小説トップへ


 暮れの宵、或る商家へと出向いた処、猫が一匹、何を思うか、食い物も持たぬのに足元に擦り寄って来る。怪我でもして居るのか、脚を引きずる様子、艶の毛並みは真黒で、金色の眼ばかりが光る。成程、人が縁起の悪いと云うのも解る気はしたが、高が畜生、大袈裟に気味悪がるのも癪に思えて、好きな様にさせて居た。
 商談も済み、人を遣って車を呼んだものの、俄かに雨が降り出した。其れが又、風の轟々と唸り、直ぐ目の前も見えぬ様な調子で、如何にも為らぬ。面白くも無い世間話なぞ交わしながら、雨の弱まるのを待って居たが、直ぐに降り止みそうも無い。痺れを切らして、傘を手に下駄を履いてはみたものの、いざ雨天に出ようとすると、雪に為らぬのが不思議な程の、痺れる様な冷たさで、此れは堪らぬと引き返した。
 其の家の主が同情顔で、下女に燗酒なぞ持って来させるのを、酒は余り好きでは無いと断ったが、御体が温まりましょうからと、頻りに勧める。重ねて断るのも面倒で、付き合い程度に舐めて見ると、此れが旨い。ちびりちびりと啜りながら、雨の間に覗く稲光なぞ眺めて居た。
 直に瞼が重くなり、慣れぬ酒を飲み過ぎたか、いや、其れにしても酔いが早過ぎはせぬかと、訝しく思う内にも、坐って居られず体が傾ぐ。天鵞絨張りの長椅子に凭れると、主の狸に似た顔がほくそ笑むのが見えて、さては一服盛られたかと、回らぬ頭で思っても、指先ひとつ満足に動かぬ。
 途切れ途切れの意識の中で、銀色にぬめる様な刃の光が目の端に映り、阿漕な商売がどうの、恨むなら己の業突くをどうのと、好き勝手な文句が聞こえた様であったが、確とは判らぬ。朦朧として居る中で、然し、何時まで待っても刃は振り下ろされぬ。幾度目かに瞼の持ち上がった時に、何時の間に部屋に入って来たものか、黒い紬の妓が一人、己の顔を覗き込んでいるのが見えた様な気がした。
 気付けば部屋には誰も居らず、雨は小降りに為って居る。先程の事は、若しや酔いの見せた夢であったかと、家人を大声で呼ばわるが、誰も応えぬ。客間を出て、廊下を暫く歩き回って見たが、目に付く処には人の気配もせず、と云って、隈なく家捜しすると云う訳にもいかぬ。そうする内に、屋敷の外より家の者が、己が名を呼ぶのが聞こえ、暇を告げる相手も見つからぬまま表に出た。
 と、黒い紬の妓が一人、濡羽色の髪を雨に湿らせて、車の横で振り返る。さて、見知らぬ顔だがと怪訝に思う間に、妓は僅かに足を引き摺る様にして近寄って来る。「ああ、旦那様のお車なのですね、どちらまでお行きになるのでしょう」と、言葉ばかりは丁寧に問うてくるが、白い貌には、どうも此方を舐めて掛かる様な笑みを浮かべて居る。
「山手の方に行かれるのでしたら、途中迄でも、乗せて戴けませぬか」と妓が云うのに、常ならば捨て置く処を、見れば、先程の夢の中に見た妓では無かったかと云う気がして、車に並んで乗り込んだ。
 車が走り出すのを待って「先程、屋敷の中に居らなんだか」と訊くと、妓は薄く笑い、「旦那様。お屋敷の隅にでも、猫を一匹、置いては戴けませぬか」と、見当外れな事を云い出す。
「猫なぞ飼わぬ」と顰め面で撥ねつけるが、女は気にする様子も無く、「あのお屋敷に居ると、この頃では、跡取り息子に虐められるのです」なぞと云う。
「何、今宵の様な天気の折に、軒先にでも置いて下されば、何の世話も要りませぬ。放って置けば、勝手に鼠でも獲りますので」と重ねて云う女を相手に、話を続けるのも段々と面倒に思えてきて、「塀からでも放り込んでおけ。世話はせぬが、敢えて追い出しはせぬ」と投げ遣りに云うと、女はにっこりと微笑んで、頭を下げた。
 辻に差し掛かった処で、女を下ろし、帰宅した頃には夜もすっかり更けて、さて、今日のあれは一体何事であったのかと、首を捻り捻り床に就いた。
 その後、暮れの商談の相手はと云うと、何の事も無い、何日かすると、取引の話と手土産を持って、愛想よく此方の屋敷を訪ねて来た。暮れの夜は一体どうなされたと訊いても、顔を引き攣らせて曖昧な事を云うばかりで、如何にも要領を得ぬ。腑に落ちぬ思いもしたが、ともかく土産の饅頭には、格別毒なぞ盛られては居らなんだ。
 其れきりあの晩の事は忘れて居たものが、雨の日にふと声がして、軒下を見れば、件の黒猫が悠然と背中を舐めて居る。真黒な毛並みを繕うついでに、金色の目をちらりと此方に向けたきり、屋敷に上がり込もうとするでも無い。其の侭放って置いたが、今でも雨の酷い晩には、軒下を彷徨いて居る様だ。

(終わり)
拍手する
 



小説トップへ

inserted by FC2 system