小説トップへ


 高く真上に昇った太陽から照りつける日差しは厳しく、飽きずに河の水を蒸発させ続けていた。男は首筋に落ちる汗を汚いタオルで拭うと、瞬きを繰り返した。もっと涼しい国からやってきた男にとって、この地方はひどく蒸し暑かった。
 水は濁っていて、ほんの数十センチ先も見通すことができない。行き交うたくさんの小船に紛れて、雑多なごみも浮いている。時々、誰かがちゃぷんと音を立てて物を水面に投げ入れる。ごみに紛れて小さな生き物の死骸も浮き沈みしているように見えたが、男はもう慣れてしまって、無感動にそれらをちらりと見やったきり、すぐに視線を河縁に戻した。
 河岸には、陸の上だけでは足りず、舫われた小船の上や水面に組まれた筏の上にまで、所狭しとテントや露店がひしめき合っていた。値段の交渉をしているらしい人々の、やけに早口で喧しい言葉は、男にはうまく聞き取れない。男は母国語のほかは、怪しげな英語くらいしか使うことができなかった。
 行き交う船上にしろ、陸の露店にしろ、人々のほとんどが黒い髪と浅黒い肌をしている。ぱっちりとした目は黒々として、けれど強い日差しを受け止めて明るく輝いている。人ごみの中、くっきりとした笑顔がよく目に付く。生命力に満ち溢れている。

「あとどれくらい」
 男は喘ぐようにして、連れに尋ねた。へたくそな英語でも意思は通じる。案内人として雇った青年は、やはり怪しい英語で「さあ、もう半分くらいじゃないか」と返事を寄越し、肩を竦めた。
 男は目に入った汗をぬぐって、何度も瞬きを繰り返した。それにしても暑い。
 案内人は男の方をちらりと見てから、河辺の露店を指差した。
「果物、買っていこう」
「いらない」
「脱水症状を起こす」
 案内人は、今度は少し強い調子でそう言った。だが、男は首を横に振った。更に何か言おうとした案内人に手のひらを向けて、
「金がないんだ。アンタに払う案内料だけで、ぴったりお終い」
 そう言うと、案内人は黙り込んだ。酔狂な旅行客の依頼で、この暑い中に丸一日以上かけて、延々と河下りを続けてきた。今さら料金を値切られてはたまらないと思ったのだろう。
 どうせ男には、ここのところほとんど食欲がなかった。喉が渇いているような気はしたが、それほど気にならなかった。暑さに閉口はしても、気分はむしろいいくらいだ。
 露店で売っているのか、強い花の香りが男の鼻を擽った。もっと前から漂っている香辛料の匂いと混じって、むせ返るよう。
 男はしばらく無言で流れ行く景色を追っていたが、やがて日差しの強さにくらりと眩暈を感じて、しばらく休むことにした。貴重品の入ったバッグパックを枕代わりに横になって、汗を吸ったタオルを顔の上に掛ける。そうしてもなお透けてくる日差しを瞼に感じながら、船底を打つ水の音に耳を澄ませた。

 男は浅い眠りの中、夢を見ていた。古びてところどころ崩れた神殿。薄暗い中、天井に開いた穴から真っ直ぐに陽光が差し込み、舞い上がる埃がきらきらと光っている。
 一柱の女神が祭壇の前で、まるで男に見せ付けるように時おり視線をくれながら、繰り返し舞っていた。神聖で、それでいてどこか官能的な踊り。ほとんど半裸のような衣裳の隙間にのぞく浅黒い肌が汗に濡れ、匂やかに息づいている。額には大粒の宝石をあしらった飾り。首や手足には精緻な装飾の彫りこまれた黄金の輪が連なって揺れ、動きに合わせてしゃらしゃらと音を立てており、それがまるで音楽の代わりのようだった。
 女神を囲むように、何十人もの男たちが輪を作ってひれ伏していた。彼らの頭部は、なぜか人のそれではなく、犬のそれだった。女神は狭い舞台の上を方々へ行き来し、ときおり彼らを踏みにじりながら、絶え間なく踊り続けた。
 足元に大勢の下僕を従えた女神が、またしても男の方に一瞥をくれた。吸い込まれるような漆黒の瞳が自分の顔を覗き込むたび、男は恍惚としてその顔を見上げる。女神の貌は、男の母国での基準からいうならばけして美しいものではなかったが、それでもなお奇妙に男の目を奪った。

 男は唐突に眠りから覚め、タオルを顔の上からどけた。ボートはいつの間にか水辺に寄せられていた。
「何をしてる」
 問うと、案内人はちらりと男を振り返ったが、すぐに背を向けて露天商に小銭を渡した。商人は老婆だった。元は黒々としていたのだろう髪は白髪だらけで、くっきりと刻まれた笑い皺がちらりと男の視界に入った。老婆は瑞々しい赤い果物を案内人に渡すと、一度だけ愛想よく笑って、すぐに次の客の方へ向き直ってしまった。
 案内人は軽々と船を漕いで岸辺から離れ、露天商たちの邪魔にならないあたりまで来ると、手を休めて男の方に果物を差し出してきた。
「いらない」
 男が眉根を寄せて首を振ると、案内人は静かな声で「旅はここまでだ。案内料の半値は返す」と言った。
「勝手を言うな。俺が雇い主だ」
 男はかっとなってそう言ったが、案内人は静かな表情で肩を竦めた。
「死体を舟に乗せて運ぶことまでは、俺の商売に入ってない。駅のある街の近くで降ろすから、もう国に帰れ」
 案内人は冷静だった。そう言ったきりじっと男の目をのぞき込んで、返事を待っている。
「俺は、遺跡が見たいんだ。そのために、ここまで来たんだ」
 男は拳を振ってそう言った。まさにそのために遠路はるばるこの地まで来て、延々とボートに揺られているのだった。
 男はこのところ、毎夜同じ夢を見る。神殿で踊る女神の夢。その女神を祀った神殿の遺跡が、この河をずっと下った先にある。

 最初はただの観光だった。気ままに放浪する途中、たまたま通り掛かった都市の美術館に立ち寄った男は、そこで見つけた一体の彫像に一瞬で心を奪われた。その国の奥地で、かつて祀られていた女神の像だった。
 女神は肉感的で、仰々しいばかりの装飾品の数々で身を飾っており、男の感覚からするならば神と呼ぶには生々しく即物的で、だが美しかった。
 その美術館には他にも十数点ほど、同じ女神と思われる像や絵画、レリーフが展示されていた。ただその女神だけが彫られたものもあったが、大勢の僕を従えている図式や、男神と何か言い争っている図案も多かった。この二柱の神々は双方ともこの国に住む民族とよく似た顔立ちをしていたが、一枚だけ色のついていた絵画を見ると、男神の目だけがちょっと見ないような鮮やかな青色で着色されていた。
 美術館にあったいずれの美術品もそれぞれ美しくはあったが、男を強烈に惹きつけるのはやはり、最初の像だった。男は女神像見たさに毎日通い詰め、開館から閉館までを像の前で過ごした。そのうちに顔なじみになった美術館の警備員から、この像が出土した遺跡の場所を聞いた。実は展示品の前にもしっかり書いてあったようなのだが、外国の観光客がそれほど多くないのか英語の表示が無く、男には読めなかったのだ。警備員にルートを聞くと、男の残り乏しくなった路銀でもどうにか辿りつけそうだった。信用できる案内人を紹介してもらって、後のことは何も考えずに出発した。

「ときどき、アンタのような旅行客が来る」
 案内人はボートを漕ぐ手を止めたまま、慣れた口調でそう言った。
「魔物にとり憑かれるんだ。ものも食べなくなって、毎晩同じ夢を見ると言って、あの遺跡に行きたがる。行って、そのまま死んでしまう」
 その言葉に、男は顔を上げた。魔物、魔物だって。馬鹿を言え。あんな美しい女神が、そんなものであるはずがない。
 いや、魔物だろうと悪霊だろうと、この際何でもかまわない。男は首を振った。一目会えさえすれば、後のことなんてどうだっていい。
「それでいい。行きたいんだ」
 男が必死にそう訴えると、案内人は初めて眉根を寄せて、怒ったような顔をした。
「国に、アンタの帰りを待っている人間はいないのか」
 男の肩がびくりと震えた。
「……それは」
 案内人はじっと男の目をのぞき込んで、男が何か答えるのを待っている。そういえば、黒い瞳を持つ人ばかりが目立つこの国で、この案内人の瞳は青い。男は丸一日以上狭いボートの上で共に過ごした今になって、初めてそのことに気づいた。
 その青い目をじっと見つめ返しているうちに、今の今まで思い出しもしなかった故郷の青空と、家に残してきた母親と妹の顔とが、突然男の脳裏に鮮明に浮かんだ。
 男は思わず目を閉じた。家族仲がいいとは言えない。どちらかといえば情の薄い、冷たい母だ。四角四面に正しいことを突きつけるばかりで、思いやりに欠ける堅物の妹だ。だが……。
 しばらくじっとそうしていた男は、長い時間の後に恐る恐る目を開いた。案内人の青年はまた静かな目に戻っていて、何も言わずに男に果実を差し出してきた。
 誰が捨てたのだろう、白い花が水面を浮き沈みしながら流れていく。河辺で誰かが陽気に歌っているのが聞こえてきた。太陽は変わらず照り付けて、微かな陽炎を生んでいる。
 男は息を詰めて案内人が差し出す果実を睨んでいたが、やがて、ゆっくりと手を伸ばした。
 赤い実は、触れた指先にしっとりと吸い付くようだった。男は震える手でそれを受け取り、皮の上からゆっくりと齧り付いた。甘い果汁が口の中に溢れ、男を咽させた。咳に紛れて涙を零しながら、男は忙しなく果実を貪った。そうしながら、もうあの女神には会えないのだと、頭のどこかで分かっていた。
 青い目の案内人は男が食べ終えるのをじっと見守ると、わずかに微笑んで、黙って舟を漕ぎ始めた。駅のある街へと向かって。

(終わり)

拍手する 

-------------------------------------------

 某所の企画に投稿したもの。
 写真付き+タイトル指定+原稿用紙20枚以内でした。写真は版権の都合がよくわからないので転載しません。


小説トップへ

inserted by FC2 system