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 夏になったので、約束どおり、彼女を河川敷に埋めることにした。


 梅雨が明けたとたん、手品のようにいっぺんに夏がやってきた。空は絵の具で塗りつぶしたようにくっきりした青、雲はもくもくカタマリで湧いて、まるきり手で触れそうな質感。蝉がわんわんがなり立てる。向かいの家の軒先にさっそく風鈴が吊られて、風の吹くたびに音を立てる。梅雨明け宣言はまだ聞いていないけれど、もう疑いようはなかった。まごうかたなき、夏だった。
 それだから透(とおる)は、その次の日の夜明け前、音を立てないように、息を詰めて自分の部屋の窓を開けた。
 早朝というより夜の続きというほうが正しいような時刻。空が明るむ気配はまだ遠い。ランドセルに突っ込んであった懐中電灯をつかみ出し、押し入れの壁に吊してあった去年のバッシュを床に置いて、部屋のなかで履きこんだ。サイズが小さくなってしまっておいたやつだから、素足に履いてもぎゅうぎゅうだ。息を止めて、耳を澄ます。家族は誰も起きている気配はない。
 桟をつかんでから、三秒迷った。深呼吸をひとつ。勢いをつけて体を引き上げる。身を乗り出して、外壁に足をかけてしまったあとで、先にあたりの様子をたしかめるべきだったと思った。
 だけど幸いなことに、人通りはまったくなかった。手に体重をかけたまま、ゆっくり足元の手応えをさぐる。昼間ならいっぺんに飛び降りるところだけど、物音を立てるわけにはいかない。それで雨樋につかまりながら、じりじり降りることにした。
 妹が夏休みの宿題で持って帰った朝顔を、着地のまぎわで蹴ちらしそうになる。あわてて足をずらしたら、ちょうどそこに落ちていた蝉の抜け殻を踏んだ。くしゃりという音が、思いがけずはっきりと響いて、びくっとする。とっさにあたりを見回して、自分に言い聞かせる。大丈夫。これぽっちの音で誰も起き出してきたりはしない。
 透の家の車庫にはシャッターがない。空き巣のようにきょろきょろしながら、父親の乗っている銀色のワゴンの裏に回って、自分の自転車のロックを外す。すぐには乗らず、なるべく音を立てないようにいっとき押して、家から二十メートルばかり離れたところで、弾みをつけて飛び乗った。
 ずっと前から切れかけている街灯が、かちんかちん、ひっきりなしに明滅している。この時間だとさすがにまだ空気が冷たい。それでもつい二、三日前までじめじめしていた風は、もうからりと乾いている。その中を、ペダルを力いっぱい踏みしめて、漕ぐ、漕ぐ。しばらく切っていなかった前髪が流れて、額がむき出しになる。ぶかぶかのTシャツの裾が風にはためく。
 やっと梅雨が明けたばかりだというのに、気の早いビーチサンダルが片足分、どういうわけでか道ばたに捨てられている。避けて蛇行すると、タイヤが危なっかしく鳴いた。
 ときどきちらっと視線を上げて、空の端がまだ白み始めてはいないのを確かめる。あたりが明るくなる前に、何もかも済ませたかった。

  ※  ※  ※

 もとはといえば、肝試しが発端だったのだ。
 小学校の近くに、廃屋がある。豪邸とまではいわないが、透の家が丸ごと二つは入りそうな、なかなか立派な建物だった。四年ばかり前までは上品な夫婦が住んでいた――と大人たちは言う。何の事情があったものか、いつのまにか越していって、誰もあとの様子を見に来ない。売家の看板もないし、いつになっても取り壊される気配もない。
 庭の草はぼうぼう繁り放題、もとは立派だった玄関扉は釘が打ちつけられて、積もった埃とラクガキとで見る影もない。そのうちに近所の高校生が窓を割ったり、裏口の鍵を壊して侵入するようになった。大人たちはしょっちゅう眉をひそめて自治会に抗議するのだけれど、権利関係がナントカカントカで、反応はなしのつぶてという話。
 ここまでくればもう、必然といってもいいだろう。いつからか、幽霊が出るという噂が立った。誰も住んでいないはずなのに、窓辺に顔色の悪い女がぼうっと立っていた。夜中にすすり泣くような声を訊いた。窓の奥で鬼火のようなものがゆらゆら踊っていた。エトセトラ。
 そこに、この春先あたりから、透と同じクラスの男子が忍び込みはじめた。
 透自身はというと、行かなかった。誘われても馬鹿らしいといって取り合わなかった。だけど次から次に、肝試しを済ませたやつらがからかいにくる。
 弱虫あつかいされたからって、はじめのうちは気にもしなかった。ああいうのは六年生にもなって分別のないガキのすることだ。夜になればときどきがらの悪い高校生がたむろしていたりする。幽霊がどうというよりも、そういう連中のほうがやっかいだ。
 だけどあるとき、雄大が調子に乗って囃したてた。透のびびり、玉なし、ナツミでも平気だったってのに。
 女子を引き合いに出されたら、さすがに聞き流せなかった。たとえ相手が男勝りの乱暴者であってもだ。あんなの女子のうちに入るかと言い返しそうになったのを、ぎりぎりで飲み込んだ。それを言ってはいくらなんでも男がすたると思った。
 それでもうじき梅雨入りかという六月半ば、学校が引けたあとで、透はとうとう懐中電灯を手に、くだんの廃屋へ向かった。山登りが趣味の父親から去年譲り受けた、強力ビーム防水加工。
 肝試しにはルールがある。クラスの符丁がわりのマークと、自分の出席番号を書いた紙を持って忍び込んで、二階のつきあたりの部屋に置いてくるのだ。最初は出席番号だけだったのが、途中から隣のクラスのやつらが真似をしはじめて、ひとしきりもめたあげくそういう協定ができた。
 ポケットの中を探って、そこに用意したはずの紙があるかをたしかめてから、透は柵を乗り越えた。噂どおり鍵は壊されていて、勝手口はあっけなく開いた。
 いくら人が住んでいないからといって、土足で上がるのはさすがに気が引けた。だけど懐中電灯で照らした廊下はどこもかしこもほこりだらけ、ささくれだらけで、ところどころガラスの破片まで落ちている。迷ったあげく、結局は靴のままで上がりこんだ。
 最初の一歩目から床がぎいっと薄気味の悪い音を立てて、首をすくめた。幽霊なんてばかばかしい。窓辺の人影なんて、侵入した高校生に決まってる。鬼火もそうだ。中でそいつらが火遊びでもしてるんだ。
 廊下は一歩歩くごとに、騒々しくきしんだ。
「人が住まない家は、傷むのが早いからねえ」
 いつだったか、この家の前を通りながら祖母がそんなふうに話していたのを、透は思い出した。廊下の床板はやけにでこぼこして、ところどころ柔らかく沈む。腐っているのだ。
 遠くでだれかの咳払いのような音がして、透は飛び上がりそうになった。
 心臓がばくばく鳴っていた。
 落ち着け。幽霊が咳払いなんかするもんか。近所の別の家から聞こえたに決まっている。自分に言い聞かせながら、出来るだけ足音を立てないように、そろりと次の一歩を踏み出した。だけどそんなものは無駄な努力で、やっぱり床板はぎいぎいうるさく鳴った。
 なかなか廊下の端にたどり着かない。外観から想像していたよりも、なんだか広いような気がする。前に読んだホラー漫画の展開が、透の頭の隅をよぎった。異空間に迷い込んだ主人公の、恐怖にひきつった表情のアップ。
 透はぶんぶん首を振った。廊下がやけに長く思えるのは、日暮れ時が迫ってあたりが薄暗いせいだ。
 ようやく階段を見つけて、おっかなびっくり足を掛けた。家の中にどうやら人の気配がないのは幸いだった。幽霊なんかちっとも怖くないけれど、高校生が入り込んで騒いでいるところに出くわしたら面倒だから。
 そう、怖がってなんかいない。六年生にもなって、幽霊なんかが怖いはずがない。
 手のひらの汗をズボンでぬぐって、深呼吸をひとつ、ふたつ。そろりと一段ずつ、慎重に階段を上る。足取りが遅いのは幽霊が怖いからじゃなくて、腐った階段を踏み抜かないように気をつけているからだ。姿勢を低くしているのは、あくまで万が一誰かに見つかったらまずいから。怖いからじゃない。もっともこれだけぎいぎいうるさく音が鳴っていれば、たいした意味はないんだけど。
 ほとんど四つん這いに近い格好で、一番上の段までたどり着いた。左手にまっすぐ廊下が延びている。
 右手に二つ、ドアが見えた。どっちもなぜだか、半開きになっている。中は薄暗くてよく見えない。
 なんで開いてるんだよ。透は口の中で毒づく。いや、開いてたって怖くなんかないけど。胸のうちで言い訳をしながら、頭の隅にはゾンビの出てくるサバイバルゲームの画面がちらついている。
 廊下の突き当たりには噂どおり、もうひとつのドアがあった。こちらはしっかり閉まっている。
 むりやり姿勢を正した。胸を張って顎を引く。懐中電灯の光をするどく廊下の先に突きつける。レーザービームのつもり。
 歩きながら、視線はまっすぐ正面に固定している。開いたドアの横を通り過ぎるときに、中をのぞき込まないように。だけど通り過ぎざま、誘惑に負けてちらっと見てしまう。暗くてよくわからない。何かが動いてびくっとしたら、開けっ放しの窓でカーテンがはためいているのだった。
 ふいに風が強まる。ガラスががたがた鳴って、すきま風が、人のうめき声そっくりの音を立てる。
 怖くないったら、怖くない。
 突き当たりのドア。懐中電灯を左手に持ち替えて、深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。ゆっくりと、ドアノブに手を伸ばして、
「誰?」
 急に背後から女の声がして、透は尻餅をついた。
 振り返れない。
 足音はしなかった。透はへたりこんだまま、取り落とした懐中電灯を手で探る。あわてすぎて、せっかく探り当てたのをはじいて転がしてしまった。唇をぱくぱく動かすけれど、声が喉でつっかえて出てこない。
 誰かが近づいてくる気配。顔を上げるのも怖かったけれど、見ないでいるほうがもっと怖かった。意を決して視線を上げ、威嚇のつもりで懐中電灯をかざそうとした。手が震えてまたしても取り落とした。
 透がふたたび懐中電灯をつかみなおすよりも早く、相手のほうが近くまでやってきて、すぐ正面にかがみ込んだ。
 女だった。声の印象よりも若い。私服だからはっきりとはわからないけれど、たぶん高校生。まだ六月だというのに気の早すぎるホットパンツから、惜しみなく生足を出している。明るめの茶髪にピアス、化粧もしている。ちょっと濃い。面白がるように笑いながら、透の顔をのぞき込んできた。
 なんだ、人間じゃんか。
 そう思ってほっとしてから、透はあわてた。「あ、あの。ここのうちの人? 勝手に入ってごめんなさい……」
 謝りながら、何かが胸の隅に引っかかった。
 足音がしなかった? 透の軽い体重でさえ、あんなに一歩ごとにぎいぎいきしんだ廊下で?
「あ、違う違う。あたしもここに忍び込んだくちだし」
 けろっと答えて、女は首をかしげた。ショートカットのさらさらの髪が、その動きに合わせて流れる。
「それより大丈夫? 怖すぎて腰ぬけちゃった?」
 聞き捨てならない、と思う余裕は透にはなかった。女は立ち上がって、透に手をさしのべた。その手が、うっすらと透けていた。
 透は口をぱくぱくさせて、女の顔を見た。ん? と首をかしげるその顔の向こうにも、やっぱりかすかに廊下が透けていた。
「あ、そっか」気づいたように、女は自分の手を見つめて、ひょいと引っ込めた。「ごめんごめん、掴まれないってね。大丈夫? 自分で立ち上がれる?」
 立ち上がれなかった。「ゆ、ゆ、ゆ」
「ゆ?」
「ゆうれい……?」
 透の震え声を聞いて、女はさも可笑しそうにげらげら笑った。
「どーもはじめまして、幽霊でーす。あ、名前はカノコだよ。少年、君はなんての? 何年生?」


 まあまあこんな廊下で立ち話でも何だしさ、と幽霊は言った。
「ささ、遠慮なくどうぞ、ってあたしの家じゃないんだけどさあ」
 やっぱりげらげら笑いながら、カノコは頭からドアに突っ込んだ。幽霊だから扉をすり抜けられるらしい。いったん完全に姿を消したあとで、上半身だけひょこっとドアから突き出して、手招きをした。
 このまま逃げようかと、たっぷり十秒は考えた。けれど結局、透はおっかなびっくりドアノブに手を掛けた。だってなんか、逃げたらかえって後ろから追いかけてきたりしそうだし。
 床以上に派手にきしみながら、ドアは開いた。開け放たれた窓から、湿った風が吹き込んで、白いカーテンを揺らしている。床にはごみが散乱している。入り込んだ連中が散らかしてそのまま行ったのだろう。菓子の空き袋だのタバコの吸い殻だの飲み残しのペットボトルだの。たぶんエロ本だろうという色の雑誌が視界の隅に掠めて、あわてて逆方向に首をねじ曲げた。
 壁に五年前の八月のまま止まっているカレンダー、上半分の写真は夏真っ盛りの海水浴場と割られたスイカ。その真下の床に、見覚えのある紙が何枚も重ねて置いてあった。クラスの連中だろう。
「その辺、テキトーに座ったら。怖がらなくても、取って食ったりしないよー。お腹もすかないし。幽霊だから」
 カノコに促されて、透は床の上に座った。埃だらけだったけれど、もういまさらだ。
「あの、カノコ、さん?」
「あー。呼び捨てでいいよ。カノコさんってガラじゃないし。あたしもトオルって呼ぶしさ」
「あ、うん……」
 うんうんとうなずいてから、カノコは首をかしげる。「それにしても、肝試しにはちょっと早くない? まだ夏じゃないよ?」
 透は腰のひけたまま、小声でぼそぼそ答えた。「いや、クラスのやつらが……」
 完全に言い訳の口調で、透はことの経緯を説明した。ひととおり聞いて、カノコは首をかしげた。
「じゃあ、いじめられてるとかじゃないんだ?」
「ちげーし」
 思わずむっとして唇をとがらせた透を、遠慮なくカノコは笑った。「変な顔!」
 よく笑う幽霊なんて、へんなのと、透は思った。ふつう幽霊っていうのは、もっと暗くて、恨みがましい顔をしているものなんじゃないのか。
「このごろ、やけにちびっ子どもがうろちょろしてるなあとは思ったんだよ。度胸試しねー。男の子ってそういうの好きだよねえ」
 うんうんとひとりうなずいて、カノコはにやりと歯を見せた。「だけどまあ、結局来たんだから、勇気あるじゃん? 男の子だね」
 カノコの手が透の頭をぽんぽんと叩こうとして、すり抜ける。冷やっこいような感覚がして、透は首をすくめた。
「あはは、だからあー、怖がらなくっても平気だってば」
「怖くなんか、」
「うらめしやー」
 カノコが突然、がくりと首をあらぬ方向にねじ曲げた。頭がぶらんぶらん揺れる。どう見ても首の骨が折れている。
 悲鳴を上げることもできずかちんこちんに固まってしまった透を指さして、カノコはげらげら笑う。折れた首をもとに戻しながら、
「ごめんごめん、反応が面白くってつい……て、あれ? おーい?」
 カノコは透の顔の前で、透けた手を振る。涙目で固まったまま、透はぴくりともしない。
「あらら、怖すぎて気絶しちゃった? おしっこ漏らした?」
 どっちもしてない。
 反論が声にならない。完全フリーズだった。びびりすぎて舌もまわらないし指一本動かせない。
「ごめんごめん、もうやらない! 小学生相手におねーさんちょっとチョーシのりすぎた、大丈夫だよー怖くないよー」
 もともと子供好きなのかもしれない。カノコは一生懸命おどけた顔をしてみせる。だけど透のフリーズはなかなか溶けない。
 風でカーテンがばたばたはためく。窓の外で犬が吠えている。

  ※  ※  ※

 脅かしてごめんね、もうおうちに帰りな。遅くなったら家出か誘拐と間違われて、ケーサツにソーサクされちゃうよ。
 そのカノコの声に押されて、頼りない足取りで家路を辿った、のだと思う。途中の記憶がほとんどない。
 あらあんたまだ帰ってなかったの、暗くなるまで出歩かないでよ物騒なんだから。口やかましく叱る母親の声を聞き流して自分の部屋に戻ったところで、透は例の紙がまだ尻ポケットの中にあることに気がついた。
 その時点ではささいなことに思えた。思えたのだけれど、ひと晩たって翌朝になると、急に憂鬱になってきた。雄大は疑り深い。証拠をたしかめに行くだろう。
 言い訳する自分を、透は想像してみた。
 ちゃんと行ったんだけど、幽霊に会ってびっくりして、紙を置いてくるのを忘れた。
 思わずがっくり肩が落ちた。信じてもらえるはずがない。
 透の知るかぎり、これまで幽霊の噂話で盛り上がることはあっても、自分の目で幽霊を見たと騒ぎたてるやつは、誰もいなかった。それに、カノコは透に「肝試しには早いんじゃない?」と聞いた。ということは、少なくともカノコと会って話までしたやつは、少なくとも透と同じ学校には、ほかに居ないんじゃないか。
 考える。証拠の代わりに、見てきた間取りやなんかを詳しく説明したらどうだろう。いや、だめだ。ほかの奴らから聞いたんだろうと決めつけられれば、それで終わりだし。
 幸いにもその日は土曜日で、学校は休みだった。午前中いっぱいさんざん迷ったあげく、昼過ぎに透は家を出た。昨日は夕暮れ時だったけれど、まだ日の高いうちになら、あのヘンテコな幽霊も出ないかもしれない。なんたって、幽霊なんだし。
 だけど結果から言えば、それは儚い期待だった。
 人通りの途切れるのを見計らって、透が例の廃屋の裏口をそうっと押して頭を突っ込むと、一階の廊下の途中のドアから、カノコがひょこっと顔を突き出した。「あれ? トオルじゃん。あんた昨日の今日でまた来たの?」
 ほんのちょっとでも、そこにおどろおどろしい雰囲気があったなら、即座に回れ右して逃げ出したと思う。だけど、その声の調子も表情も、まるきり従姉の姉ちゃんか何かのような気安さだった。
 昨日よりも室内が明るくて、窓から差し込む日差しに埃が光っていたりして、そののんびりした午後の空気も、透の背中を押した。それでつい、それこそ親戚の姉ちゃんに返事をするような調子で、「あ、うん」とうなずいてしまったのだった。
 そうなったらもう逃げ出すにも間が悪い。昨日と同じく土足できしむ床を踏んで、透はおっかなびっくり廃屋に上がり込んだ。
「ははーん」
 カノコはにやっとして顎を撫でた。「少年、さてはがきんちょのくせに色気づいたな。ユーレイのお姉さんがあんまり色っぽいんで、ついふらふらーっと吸い寄せられるように戻ってきちゃった、と」
「ちげーし」
「照れなくてもいいんだよ、少年。なんならサービスしちゃろうか。生おっぱい見たことある?」
 カノコはニヤニヤしながらタンクトップの裾を持ち上げて、ちらりと腹のあたりまでめくって見せてから、「あ、生じゃなかった」ひとりで可笑しそうにげらげら笑った。
「幽霊のハダカなんか見たくねえし!」
 怒鳴りながら目をそらして赤くなる透を見て、カノコは腹を抱えて笑った。


「ああ、証拠ねー。へえ、よく考えるもんだ」
 二階、昨日と同じ突き当たりの部屋。透が置いた紙の符丁をのぞき込んで、カノコは面白がった。昼間であたりが明るいせいか、昨日見たときよりも、いくらか姿が薄い。
「名前まで書いたら、さすがに大人にばれたときがあれじゃん」
「うんうん。それに暗号みたいで、わくわくするよねこういうの。いいなあ、小学生って人生楽しそうだなあ」
 自分も小学生だったことがあるだろうに、そんなことを言って感心している。窓辺であぐらを掻いて、それこそ自分の家のようなくつろぎようだ。「そういえば、トオルってどこ小? この辺だったら第二?」
「ちがう、緑小」
「あ、なんだ。後輩じゃーん。五つ、違うか、六つ下かな。ね、こんど図書室で三十二回生の卒業アルバム探してみてよ、あたし超かわいく映ってるからさあ」
 自分で言うか。思いはしたものの、ツッコみそびれて透はぜんぜん違うことを訊いた。「てことは、高三?」
「生きてたらね。死んだのは高一んとき……ま、生きてたって、留年しないでちゃんと三年生になってたかどうかは、ちょっとアヤシいかな? あたしアタマ悪くってさあ。学校も途中からあんまちゃんと行ってなかったし」
 けろっと言って、カノコは首をかしげる。「緑小ならさ、もしかして登校するときあそこ通る? 河川敷んとこ」
 透はうなずいた。学校のすぐそばに広い川が流れていて、遊歩道が設けられている。犬の散歩なんかによく使われるコースで、ザリガニもいればカエルもいる。小学生男子にとっては登下校のときの絶好の寄り道スポットだ。
「じゃあ生きてたとき、もしかしたらすれ違ったことくらいあったかもね。中学んときなんか、よく部活であそこ走ってたからさあ」
 懐かしそうに言って、カノコは目を細める。たしかに下校のとき、よく中高生が走っているのを見かける。だけど目の前にいるちゃらい茶髪女と、体育会系の部活のイメージが結びつかなくて、透はへんな顔をした。
「ん?」
「や、運動部っぽくないなって」
「あはは、そうだろね。これでもレギュラーだったのよ。ソフト。途中でいやんなって、やめちゃったんだけどさー」
 いま考えたら、ちょっともったいなかったかな。言って、カノコは頭を掻いた。
「練習はきらいだったけど、あの河川敷走んのは、好きだったなあ。夏になったらさ、川がきらきら光ってさ。部活、やめちゃってからも、ときどき自転車で遠回りしたりして」
 ふうん、と相づちを打って、透はカノコの腕を見た。透けているせいか、そもそもやめて長く経っていたのか、日焼けのあとはよくわからない。
 その腕を見ているうちに、不思議に思って、透は首をかしげた。「カノコは何で、ここにいんの」
「んー?」
「ここんちの人間じゃないんだろ。自分ちとか、河川敷とか、もっといいとこに化けて出りゃいいじゃん。何で、こんなとこ?」
 カノコは軽く首をすくめた。「あたしだって別に、好きでここにいるわけじゃないんだけどさ。なんか、ここんちの建物から出らんないのよ」
「……なんで?」
「さあ。ここで殺されたからじゃない?」
 あっさりとカノコは言った。
 ここって、どこ。
 声にならなかった。髪を逆立てている透を見て、カノコが吹き出した。「ごめんごめん。また怖がらせちゃった?」
「こわ、くない、けど、それって、」
 半泣きになった。近所でそんな事件があっただなんて、聞いたことがない。透が言うと、カノコはうなずいた。「そりゃ、聞いたことないだろうね。見つかってないんだから」
「え、じゃあ」
 透は唾を飲み込んだ。けろっとした表情のカノコを見上げて、おそるおそる続ける。
「まだ、――ここにあんの?」
「うん。あそこ」
 カノコの指さすほうを、つい見てしまって、透は鳥肌を立てた。指のしめす先には、開けっ放しの窓。その先には庭がある。一瞬で頭の中いっぱいに、いやな想像が膨らんだ。
「見る? もうそんなにエグくないよ、たぶん。いいかげんすっかり骨んなっちゃってるだろうし」
 涙目でぶんぶんと首を振る。それを見てカノコがにやりとする。「それこそ友達に自慢できるよねえ、白骨死体発見!」
 自分のことなのに、気を悪くするふうもなく、カノコは楽しげに言った。
 冗談を言っているのではないかと思った。自分をからかおうとしているんじゃないかと。それくらい、カノコの口調は軽かった。透は唾を飲み込んで、窓から視線を外した。
「殺された、って」
「うん?」
「まじ?」
「まじまじ。大まじ」
 やっぱりへろっと言って、カノコは窓枠にもたれた。面白がるような顔のまま、透の反応を見守っている。いつの間にか雲が出て、日射しが陰っていた。
 風が吹いてカーテンを揺らしているのに、カノコの髪がたなびかないことに、透は気づいた。
「……、おれ、通報とか、したほうがいい?」
 あー、と首をかしげて、カノコは考えるようなそぶりをした。「まあ、やめときな。叱られちゃうよ、なんでこんなとこ入り込んだんだーって」
「それくらい、」
 別にいい。言おうとした透を制して、カノコは首を振った。
「へたしたら怒られるだけじゃなくて、疑われちゃうかもしれないしさ。なんで知ってたんだーってね。ま、ちびっこだし、それはないかもしんないけど」
「ちびっこって言うな」
 言い返しながら、透はちらちらと窓の外を見た。座っているので、ここからは空と庭の木の梢と、あとは電線くらいしか見えない。
 ここに入るときにも、裏庭を通り抜けた。ペンキの禿げた犬小屋と雑草だらけの花壇。木が何本も植えられていて、手入れがされなくなって時間が経っているせいか、どの枝も伸び放題になっている。
 あのどこかに、死体がある。
 考えたとたん、鳥肌が立った。すぐそばを通ったかも知れない。下手したら、踏んでたりとか、
 ぶるぶる首を振って、透は窓から目をそらした。その様子を、カノコが面白そうに眺めている。
「だけどさ」声がかすれた。途中で唾を飲み込んで、透は言い直した。「だけど、家族のひととか、探してんじゃないの」
 昨日の夜、カノコが透に言ったことだ。家出とか誘拐とかと間違えられて、警察に捜索されちゃうよ。
「うーん」
 カノコは首をかしげた。「どうだろね。家出だと思ってるんじゃないかな。あんまり心配とか、そういうのしてくれるようなオヤでもなかったし」
 カノコの言葉には、突き放すような響きがあった。むきになっているのでも、拗ねているのでもない。もう、ずっと前にあきらめたような、そんな口調。
「……わかんない、だろ。確かめてないんだったら」
「んー、まあ、そうだけどね。仮に心配してたとしてもさ、それならそれで、わかんないままのほうがいいんじゃないかって、思ったりもすんのよ」
 そう言って、カノコは小さく笑った。本当にそう思っているというよりは、もうあきらめているけれど一応は言ってみた、というような表情に、透の目には映った。
「でも、でもさ」
 透は食い下がった。家族にとってどちらがいいのかとか、その前にカノコ自身は、「……それでいいのかよ」
 殺されたと、カノコは言った。それなのに死体がまだ見つからずに、ずっとこの家の庭にあるというのなら、殺した人間はいまごろ、
「んー? うーん。そうだねえ」
 カノコはあいまいに笑って、答えなかった。長いこと黙って、それからふと気づいたように顔を上げて、窓の外を見た。徐々に暗くなり始めた東の空を。
「あ、もうこんな時間? ほら、小学生は暗くなる前におうちに帰りな。オバケが出るよー」
「……もう出てるじゃん」
 そうだった、とわざとらしく手を打って、カノコはげらげら笑った。

  ※  ※  ※

 週明け、誰かが証拠を確認しにいったらしく、何人かの男子がにやにやしながら透の机に寄ってきた。「やるときゃやるじゃん」雄大がひじで小突いてきたけれど、透は生返事を返すばっかりで、ろくに相手にしなかった。
途中で一度だけ、「なあ、あの家でさ、」雄大にそう訊きかけて、けれど結局そのまま途中で飲み込んだ。
「なんだよ、お化け屋敷でなんか見つけたのか?」
 雄大は好奇心で目をきらきらさせて食いついてきたけれど、透は言葉をすり替えた。「何もなかったよ。お前らヒマだな、あんなとこ潜り込んだってつまんないだろ、ゴミばっかでさ」
 なんだよと唇をとがらせる雄大は、だけどそれ以上つっかかってはこなかった。しらけたような顔をして、ほかの男子のところに行ってしまった。
 その日の授業ぜんぶ、透は上の空のままで過ごした。一度当てられたけれど、答えられずにぼんやりしていたら、丸めた教科書で頭をはたかれて放免された。
 目は黒板や教科書に向いていても、意識は廃屋で見た光景に飛んでいた。窓から射し込んでいた夕日、舞い上がってきらきら光る埃。床に散らかったごみ、腹を抱えてげらげら笑ってばかりいるカノコの、体の向こうにうっすらと透けて見えていた何年も前のカレンダー。庭の茂みの中に散乱する白い骨。
 見てもいないのに、十二歳の想像力は透の頭の中に、くっきりと人の白骨死体の像を結んだ。
 いや、よくないだろ。
 無意識に、口に出していた。は? という顔で雄大が振り返る。いつのまにか授業はとっくに終わっていて、それどころかすでに掃除時間で、気がつけば透は手にほうきを握っていた。ぼーっとしたまま、習慣で体を動かしていたらしかった。
「なんでもない」
「なんだよ。お前、今日ずっと変だぞ」
 薄気味の悪い目で見られても、透は気づかなかった。箒をロッカーに放り込んで、ランドセルを片手につかむと、ぽかんとしている周りを置き去りに、走って教室を飛び出した。
 人目を気にする余裕もないまま、その足で透は廃屋に駆け込んだ。そのままの勢いで廊下を駆け抜けようとして、
「うわっ」
 床が抜けた。
 埃が派手に舞う。尻餅をついた拍子に、足に鋭い痛みが走った。
「いっ、てえ……」
 左足が完全に床を踏み抜いて、ふくらはぎに、割れた床板が食い込んでいた。涙目で足を引っこ抜くと、長く走った擦り傷からじわっと血がにじむ。
「何やってんの」
 近くの部屋からひょこっと首だけを突き出して、カノコが目を丸くした。
 勢い込んで話そうとする透を、カノコは手で制した。「うわ、派手にやったね。この家の水道……は駄目か。水道管、錆びてるもんね」
 傷口をのぞき込んで、カノコは顔をしかめた。
「そこに公園があったよね? いそいで洗っといで」
「そんなことより、」
「話ならあとで聞くから。ほっとくと足、腐っちゃうよ。そしたら切断だよ。痛いよー」
「腐るもんか。子供だと思って、」
 馬鹿にすんなよ! そう叫ぼうとした透にかまわず、カノコはおどろおどろしい調子で続ける。「知ってる? 手とか足とか切断した人ってねえ、すっかり傷口がふさがったあとでも、ないはずの足が、いつまでも痛んだりするんだって。何年も経ってても、ずっとだよ。きっとすごく痛いよおー」
 ひるんだ透に、にっと笑いかけて、カノコは犬でも追い払うように手を振った。「とにかくまず洗っといで。話なら、そのあとでゆっくり聞くからさ」


 足を洗った透が顔をしかめながら戻ってくると、カノコは廊下の同じ場所で、片膝を立てて床に座ったまま、律儀に待っていた。
「お、よしよし。ちゃんと洗ってきたね。バンソーコーある?」
「いいよ、これくらい。つばつけときゃ治る」
 男の子だねえ、笑いながら、カノコは膝を伸ばした。
「で、どうしたの、勢い込んで。ていうか幽霊に会いに二日と開けず通ってくるなんて、アンタも物好きだねー」
 誰でも三回はモテ期が来るとかっていうけど、死んでから来るってひどくない? とかなんとか好き勝手なことをぼやいているカノコに、透は詰め寄った。
「いいわけないだろ、殺されてこんなところに何年も放っておかれて、殺したほうは逃げっぱなしで」
 カノコはその剣幕に押されたように目を丸くしていたけれど、しばらくして、ふっと頬を緩めた。その笑顔は、それまでのおどけた笑いかたとはぜんぜん違っていて、それで透は勢いをそがれた。
「トオルはいい子だね」
「だから、」
 子供扱いするなよ。
 抗議の言葉は尻すぼみに消えた。
 カノコは透に背中を向けて、のんびりひとつ、背伸びをした。どこか外で、道路工事の音がしている。下校中に遊びながら帰る低学年のちびっこたちの声、遠くの踏切の音。窓から射し込む明るい日射しが、透の血が床にぽつりと作った小さな染みを照らしている。
 首だけで振り返って、カノコがいたずらっぽく笑う。
「ね、殺人現場、見てみない?」


 二階の例の部屋、カノコの言うとおりに引き戸を開けると、そこはただの押し入れだった。蜘蛛の巣がいくつも張っている。
「そこ、上、押してみて」
 言われた場所を押すと、天板は透の力でもあっさりと持ち上がった。「ハシゴ、たぶんその辺に落ちてるからさ」
 あった。ステンレスの、二つ折りになるやつ。埃で真っ黒になっていて、どこか部品がさび付いているのか、持ち上げるだけでぎいぎいきしんだ。苦労して広げて、押し上げた天板にひっかけてから、何度かぐいぐい押してみる。力を掛けたら、少しばかり危なっかしい音がしたけれど、とりあえずすぐに壊れる心配もなさそうだった。
 ざらざらする段をつかんで、深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。
「やっぱ怖い? やめとく?」
 カノコに顔をのぞき込まれて、透は唇を曲げた。
「怖く、ねえし」
 一段上るたびにぐらぐらした。ハシゴが壊れそうというよりも、ひっかけている天井のほうが腐りかけている。上っている最中にくしゃみが三連続で出た。
 手探りで頑丈そうなところを探して、体を引き上げる。足をハシゴに残したまま、じわじわ体重をかけてみると、ともかくしっかりした手応えが返ってきた。
 屋根裏部屋は、階下以上に埃だらけだった。ひからびたヤモリ、虫の死骸、頭上にはあちこち蜘蛛の巣が張っている。壁際に本棚があった。針の止まった時計、床には傷んだクッションが三つ。意外に明るい。斜めになった屋根にふたつ、小さな窓。ガラスはすっかり埃に曇って、空がまだらに汚れて見える。
 荒れてはいても、のんびりした光景だった。殺人の生々しい痕跡が残っているのではないかと身構えていた透は、ほっとしながら這い上がった。手も膝も真っ黒だ。
「足元、気をつけて」
 天井板でも踏み抜いたら目も当てられない。透はうなずいて、一歩ずつ確かめながら、ゆっくりと奥に向かう。窓際のすぐそばで、カノコが座り込んだ。
「――ここ?」
「そ」
 カノコはあっさりとうなずいて、この辺かなあと、床を示した。
「タクヤがこの部屋、見つけてね」
 埃だらけの床の上、あぐらを掻いて、カノコは言う。知らない名前が出てきたけれど、透は口を挟まなかった。
「ちょこちょこ来てたんだけどさ。最後らへんはもう、ずーっと喧嘩ばっかり。おまえ浮気してるだろって、まあ、しつっこく疑われてさ。してないっつってるのに。まあ、疑うのも、わかんないでもないんだけどね」
 自分の胸もとを親指でさして、カノコは笑う。「ほら、こんな可愛い子だったら? 男のほうがほっとかない的な?」
 だから、自分で言うな。
 今度も透はツッコミそびれた。カノコが他人事のようにへらへら笑っているので。
「そりゃ、『ほかの男なんかぜんぜん眼中にない!』とかっていうほど、アイツに惚れ込んでたかって言われたら、まあ……ね」
 言いながら、カノコはぽりぽり鼻を掻いた。苦笑の気配を残したまま、小さく肩をすくめて続ける。
「でもね、これでもけっこう根は真面目でさ、ほんとに浮気したことは、一回もなかったんだよ。でも、してないっつってんのに、あんまりしつこく疑うもんだからさ。段々面倒くさくなってきてね。そっちが信じないならもういいよ! って思うじゃん。売り言葉に買い言葉ってやつ?」
 あーもうしつっこいなあ、してたらなんだっていうのよ!
 叫んだとたん、相手の顔色が変わった。表情が抜け落ちたみたいになって、目だけがぎらぎら光っていて、それまでぎゃあぎゃあ喧しく問い詰めていたのが、いきなりぶつんとハサミで切ったように無言になった。一瞬で中身だけ別人に入れ替わったみたいだった。そのまま何もいわずに手を伸ばしてきて、カノコの首を、
「そこで一回、意識途切れて」
 自分の首筋を撫でて、カノコは皮肉っぽく笑った。
 ざく、ざく、ざく。
 次に気がついたときには、すぐそばで土を掘り返す音がしていた。いつまで続くのかと思うくらい、長い間ずっと。タクヤの荒い息、ときどき石にぶつかるがちんという音、遠くで犬の喧嘩の声。
 呆然として自分の体を見下ろした。床の芝生の上、首を変な方向にねじらせて、投げ出されて転がっている。どこから持ってきたのか、錆びた園芸用シャベルで、タクヤが地面を掘っている。ひとりで、一心不乱に、自分の手元だけを見つめて。
「そんで、夜中までかかってあたしを埋めたら、シャベル投げ捨てて、そのまんま逃げてった」
 ぷつりと話しやんで、カノコは窓の外をじっと見た。
 西日が射して、埃がぎらぎら銀色に光る。外で誰かがサッカーボールを蹴りながら歩いている。散歩中の犬のはしゃいだ息、爪がアスファルトに当たる音、原付バイクがエンジンをかける。
 透は唾を飲み込み、飲み込みして、ようやく声を出した。
「……悔しく、ないのかよ」
「悔しいよ」
 カノコは透の目を見て、即答した。さっきまでのへらへらした笑顔をどこに捨ててきたのかというような、無表情。
「悔しくないわけないじゃん」
 急に気温が下がったような気がして、透は無意識に自分の腕をさすった。
「ふざけんなよって思ったよ。思うに決まってるじゃん。殺されたこと自体もだけどさ、ご丁寧に埋めて逃げるって、何だよそれ」
 口を挟めず、透は息をのんで顎を引いた。カノコの目が爛々と光っている。
「そりゃああたしはさ、馬鹿だったし、親だって何の期待もしてなかったし。先に待ってるのも、どうせたいした人生じゃなかったかもしれないけどさ。だけど、こんなとこで、してもない浮気のせいで殺される筋合いなんかないよ。そうでしょ? なのにアイツ自分だけ逃げやがった。逃げて、そんでどうすんの。なかったことにして、自分はちゃっかりまたアタマの悪い彼女なんか作ったりして、いやなことは忘れて、楽しくやろうってのかよ。そんであたしだけこんなとこで、ずっとひとりぼっちで?」
 話すうちに、語調が強くなっていく。うなずきもできず、気圧されて、透は黙り込む。
「腹が立たないかって? そんなもん、めちゃくちゃ怒ってるに決まってるじゃん。もうとり殺してやろうかっつうレベルだよ。あんたに声かけたのだって、最初は骨掘り返して、タクヤんちの近くに持ってってもらおうかと思って」
 透がぎょっとするのを見て、カノコは我に返ったように、声のトーンを落とした。
「そんで、見かけたやつらに、片っ端から声かけてみたりもしたんだけどさ」
 声を聞いて反応したのは、透ひとりだった。
 だからまだ試したことはないけれど、タクヤの家がどのへんにあるのかは知っている。体から遠くに離れられないのなら、骨の一部なりと運べば、それについていけるかもしれない。
「まあそんなことしたって、考えてみたら、もうとっくにあいつも引っ越してるかもしんないんだけどね」
 透の顔色を見て、カノコはふっと、小さく苦笑した。「そんな顔しなくてもいいよ。ほんとに手伝わせたりしないからさ」
 言ってから、微笑みを消して、カノコは押し黙った。そうして視線を逸らして、窓の外をみた。夕焼けに染まり始めている雲のあたりを。
 透は唇を舐めて、ためらった。ためらって、
「あのさ、」
 カノコが振り向いて、目があった。そこで透はまた口ごもった。何度か生唾を飲んで、それから言った。
「手伝っても、いいよ」
 カノコはすぐに返事をしなかった。透の目をのぞき込んで、いっとき黙っていた。
 近くでカラスの羽音が響く。さっきの犬がまだ吠えている。夕焼けの色は紫がかった変に鮮やかなピンクで、なかなか止まない犬の吠え声はどこか遠くて、埃まみれの屋根裏部屋は日常から切り離された異界だった。
 カノコはへの字に唇を曲げて、口を開きかけて、また閉じた。急にせわしなく何度も瞬きをして、うつむき、
「いらない」
 ぽつりと言った。
「なんで」
「いいよ、そんなことしてくんなくて」
 小学生みたいな、拗ねた口調だった。
 透はせいいっぱいの見栄を視線に乗せて、六つ年上のくせに子どもみたいな顔をした幽霊を、正面からにらんだ。
「だって、悔しいんだろ」
「悔しいけど」
「じゃあ」
 なんで、と言おうとした透を遮るように、カノコは呟いた。
「惨めじゃん」
 透が黙り込む番だった。
「小学生に同情されて、オトコに復讐すんの手伝ってもらうって、何よそれ」
 透は瞬きをした。大きく二度、三度。
 言われたその瞬間よりも、何秒か経ってから、時間差で腹が立ってきた。
「何だよそれ、」
「ああ、いや、ごめん」
 ぐしゃぐしゃと茶髪をかき回して、カノコは体育座りになった。さっきまでのいじけた顔じゃなくて、もっと痛いような、泣きだしそうな顔。
「――ごめん」
 かちん、ガラスを爪ではじくような音が鳴って、窓の外で街灯がともった。

  ※  ※  ※

 次に透が廃屋に入り込めたのは、三日後の放課後、雨のざあざあ降る夕方だった。
 毎日家の前まで向かってはみるのだが、まだ肝試しに飽きないらしい同級生と鉢合わせかけたり、通行人の目が途絶えなかったりして、タイミングを見つけきれなかった。
 三日ぶりに透の顔を見て、カノコは目を丸くした。
「もう来ないかと思った」
 来なかった二日のあいだで、二階の奥の部屋には、さらにゴミが増えていた。度胸試しの証拠の紙も、透の置いたものの上にさらに、隣のクラスのやつだろう、知らないマークの書かれたぶんが乗っている。
 雨は強まったり遠のいたりしながら、音を立てて窓を打っていた。ガラスの割れたところから雨が降り込んで、埃が流れてぐちゃぐちゃになっている。
 このあいだはごめんね、と言って、カノコは拝むような仕草をした。それから首をさすって、
「ほんとはさ、もう、そんなに本気でフクシューとか、したいわけでもないんだよ。や、悔しいのは悔しいし、思い出したら腹は立つんだけど。でも、とり殺してやるぞーみたいなのは、さ」
 そこで言葉を切って、カノコは急に笑った。
「トオルがさ、最初の日、」くつくつと思い出し笑いをしながら、カノコは鼻を擦る。「あたしが声かけたときにさ、びっくりして腰抜かしたじゃん」
「抜かしてねえし」
 透の反論を、カノコは笑って聞き流した。「あんときの顔がね、タクヤとそっくりでさ」
 自分で掘った穴に、カノコの遺体を投げ落として、土を埋め戻している間、タクヤがちょうどあんな顔をしていたと、カノコは言った。
 人殺しに似ていると言われて、いい気がするはずがない。透は歯をむいていやがったけれど、カノコはかまわずくすくす笑った。
「そんときはむかつくばっかりだったけど、いま思い出したら、ちょっとウケる。あいつ十八だったんだよ。ユーレイにびびる小学生とおんなじ顔って、どうよ」
 ひひ、と笑って、カノコはあぐらを掻いた。
「なんもかもなかったことにして、知らん顔でさ、自分だけ楽しくやるつもりかよーって、最初は思ったんだけど」
 ざあ、と雨の音が強まって、開けっ放しのカーテンが揺れた。空に視線をやれば、低く垂れ込めた雲が、見る間に流れていく。
「でもさ、よく考えたら、あのビビリ男に、そんな神経あるはずないなって」
 カノコは窓の外に目をやった。やっぱりその顔は、笑っていた。普段のおどけた笑い方じゃなくて、笑っているのに、寂しいような表情。
「いつか見つかるんじゃないか、ケーサツがやってくるんじゃないかって、ずーっと、ビクビクしてんじゃないのかなって。あたしに似た子見るたびに、びくっとしたりしてさ」
 あたしもアタマ悪いけど、あいつもけっこう馬鹿だからさ。
 カノコは窓のそばに立って、外の道路を見下ろした。そこに誰かの姿を探すように。
「あのさ」
 透は声を上げた。カノコが振り向くのを待って、目が合ってから、続けた。
「河川敷、好きだったって言ったよな」


 梅雨の晴れ間、学校をさぼって、透は裏庭を掘った。
 夜中に家を抜け出してきてもよかったけれど、夜更けに静まりかえった住宅街で物音を立てるほうが、よけい目立つのではないかいう気がした。カノコを埋めた男は、よく誰にも気づかれなかったなと思う。
 梅雨入り前に終わらせきらなかったらしい工事を、まだ近くの家でやっていた。その音に紛れることを願って、シャベルを突き立てた。人が近づいてくるような物音がするたびに、作業の手を止めて、透は庭木のかげに隠れた。
 ざく、ざく、ざく。
 透が地面を掘り返す間、カノコは黙って近くにいた。落ち着かないような顔でそのへんをうろうろしたり、戻ってきて透の手元をのぞき込んだりした。
 ある深さまでたどり着いたところで、錆びたシャベルがそれまでと違う手応えを捉えた。
シャベルを放り出して、あとは手で土を掻く。
 出てきてみたら、拍子抜けするくらい、あっけなかった。
 化学繊維のせいだろうか、服はちょっと色あせてはいたけれど、あんがい元のままだった。そこから垣間見える骨は、なんだか枯れたような色をしている。おおむね生きていたときの形を残して、丸まるように横たわっていた。
 人間って、死んじまったら、これくらいしか残らないんだ。
 透にとって、本物の人骨を見るのは初めてだった。母方の祖父は早くに死んだけれど、そのころ透はまだ小さかったから、葬式の様子もまったく覚えていない。
 カノコはかがみこんで、不思議そうに、自分の頭蓋骨をつつく。もちろん幽霊の指は骨を突き抜けるばっかりで、触れはしない。
「――」
「え?」
 透は振り返って、耳を近づけた。この頃、カノコの声が遠く聞こえる。聞こえるというよりは、実際に遠くなっているのかもしれなかった。
「――怖かったら、無理しなくていいんだよ」
「ぜんっぜん、怖くねえし」
 透は笑って、土のついた手で鼻を擦った。
 このごろ会うたびに、少しずつ、カノコの影が薄くなっていく。最初に会った日には、よく見ればうっすら透けているというくらいだったのに、いまでは屋外の明るいところで見たら、一瞬気がつかないかもしれない。


 最初にそのことに気がついたのは、屋根裏に上ったあの夕方から、数日が経ってからだった。
「なんだろ。トオルにいろいろ話して、ちょっとは気が済んだからかな」
 首をかしげながら、カノコはそんな風に言った。やっぱり他人事みたいな無責任な調子で。どこか遠くから響くような声で。
「ところで、あれ、本気?」
 透はうなずいた。
 長く放置されているこの廃屋も、いつかは取り壊される。そのときに、遺体が発見されるかもしれない。あるいはいつかタクヤが気が変わって、掘り返しに来るかもしれない。
 だけどそれは、何年後になるかわからない。何十年後かも。それまでずっと、あの廃屋の中に閉じ込められたままでいることはない。
「そりゃ、どうせならここよりは、あっちのほうがいいけどさ」
 カノコは言って、とまどうように首をかしげた。「でも、トオルがそこまですることないよ」
 最初は、復讐の手伝いなんかさせようとしてたくせに。透が呆れると、カノコは笑って頭を掻いた。
 じゃあ、夏になったらね。カノコは言った。
「――夏って、いつ。暦の上じゃ、もう夏だろ」
「お、さてはトオル、ちゃんと先生の話を聞くタイプだな?」
 にやにや笑いで茶化してから、カノコは言った。「梅雨が明けたらかなあ」
 透は窓越しに空を見た。その日は朝からずっと雨が降っていた。同じように雨模様を見て、カノコはうなずいた。
「梅雨時で増水してるときに、川べりで作業するのも危ないしさ。――ま、それまでにトオルの気が変わって、面倒くさくなったら、そのときは無理しなくていいよ」
 変わるもんかと透は言ったけれど、カノコは引かなかった。夏になったら、と繰り返した。
「だけど、河川敷かあ。台風なんかのときに、そのまま流されちゃったりして?」
 どこか面白がるような口調で、カノコはそんなことも言った。そこまで考えていなかった透の方が、不意をつかれてうろたえた。
「考えてなかった。ほかの場所にしとく?」
「うーん……。だけどもし流されたら、行き先って、太平洋だよね? それもいいなあ」
 うんうんとうなずいて、カノコは海のほうを見通すような目をした。こんなところから、海が見えるはずもないのに。


 骨をすっかり掘り出してしまうと、透は少し迷って、祖母の家の仏壇の前でそうするときのように、手を合わせた。薄くなったカノコがおどけて、その目の前でひらひら手を振ってみせる。
 林間学校で使ったきり押し入れの奥でカビをふいていたスポーツバッグを、家から持ってきていた。その中に、透は慎重な手つきで骨をひとつずつ入れていく。途中でふっと、顔を上げて、カノコのほうを振り返った。
「全部、持っていく?」
 カノコは少し考えて、いたずらっぽく笑った。
「ちょっとでいいよ。あと残しといて。もしかして、いつかタクヤが自首する気になったりしたときに、掘り返しても何にも出てきませんってのも、ちょっとしたホラーだしさ」
「化けて出てる時点でもうホラーだろ」
 まあそりゃそうなんだけど。カノコはひひっと笑った。
 透はスポーツバッグのファスナーを閉めて、首をひねった。「一部だけ持ってったら、カノコが二人に分裂したりしないよな」
「人を何だと思ってんの」
 口では文句を言いながら、どんな場面を想像したのか、カノコは可笑しそうにげらげら笑った。
 それが七月のはじめのこと。

  ※  ※  ※

 前の日までずっと雨続きで、一日中どんよりした雲が垂れ込めていたのに、あるとき雷が鳴ったと思ったら、次の日には魔法のように、いちどきに夏がやってきた。空は真っ青、雲はカタマリでもくもく湧いて、蝉がひっきりなしに合唱して、隣の家の軒先には風鈴。
 それだからその次の日の夜明け前、透は真っ暗な空の下、自転車を漕いで、漕いで、掻いた汗が端から吹き飛ぶようなスピードで、廃屋に向かった。
 これって、やっぱり、犯罪になるのかな。
 一瞬頭をよぎったその考えを、だけど透は、口に出しはしなかった。
 怖くはなかった。誰かに見つかって、説明を求められたら面倒なことはわかっていたけれど、自分が悪いことをしているとは思わなかった。
 たまに遠くでトラックの走行音がかすかに響くほかは、人っ子ひとり表に出ていない。それでも念のため、きょろきょろあたりを見まわしながら、廃屋の中に隠しておいたスポーツバッグとシャベルをつかんで、自転車に戻った。
 ここ数日、カノコはほとんど姿を見せなかった。一昨日来たときには、このスポーツバッグの上に腰を下ろしている姿が、ほんの一瞬、うっすらと見えた。けれどそれは、気のせいだと言われてしまえばそうとしか思えないような、かすかな影だった。
 今日はその影さえ見えない。
「飛ばすかんな」
 それでもスポーツバッグに向かって声をかけて、透はまたペダルを漕いだ。通り過ぎざまに自動販売機に話しかけられながら、コンビニのある通りを避けて裏道へ。住宅街の細い路地を抜けて、河川敷に向かう下り坂を、ノーブレーキで下る。タイヤが危なっかしく鳴く。
 川が見えてから、ようやくスピードを緩めた。息が上がっている。顔がほてって、汗が背中を伝う。Tシャツがぐしょ濡れになっている。カノコが汗臭いと怒りそうだ。
 自転車を歩道において、階段を降りた。肩にはスポーツバッグ、手にはシャベルと、強力ビームの懐中電灯。
 目星は早くからつけていた。川が緩やかにカーブして、見晴らしのいいあたり。そこでちょうど、遊歩道の幅がいちばん広くなっている。
 海に流されたりしてとカノコは笑ったけれど、ずっと昔に氾濫したあと、ものすごく広く整備し直されたとかいうこの川は、どんなに雨のひどいときにも、あふれるというほど水が増えるのを見たためしがない。
 斜面に低木が定間隔で並んでいる、そこから少し離れた場所に懐中電灯を置いて、シャベルを突き立てる。道路からは木に遮られて見えづらいあたり。それでいて、川を見晴らせるポイント。
 念のため、かなり深く掘ることにした。何かを植えるとか、そういうので掘り返されても何だから。
 体を動かしている間は、無心だった。ただ手を動かして、自分の呼吸の音を聞いていた。そんなに長い時間はかからなかったような気がしたけれど、顔を上げたときには、空の端が白みがかっていた。
 穴の底に、そっとスポーツバッグの中身を並べて、掻きだした土を、ゆっくり戻した。
 表面を均したあとで、まわりに落ちていた石や木ぎれや落ち葉を集めて寄せる。ちょっと離れてから、あらためて見下ろして、透はひとつうなずいた。カムフラージュはいい出来だった。言われなければわからない。
 泥だらけになった手をTシャツの裾でぬぐう。放り出していたスポーツバッグを引き寄せて、土を払ったシャベルと懐中電灯を中に放り込むと、そのまま斜面にあぐらを掻いて、夜明けを待つことにした。
 始発の電車がもう動いているのか、遠くで踏切の音がする。雲は遠くに二つ、ぽつんと浮いているだけで、あとはすっかり晴れ渡っている。
 川の流れてゆく先、海に続いているほうから、見ているうちにわかる早さで、空が明るくなっていく。
 ビルの向こう、光が射した。
 川面が朝陽を受けて、銀色に光る。
 なにげなく振り返ったら、ちょうど埋めた場所の真上に、カノコが腕組みして立っていた。
 透のほうを見て、笑っている。目を凝らさなければわからない、ぼんやりした姿だったけれど、それでも、その唇が動いて何かを言おうとしているのが、透には見えた。
「聞こえねえし」
 怒鳴るように言ったけれど、向こうにも、透の言葉が聞こえていないのかもしれない。カノコは遠くに向かって叫ぶときみたいに口の横に手をあてて、さらに一言二言、何かを言ったようだった。
 それもじきに、すっかり見えなくなった。
 いっときして、透は川面のほうに視線を戻した。水面が風にさざ波だって、ぎらぎら光る。魚だろうか、ときどき思い出したように小さな影が跳ねている。
 川面の乱反射があんまりまぶしくて、透は顔を背けた。


 帰り道には、もうちらほら車が通り始めていて、犬の散歩と何組かすれ違った。
 途中で急に蝉が鳴き出した。雲は手で触れそうな質感で、吹き付ける風は乾いていて、道行く人のシャツは半袖だった。二日前までが嘘のように、世界は夏だった。
 来るときにはノーブレーキで下った坂を、意地になって、一度も休まずに自転車を漕いだ。息が切れる。顔が真っ赤になっているのが自分でわかる。いったん引いた汗がまた噴き出して、Tシャツをぐっしょり濡らす。
 歯を食いしばってペダルを漕ぎながら、透は少しだけ泣いた。



    (終わり) 
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第七回夏祭り
競作小説企画「第七回夏祭り」 参加作品です。



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