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4 間に合ってよかった

 図書館から歩いて十五分のところに、ミケさんの住む借家はある。
「なんだ。おうち、近いんじゃないですか」
 絶対に教えないって言ってたのに、と笑う横石に、文句があるなら帰れと憎まれ口を叩きながら、ミケさんは玄関戸をくぐった。
 坂の上だしバス通りから離れているし、近くにはスーパーも商店もない。言葉の上ほど便利ではないのだが、それでも図書館まで歩いて行けるという一点で決めた住まいだ。
 ALはたいてい勤め先の社員寮か、管理団体に手配されたアパートに住んでいる。ALに部屋を貸すのにいい顔をする不動産屋というのはめったにいないし、いたとしても人間用の部屋の家賃を払うのは、ALの稼ぎでは厳しい。
「もとの持ち主がいなくなって市が管理してる空家で、自力で修繕するなら格安で貸してくれるっつう……寮を出たかったらだいたいそういうとこに住むんだ、おれらみたいなのは」
 そういうことをぽつぽつとミケさんは説明しながら、横石を家に上げた。茶トラの猫がにゃあと出迎えて、ミケさんの足に頭をすりつける。
「わ、猫さんだ。お名前は?」
「トラ」
「えー。そのまんまじゃないですか」
 横石が目を輝かせて手を差し出す。物怖じしないトラはふんふんとその指のにおいをかいで、撫でろというように頭をすりつけた。
「ひとなつこいですね。可愛い」
「怪我してたから見かねて餌やったら、そのまま居着いた。……猫が猫飼ってるって思っただろ」
「三池さんはやっぱりいいひとだなあって思ってました」
「人じゃねえっつうのに」
 猫の餌代くらいはどうにか払えるようになったのは、いまの職場に移ってからだ。市の非常勤職員の賃金は、人間からしてみたら安いほうだが、ALの平均ラインからすると破格だ。あれこれ勉強するのに忙しくて、生活費以外にあまり金を使わなかったというのもあって、少しは余裕が出来た。
 まあ適当に座れよ、と一枚しかない座布団を押しやると、横石は猫を膝にのせてにこにこした。「いいなあ、この子、抱かせてくれるんですね。子どものころ家に黒猫がいたんですけど、膝には乗ってくれなかったんですよね」
 そんなことを言って、横石は服が毛だらけになるのも気にしないようすでトラの喉を掻いてやっている。
 ストーブをつけ、戸棚を漁って賞味期限ぎりぎりのマドレーヌを見つけたのはいいが(先日福祉課長にもらった出張土産だ)、人間用の飲み物なんか当然常備してはいないから、湯冷ましくらいしかない。そんなものでもにこにこしながら受け取った横石は、「三池さんからの初プレゼント……もったいなくて食べられない……」などとわけのわからないことを言い出した。
「あほか。とっとと食え」
「三池さん、お仕事中と普段の口調ぜんぜん違いますよねー」
「……仕事だからな」
 ぶすっと答えはしたものの、半分は嘘だった。AL相手に話すときならともかく、人間に対するときのミケさんは、仕事でなくてもそれなりに丁重な口をきく。だがそう正直に教えて、「じゃあわたしは特別ってことですね?」とかなんとか言われてもひたすら面倒くさいと思ったのだった。
「そういえば、三池さんはどうして市役所で働こうって思われたんですか? 珍しいですよね」
「教えねえ」
「えー。けちー」
 唇を尖らせながら、横石はトラの耳をつまんで裏返した。猫はされるがまま、ひげだけをぴくぴくさせている。
「やめてやれよ……」
「ALのひとって、猫さんの気持ち、少しわかったりするんです?」
「わかるかよ。猫がしゃべるわけじゃなし」
 ミケさんは呆れ顔で一蹴した。機嫌の良し悪しくらいは見分けもつくが、そんなものは人間だってそれなりにわかるだろう。
 ALネコが自分たちのことをどれくらい猫の仲間だと思っているかというのは、実際、とても微妙な問題だ。ALイヌよりはイエネコのほうがまだしも親近感が持てるかもしれないが。
 そういう話を無遠慮に聞いてくる横石に、また腹を立ててもよかったのかもしれないが、ミケさんは怒らなかった。
 横石は今度はトラの耳の後ろを掻いてやっている。猫はぐるぐる喉を鳴らしながら腹を見せて伸びて、もはや元野良らしい野性味の欠片もない。
 トラは横石の膝の上でだんだんうとうとしはじめて、それに釣られたのか、横石のまぶたも重力に負けはじめる。疲れているのだろうからと放っておいたら、ちょっと目を離した隙に、猫を抱きしめて畳に横たわっていた。
 見ればコートも着たままだ。人間の衣服に疎いミケさんはこのときまで気がつかなかったのだが、どうも、この季節に若い女性が着るには、ずいぶん薄い生地のように思える。母親の病状の急変で慌ただしくしていて、衣替えをする暇もなかったのかもしれない。
 これまた猫の毛だらけの毛布をひっぱってきて眠る横石に掛けると、ミケさんはストーブの前で借りてきた資料を読みはじめた。
 先日横石に指摘されたとおり、ミケさんは小説も読む。
 人間が書いた人間の話だ。なぜそんなものをわざわざ読むのかと問われても、うまく説明できたためしがない。子どもの頃から物語が好きだった。管理施設のささやかな寄贈本を読み尽くしてからは、町の図書館に出入りするようになった。
 だが今日のところは小説ではなく、仕事に関連する資料だった。市役所には日々、本当にさまざまな相談に来る人々がいる。自力である程度調べることができる者はいいが、先日の横石のようにそんな余裕もなくしてしまっている者や、事務的なことが苦手で情報を探すスキルがない者もいる。
 そして日本の役所というのは、種々の支援策を用意しているのはいいが、呆れるほど細分化されているせいで、誰も全容を把握できないありさまになっている。自治体にせよ国にせよ何をどこの窓口でやっているのか、どこまでが公的機関でできてどこからが民間団体に頼ったほうがいいことなのか、すべてを網羅的に理解している人間というのはいないのではないだろうか。その上、制度も組織も日々見直され、変わっていく。
 ミケさんも市役所の内側のことであれば積極的に研修も受けてきたし、おおよそのところは把握できていると思うが、ほかの役所のやっていることに関しては、きちんと頭に入っているとはとてもいえない。定型的な相談の場合はいいが、むしろそうでない人のための窓口に彼はいる。もっと早くこれを知っていたら、先月たずねてきたあの人に教えてやれたのになと思うことは少なくない。
 その一方で、いくら勉強したところで、と思う日もある。調べておいてよかったなと思う日とどちらが多いかは、とても微妙なところだ。
「あれ……あー。すみません、寝ちゃってました……」
 二時間かそこらで横石は目を覚まし、まだ寝ぼけているような顔でまぶたを擦った。それでも一眠りしたからか、少しは顔色もましになったように見える。トラもついでに起きて、もう素知らぬ顔で毛づくろいなどはじめている。
「めちゃくちゃ毛だらけだぞ」
「帰ってからコロコロします……」
 せっかく三池さんのおうちにお招きされたのに、もったいないことしちゃった……とかなんとか呟いているのを聞き流して、ミケさんは本を閉じる。
「なんだか寝に来たみたいになっちゃったなあ……残念だけど、そろそろお暇しますね」
 窓の外の陽が傾きつつあるのを見て、横石は毛布をたたんだ。ひとりきりで家にいるのが辛かったからふらふらしていたのだろうに、とは思ったものの、引き留めたところでどのみち泊めるわけにもいかない。そもそも人間の食べ物もさっきの菓子で最後だ。
 ミケさんはストーブを切って、上着を羽織る。「ぼちぼち暗くなるだろ。途中まで送る」
 横石はきょとんとして、それから笑った。
「やっぱり三池さん優しい」
 ふん、と鼻息を鳴らしてミケさんはまとわりつくトラを引き剥がした。餌皿にキャットフードを入れて、火元を確認する。薄着の横石に貸せる服がないか箪笥をひっくり返してはみたが、男女や体格差の問題の前に、ALネコ用の服はそもそも形状が人間向きでない。結局マフラー一本だけを貸すと、横石は嬉しそうに首に巻いた。
 外に出ると息が白んだ。日が落ちてますます冷え込みがきつくなっている。
 少しはましな足取りになった横石が、それでも街灯の光の届かない場所で危なっかしくよろめくのをときどき支えながら、ミケさんはゆっくり歩いた。自分は夜目が利くものだから、懐中電灯の持ち合わせがないのだった。
 だから自治会で街灯の増設の話が出ていたのも、これまでたいして興味を持たずに聞き流していた。市街地からそれほど遠くないものの、微妙に不便なこのあたりは空家もまばらにあって、そういう部分の手がなかなかゆきとどかない。
「そんなにね、仲の良い親子じゃなかったんです」
 歩きながら、ぽつぽつと、横石は話しはじめた。
「ずっと喧嘩ばっかりしてたっていうわけでもないんですけど……父が家を出て行ってから、ふたりでやっていかないといけなかったから」
 それが窮屈に思えて、家を出ようかと思うことも何度かあったのだと、横石は言った。
「でも、結局、そうこうしてるうちに母の病気が見つかって」
 体調を崩すことが増えた母親は、ときどきその苛立ちを娘にぶつけるようになった。「わたしも、仕事でうまくいかない日なんか、帰ってからも母が苛々してたら、余裕なくなって。何の喧嘩のときだったか……あんたもどうせ母さんを捨てていくんでしょう、って」
 恥じ入るように、横石は囁いた。「捨てていいなら捨てたいよって……言い返しそうになって。ぎりぎりで飲み込んだんですけど、でも……それが自分の本音なんだなって思い知って。自分の薄情さにいやになって」
 それからしばらく家の中がぎすぎすしていたのだと、横石は言った。
「三池さんにお話を聞いていただいた日にですね、帰ってから、きょう市役所でこんなことあったんだよって話したら、あら素敵なひとねえ、よくお礼を言っておきなさいよって……母がにこにこして。たまたまその日、体調が良かったっていうのもあるかもしれないんですけど」
 雪がちらつく。街灯の白々した灯りを受けて雪片が瞬き、横石の前髪に落ちて溶けた。
「わたしがぴりぴりしてたら、母もつられて苛々するんだって。どっちが先とかって言い出したらきりがないけど……その日から、ちょっとずつ家の空気が変わって。わたしの再就職祝いだって言って、母が久しぶりに料理を作ってくれて。もう長く台所に立ってるのもしんどかったんだと思うのに」
 その日のメニューはコロッケと海老フライだったと、横石は言う。彼女が子どもの頃に好きだったもので、いつまでも母の中では自分は子どもなんだなと呆れたけれど、母自身はもう揚げ物を食べるのは辛くなっていたはずなのに、わざわざ作ってくれたのだと。
「自分に余裕ができて、母に優しくできたら、母も優しくなるの。そういうのずっと、忘れてたなって……三池さんのおかげで思い出せたんです。間に合ってよかった。喧嘩したままじゃなくて……」
 喋りながら横石は堰が切れたようにぼろぼろ泣いて、ミケさんは黙ってハンカチを貸した。
 正直に言えば、そんな感謝はミケさんには重い。何も立派な信念があってやっている仕事ではない。
 そう思いはしたものの、ミケさんは口にはしなかった。
「……すみません。いつも自分の話ばっかり」
 今日くらいは別にいいさ、と答えてミケさんは空を仰ぐ。
 ALには血の繋がった両親というものはないから、人間にとっての母親の存在の重みは、ミケさんには想像するしかない。同じ訓練施設で育ったAL仲間が死んだことはあっても、その悲しみと、人間が家族を失う痛みとを比べていいものかどうかもわからない。
「ここで大丈夫です。寒いのにありがとうございました」
 寒さで鼻の頭を赤くして、横石が頭を下げる。
「ちゃんと飯食って、暖かくして寝ろよ」
 そんな声を掛けたのも、どこかで読んだような、借り物の言葉に過ぎなかったのだが。
「はい」
 横石は笑って歩き出し、途中でくるりと振り返って、大きく手を振った。「マフラーもありがとうございます! このお礼は後日かならず!」
「いらねえよ。前見て歩け!」
 叫びかえして、ミケさんはその場で、横石が角を曲がって姿が見えなくなるまで立っていた。

 
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