10 猫を口説くにゃいい日和 インターフォンの音に、ミケさんは顔を上げる。土曜の午後だ。宅急便も頼んでいないし、お隣はネコ嫌いなので回覧板はたいていミケさんがいないときに玄関先に置かれている。
となれば心当たりは数えるほどもない。まったく、とため息をつきながらミケさんは玄関に向かう。 「三池さーん! お留守ですかー」 騒々しいことこの上ない。鍵を開けるなり、ミケさんは仏頂面を作った。 「あのなあ。断りなく押しかけてくんなっつってんだろうが」 「こんにちは三池さん! 今日も素敵です!」 「アンタほんと話聞かねえよな……」 呆れかえって、ミケさんは耳をぴくぴくさせた。「まあいい、ちょうどよかった。上がれよ」 「え? 何か御用でした?」 「用ってわけじゃないけど」 ミケさんは鼻を掻いて、居間に戻りながら、ついてくる横石をちらりと振り返る。 「おれ、三月末で退職するから」 「え」 「いまのポスト、今年度いっぱいで無くなるんだ。だから、来月からはもう市役所に来てもいないぞ」 「そんな……」 横石はみるみる表情を曇らせる。「どうして。だって三池さんあんなにがんばってらしたのに……それに三月末って、もうすぐじゃないですか」 「そんで四月からは学童で働くから。民間がやってるとこ」 「えっ」 目を白黒させる横石に、まあ座れよと声をかけて、ミケさんは戸棚を物色する。先日カイロ代わりに買ってそのままにしてあったペットボトルのお茶と、猫にも食べられるビスケットを見つけて引っ張り出すと、餌をもらえると勘違いしたトラが隣の部屋から駆け込んでまとわりついてきた。 「人間用の求人だったし、応募する前は無理じゃないかって思ってたんだけどな。ダメ元で受けてみたら、なんか運営してる法人の理事が、前に窓口でおれが対応した人だったらしくて」 ミケさんのことを覚えていたその理事が推してくれたのだと、内定のあと挨拶に行ったときに聞いた。 「学童かあ……子どもたち大喜びじゃないですか」 「どうだろうなあ。猫怖がるガキもいるし」 首を傾げて、ミケさんは鼻を掻く。中には猫嫌いの保護者もいるだろう。トラブルがないとは思っていない。その心配については正直に相手方に言ってもある。だがそういう可能性も検討した上での採用だと言われて、それで腹をくくった。 「ま、契約社員だし、いつまでやれるかわかりゃしないんだけどな。でもまあ見学に行ったときも、雰囲気よかったし」 また同じことの繰り返しになるのかもしれないと、思わなかったわけではなかった。それでもまあ、やってみなければわからないと前向きになれたのが、誰のおかげかということは、ミケさんは口に出さなかった。 その本人は、手にしたビスケットをトラにかじられていることにも気づかず、何やらうつむいて肩をふるわせている。 「……悔しい」 は? と聞き返したミケさんをじとっと見上げて、横石は唇を尖らせる。 「なんでわたしいま小学生でそこの児童じゃないんだろう……三池さんに抱きつき放題……なんて羨ましい……」 「いま抱きつけばいいじゃねえか」 「えっ」 今日は驚いてばかりいる横石に、してやったような気分でミケさんは笑う。 「いいんですか?」 「ほら」 抱きつきやすいように畳の上に座ると、横石はいっときもじもじしていたが、 「失礼します!」 そう叫んでぼふっと抱きついた。 「うわあ、うわあ……」 今日は暖かくなって薄着のミケさんの、胸元の毛皮に横石は頬をすり寄せる。「お日様のにおいがします……」 こいつわかってんのかなあ、とミケさんは呆れる。わかってないんだろうなあ。 だが何も言わず、好きに触らせて、ミケさんは尻尾をもぞもぞさせる。 「三池さーん、やっぱり結婚しましょうよー」 「……あのなあ」 ALと人間が暮らすっていうのがどういうことか、こいつは本当に考えたことがあるんだろうかと、ミケさんは何度目かに思った。 ものの見え方が違い、生活習慣が違い、食べられるものが違い、寿命が違う。理不尽だとわかっていても、一緒にいるかぎりまたいつかミケさんは人間社会への怒りを横石にぶつけたくなる日もやってくるだろう。 そういうことを、ろくに考えていないんじゃないかと思ってしまうのは、横石があまりにも出会ったばかりでためらいなく好きですだの結婚しましょうだの、そんなことをあっけらかんと言ってきたせいなのだが。 原因の残りの半分は、ミケさん自身が不安だからだ。人間に期待して、裏切られるのが怖い。それは彼の側の問題だった。 「まあでも、そうだな」 だが考えてもみれば、まだ初めて話をしてから半年にもならないのだ。 それっぽっちの間に三回も求婚する横石の軽率さについては、本当にたいがいどうかと思うが。 考えなしの気まぐれに決まっているだとか、真に受けるだけ馬鹿らしいだとか。そんなふうに決めつけてしまうにも、まだ早いといえば早い。 「ちょっとは考えてみてもいい」 「えっ」 自分から言い出しておいて目を丸くした横石に、ミケさんはにやりと笑ってみせる。 「一年後にまだ同じこと言ってたら、そんときは少しは真面目に考えてやるよ」 「三池さん……今日はどうしちゃったんですか。熱があって明日になったら覚えてないとか言わないですよね言ってもしっかりこの耳で聞きましたからねもう撤回は受け付けませんからね!」 「怖ええよ!」 はっと我に返ったようすの横石が、それでも「約束ですよ」と念を押す。両手はミケさんの前脚をがっしり掴んだままだ。ほんとにわかってんのかねと、ミケさんは内心呆れつつ、 「そっちの気が変わってなかったらな」 そう言って、横石の膝にのしかかった。 「えっ」 慌てている横石の首筋のにおいをふんふんかいで、べろんと舐める。 「ひゃっ」 顔を赤くして口をぱくぱくさせる横石の首筋を、ミケさんはそのまま軽く甘噛みした。 「あ、あの……三池さん?」 首まで真っ赤になっている横石をちらりと見上げて、ミケさんは素知らぬ顔だ。 「何だよ、自分からは平気でべたべたさわっておいて」 「いえ、あの、それはその……」 しどろもどろになって、横石は声を小さくした。「三池さん、その……前に。交尾もできないのに、とかって仰ってませんでしたか?」 そこには恥じらいがあるのか、やたらと小声でごにょごにょ言うのに、ミケさんはしれっと言った。「まともな交尾は、って言わなかったか?」 「あっ、あの……それは、つまり……」 「考え直すなら早いうちだぞ」 「嫌じゃないです!!」 大声を出すのはやめろとミケさんが顔をしかめて苦情を言って、すみませんと横石は小さくなった。「あの……ただちょっと心の準備が! その!」 真っ赤になって顔を覆う横石を笑い、ミケさんは、今日のところは勘弁してやることにした。横石の膝に頭を載せて、そのまま丸くなる。 指まで真っ赤になった横石の手が、おっかなびっくりミケさんの顎を撫でる。その手に耳の付け根をすりよせて、ミケさんは喉を鳴らした。 先のことは何もあてにならない。そのことをミケさんはよくわかっている。 だがもし本当に一年後まで横石がその気だったなら、そのときは、戸籍係を困らせるくらいはしてもバチは当たらないだろう。 そんなことを考えながら、ミケさんは目を細めた。 季節が緩むのを察して浮かれているのだろう、気の早いメジロが庭の枝木でさえずる。まんまとビスケットをせしめて顔を洗っていたトラがぴくりと耳を動かし、ガラス戸の前に移動して樹上をじっと見つめる。このごろすっかり野生を忘れたような顔をしていたが、狩猟本能でも思い出したのかもしれない。 どうやら春は近い。 (終わり) |