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  11  子守歌


 私たち姉妹と父は、はじめからうまくいっていたわけではなかった。
 なんせふたりの結婚自体があまりにも唐突なことだった。母はわたしたちに何の相談もせず、ある日いきなり「今日からこの人があんたたちの父ちゃんよ」と宣言したのだ。
 それから間を置かずに引っ越しだった。荷物は父の運転する車で、何日かかけて少しずつ運んだ記憶がある。まだ残暑の厳しい季節だった。父は汗だくになって段ボールを抱えて、エレベーターなんてないそれぞれのアパートの階段を、せっせと上り下りした。
 場所はすぐ近くで、目と鼻の先とまで言ってしまえば言い過ぎかもしれないが、わたしや妹が転校する必要さえない距離だった。だから準備なんていらないとでも思ったのか、言い聞かせても子どもにはわからないとでも思っていたのか、母は本当に直前までなんの予告もしなかった。
 それでもわたしは、あのいいかげんな求婚を盗み聞きしていた分だけ、少しは心の準備もあったけれど、妹にいたっては、本当にわけがわからなかっただろうと思う。
 初めて会う人だったわけではないにしても、突然自分たちの父親になった人が何者なのか、わたしたちにはよくわかっていなかった。知っていたのは、その人が母にとっては古くからの知り合いらしいということくらいだった。
 母はそれまでの男とはたいてい外で遊び歩いていて、家にまで連れ込むことはめったになかった。それでも何かの拍子に酔いつぶれて家まで送られてきたりすることはあって、何度かは相手の顔を見た。そういうとき、たいていその人たちは、わたしや妹の存在に気がつくと鼻白んだり、不機嫌になったりした。
 父はそうした男の人たちとは違っていた。母に会いにやってくるときには、必ず祖母やわたしたちに何か手土産を持ってきて、わたしたちにも必ず笑顔で話しかけた。
 妹は昔から現金なたちだったから、その人が持ってくるお菓子だの玩具だのにつられて早くから懐いていたけれど、それでもさすがに、突然今日から家族になると言われてすんなり受け止められるほどではなかった。
 もとの家に戻ってももう何もないのだということにも、新しい家によく知らない人がいるということにも、慣れるまでにはそれなりに時間がかかった。
 一緒に暮らすようになってから、父は毎日一生懸命わたしたちに話しかけ、いいかげんな母のかわりに日々の食事の支度をし、学校のプリントに目を通して、せっせとわたしたちの世話を焼いた。わたしや明里が洗い物をしたり洗濯物を干したりすると、大仰なくらいに手放しで褒めちぎった。
 そうした父の行動を、わたしたちははじめのうち、遠慮と警戒の真ん中くらいの気持ちで、何歩か引いて見ていた。
 いつ頃からだっただろう。あの人を躊躇なく「父ちゃん」と呼べるようになったのは。
 冬になり、いつもとは違うクリスマスがやってきて、食卓にはフライドチキンとケーキが並び、枕元にはプレゼントが置かれた。中身はわたしたちの年齢にしてはちょっと子どもっぽすぎる玩具だったけれど、翌朝緊張した顔を隠しきれずにわたしたちの反応をうかがう父にいたたまれず、わたしと妹はサンタクロースを信じているふりをした。そのときにはどうだっただろう。
 お正月、飲み過ぎて眠りこけている母を置いて、三人で初詣に行ったときは。もとの家ではやったことのなかった節分の豆まきをして、遠慮無く豆をぶつける妹に悲鳴を上げて逃げ回る父を笑って見ていたときには、どうだっただろうか。
 あの頃、少しずつぎこちなく回り始めていった生活の中で、母はどんな表情をしていただろう。もうよく覚えていない。

 母が出て行ったばかりの頃、わたしと妹はよく泣いた。泣いていることに気づけば父がうろたえるので、ふたりでくっついて声を出さないように泣いた。
 じきに母のいない生活にも慣れて、そうそう泣くようなことはなくなっても、不安で寝付けず、いつまでも寝返りを打っているような夜はあった。
 その気配は、襖ごしにも伝わっていたんだろう。しばしば居間のほうから父が、
「なんだ、眠れないのか。父ちゃんが子守歌歌ってやろうか」
 そんなふうに声を掛けてきた。
「えー。いいよ」
「いらない」
 姉妹が声を揃えていらないと言っているのに、父は懲りずに毎回ご機嫌な調子で歌い出して、しかもオンチだった。
「父ちゃんうるさい」
「うるさくて寝れない」
 口々に苦情をいうわたしたちに、へいへいと拗ねた父が、襖の向こうでふてくされて寝返りを打つ。その子どもっぽい口調に、わたしたちは顔を見合わせて笑った。
 いまにして思えば、あの頃、父だって心細かったはずだ。まだ小学生の娘ふたりを抱えて妻に逃げられ、どうやってひとりで子ども達を育てていくか、途方に暮れていたはずなのだ。


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