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  9  手紙


 父は小さなテーブルと位牌を買ってきて、居間の隅にそれを置いた。
 結局、アパートにお坊さんを呼んでお経を上げてもらっただけで、形式張った葬式はしなかった。母の旧友や知人が線香を上げに訪ねてくるというようなことも、とうとうないままだった。
 いつか父の口から聞いた和香ちゃんという人も、わたしの把握しているかぎりでは姿を見せなかった。
 父が連絡しなかったのか、それとも親しいと思っていたのは母のほうだけで、相手からすればそうでもなかったのか。どちらだったのだろうと思いはしたけれど、あえて父に確かめることはしなかった。
 遺影というほど大袈裟ではないけれど、写真も父が用意した。ずいぶん昔のものだった。まだ若い、いまのわたしと大差ないくらいの年齢の母が、写真立ての中で笑っていた。
 誰が撮ったのだろう。写真が嫌いだと言っていたわりに、それは案外いい笑顔で、そのことにもわたしは落ち着かない気持ちになった。
 これまで何年もないものとして扱われつづけてきた母の存在が、死んだことによって、部屋の中に物理的なスペースを獲得した。それは何とも妙な気分のする出来事だった。
 明里は平気なものだった。最初の日には、
「おかーさんって、こんな顔だったんだっけ」
 ぽつりとそんなことをつぶやいて、写真の前でちょっともの思いに沈むような様子もあったけれど、それきり写真は妹の中で、さっさと風景の一部になってしまったようだった。
 やがて母のお骨は祖母と同じ墓に入ったが、父はそのあとも毎日、位牌に手を合わせた。
 写真立てをじっと見つめて、ひとりでぼんやり座り込んでいる姿を何度も見かけた。ベランダで煙草を吹かしている時間も増えた。その背中を見るたびに、わたしは複雑な気分になった。

「お父さん、そんなにお母さんのこと好きだったのかな」
 明里がそんなことを言い出したのは、母の訃報からひと月あまりが経った頃のことだったと思う。学校からの帰り道、たまたま途中で一緒になったか何かで、二人で並んで歩いているときだった。
「どうなんだろうね」
 わたしは曖昧に言葉を濁した。それはわたしも不思議に思っていることではあったのだ。
 父はいまだに毎日、母の写真の前で長いことうち沈んでいた。長年連れ添った夫婦だとでもいうのならともかく、結婚して一年もしないうちに娘たちを押しつけて出て行った女だ。そこまで悲しむほどの何があったというのだろう。
「おねえはさ」
 似合わない、暗い声を出して妹が言った。「お母さんが死んだって聞いたとき、どう思った?」
「ほっとした」
 わたしの声は乾いていた。
 明里の返事までに、一拍あった。「あたしも」
 妹がそんなふうに言うのは、当たり前のような気もしたし、意外なような気もした。小さい頃の、一心に母を恋しがっていたあの子の泣きべそ顔を、わたしはまだ忘れてはいなかった。
「なんかさ」明里は小声で続けた。「もう待たなくていいんだなって思って」
 わたしは視線を上げて、明里の横顔を見た。妹はこちらを振り向かず、自分のつま先を見ながら歩いていた。
「……そうだね」
 相槌を打ちはしたけれど、そうか、やっぱりこの子はまだ母を待っていたのかと思うと、自分だけがどうしようもなく薄情なように思えた。
 妹とわたしは違う。
 わたしは、母がもう帰ってこないということに安心したのだ。それなら少なくとも、これ以上母の行動に振り回されることも、気持ちを乱されることもない。

 生前に母からは二度だけ、電話がかかってきたことがあったらしい。その話は、母の訃報が入ったあとで父から聞いた。
 二度とも非通知で、父の携帯にかけてきたのだそうだ。わたしの知るかぎりでは、アパートの固定電話のほうに掛かってきたことはなかった。
 実の娘たちとは話もしたくなかった、とまで言えば僻みが過ぎるだろうか。少なくとも母にとって、捨てた男に電話するほうが、娘たちに掛けるよりも敷居が低かったということはたしかなのだろう。
「ふたりともどうしてる? って、すごく気にしてた」
 父はそう言ったけれど、たった二回の電話でね、と皮肉を言いそうになったのをどうにか飲み込むだけで、わたしには精一杯だった。
「戻ってきなよって、言ったんだよ。二回とも。だけど、ふたりに会わせる顔がないからって……」
 涙ぐむ父は、彼女のその言い分を真に受けているようだったけれど、わたしはどうだかと思っている。男がいたかひとりの生活を満喫していたかして、窮屈な家庭にいまさら戻る気なんかさらさらなかっただけなんじゃないか。
 電話を掛けてきたのだって、何かの拍子に罪悪感に駆られたのか、あるいは酔ったときの気まぐれか、でなければ、少しは母親らしいところのある自分に酔いたかったのか。せいぜいがそんなところではなかっただろうか。
 母の訃報が入ってくるまで、父がその電話のことをわたしたちに教えなかったのも、結局は母のそういう本音を、うすうす察していたからではないかと思う。

 母の訃報から二ヶ月近くが経った頃、一通の手紙が届いた。
 郵便受けを見たのは、高校から戻ってきたわたしだった。ダイレクトメールに混じっていたその封書を何気なく裏返して、わたしはぎょっとした。差出人のところに書かれていたのは、死んだはずの母の名前だった。
 悪戯でないとわかったのは、それが記憶にある母の筆跡と同じだったからだ。
 消印は最近のものだった。狼狽したわたしは手紙を取り落とした。
 すぐには拾い上げる気にもならなくて、その場でしばらく立ち尽くしていた。やがてアパートのほかの住人が帰ってきて、ようやく我に返った。郵便受けの前に突っ立っていれば邪魔になる。
 慌てて拾って部屋に戻ると、ドアを閉めて、あらためて封筒を眺めた。そのときには少し冷静になっていた。
 誰かが母から預かっていたのか、落ちていたものを拾ったか。その人物がいまになってそのことを思い出して投函したとか、そういうことなのだろう。
 よく見れば封筒は色あせて、端が折れて丸くなっていた。それはたとえば、バッグの中に何年も入れっぱなしにして持ち歩いていたような風情だった。切手も料金が値上がりする前の値段のもので、擦れて端が剥がれかけていて、その下に足りない分だけ、ぴかぴかの真新しい切手が貼られている。
「父ちゃん」
「ん?」
 わたしはその手紙を開けずに、先に帰宅していた父に差し出した。
「これ」
 父は呆然と目を瞠って、炒めかけていた玉葱を火から下ろした。
「今日、届いてた」
「なんで今頃……」
 さあ、と気のない相づちを打って、わたしはその手紙をとにかく父の手に押しつけた。
「宛名、ふたり宛てになってる」
「わたしは読まないから」
 言い切って、わたしは父の手から鍋を取り上げた。「これ、カレー?」
「え。ああ……うん」
「続き、やる」
「いいよ、受験生なのに」
「たまには作るよ。その間にその手紙、どうにかして」
「どうにかって……」
 困惑した声で父は言って、それからもう一度手紙を裏返してまじまじと見つめた。「暁美さんの字だ」
 覚えてるものなんだなと思って、そのことにちくりと胸が痛んだ。
「捨てようと思ったけど、明里が読みたがるかもしれないし。開けて、父ちゃんが先に見てくれる?」
「それはいいけど」
 まだ何か言いたげな父に向かってもう一度念を押した。「わたしは読まない。中身もぜったい教えないで。聞きたくない」
 父はぎょっとしたような顔をした。
 驚いたのも当然かもしれない。わたしは母の訃報が入るまでずっと、彼女のことなど忘れたような顔をしてきたし、遺骨を引き取ったあとも、お坊さんが来たときに形ばかり儀礼につきあったほかは、位牌にも写真にも手を合わせたことさえなかった。父も無理強いはしなかった。わたしのその無関心は頑なだったかもしれないが、それでもともかく、父の前で露骨に母を罵ったことは、それまで一度もなかったのだ。
「……とりあえず、読んでみる」
「うん」
 それきり背を向けて、わたしはカレーに専念した。父が封を破って紙をめくる音にも、聞こえないふりをした。
 料理をするのは数か月ぶりだった。高校に上がってからはわたしも食事当番に加わっていたが、受験生だからというので、最近はまた父が毎日食事を作るようになっていた。
 手紙の存在を少しでも忘れていたくて、わたしは無心に手を動かした。こんなときでも、玉葱の焦げる甘いにおいはわたしを慰めた。
 父が手紙を読み終わるのと、明里が帰宅するのと、どちらが早かっただろう。炊飯器が炊きあがりを告げて、わたしは無言のままカレーを盛りつけ、父のほうを見ないようにして食卓を整えた。
「ただいま! 今日カレー?」
 元気いっぱいに明里が飛び込んできて、わたしと父を交互に見た。「え、父ちゃん、泣いてるの? なんかあった?」
「あった」父の代わりにわたしが答えた。「だけど、あとでね。ごはんがまずくなるから、先に食べよう。着替えといで」
 明里はぽかんとしていたが、父が涙に濡れたままの目顔で促すと、ようやくうなずいて部屋に着替えに行った。

 カレーはいい出来だった。明里はちらちらと横目に父のようすを気にしていたが、高校一年生の運動部員の胃袋に、食欲より緊急性のある問題があるはずもなく、いざ匙をつけるなり、すごいスピードでカレーを食べはじめた。
 父も目を赤くしたまま黙って食べた。とにかく何があっても飯は食えという人だったので、娘たちの目の前で自分が実践しないわけにもゆかなかったのだろう。
 ふたりに倣って、わたしもいつもと同じ量をきっちり食べた。ともかくお腹さえふくれてしまえば、ささくれていた気分も少しは落ち着く。そういうものだということを、わたしはすでに学んでいた。
「それで、なんだったの?」
 あらためて明里が聞いてくるのに、もう泣いてはいない父が、手紙を差し出した。
「暁美さんから、二人に。……一緒に働いていた人が、遺品の中から見つけて送ってくれたらしい」
 明里は無言で手紙を読んで、読み終わってからもいっとき黙り込んでいた。わたしはそのあいだずっと顔を背けていたから、妹がどんな表情をしていたのかはわからない。
 父の説明によると、手紙の前半は母の字で、残りの半分は母の同僚が書いたものらしかった。
 母はそれを書いたきり、ずっと出せないまま持っていたのだろう。手紙が母の遺品の中から出てきて、それでいまでもその宛先に届くものかどうか、ためしに送ってみた。そういうことのようだった。
「暁美さんと同じお店で働いてた人だって。私物が残ってたから、返したいって……父ちゃん、近いうちに受け取りにいくけど、ふたりとも、ついてくるか」
「行かない。父ちゃんも行かなくていいよ」
 飲み込みそびれた言葉が、何を考えるよりも早く口からこぼれた。「向こうで処分してもらいなよ。もう関係ない」
「そうはいかないよ」
 複雑そうな顔で、父は言った。「明里は?」
 妹は黙って首を振った。よく見れば明里は泣いていた。それがどういう涙なのか、わたしは聞こうともしなかった。父は小さく溜め息をついて、
「じゃあ、父ちゃんだけで行ってくる」
 そう言うと、手紙を丁寧に折りたたんで、遺影の横に立てかけた。


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