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 素っ気ない文面の死亡通知が届いたのは、それからたった三日後のことだった。
 いつ、どのようにして彼女が息を引き取ったのかというようなことは、そこには何も記されていなかった。問い合わせれば、きっと、知ってどうすると聞き返されるのだろう。その問いに対する答えを、僕は持たない。
 あのときどうしてもっと食い下がらなかったのか。その後悔は、いつまでも尾を引いた。
 彼女自身がそれを望まなかったからだと、開き直ってしまうことは、できそうにない。見られたくないからと、たしかにルーは言った。だけどそれは、本心からの言葉だっただろうか。
 彼女の嘘を見破ることのできる自信は、もうどこにもなかった。僕はまたしても、信じたいことを信じただけではなかったか? 自分に都合のいいことだけを見ていたのではなかったか?


 ルーを失ってからのしばらくのことは、記憶が混乱している。
 ママは、としつこく何度も訊いてくる息子を哀れに思いながらも、ときおり苛立って、どうしてわからないんだと怒鳴りたくなったことは、うっすらと覚えている。
 実際に怒鳴る前に、ちゃんと自分が堪えきれたかどうかは、心許ない。それくらいの分別は残っていたと信じたいけれど、それは単なる願望かもしれない。
 パーシーはよくルーと一緒に歌っていたのを覚えていて、母親のお気に入りだった歌を、しょっちゅう口ずさんでいた。彼女がちゃんと覚えていなくてよくつっかえていたのと同じところで、ちょうど同じように詰まるものだから、そのたびに僕はちょっと笑って、それから泣いた。
 僕らはよく泣いた。僕が泣くと、つられてパーシーも泣きはじめるので、ああ、僕がしっかりしないといけないんだったと、そのたびに思い直すのだけれど、だからといって涙を堪えられるようには、なかなかならなかった。
 だけど別れがあまりにも早すぎると感じたのは、僕の勝手な都合だった。二十歳まで生きられる女性はほとんどいない。もっと早くに妻を亡くした男のほうが、圧倒的に多かったはずだ。
 結婚しても、子供が『揺り籠』から出るまで生きられなかった女たちだって、いくらでもいるはずだ。だから客観的にいうなら、僕とルーは、運が良かった方ということになる。
 そもそも、十五まで生きられない女の子のほうが、ずっと多いのだ。ルーは身をもってそのことを知っていた。だから自分の運命を、呪いも嘆きもしなかった。少なくとも、表にそういう感情を出すことはなかった。
 僕だけが愚かだった。
 公園でときどき顔を合わせていた夫婦の妻のほうが、あるときを境に姿を見せなくなっても、気の毒なことだと胸を痛めながら、本当の意味では、僕はその光景を自分の未来に重ねあわせてはいなかった。無意識にそうすることを避けていた。
 僕は本当に、成長がない。


 彼女と同じ顔をして、同じ声で話す女が、どこかにいるかもしれない。そのことを唐突に思い出したのは、ルーがこの世にいなくなって、ふた月ばかりが過ぎたころのことだった。
 アマーリア=ルーと同じ遺伝子を持った女性。もちろん彼女のクローンが(あるいは彼女のほうがクローンなのかもしれなかったが)、いまも生きのびているとは限らない。もうひとり残らず死んでしまっている可能性だって、充分あるのだけれど。
 パーシーを連れて公園を歩いているとき、本当に不意に、僕はそのことを思い出したのだった。その瞬間、僕は打たれたようになって立ちすくんだ。自分の服の裾を小さな手でひっぱる息子に、かまってやる余裕も失って……
 周りの家族連れが、同情を押し隠すような目で、掠めるように僕らのことを見ては、通り過ぎてゆく。どこか遠くのほうで子供たちの明るい笑い声が聞こえている。パーシーがさっきからずっと、子供らの輪に入っていきたそうにしているのに、僕はやっと気がついて、小さな背中を押してやった。その間、ずっと上の空だった。
 遠ざかっていく小さな息子の背中。鳥のさえずりを模した音楽。そうしたものをどこか遠くに感じながら、僕はいつかの光景を思い出していた。あのとき、ルーと二人で、そう、やっぱりこの公園に来ていた。彼女は子供たちに混じって無邪気に遊びまわり、僕はベンチでそれを見守っていた。
 不規則な足取りでやってきた、顔色の悪い男――やせ細って、目を充血させていた。ルーの腕をつかんで意味のとれないことをまくし立て、警備ロボットに排除されたあの男。
 彼はルーを見て、何と言ったのだったか?
 あんただ――と、そう呟いたのではなかったか。
 あれは、そういうことだったんじゃないのか。彼は自分の妻と同じ顔をした女を、あてどなく方々を探し歩いて、ようやくのことで見つけあてたのではなかったか。
 もちろん何もかも、僕の勝手な想像だ。事実を確かめるすべはない。だけどその推測は、当たっているのではないかという気がした。
 気がつけば、彼と同じことをする自分を、頭の中に思い浮かべていた。
 それはどんな道行きだっただろう? 彼女がどこにいるかなんてわからない。本当にいるのかどうかもわからない。何の手がかりもないまま、近くのコロニーから順にはじめて、家族連れの来そうな公園を探す。片っ端から足を運び、あるいは同じ場所を時間を変えて何度もたずねて、そして……
 我に返って、あわてて首を振った。夢想はわずかの間のことだった。だけど、後にはひどく苦い思いが残った。あの男には同情する。だけど一瞬でもそのことを考えた自分を、僕は生涯、恥じるだろうと思った。
 顔や声が同じだろうと、たとえしゃべり方や仕草や、性格までがそっくりだとしても、その女は、彼女ではない。僕のマリィ=ルーではない。


 パーシーの五つの誕生日が迫ってくると、僕はひどく迷った。
 子供はふつう、スクールに入学すると同時に学寮に入る。私物は何一つ持って行くことが許されない。以降、父親との面会も、月に一度しか許可されない。
 それでも入寮の時期には例外があって、体の弱い子供は特別に、最初の二年間を上限として、親元から通わせることもできる。
 パーシーは、特別に病弱だというわけではなかったけれど、それでも小さい子はよく熱を出したり、急に吐いたりするものだ。うまく申し立てれば、通るんじゃないかと思った。
 だけどそうすることが、果たして正しいことなのかという思いが、今度は僕を縛った。
 息子を心配するためにというよりも、むしろ自分のために、僕はパーシーと離れがたかった。ルーともう会えないということだけでも耐えがたかったのに、ましてその思いを唯一分かち合える息子とまで引き離されるというのは、辛かった。
 この問題に頭を悩ませるようになってから、自分の子供のころをよく思い出した。僕の級友たちの中にも、そういう子がいた。その後も父親と卒業まで縁の切れていないやつらも、わずかながらいた。その中には得意げに父親の話をして、疎まれるやつもいたけれど、彼らの大半は父親の話題を極力口にしないようにして、周囲に気を遣っていた。
 どちらにせよ、スクールで彼らは大なり小なり孤立する。妬みを買うか、買わないように小さくなるかの差があるだけだ。
 子供には子供の社会がある。そして、二年も入寮が遅れるというのは、子供にとっては、大きな違いだ。先に仲良くなった子供たちの輪の中に割り込んでゆくというのが、とても大変な力のいることだというのを、僕はまだ忘れていない。
 さんざん迷ったあげく、僕は結局ほとんどの親がそうするように、パーシーを寮に入れた。


 パーシーと引き離されたそのとき、身を切られるように辛かったけれど、その一方で、ほっとする気持ちが欠片もなかったといえば嘘になる。
 パーシーはルーによく似ていた。息子の栗色の巻き毛を撫でるたびに、澄んだ緑の瞳を見るたびに、僕は彼女のことを思い出した。そうしてあの笑顔を二度と見られないことを、思い知らされた。
 そうなってはじめて、僕は自分の父親のことを思い出した。九歳になった僕がもういいというまでのあいだ、月に一度、きっちり三十分間の面会をして、父親としての義務を果たしていた彼のことを。それが彼の負担になっていることが、言葉にはけして出されないけれど、目の動きや会話のふとした間に、いつからか垣間見えていた……


 以前に提出していた希望が通って、僕は工学部に進んだ。
 正直にいって初めのうちは、学業に情熱を見いだすことが難しかった。何をやっても虚しいような気がしていた。
 見たいものしか見てこなかった自分をあれほど恥じ、都合の悪いものを見せまいとする社会に腹を立てておきながら、いざカレッジに進んでみれば、僕は何もできない自分に気がつかされた。
 あの頃――ルーと暮らした四年半のあいだ、僕はずっと、何者かに腹を立てていた。社会とか、政治とか、何かそういう漠然とした、形のあるようでいて、実体ではない何かに。そうしたものに意思というか、人格のようなものがあって、悪意をもって僕らを監視し、都合の悪いものを見せないようにして、言葉を飲み込ませているんじゃないかというふうに、感じていた。
 けれど、いまになって思う。本当にそうだっただろうか。
 そういう側面が、ないとは言わない。だけどそれ以上に、僕らは自分で、現実に目をつぶることを選んだんじゃないのか。
 女たちを、自分とは違うべつの生き物だと感じることも。大人と子供の社会がほとんど隔絶されていて、混じり合わないことも。妻を失ったあと、じきに子供から引き離されてべつべつに暮らさざるを得ないことも。
 僕ら自身が、そう望んだから――積極的に願ってはいなかったとしても、そのほうが都合が良かったから。彼女らの苦しみを、死を、直視することが耐えがたかったから。多くの者がそこから目を背けたいと、無意識に思い続けてきたから。その結果として、僕らの社会はこんな形になっている。そういうことなんじゃないのか。
 だとすれば、いったい僕に何ができるだろう。原因が僕ら自身の心の中にあるというのなら。
 それでも、いずれ進むべき専攻分野を模索するうちに、少し考えが変わった。医療機器に使われるナノテクノロジーに、僕は興味を持ち始めた。
 そんなものは、意味のない気慰みなのかもしれなかった。二百年からずっと研究されつづけていて、なお対抗手段の手がかりさえつかめていないウイルスだ。ただでさえ技術のゆるやかに衰退しつつあるこの月社会で、少しばかり性能のいい医療機器が開発されたところで、何が変わるだろう? 第一、いまさら何をしたところで、彼女が戻ってくるわけではない。
 その思いは始終つきまとっていたけれど、それでも何もせずにいるよりは、いくらか気が楽だった。欺瞞かもしれないけれど、その気休めは、僕にとって必要だった。いつまでも見て見ぬ振りをしているだけではないと、そう思えることが。
 同輩には、何かを忘れようとするように学業に没頭して、誰とも話したがらない者もいる。逆に、何かにつけては亡くした妻の思い出話をはじめる者もいる。泣きながら話す者も、まだ相手が生きている者であるかのように、嬉しげに自慢話をする者も。僕はどちらの仲間にも入れず、ただ微笑して沈黙する。


 委員長もそうだ。
 進学してから、僕らはまた、ときどき会って話すようになった。学部は違うけれど、共通して受けている講義がいくつかあって、顔を見ればどちらから誘うというわけでもなく、連れだって食事にゆく。
 亡くした互いの妻の話が話題に上ることはない。だけど子供のことを話すなかで、ときおりその影が見え隠れすることがある。そのたびに、僕らはちょっと黙り込む。
 委員長はときどき、端末に入れた娘の写真を見せてくれる。まだ生後三ヶ月くらいのときのだろうか、玩具をしゃぶってよだれまみれにしている彼の娘は、可愛かった。ものすごく可愛かった。娘もいいなと、無責任にそんなことをつい考えてしまってから、罪悪感を覚えるくらいには。
 娘の愛くるしい言動を自慢する彼の顔は、いつもの彼からは想像しがたいくらい、だらしなくやにさがっている。
 この子は何歳まで生きられるのかと、胸の片隅でそのことを考えないではいられないけれど、僕はけして、それを口に出さない。委員長も触れない。かつてルーの行く末から目をそらしていた僕のように、そのことを考えないようにしているだけなのか、それとも彼らしく、すでに何もかも覚悟を決めているのだろうか。


 スクール時代、僕らはよく教師たちに、女の子のことを訊ねた。あのころ周りの大人たちはみな口をつぐんで、自分の亡くした妻の話を語ろうとはしなかった。
 僕がもしいつか、たとえば仕事であの年頃の少年らと関わるような機会があったとして、やはり彼らと同じことしかできないのではないかという気がしている。都合の悪いものを見ないようにしてきた社会や、そう仕向けた大人たちを、たしかに憎んでいたというのに。
 好奇心に満ちた目で未来を夢想する少年らの瞳に向かって、本当のことを話せる日は、きっとこないだろう。


 それでも月に一度、決められた時間に、僕はパーシーに連絡するだろう。情けない父親だけれど、せめてその時間が僕にとって迷惑だなんて間違っても息子に思わせないよう、精一杯の努力をして、楽しそうに振る舞うだろう。少なくとも、妻に似てさとい息子が、その努力の気配の裏側を勘ぐる年ごろになるまでは。
 できればパーシーがスクールを出るまで、その習慣が続いたらといいと思う。身勝手な言い分かもしれないが、そうなれば連絡先を交換することもできるし、自由に会うこともできる。僕の端末の中に保存してあるルーの写真や、彼女の絵本を、彼に渡してやることができる。


 それに僕にはひとつ、彼に伝えたいことがある。いまではなくて、もっと彼が大きくなって、たくさんの理不尽な現実に直面するころに。
 この不毛の月面にあって、不自然な技術に頼ってまで人類が生き延びることに、果たしてどれほど意味があるんだろうか――以前の僕は、そんなふうに感じていた。
 パーシーが大きくなったとき、もし彼が、かつての僕と同じ思いを抱くことがあったなら、そしてそのとき、まだ彼が僕と話をしてくれていたなら。そのときは、彼に教えてやりたい。どんなに世界が理不尽で、不条理に満ちていたとしても、生きることに意味はある。君がそのことを、僕に教えてくれたんだと。
 君が生まれてきたことに、マリィ=ルーがこの世に生きたことに、意味がないなんて言わせない。


 いつごろからだろう、僕はときどき、草原の夢を見るようになった。
 見渡すかぎりに広がる、一面の草野原。あたりにはまばらに背の高い木が生えていて、その間を巨大なキリンが、悠然と闊歩している。ときおり足を止めて、長い首を伸ばし、木の葉をついばんでいる。
 夢の中で、僕はルーと手をつないで歩いている。彼女ははしゃいで僕の手をふりほどき、キリンの脚に抱きつく。僕はキリンが彼女に怪我をさせるんじゃないかと思ってはらはらしているのだけれど、黒いつぶらな目をしたこの動物は、そっと長い首を折って、彼女のふわふわの髪に鼻面をすり寄せる。ルーの手が、大きな鼻をそっと撫でる。彼女が振り返って、僕に笑いかける。その頬が紅潮している。
 風が吹いて、草木を揺らす。月面都市の空調がつくる単調な空気の流れではなくて、もっと気まぐれで乱暴な、ほんものの風。地球の大気。
 その光景が本物の草原にどれだけ近いか、確かめようはないけれど。



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