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「いらっしゃいませえ、三名様ですかあ」
 みづきが友人たちの先頭に立ってドアを開けると、ちょうどヒマだったのか、すぐ近くにいたウェイトレスが、笑顔で即座に出迎えた。
「はいはい、三人ですよう」
 志乃がのんびりと答える横で、希がふんと鼻を鳴らした。「見て分かんないの? それとも連れには見えないっての?」
 出会いがしらに飛んできた言いがかりに、ウェイトレスの笑顔がひきつった。
 みづきは恥ずかしさのあまり、連れをきつく睨みつけた。が、睨まれた本人はまるで悪びれず、携帯をいじりながら平然としている。
 女性店員は一瞬笑顔をひきつらせたが、さすがはプロ意識と言うべきか、「失礼いたしました、申し訳ございません」と丁重に頭を下げた。
「禁煙席と喫煙席がございますが」
 ちょっとひきつったままの笑顔で訊いてくる店員に、希がまた悪態を重ねた。「ホントにただあるってだけだよね、間に仕切りもないしさ」
「申し訳ありません。では、禁煙席でよろしいでしょうか?」
 更にひきつった笑顔で問いを重ねる店員に、希は平然とのたまった。「いやあたし、タバコ吸うんで」
「あんたねえ」
 堪えかねたみづきが頭を抱えて拳骨でぐりぐりやると、希は手をばたばたさせて、ギブギブと叫んだ。その横を、志乃が何ごともなかったように擦り抜けて、店員の誘導についていく。
 みづきは希の頭から手を放すと、店内を見渡した。昼をしばらく回った中途半端な時間なのが幸いしてか、空席が目立っている。
 喫煙席の一番端に案内されて、みづきは小さくため息をついた。隅っこに追いやられたのはぜったい、面倒な客だと認識されたせいだ。実際、すぐ近くのテーブルにはほかに客がいない。
「なによ、お店にしてみたら、クレームははっきり言われた方がいいんだって。そうしないと、改善しないっしょ」
 涙目でこめかみを揉みながらそう言い張る希に、みづきは冷たい目を向けた。
「あんた、さっきの店員さんがもしカッコイイ男の子だったら、絶対あんなこと言わないでしょ」
「言わないに決まってるじゃん」
 みづきはため息を落として匙を投げたが、それまで黙っていた志乃が、にっこりと優しく笑って釘をさした。
「とりあえず、さっきのクレームのつけ方は、オバサンぽかったから、やめといたほうがいいと思うなあ」
 その言葉が本気でショックだったらしく、希は目を白黒させて口ごもった。さすがは志乃だ、付き合いが長いだけあって、希の扱いを心得ている。
 気を取り直したみづきは、テーブルに置いてあったメニューを開くと、希に渡した。
「まあ、それより好きなもの頼みなよ。今日は私たちからの、就職祝いだからさ」
「まじで。サンキュー! けど、就職祝いがジョイフルって、しょぼくね?」
 希は嬉々としてメニューを広げながら、そんなことをあっけらかんと言う。まったく、この女は。みづきは顔をしかめて、メニューを手で叩いた。
「こっちだって安月給なんだから、文句言わない」
「そうそう。人の好意を値段で計っちゃだめよう」
 志乃がやんわりと諭しながら、もう一冊のメニューを広げた。いきなりデザートから見ている。志乃は大の甘党で、甘いもののためなら三食抜いてもいいと普段から豪語している。
 希の方はといえば、涎をたらさんばかりの勢いで、次々にメニューを捲り出した。
「どうすっかなあ、うーん、洋風ツインハンバーグランチとね、ミックスピザと、あっ、野菜食べないと、野菜。ミニサラダと、そいでデザートはガトーショコラ。ああでもパフェもいいよね、二つとも頼んでいい? あとドリンクバー。……あ、待って、あらびきソーセージも食べたいなあ」
「ちょっ、それ全部食べる気?」
 みづきがぎょっとして聞くと、希はいかにも渋々という感じで、口を尖らせた。
「えー、しょうがないなあ、一口ずつなら分けてもいいケド?」
 そういう問題か。みづきは呆れて口をぱくぱくさせた。けれど、思い返せば高校のころから希は大食いだった。持ってきた二段弁当では足りず、購買でさらにパンを買い足していたくらいだ。
「あんたまさか、まだ成長期?」
「あ、聞いてよそれがさあ、会社に出すのに健康診断受けに行ったらさ、三センチ縮んでんだよ。んなわけないっつの、保健所のオバサン、ひとの頭をぐりぐり押しやがって、あんたのせいで縮んだんだよって……あ、ねえねえあれ見てあれ」
 ぷりぷり怒っていた希が、急に声を上げて入口を指差した。
 みづきが振り返ると、ちょうど店内にビジネススーツの男女が入ってきたところだった。禁煙席の方に誘導されていくちょっとくたびれたオジサンと、若い女性の組み合わせ。とりたてて変わったところはない。
「何よ」
「あれきっと、不倫カップルだよ、間違いない」
 でっかい声だった。みづきが思わずぽかりとやると、希は「何よう」と頭を押さえて抗議してきた。
「どこが不倫よ。出張か何かでしょ」
「出張に見せかけて、ってやつだって、絶対」
「何が絶対なんだっての」
 呆れたみづきがため息混じりに突っ込むと、希は悪びれず首をかしげた。
「えー、女のカン?」
「あんたにそんな大層な勘があるなんて初耳だね」
「いやあ、アレはそうだって、間違いない」
「はいはい。じゃあもう不倫でいいよ。それより、そこのピンポン押して」
 聞き流されて、希はぷっと頬を膨らませた。

「あらあら、やあねえ。不倫ですってよ」
 妻の頼子に話しかけられて中尾が振り向くと、入口でビジネススーツの男女二人組が何か話しているところだった。中尾よりもいくらか年かさの中年男性と、さっぱりした雰囲気の女の子の二人連れだ。
 あまり不倫というふうにも見えないけどな、などと考えつつも、中尾は口では違うことを言った。「よそさまのことは、どうだっていいだろう」
 まったく、女っていうのはどうしてこう詮索好きなんだ。中尾は呆れてメニューに視線を戻したが、頼子はおおげさに食いついてきた。
「あら。あなたまさか、自分も浮気してるんじゃないでしょうね」
 メニューを捲っていた中尾の手が滑った。お冷がテーブルの上に零れる。
「馬鹿、なんでそうなる」
「だって、あんまり気が咎めるような顔をするから」
「気が咎めてるんじゃなくて、気の毒に思ってるんだ。赤の他人から好奇心に満ちた目でじろじろ見られて」
「あらそう」
 どことなく疑わしげな目で見られて、中尾は鼻に皺を寄せた。
「馬鹿たれ」

 あれきっと不倫カップルだよ、という若い女の子の声が聞こえてきたものの、まさか自分たちのことを言われているとは思いもよらなかった篠田は、軽く聞き流して店員と話していた。タバコを嗜まない部下を気遣って、禁煙席を頼んでいたところに、
「課長、あたしたち、不倫カップルと間違えられたらしいですよ」
 その部下の宇喜多亜美から笑顔で言われて、篠田は面食らった。
 亜美は別に気を悪くしたようすもなく、にこにこしている。何がそんなに嬉しいのかよく分からない。まあ、嫌そうに言われたら、それはそれで傷つくような気もするのだが。
 こちらにどうぞ、と、どこかひきつった表情の店員に誘導されながら、篠田は部下をちらりと振り返った。
「僕はいいけどね、ちょっとは怒りなさいよ、宇喜多さん。不名誉だろうに、こんなオジサンとの間を疑われたって」
「自分でオジサンって言ったら駄目ですよ、課長。老け込みますよ。……課長は怒らないんですか、不名誉だって」
「そんな甲斐性があるように見えるなら、むしろ喜ぶべきなんだろうね」
 篠田は近ごろ少しばかり頼りなくなってきた頭頂を撫でると、首をすくめた。
「そういえば、奥さん、お元気ですか」
「うん、むしろ元気すぎるくらいだよ。なんなんだろうか、あれは。陶芸教室だろ、テニススクールだろ、水泳教室だろ。この間はとうとう、合気道をやろうかななんて言いだしてくれて、別にいいけどお前、その実験台には誰がなるんだよって」
 篠田は案内された席にかけながら、肩を落としてぼやいた。「あれは百歳まで生きる気に違いないよ」
 亜美は変わらずにこにこしている。
「いいじゃありませんか、奥さんが長生きするほうが、きっといいですよ。逆より」
「それはそうかもしれないけどね、俺は別に、嫁さんが居なくなったら一人じゃATMで金も下ろせないようなタイプじゃないし、料理も掃除洗濯も、一応はできるんだよ」
「あれれ、じゃあ、見送るほうでもいいんですか」
「そりゃ、できれば看取ってもらったほうがいいけどね。……と、ここは奢るよ。きみ、一人暮らしだろう」
「あれ、まさかホントに下心ありですか」
 思わず篠田はお冷やを吹き出して、咳き込みながら、ビニールに入ったお絞りを手探りで探した。あらあら大変と、亜美が紙ナプキンを差し出してくる。
「げほっ。……うちの会社の安月給で、一人暮らしじゃ大変だろうと言いたいんだよ。冴えないオジサンをからかうのはやめてくれ」
「自分でオジサンって言ったら駄目ですってば。……それはともかく、なんでジョイフルなんですか」
「鰻でも奢れっていうのか。ぼくの財布も薄いんだよ、ウチの大蔵大臣が厳しいから」
 自分の習い事にはいくらでも金をかけるくせにね、とさらにため息を落とすと、
「財務省じゃなくて大蔵省が出てくるところが、古いです」
 そうダメ出しまでされた。篠田は自分が一気に老け込んだような錯覚を覚えて、がくんと肩を落とした。
「仕方ない。古いんだよ、アタマの中身が」
「そうじゃなくて、せっかく長崎まで来てるのに、長崎名物くらい食べていきたいじゃないですか。いくら遊びに来てるんじゃなくったって」
「なんだ、リンガーハットの方がよかったか?」
 惚けて言うと、亜美は不満げに唇を尖らせた。「リンガーハットなら、向こうにもありますよ」
「高級中華料理店で、本場のちゃんぽんを奢れって? 勘弁してくれよ」
「別に奢ってもらわなくてもいいから、名物が食べたかったです」
「名物にうまいものなし、っていうだろ」
「地元の人が聞いたら怒りますよ」
「そりゃ失敬。……きみは、何にするか決まったかい」
 聞くと、亜美は首をかしげた。「課長は何にされるんですか」
「そうだな。焼き鮭定食にしておくよ」
 最近、肉を食べると胃もたれするからね、と篠田はため息混じりに付け足した。
「じゃあ、あたしもそれで。ごちそうさまです。ドリンクバー、つけてもいいですよね」
「どうぞ。なんならケーキでも頼んだら?」
「ダイエット中なんです」
 あ、そう。相槌を打ったところに、なんだか店員が厨房から、やたらと大量の皿を一気に運んでいくのが見えて、篠田は思わずその後ろ姿を目で追いかけた。混雑しているときはともかく、これだけ席にゆとりのある時間帯くらい、小分けにして運べばいいのに。けどまあ、きびきびして姿勢がいいのはいい。
「また、店員さんのお尻ばっかり見てる」
 亜美が横槍を入れてきて、篠田はぎょっとした。ウェイトレスの動きが一瞬、強張ったように不自然に揺れた。振り返って睨みつけてこないのは、プロ意識かもしれない。
 篠田は亜美をにらみつけた。社内で言う冗談ならまあいいが、痴漢と間違えられたら、たまったものではない。
「誤解を招くような言い方はよしてくれ。それより、きみもちゃんと見ておきなさいよ」
「店員さんのお尻をですか」
「尻はいいから、接客とかを」
 篠田は最後だけ声をひそめたが、言われた亜美は、冗談なのにとくすくす笑っている。篠田は小さくため息をついた。オジサンをからかうのはやめてほしい、本当に。
 現地のファミリーレストランとのフランチャイズ契約で、ちょっとこじれた案件があって、わざわざ本社からここまで飛行機で出向いてきたのだ。せっかくだから、ついでに同業者の敵情視察くらいはして帰りたかった。
「休憩時間まで仕事のことばっかり考えてたら、そのうちビョーキになっちゃいますよ」
「お気遣いありがとう。普通は、頑張りすぎる部下に上司が言うせりふだけどね」
 君は頑張りすぎてくれないなあ、という含みを持たせたつもりで篠田は言ったが、亜美はにこにこして聞き流している。まあ、気に病みすぎて出勤してこなくなるよりいいかと、半分は諦め気味に、篠田も流した。

「お待たせいたしましたあ」
 志乃はその声に話を止めて振り返って、思わず苦笑した。ウェイトレスがやけくそのように運んできた大量の皿で、テーブルの上がみるみる埋まっていく。
 比喩ではなく、文字通り埋まった。みづきが小さく呻いて、店員さんに小声で申し出た。「……すいません。隣のテーブル、使ってもいいですか。混んできたらどきますから」
 店内が空いているのが幸いして、店員は笑顔であっさりと了解したが、申し出た当のみづきは、恥ずかしそうに小さくなって、希をじろりと睨みつけた。
「食べ終わってから次を頼めばいいのに、あんたはもう」
「あー、ごめんごめん。……それよりさ、志乃。どうなったの、この前のオッサン」
 聞かれた志乃はちょっと困って首を傾げたが、正直に答えることにした。
「別に。あれからそのまま」
「ええ、まだちゃんとフってないわけ?」
 希に大声で追及されて、志乃は眉を下げた。前に会ったときに、軽い気持ちで会社での出来事を話してしまったのが失敗だった。つい、旧友たちの前では口が緩んでしまう。
「振るも何も、そんなんじゃないのよう。ただいろいろ相談されてるってだけで、迫られてるとかいうわけじゃなくてね」
「迫られてるんじゃなくても、言い寄られてるんでしょ」
「そういうわけでもないんだけど……」
 志乃は困って、言葉を濁した。
 実際、微妙な話なのだ。交際を申し込まれたわけでも、何か具体的な関係をもっているわけでもなくて、言ってみれば、職場の男性から、家庭のことでときどき相談を受けているというだけ。まったく何もないというと少し後ろめたいような、けれど、何かあるというも言えないような。
「そーゆーのはね、早めに『あんたになんて興味ないのよ』って、分かるように言っとかないと、どんどん勘違いさせるよ」
「勘違いって、そんな」
 志乃はあいまいに首を振りながら苦笑したが、希は目を三角にして声を上げた。
「どこがいいの、あんなハゲのしょぼくれたおっさん!」
 そのやたらと大きな声に、志乃は首を竦めた。そういえば、前にどんな男よと言われて、携帯に入っていた忘年会の写真を見せたのだった。七人ほどで映ったので、ひとりひとりの顔は小さくてよく分からないが、まあ、確かにその人の額は、やや後退しはじめてきてはいる。
「声がでかいって」
 みづきがメニューで希の頭をはたいた。周りに筒抜けだ。思わず周囲を見渡す。幸い、知っている顔はないけれど、何組かの客が、好奇心をにじませてこちらを振り返っていた。これは少しばかり恥ずかしい。
 希は叩かれた頭を押さえ、ひとしきりぶつぶついいながらも、食欲を思い出したらしく、ようやくハンバーグを箸で切り分け始めた。
 志乃はちょっと顔を赤らめつつ、自分のカフェアフォガードをつついた。バニラアイスに、濃いエスプレッソをかけて食べるデザートだ。ひんやり冷たくて美味しい。

 注文を済ませたあとで、亜美があらためてメニューを眺めて感心していると、奥の席で盛り上がっている若い女の子たちの間から、叫び声が聞こえてきた。
「どこがいいの、あんなハゲのしょぼくれたおっさん!」
 亜美の正面で、篠田が胸を押さえてうつむいた。傷ついたらしい上司の、やや薄くなりつつある頭頂部に向かって、亜美は慌てて声をかける。
「課長、大丈夫ですよ、課長はとっても素敵です」
 そう言いながら、亜美はついちらちらと、篠田の生え際に目にやってしまった。普段であれば、とりたてて笑うほどのことでもないのに、その落ち込みようがおかしいのと、笑ったらいけないと思ったらよけいにおかしくなるのとで、笑いを堪えるのに忙しい。
「フォローありがとう、でもよかったら、棒読みで言うのはやめてくれないか」
 顔を上げないまま、篠田は力なく呟いた。
「気にしちゃだめですよ。むしろ男の人の、見た目にあんまり頓着しないおおらかなところに惹かれる女性も、意外と多いんですよ」
「もしかして、こういう小さいことを気にしてる僕にはちっとも惹かれないって、遠まわしに言ってる?」
 ありゃ、逆効果だったか。亜美は意味もなく手をぱたぱたと振りながら、さらにフォローを重ねようとする。
「やだなあ課長、課長は素敵ですったら。知ってました? 社内に課長のファンクラブがあるんですよ」
「ありがとう、でも慰めはいいよ。気にしないでくれ」
 本当なんだけどなあ、と、亜美は肩を竦めた。ファンクラブと言っても、若い子がたくさん集まってきゃーきゃー騒ぐようなものではないけれど、本当にある。構成員三名で、他に本命はしっかりいるような女子社員どうしで「篠田課長って、からかい甲斐があって可愛いよね」「わかるわかる」というようなことを言っているだけの集合でも、一応ファンクラブであることには間違いない。
 ちなみに会員ナンバーワンは、亜美である。あとの二人は、同期の女子と先輩がひとりずつ。出張から帰ったら、自慢してやろうと思っているのだった。
「それより課長、わたし、飲み物持ってきますね。何がいいですか」
「ありがとう。冷たいものならなんでもいいよ」
 了解です、と言い置いて、亜美はドリンクバーに向かった。さて、からかうと面白い課長に、何か微妙な飲み物を持っていきたいが、当たり前のファミレスにそんなに面白いメニューはないだろう。
 亜美は迷いながら、ジュースの機械の前に立った。めちゃくちゃに混ぜてみようか。けれど、やりすぎてもよくない。相手はまがりなりにも上司なのだから。
「うーん」
 亜美が悩んでいると、後ろで待っていたらしい男性が、「失礼」と割り込んで、さっさと機械から自分の分の飲み物を注いだ。その手元をなんとはなしに見ていた亜美は、はっとして目を輝かせた。これだ。

「あら、けっこうおいしいわ。そっちはどう?」
 頼子はねぎトロ丼を食べながら、夫に聞いた。中尾は答えなかったが、ハンバーグを口に入れた瞬間の眉間のしわから、口に合わなかったのだというのは分かった。内弁慶の典型で、家の外では笑えるくらい気を遣う夫のことだ。店員に聞こえるところで「まずい」と言いたくないのだろう。
「まあ、勘弁してよ。わたしだって、たまには人さまの作ったものを食べて、楽をしたいのよ。パートだって言ったって、家にいる間じゅうゆっくりできるわけじゃないんだから」
 頼子はため息混じりに言った。家事を手伝うなど夢また夢の夫への、嫌味のつもりだった。
「別に、文句は言ってないだろうが」
「はいはい」
 夫がグラスを口に運んで、さらに眉間に皺を寄せているのに気付いて、頼子は首をかしげた。いくら料理が口にあわなくったって、そこまでいやそうな顔をしなくてもいいだろうに。
「どうかしたの」
「いや……なんでもない」
「そう?」
 まあ、帰ってから文句の一つも出てくるだろう。頼子はこの場ではそれ以上、突っ込んでは聞かないことにした。

「おまたせしました」
 亜美からコールドドリンク用のグラスを受け取って、篠田は礼を言った。見た目からすると、麦茶か何かのようだった。
「どうだい、ドリンクバーは。充実してた?」
「けっこう色々ありましたよ」
 亜美は自分の分の飲み物はテーブルに置いたまま、じっと篠田の手元を見ている。席を立っている間に届いた自分の焼き鮭定食にも手をつける様子がない。
 上司を差し置いて、先に口はつけにくいのかもしれないと、篠田はあまり喉も渇いていなかったが、義理でグラスに口をつけた。瞬間、口の中に広がった予想外の味に、思わず噎せそうになる。
「……なんだ、これ」
「コーヒーらしいです。味、しました?」
「しないね」
 篠田は思わず舌を出した。かすかに苦味があるような気もするが、ほとんど水だった。
「こっちと代えましょうか。まだわたし、口つけてないですよ」
 言われて亜美のグラスを見ると、うっすらと濁った黒いような緑がかっているような、奇妙な色のドリンクが入っていた。
「……何だい、そっちは」
「ジュースでカクテルを作ってみました」
「……いや、いいよ。これをいただくよ」
 篠田は顔を顰めてコーヒー? を飲んだ。どうしたらここまで薄くなるのか、いっそ不思議でならない。
「お待たせしましたあ」
 注文の品が届いたので、篠田は口を噤んだ。同業者だとばれると、何かと気まずいものがある。
「ご注文、おそろいでしょうかあ」
「はい。いただきます」
「ごゆっくりどうぞー」
 一礼して去っていった店員の背中をつい目で追っていると、亜美がくすりと笑った。
「どうしてファミレスのウェイトレスとか、コンビニ店員とか、普通と違う抑揚で話すんでしょうね」
「電車の車掌とか、舞台俳優とかな」
「あれ。課長、演劇とか、ご覧になるんですか?」
「昔はたまに、観に行ってたよ。今は小遣いが少なくてね」
 それにひとりで行けば我が家の財務大臣から文句を言われるし、一緒に行こうと言えば映画の方がいいと言われるしね。篠田はそう零してから、店員が近くにはいないことをそっと確認し、コーヒーを指差した。
「この店舗だけだと思う?」
 聞くと、亜美はさあ、と首をかしげた。
「ちょっと前に、向こうでジョイフルにいったときは、そうでもなかったですけど。……うちの店舗も、場所によっては似たようなものだったりして」
「……マニュアルはちゃんとしているんだけどな」
 言いながらも、篠田は自分のその言葉をあまり信用していなかった。マニュアルがしっかりしていても、全部守られてるとは限らない。フランチャイズ契約なんてそんなものだ。
「食べながら仕事のことを考えるのはよしましょうよ。帰りの飛行機で考えたらいいじゃありませんか」
「飛行機に乗ったら寝ちゃうんだよ。疲れきって」
 オジサンだからね、とぼやいて、篠田は焼き鮭に手をつけた。

「だって、イケメンならまだしも、ハゲオヤジだよ、信じらんない」
 希が勢いあまってテーブルをばんばん叩いたので、志乃は自分のカフェアフォガードをさっと持ち上げた。また大声になっている。すぐ我を忘れるのは希の悪いところだ。皿が小さく跳ねて、みづきが「ちょっと」と声を上げる。
「私は、見た目のことは別にそんなに……」
 志乃はカフェアフォガードの最後の一口を味わいながら、苦笑した。それにしても写真を見せたのは失敗だった。
「見た目はともかくさ、ちょっと年、離れすぎじゃない?」それまで二人の話をじっと聴いていたみづきが、急に口を挟んできた。「下手するとあんたより、あんたのお父さんの方が近いでしょ」
 希もその言葉に追随して、うんうんと頷く。
「そうだよ、やめときなって。だいたい、相手、奥さんいるっしょ。泥沼よ、修羅場だよ」
「その奥さんと、もう何年も前からうまくいってないらしくてね、話を聞いたら気の毒だから、つい相談くらいなら……って。それだけよう、何にもないんだから」
「そんな口車に乗せられちゃだめだって、そのうち、痛い目にあうんだから」
「だから、今のところ、別にそんなんじゃなくてね」
「今のところって何さ、危ないなあ、もう」
 かっかしている希の声が大きいのだけは、どうにかしてもらいたいのだけれど、志乃は思わずじんわりと笑った。人のことで一生懸命心配できるのが、希のいいところだ。
「心配してくれるのは嬉しいけど、まあ、私のことは大丈夫よう」
「まあ、あんたはけっこうしっかりしてるから、心配ないとは思うけど」
 みづきが仏頂面で言って、自分のカルボナーラを美味しくもなさそうにつついた。
「でも、何か困ったら、ちゃんと相談するんだよ。あたしたちとか、周りの人とかにさ」
 念を押してきたみづきに、志乃は頷きを返して微笑んだ。みづきも昔から変わらない。
 志乃は昔から、なるべく物事を波風立てずに流そうというくせがついてしまっている。聞こえるように陰口を叩かれても、聞こえなかったふりをするし、多少の面倒を押し付けられても、そのことで争うよりは、さっさと引き受けて丸くおさめようとしてしまう。
 そういう姿勢を、みづきには昔からよく叱られた。正義感の強いみづきは、志乃が面倒ごとを押し付けられたり、遠まわしな嫌がらせを受けたりするたびに、相手に真っ向から向かっていった。志乃がいくら気にしないからいいと言っても、譲らなかった。
 希もそうだ。希はいつだって自分に正直で、本音を言って人に嫌われることを、まるで恐れない。何かあると、志乃の代わりに、二人がいつも怒ってくれていた。
「二人とも、ありがとう。……希、ほら、手が止まってるよ。ゆっくり食べてたら、食べきる前に満腹になっちゃうんじゃない?」
 そう言うと、希ははっとしたように食べかけていたハンバーグに箸を伸ばした。
「ふつうは、よく噛んでゆっくり食べなさいっていうんだけどね……」
 みづきが眉をひそめて、大量の皿を見渡した。
「いいんじゃない? 希は胃腸が丈夫みたいだから」
「食べても食べても太らないしね。どうなってるのよ、このお腹はあ」
 みづきが肘で希のわき腹をつついて、ぷっと吹き出した。志乃も、つられて笑い出す。懐かしいな、高校の教室で、よくこんなやりとりをしていた。
 希が「やめろって。この場で戻してもいいの?」と脅しにかかって、みづきが慌てて肘を引っ込めた。

 店の奥のほうに陣取っている女の子たちが、どっと沸いて、中尾はじろっとそちらの方をにらみつけた。さっきから何度も大声を出して騒いでいる。まったく、今の若い連中は、静かに飯も食えないのか。
 中尾は視線を正面に戻した。頼子のどんぶりには、まだ半分近くのねぎトロ丼が残っている。
「遅いな」
 食べ終えて手持ち無沙汰の中尾は、思わず口に出してぼやいた。
「そんなに急かさないでよ」
 頼子は眉を吊り上げて、呆れたように言い返してきた。こいつが食べるのが遅いのは知っていたのになと、中尾は落ち着かない思いで膝をゆすった。会社で、昼食を急いで詰め込んで早く仕事に戻ろうとするくせがついているものだから、ついせかせかと食べてしまった。
「あなたこそ、ちょっとはゆっくり食べたらどうなの。消化に悪いのよ。もう胃だって、三十代のころのようにはいかないでしょ」
 むっとして、中尾は唇を曲げた。先月四十になったばかりだ。ほんの一か月前と、そんなに違うものか。
「コーヒーでも飲んで待っててよ」
 中尾はその言葉に、思わず黙り込んだ。先ほどドリンクバーのコーヒーをもってきたばかりだったのだが、あれはひどい味だった。
 そう妻に言えば、面と向かって店員に文句をつけかねず、それがわずらわしかったので、中尾は何も言わずに席を立った。何か違う飲み物をもってこよう。

 希はドリンクバーの前でうろうろしていた。紅茶が飲みたいような気がするのだが、さっきから話しつづけているので、冷たいジュースのほうがいいかもしれないと、迷い始めてしまったのだ。どうしようか。
 それにしても、話をうやむやにされてしまったが、志乃はあんな調子で大丈夫なのだろうか。おっとりしていて忍耐強いのは、志乃の長所には間違いない。けれど、人に嫌なことを押し付けられても笑って許してしまうような志乃の我慢強さは、希には、ときどき腹立たしくもある。
 穏便に済ますのもいいけれど、嫌なことは嫌、迷惑は迷惑と言わなくてはならないときもある……と、希は思う。少しばかりはっきりノーと言い過ぎる自分の性格については、あまり振り返らない。
 希が機械の前をうろうろしていると、後ろで小さな舌打ちが聞こえてきた。振り返ると、中年の男がいらだたしげに足をゆすっている。待たせたのかと思ってちょっと身を避けると、男は当然という感じで、ずかずかとコールドドリンクの機械に歩み寄って、さっさと自分の分を汲んでしまった。
 そのこれみよがしな態度にむっとして、希は何よ、と男を睨みつけた。すると、男も睨み返してきた。苛々した様子ではあったが、危ない相手ではなく、ただの苛々オヤジだと直感で見抜いたので、希は全くびびらなかった。ふん、と顔を背けて、自分のジュースをコップに注ぐ。メロンソーダにした。炭酸がいい。かっかしている頭も、少しくらい冷えるかもしれない。
「希ぃ、ついでにホワイトウォーターとって来て」みづきが遠くから叫んでくる。
「分かったア」と言いながら、希はホワイトウォーターに、ペプシとオレンジジュースを混ぜた。あたしに何か頼むということは、みづきもこのくらいのイタズラは織り込み済みのはずだ。
 ちょっと愉快な気分になったのに、なぜか自分の飲み物はとっくに注いだはずの男が、まだ立ち止まっていて、希の手元を横目で嫌そうに見ていた。希はむっとして、またにらみ返す。
 これは多分、食べ物で遊ぶんじゃない、という非難の目だ。希は女の勘というか野生の勘というか、とにかくそういう何かの勘で、男の視線の意味を敏感に察した。目は口ほどにナントカいうアレだった。思わず、文句があるなら言いなさいよ、という顔をした。
 男は何も言わず、面白くなさそうな顔で自分のテーブルに引き返していった。案の定だ。希はその背中に向かって舌を出した。ふん。

 なんとか味のしないコーヒーを飲みきって、篠田は席を立った。「ちょっと、飲み物をとってくるよ」
「あ、私が……」
「いや、いいよ。どんな感じか、ちょっと見てみたいし」
 そうですか、となぜか残念そうな亜美に背を向けて、篠田はドリンクバーに向かう。
 通り掛かった席の夫婦が、食事をしながら、何ごとかぽつぽつと話をしている。よその家庭の会話を盗み聞きするつもりはなかったのだが、奥さんの方がぽつりと言った言葉が、篠田の耳に飛び込んできた。「それにしても、どうして、CMやメニューの写真と、本物の見た目が、こんなに違うのかしらねえ」
 篠田ははっとして、変わらず足は動かしながらも、思わずそちらのほうに耳を傾けた。
「どこでもそうだろう」と、旦那の方は面倒くさそうに返事をする。
「そうなんだけど。期待する分、がっかりするじゃない。レトルト食品なんかのパッケージもそうだけど」
 そのとおりだと、篠田は聞き耳を立てながら自嘲した。
 そのがっかり感よりも、写真の宣伝力の方が上回ると、業界が判断するからこそ、そうした虚飾はなくならない。そういう習慣は、少なくとも当分はなくならないだろう。すべての飲食店と食品メーカーとが、せーのでいっせいにやめてしまわない限りは……
 もの思いにふけりながらボタンを押して、篠田ははっとした。いつものクセで、無意識にコーヒーのボタンを押してしまった。
 さっきよりさらに一割引きくらいの薄さのコーヒーを見つめて、篠田はため息をついた。

 みづきはゆっくりとカルボナーラをつついていた。希の大食いを見ていると、なんだかこちらまでお腹がふくれたような気持ちになってくる。
「それにしても、あんた、あいかわらず待ち合わせの時間、守んないのね」
 みづきがぼやくと、希は食べる手を止めることなく、軽いノリで謝ってきた。
「あーごめんごめん。メールで起きた」
 そう言いながら、食べ物をどんどん口の中に詰め込んでいく。まったく真摯さというものが感じられない態度に、みづきは眉を上げた。
「ほんとに人の迷惑を考えないね、あんたってやつは」
 そう叱っても、希は悪びれずに肩を竦めている。けれど、みづきも口で言うほどに腹を立てているわけではなかった。自分に正直で、人の迷惑を顧みない無遠慮さは、希の欠点でもあるが、いいところでもある。裏表なく、本音をごまかさないで全部口に出してくれる相手というのは、貴重なものだ。
 それに、こうして頭ごなしに叱られてもけろっとしている希だからこそ、みづきも言いたいことを遠慮なく言える。言葉の裏を読む必要も、うわべに隠した真意を推し量ろうとする必要もない。
 けれど希は誉めるとすぐ図に乗るので、そのことについては、みづきは内心で思っただけで、口に出さなかった。
「……まあ、いいけどさ。あんたそんなんで、ちゃんと会社にいけるの?」
「まかひて。やうほきゃやうよ、あらひは」
 希は軽く請け負ったが、みづきは半信半疑で、そのハムスターのようになった頬を睨んだ。希は昔から時間にルーズで、待ち合わせの時間前に現れたことは、みづきの記憶にあるかぎり、ただの一度もない。今日も、昼ごろにはここに着く予定だったのに、そのせいで中途半端な時間になってしまった。おかげで店内が空いているのは幸いなのだが。
 みづきは手元のグラスを眺めて、顔を顰めた。希はいったい何と何を混ぜたのか、そこには得たいの知れない灰褐色の液体が揺れている。
 隣を見ると、志乃はカフェアフォガードのあとのミルクレープもすでに平らげて、次を頼むべく、メニューを眺めはじめている。こちらはぬるくなるのが嫌なのだろう、一品ずつ頼んでいる。
 メニューを追う志乃の目線から推察するに、次は和風パフェにしようか白玉ぜんざいにしようかで、真剣に迷っているようだった。ちゃんとしたごはんを食べればいいのに。
「だいたい貴方は外面がいいから」と、中年女性の高い声が聞こえてきて、みづきは何気なくそちらのほうを見た。近くの席で、夫婦らしい男女が何か口論している。
「お前が非常識なんだ!」
 旦那の方が上げた大声に、みづきは目を丸くした。叫んだ本人は、自分が上げた声にばつの悪い思いをしたような表情で、憮然と腕を組んでいる。
「怒鳴らないでよ。恥ずかしいわね」
「お前が大声を出させるからだろうが」
 夫婦連れはなにやら言い合って、険悪そうにしている。みづきが思わずちらちら振り返っていると、希がべえっと舌を出して、「だっせえ。夫婦喧嘩はポチも食べないってね」と、やたらとでかい声で言った。
「ちょっと、聞こえるって」
 みづきが慌てて嗜めても、希はけろっとしている。
「なんでよ、聞こえてもいいじゃん」
「……あんたいつか、その口の悪さで痛い目みるよ」
「だーいじょうぶ。ホントに危ない相手には絡まないって。その辺の鼻は聞くんだよ、あたし」
「女の勘で?」
「そ。わかってんじゃん」
 みづきはため息をついた。呆れて口がふさがらない。
「……ちょっと飲み物とってくる」
「残ってるじゃん、あたしのスペシャルカクテルがさ」
「自分で飲みな。あんたね、食べ物で遊ぶんじゃないよ」
 叱り付けると、希は全然悪びれないようすで、小さく舌を出した。

「まったく、どっちが常識がないんだか」
 呆れ顔の妻にぼやかれて、中尾はむっつりと黙り込んだ。店員の目が気になって、店内にちらりと視線を走らせると、何組かの客の視線がさっと逸れたのが分かって、苛々とグラスを置く。
 短気なのは性分で、自覚はあってもそうそう改まらない。仕事中にこらえている分、家族といるときはなおさら押さえがきかない。中尾はため息をついた。もうこの歳になれば、この性格も一生治らないだろうという気もしている。いずれ、卒中あたりで死ぬのではなかろうか。
 この三か月ばかり続けている禁煙が、苛立ちに拍車をかけてもいる。煙草の吸いすぎで血栓を作るのと、禁煙のストレスで血圧を上げるのと、どちらが体に悪いだろうか。
 中尾は喫煙席に視線をやった。分煙とはいえ、仕切りも何もないので、煙がときおり流れてくる。
 奥の喫煙席では、三人連れの若い女の子たちが、ぎゃあぎゃあ騒いでいる。先ほどからひどく騒々しかった。
「また若い子のお尻なんか見て」
 妻からとんでもない言いがかりをつけられて、中尾はぎょっと目を剥いた。
「なんでそうなるんだ」
「冗談よ。そんな目でよそさまのお嬢さんを睨まないの。可愛らしい子たちじゃない」
「人の迷惑を考えない連中ばっかりだ」
「病院やバスの中なんかじゃないんだから、少しくらいはしゃいだっていいじゃない。高級レストランだの料亭だのならともかく」
 呆れ顔の妻に諭されて、中尾はふん、と鼻を鳴らした。まあ頼子の言うように、少しいいレストランに行けば、ああいう連中はやってこないだろう。
 来月に予約を入れているレストランの内装を思い浮かべて、中尾は気を紛らせた。何年か前に行ったきりだが、昔からの有名店だ。そう極端にはようすは変わっていないだろう。
 そういえば、いいレストランに行くのなら、自分も早食いのクセと短気をどうにかしないとならない。
 中尾はため息をこぼしてグラスを口につけてから、中身が入っていないことに気付いた。もう注ぎに行く気はしない。

 篠田は死ぬほど薄いコーヒーを、ドリンクバーの前で立ったまま飲み干した。やはり味はしなかった。テーブルまで持って帰って亜美に笑われるのも恥ずかしかったし、いちおうは飲めるものを、口もつけずに捨てる気にはなれなかった。たとえそれが味のしないコーヒーであっても。
 そんな感覚を捨てきれない自分は、いまひとつ今の仕事には向いていないのではないかと、篠田はいつも気持ちのどこかで思っている。捨てられる残飯をいちいちもったいないなどと思っていては、外食産業従事者はやっていけないはずなのだ。
 わかっていても、割り切るでも、辞めて転職するでもない。発展途上国で飢えて死んでいく子ども達に向けて、ときどき募金箱に小銭を放り込むことで罪悪感の半分を誤魔化して、とぼとぼと家路につくのが、篠田にはせいぜいだった。家族を食わせることもできないで、地球平和について一説ぶったって仕方がない。そう自分に言い聞かせながら。彼の妻は、旦那が米の一粒も残さないのは、自分の料理が美味いからだと思っているようだが。
 今度こそ、ティーパックの番茶を淹れながら、篠田は後ろで順番を待っている若い女性に気付いて、会釈して半分身体を避けた。相手も少し恐縮するような仕草を見せて、ジュースを注ぎにかかる。その視線が、一瞬自分の頭に向いたような気がして、篠田は落ち着かない気分になった。この子、「ハゲのしょぼくれたおっさん!」の女の子たちの一人じゃなかっただろうか。
 とはいえ、この子が叫んだ張本人かどうかまでは分からない。気にしすぎだ、被害妄想だと自分に言い聞かせながら、篠田はそそくさと自分のテーブルに戻った。
 亜美は何が嬉しいのか、まだにこにこしている。
「宇喜多君、なんだか今日はずっとご機嫌だね」
「そうですか? 課長と出張できるのが嬉しいんです」
「きみもずいぶん口がうまくなったね」
「ええ。お昼ご飯代ぶんは、このくらいでいいでしょうか」
 あっさりと言われて、思わず肩が落ちる。亜美はくすくすと笑って、
「課長は素敵ですよ。だって、課長、ホントはお煙草吸われるでしょう」
 急にそんなことを言った。不意打ちをくらって、篠田は思わず気まずく咳払いをした。
「健康のために、禁煙しようかと思ってるところなんだ」
 思わず照れ隠しで適当なことを言うと、亜美は上機嫌に笑った。
「そうですか、じゃあそういうことにしておきますね」
 まったく、若い女の子はよくわからない。篠田は肩を竦めて、冷めてしまった焼き鮭定食の残りを片付けにかかった。

「ほんとに全部食べたね……」
 みづきは呆然と呟いた。食べ終わるつど、志乃が通り掛かった店員に空き皿を渡していたので、テーブルのうえはドリンクとデザートの皿を残して、すっきり片付いている。
「ごちそうさまでしたァ」
 希はふくれたお腹をぽんぽんと叩いて煙草に火をつけると、満足そうに言った。他の客だの店員だのにさんざんケチをつけていたあの機嫌の悪さは、けろりとどこかに吹き飛ばしている。気がすむまで食べればとたんに上機嫌になるのが、そういえば昔からのこの子の習性だったと、みづきは当時を懐かしく振り返った。
 大量の弁当をたいらげて、午後の授業を居眠りしている希の背中に『エサを与えないでください』と貼ったら、放課後までみんなの奇妙な視線にもまるで気付かず、そのまま校外に出ようとしたので、みづきの方が慌てて止めたりした。箸が転げてもおかしい年頃とはいうけれど、それにしても、いつも馬鹿ばっかりやっていたような気がする。
 もうあんなにくだらないことで笑い合うこともないだろうと思っていたが、いざ顔を合わせてみれば、時間の流れもなんのその、高校時代に一瞬で戻ってしまう。みづきは思わず口元をほころばせた。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。みづきは、このまま福岡に戻るのよねえ」
「ん、久しぶりなのにバタバタしてごめんね」
 みづきは頬をかいた。休みで地元に戻ってきているだけで、明日からはまた仕事だった。先にJRの指定席を押さえている。もうそろそろ出ないといけない。
「いや、こっちも言い出したの急だったし。今日はサンキュー」
 希はにかっと笑って、ぽんとお腹を叩いた。
 志乃だけは親元から地元の会社に通っているが、希も来月には就職にあわせて関東に越してしまう。次に会えるのは盆か正月あたりだろうか。
 寂しくはなるけれど、職を求めて都会に出て行くのは、地方者の宿命だ。思わず少々しんみりしながら、みづきは希に忠告した。
「ま、来月から頑張ってね。とりあえずしっかり猫被って、その口の悪さは隠しとくんだね」
「そうね、慣れるまではその方がいいと、私も思うわあ」
 二人がかりで散々に言われても、希は怒るどころか、上機嫌にどんと胸を叩いた。「任せといて」

 むっつりと黙り込んでいる旦那をよそに、ねぎトロ丼を最後の一口までよく噛んで飲み込むと、頼子は箸を置いた。
「ごちそうさま」
「遅い」
 苛々とキーホルダーを引っ張り出す中尾を、頼子は呆れ目で見た。
「あなたがせっかちなのよ」
 世間体を気にするのに、気が短くて、苛々が頂点に達するとこんなところでも声を上げてしまう。なのに自分でそのことを恥ずかしがって、よけいに苛々する。まったく、なんでこんなイライラ男と結婚しようと思ったんだっけ。
「もうしばらくは、外食はやめといたほうがよさそうね」
 頼子がため息を落とすと、中尾は驚いたように振り返った。「なんでだ」
「だってあなた、そんなふうにイライラしちゃうじゃない」
 言うと、中尾は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「なら、来月まで外食は無しだな」
 その夫の言葉に、頼子はきょとんとした。
「なんで来月?」
 分からなかったので素直に聞くと、中尾は振り返って、目を丸くした。その夫のひどく心外そうな表情が、頼子は不思議だった。何か、当然察しがつくはずのことを要求されているらしいが、何も思い当たらない。腹立たしいことに、いつもすぐに人を馬鹿にしたような目で見る中尾だが、今は馬鹿にしているというよりは、何となく傷ついたように見えた。頼子は首を捻る。なんだろう。
 いつまでも頼子が不思議そうにしているのを見ると、中尾は無言のまま伝票をつかんで、せかせかとレジに向かった。何をそんなに怒っているんだか。
 中尾は不機嫌そうに会計を済ませている。どうせ生活費はいっしょにしているのに、女に払わせる形がみっともなくて嫌だというのだ。いつまでも若いつもりでいる夫の背中を見送りながら、頼子はもう一度首をかしげた。来月?
 頼子は夫を追い越して、先にドアの外に出た。人に奢ってもらうときは、会計は見ないのがマナーだ。まだ結婚前の頃に誰かに言われてついたクセが、自分にも残っていることに気付いて、頼子は思わずくすりと笑った。
 あの頃も中尾は、どんなにお金のないときでも、ぜったい頼子には払わせなかった。結婚前か、と懐かしく思い出して、頼子は目を見開いた。「あ」
「どうした」
 出てきた中尾が、訝しげに聞いてくる。頼子は何でもないと首を振って、夫の背中に声をかけた。
「来月、楽しみにしてるわ」
 ふん、と鼻を鳴らして、中尾はさっさと車に向かっていってしまう。頼子はそのあとを追いかけながら、クローゼットの中身を思い出して、首を捻った。これからの季節にちょうどいい服があったかしら。
 去年ダイエットしてサイズが変わったから、いまひとつ自信がなかった。帰ったら点検してみないといけない。いくらなんでも、結婚記念日に食事をするのに、普段着じゃあんまりだろうから。

「ねえ、ほんとに浮気なんてしてないのよね」
「しつこい、あんまり馬鹿を言うと、このまま置いて帰るぞ」
 会計を済ませて店のドアをくぐった篠田は、耳に飛び込んできた会話に、ちょっと微笑んだ。ちらりと駐車場の方に視線を向ける。さっきの夫婦だ。
 旦那の方は、三十代後半か四十くらいだろうか。ただの勘だが、篠田の目には、本当に浮気をしているのを必死で隠しているというよりも、あらぬ疑いをかけられてうんざりしているだけという風に見えた。
「ずいぶん疑われてましたね、あの旦那さん。お気の毒に」
 亜美がくすりと笑って同情するように言ったが、篠田はむしろ、男を羨ましく思った。
 名前も知らない男に向かって、篠田は心の中で苦笑交じりに話しかける。いいじゃないか、奥さんに浮気を疑われてるうちが花だよ、男として見てもらってるわけなんだから。俺なんか見てみろよ、部下の女の子と二人で出張に行くって正直に言っても、疑ってさえもらえないんだぞ。
「課長、どうかされましたか?」
「なんでもない。さ、バスもけっこう時間がかかるし、今から空港に向かったら、ちょうどいい頃だろう」
 篠田はわれながらオジサンくさいと思うような伸びをひとつして、バス停のある方に足を向けた。

(終わり)
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