ?」 え、とわたしが声を上げるよりも、瀬尾が顎を引く方が早かったと思う。 止める間もなく、父は瀬尾を殴り倒した。それも、瀬尾が踏ん張りきれずに畳の上に倒れ込む勢いで。 食卓にしている和机に瀬尾の足が当たって、すごい音がした。頭をぶつけるよりはよかったかもしれないけれど、机の上にあったリモコンだの茶請けだの、細々したものが畳の上に散乱して、惨憺たるありさまだった。 「ちょっと!」 わたしが非難するのに、父はあっけらかんと笑って、 「悪い悪い。いっぺんやってみたかったんだ、物わかりの悪い父親の役」 そんなふうにとぼけた。昔のドラマじゃないんだからとか、普通殴るのは連れてきたのがろくでもない相手だったときのことじゃないのかとか、言いたいことはいくらでもあったけれど、その表情を見ていたら文句を言う気が失せた。 レジ袋で即席の氷嚢をつくって瀬尾に手渡したわたしが呆れかえっていると、父は頭を掻いて、瀬尾の前に座った。そうして、頭をふりふり殴られた頬を冷やしている瀬尾に、「すまんな瀬尾くん」と、少しもすまないと思っていない口調で謝った。 それから急にあらたまって、父は真顔になった。瀬尾がしっかり顔を上げるのを待って、 「娘をよろしく頼む」 深々と頭を下げた。 それなら殴らなくたっていいじゃない、と思ったけれど、瀬尾は腹を立てるでもなく、でっかい声で「はい!」と叫んだ。 その顔を、眩しいものでも見るように目を細めて眺めてから、父はふいと立ち上がって、「ちょっと煙草吸ってくるわ」 そう言ってサンダルをつっかけると、外に出た。 寂しくなると煙草を吸うのが、父の癖だ。 顔を冷やしている瀬尾にもう一度謝ってから、わたしも玄関を出た。 父はこっちを振り返らず、廊下の手すりにもたれて外の景色を眺めたまま、煙草を吹かしていた。その背中に、笑って話しかけた。 「嫁になんかやらん、って言ってくれないんだ?」 軽口のつもりだった。そう聞こえてくれないと、困る。 父は煙草を消すと、唇をへの字にして、 「止めて欲しかったんなら、もうちょっと難癖つけやすいの連れてこいよ。いい男みつけてきやがって」 あーあ、と大袈裟に嘆いて、背伸びをした。そうしてわたしの顔を見ようとはしないまま、 「お前なんか、さっさと嫁にいっちまえ」 寂しそうに言った。 「父ちゃん」 「なんだよ」 「無理に大人ぶらなくてもいいよ」 いつかの仕返しのつもりだった。父は気づいたのかどうか、唇を尖らせて、 「大人だもん」 と言った。それからがりがりと頭を掻いて、 「あーーー! 大人ってつまんねえなあ!」 でっかい声でそう叫んだ。 「なんで大人になっちまうんだよ。ずっと小さな俺の娘のままでいてくれりゃいいじゃねえか」 無茶言わないでよ、とわたしは笑った。上手に笑えていたんじゃないかと思う。 「お父さん」 声は、震えなかったと思う。 「ありがとう。大好き」 「ばーか」 完全に憎まれ口の調子で父は言って、ふいとそっぽを向いた。その目の端が赤くなっていたのには気づかなかったふりをして、わたしはその肩に頭を乗せた。 |