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 大学生にもクラスというものがあるんだってことを初めて知ったときには、なんだか変な感じがしたものだ。何せ、実際に入る前には、学生たちがてんでばらばらに好き勝手な講義を選ぶという漠然とした(しかもちょっと誤解を含む)イメージがあったし、生憎とあたしには、あらかじめ詳細な情報提供をしてくれるような兄姉とか、仲のいいOBとかはいなかった。
 そして、いざその集団の中に入ってみれば、高校のクラスとそれほど違わなかった。まあ、一浪も二浪もして入るようないい大学でもないことだし、ついこの前まで高校生だった連中が大半なのだから、考えてみれば不思議でもない。しいて違いを挙げるなら、少しクラスメイトとの距離感が変わったことと、高校のときほどクラス単位で行動してばかりではないことと、主な集まりの場所が居酒屋になったことくらいか(クラスの大半が未成年なのに)。
 大学生活をエンジョイしよう! というほどの気概もなければ、なるべく周囲から浮かないようにしようという意欲もいまいち薄い、そんなあたしだけど、それでも入学から一か月が経つころには、なんだかんだで飲み会の類にも何度も顔を出したし、気づけば文科系のサークルにいくつも名前だけ貸しているし、つまらない講義のサボリ方も要領を得てきた。それに、学内の有名人とか、いっぷう変わった面白そうなヤツの情報なんかも、ちらほらと耳に入ってきた。
 そう、たとえば杜越響とかだ。

 杜越響。
 クラスの幹事とかいう男子学生からもらった名簿をぼけっと眺めていたら、そこだけあんまり人名っぽく見えなかった。いや、名簿に並んでいる以上、人の名前であることには間違いないはずなのだけれども。
 気になることがあれば、何でもすぐにひとに訊くのがあたしの性格だ。だからこのときも、すぐ近くに座っていた本人に、面と向かって訊いた。「ねえ、名前なんて読むの?」
 そう話しかけた瞬間、周りにいた連中がそれぞれに一瞬会話を休めて、チラッとこちらを見た。
 その視線のニュアンスに、少しばかり違和感があった。おやっと思ったけれど、そのことについて誰かに問いただすのもはばかられて、なんとなく居心地悪く身じろぎしていると、当の本人が振り返って、特に気を悪くした風でもなく、ゆっくりと答えた。
「モリゴエヒビキ」
 それがちょっと甘いような、独特のかすれ声だった。
 この男の声ははじめて聞いたなと、あたしは頭の片隅で思った。こんなに印象的な声で喋るのを耳にしていたら、いくらなんでも覚えていただろうから。
「ヘンな名前」
 あたしはにやっと笑って言った。自分がちょっとヘンな名前なので、ちょっとヘンな名前の仲間を見つけると、勝手に親近感を覚えるのだ。そして親近感を抱いた相手には、ちょっと意地悪に絡んでみたくなるのが、あたしの悪い癖だ。
 初めて話す相手からいきなり絡まれたモリゴエの反応はというと、ちらっと目の端で笑っただけだった。それも、冷笑とか失笑とかいう攻撃的な笑い方じゃなくて、苦笑でもなくて、かといって気の弱い戸惑いがちな笑みでもなくて、だからかえってその表情はあたしの印象に残った。
 そしてあたしはモリゴエのことを、ついこのときまで認識していなかったが、向こうはそうでもなかったらしい。なぜなら、
「佐波も珍しい苗字だ」
 モリゴエがちゃんとあたしの名前をサワと発音したので。
 あたしはもう一度にやっと笑うことで返事に代えた。そのときはただ、それだけの話。二人合わせても四十文字も口にしてないような、短い会話だった。

 モリゴエはとにかく無口なやつだ。道理で声を聞いた覚えがなかったわけだ。そして、いつもなんとなく眠そうな顔をしている。実際に、講義の合間に机に突っ伏して寝ていることもよくある。けれど講義中に居眠りしているところは、一度も見かけたことがない。
 まじめだね、と話しかけてみたら、モリゴエはまた無言で、ちらっと笑った。そして、ずいぶん長い間のあとに、ぼそっと、「悪いから」と言った。何が悪いのか、一瞬わからなくて、あたしは何秒か遅れて「ああ」と思った。寝てると講師に悪いから、ということらしい。なんとも律儀なやつだ。
 モリゴエは誰かと会話をしていても、自分からはめったに口を開かないようだった。少なくとも、進んで人の輪の中に入っていこうという感じではない。それなのに、不思議と付き合いは悪くなかった。実際、あたしは飲み会の類で何度もモリゴエを見かけた。
 何にでもだるそうな無気力男ってわけでもなく、一匹狼というほど尖がってもなくて、内向的で根暗というほどおどおどしていたりもせず、周囲に無関心とかいう風にも見えなくて、つまり総合すると、モリゴエは、何を考えているのかよく分からないやつだった。だからなんとなく目立っていた。そのことに、あたしはモリゴエと同じクラスになって一か月以上も経ってから、ようやく気づいた。

 机に肘をついてぼけっとしていたら、甲高い声が耳に刺さった。
「杜越くんて、喋るの遅いよね。そんで、あんまり喋らないよね。あれってなんで?」
 一コマめの講義の前だった。モリゴエは風邪で休んでいた。そういうタイミングで、あたしの前の席に陣取った連中が、笑いながら小声で話していた。
「さー。頭がゆっくりなんじゃね」
「うわ、ひでえなお前」
 やだあ、ひっどーい。げらげら。あんまり聞いていて気分のいい話じゃなかった。でも、口を挟んでかばってやるほど、あたしもモリゴエのことを知っているわけでもないから、眉間にしわを寄せただけで、聞き流すふりをした。
「昔は、そうでもなかったと思うんだけどなあ」
「あ、お前、杜越と高校一緒なんだっけ」
「高校は別。けど同小同中」
「わかった、高校でイジメにあったんだ」
「ぶ、好き勝手言ってる」
「ああ、でも何だっけ、聞いたことあるようなないような、その話」
「おっ、推理的中?」
 なんだか石でも投げたいような気になったけれど、大学の講義室には、あいにく投げるのにちょうどいい石ころなんて落ちていない。かといって、消しゴムのかすを投げるような小学生みたいなことをする気力もなかった。
「いや、そっちじゃなくて、なんだっけなあ、たしか自分の声が嫌いとか、なんとか」
「へー。なんかでもそれって、自意識過剰気味じゃねえ?」
 頭がゆっくり発言のやつが、また耳障りな調子で笑った。
 他人の会話に勝手に聞き耳を立てていただけの、モリゴエのこともよく知らないあたしが、勝手にモリゴエの気持ちを代弁するのは、それこそおせっかいというもので、それはあたしにもちゃんと分かっている。それでも単純に腹が立った。何か嫌味のひとつくらいは言ってやりたいような気がした。でもその前に講師がやってきたので、なんとなくそのままなし崩しになった。
 まあでも、こうやって外野があれこれいうのは、単純にモリゴエが目立つからだ。なんか成績が凄いとか、すごくルックスがいいとか、スポーツができるらしいとか、そういうわかりやすい目立つ要素は、いまのところモリゴエには見当たらない。そのうえ無口で、自分からはあまり発言しない。それなのに、不思議とモリゴエは目立つ。
 このときのやつらの陰口は、腹立ちと一緒くたになって、なんだかいつまでも気持ちの隅っこのところに残った。モリゴエの声は、たしかにちょっと変わった響きだったけれど、本人が嫌がるような声(女の子みたいな声だとか、ドスの利いた声だとか、ドナルドダックみたいな声だとか)には思えなかったし。
 だけど、そのとき始まった講義は、あたしがちょっと好きな外部講師の枠で(大阪出身とかいう老け顔のおっさんなんだけど、講義中にいちいち一人ボケツッコミが入る)、だからそのときはそれきり、その話はしばらく忘れていた。

「PBRってなんだっけ」
 ある日の最後の講義が終わったあと、近くの席にいたやつから、ぽつりと話しかけられた。モリゴエヒビキだった。振り向くまでもなく、声ですぐに分かる。それくらいモリゴエの声は独特だ。
 その口調は、別に、いますぐに分からなければ困るというような差し迫った感じでもなくて、なんとなく気になって思わず口からついて出たというような、ほんとうに何気ない質問だった。
 それなのに何でか、何が何でもこの質問に答えてあげなきゃなんないというような強い衝動が、胸の底からふっと湧いて出て、あたしは自分で自分に戸惑った。そして戸惑いながらも、口は勝手に言葉を返した。
「株価のなんかの指数じゃない? こないだ勝谷センセーの講義に出てきた気がするよ」
「あ」
 そして、自分で訊いておいて、モリゴエは変な顔をした。それにもあたしは戸惑った。なんだろう、それはいかにも『しまった、うっかりやっちゃった』みたいな顔だった。
 少しの間があって、モリゴエは「ありがとう」と小さく頭を下げた。はあ、とつられて頭を下げ返す。なんだか大げさなやつだ。
 そしてモリゴエは礼を言いながらも、まだ『しまった』みたいな顔だった。
 一体なんの『しまった』だろう。『おれとしたことがつまらないことを訊いてしまった』? そんな感じでもない。じゃあ、『よりによって佐波に話しかけてしまった』? なんでやねん。
 ……誰かさんの一人ボケツッコミの癖がうつってしまったようだ。いや、それはともかく、あたしはそんなに嫌われるほど、まだこいつと話してもいないし、べつに悪い噂が経つほど目だってもない、と思う。……たぶん。
 ともかくモリゴエはやたらと『参ったなあ』みたいな様子で、そしてあたしが不思議そうにしているのを見ると、さらにちょっと気まずそうな顔になった。なんだか、今にも「ごめん」と言いだしそうな顔だった。あたしはあたしで、腑に落ちないなあという表情を隠しもしなかった。
 モリゴエは口を開きかけて、けれど、結局それ以上は何も言わなかった。
 なんかやっぱり、ちょっとヘンなやつだ。言いたいことがあるなら、言えばいいのに。

 その些細な一件からほどなく気づいたのだが、モリゴエはどうやら、頼みごとが苦手らしい。
 それもちょっと苦手、とかではなくて、すごく苦手らしかった。風邪で休んだ講義のときのノートを誰かに借りるという、たったそれだけのことも、人に頼めないらしかった。頼める友達が誰もいないという風でもないのに。
 ともかくそれで、モリゴエは風邪で休んだときの講義の続きに、どうもいまいちついていけてなくて、けれどなんだかマジメみたいで、あきらめて講義を聞き流すでもなく、ちょっと困惑していた。それが、ひとつ後ろの席から見ていてもよく分かった。
「ノート貸したげる」
 あたしは講義が終わったあと、丸めたノートでモリゴエの背中をつついた。
 モリゴエは振り返ったけれど、どういうわけか、やたらと戸惑っていた。たとえば道端で、初対面の人にいきなり呼び止められて、わけのわからない言いがかりをつけられたって、ここまでは戸惑わないんじゃないかと思うくらいの戸惑い方だった。あたしはそれに戸惑った。なんでモリゴエがそんなに戸惑うのか、よく分からなかった。
 モリゴエはありがとうと言ってノートを受け取るでも、いいよと断るわけでもなく、ずいぶん長いこと、振り返った姿勢のままで迷っていた。たかがノートをいっとき借りるくらいのことに、なにをそんなにためらう必要があるのというのか。
 たとえばそれが、「こいつに借りるなんておれのプライドがゆるさねえ」とか、そういう種類の躊躇なら、腹は立つにしても理解の範疇だし、あるいはものすごく遠慮深いとか、「なんでこの人はぼくなんかに優しくしてくれるんだろう」というような類の戸惑いなら、苛々はするかもしれないが、まったくの理解不能ではない。けれどそういう調子でもなかった。じゃあモリゴエはいったい何をこんなにためらっているのか。彼女が(いるかどうか知らないが)ものすごく嫉妬深くて、ほかの女と口を利くのも嫌がるとか? それはいくらなんでも、想像力豊富すぎだろうか。
 そして、あたしがそれだけ想像の翼を自由に羽ばたかせている間にも、まだまだモリゴエは逡巡している。喋るのが遅いのは知っていたが、とにかくとろいやつだ。
 とろいけれど、モリゴエの表情の動きから、あたしにはひとつ、分かったことがある。それは、モリゴエは別に考えるのがゆっくりなんじゃなくて、言葉を口に出すまでに、ものすごい余計なことをあれこれ考えて、なんて言ったらいいか困ってるんだ、ということだ。
 なんでわかるのかって、そりゃ、あたしがそうだったから。
 中学校のころ、あたしはちょっとだけイジメみたいなことに遭った。イジメ『みたいなこと』だ。ちょっと吊るしあげっぽい雰囲気で女子連中に囲まれて、その輪の中にはあたしが特に仲がいいと思ってた子もしっかり混ざっていて、そこで「佐波って空気読まないよね」とか、「相手が嫌がってても気づかないよね」とか、そんな感じのことを口々に言われたっていう、ただそれだけの出来事だ。特に小突かれたりもしてないし、上履きを隠されたり、体操服を焼却炉に放り込まれたり、トイレの個室で上から雑巾が降ってきたりはしなかった。
 そしてたったそれだけのことでも、あたしはいっぺんに対人恐怖症になった。それまで言いたいことは軒並み、深く考えずに口に出してぺろっと言ってきたのが、今度は急に、何をしゃべっていいか、何ならしゃべってもいいのか、考えて考えて考えすぎて、一時期あたしは何にも口に出して言えなくなった。
 それからあたしは一年とちょっとの間、空気だった。ハブられたっていうよりも、むしろ自分から進んで空気になった。空気読めない女が一転して空気。あたしにもちょっと素直で可愛いところがあるでしょ? 異論は認めない。
 ともかくそれで、このときのモリゴエの間が、単にとろいんじゃなくて、いろいろなことを考えすぎて、口に出していい言葉をさがして困ってるんだっていうのが、言われなくてもなんとなく分かった。
 だけど、空気なんて、そんなに一生懸命読まなくてもいいのだ。
 言いたいことをこらえて言わないでいたって、他人というものは結局、今度は根暗だとか影が薄いだとか、なに考えてるのか分からなくて不気味だとか、また別の好き勝手な文句をいう。どうしたって文句を言われる。たとえ頑張ってものすごく気を遣って、クラス一番の人気者になったって、いつか誰かは文句をいう。人の気持ちをぜんぜん気にしないというのも、それはそれで余計な軋轢を生むだろうけれど、まあ、何ごともほどほどが肝要ってことだ。
 だからあたしはこのとき単純に、「モリゴエはもっと自己主張したらいいのに」と思いながら、じっとモリゴエの返事を待っていた。
 モリゴエはかなりの躊躇のあとに、ようやく「ありがと」と小声で言って、あたしのノートを受け取った。
「あのさ」
 あたしは言おうか言うまいか、ちょっと迷ったのだけれど、結局はおせっかいの虫が騒いで、余計な口出しをした。
「あんたもっと、人に頼みごとしたらいいと思うよ」
 そのあたしの説教だかなんだかに、モリゴエはちょっと首を傾げただけで、何にも言わなかった。反論もしないし、そうするよとも言わない。
「あんたさ、このまえ居眠りしてた矢木に、ノート貸してって頼まれたときに、フツーに貸してあげたでしょ」
 人がたくさんいるところで、声高に説教めいたことを言うのはどうかと思うくらいの分別は、あたしにもあった。それで、うんと潜めた小声で話を続けた。モリゴエは面倒そうな顔もせず、ごく素直な調子で頷いた。
「だったらさ矢木に、ノート貸してって頼むくらいは、バチもあたんないよね。違う?」
 まあ、居眠り矢木のノートを借りて、それがちゃんと役に立つかどうかは知らないが。
「違わない」
 モリゴエはようやく喋った。やっぱり甘い、かすれた声。
「だったらさ」
 あたしは言いかけて、口をつぐんだ。モリゴエが小さく微笑んでいた。あたしは思わず、そのことにちょっといらついた。なんでそこで笑うのかな、この男は。
 それは全然、いやな笑い方ではなかったけれど、モリゴエがあたしの忠告を受け入れるつもりがまるでないことだけは、なんとなくわかった。
「人に貸しをつくるのはよくて、借りをつくるのはイヤなわけ? それってちょっとヤなやつだよ、モリゴエ」
 あたしは言い終わるなり、自己嫌悪に顔をしかめた。ヤな言い方をしてしまった。同じことを伝えるのにも、もっとやわらかい、いい話し方があるはずなのに、無神経に人を傷つけるような言い方をするのは、あたしの悪い癖だ。
 モリゴエは口を開きかけて、また閉じた。何か言おうとして、思い直して、そうやって言葉を選んでいるようだった。
「……ごめん、言い過ぎた」
 今度は沈黙に耐えかねて、あたしが思わず謝ると、モリゴエは横に小さく首を振って、また微笑んだ。それを見て、あたしはちょっと途方に暮れた。なんでそこで笑うんだろう。やっぱりヘンなやつだ。

 クラスっていったって、高校と違ってなんでもかんでも一緒に行動するわけじゃないし、どうせ学年が上がって専攻を決めたら、いずれはてんでばらばらになるのだから、それほど熱心につるまなくてもよさそうなものだ。だけど、どこにでも仕切るのが好きなやつはいる。
 クラス幹事の小城という男子は、自分から幹事を買って出たというだけあって、いかにもそんなやつだった。きっと将来はどこかの会社の中で、おんなじようなテンションで宴会部長を務めるんだろう。
 その小城のおかげで、あたしたちのクラスは、なんだかやたらと集まる機会が多かった。やれ飲み会だのカラオケだのみんなでテーマパークに行くだのと、頻繁に集合がかかって、なんとも落ち着きがない。別に強制参加でもなんでもないが、まあ、あたしも基本的に暇な人間だし(いまは彼氏もいないし!)、すすんで一人狼を気取るつもりもないし、ということで、その半分くらいはなんとなく顔を出していた。
 で、その何回目だかの飲み会で、二次会のカラオケにモリゴエが来ていた。その日の一次会の時点で、カラオケは苦手だと言っているのが聞こえたので、ついてきているのを見ておやっと思ったが、どうやら強引に誘われて断りきれなかったらしい。
 強引に誘われたらしいにしては、モリゴエは仏頂面をするでもなく、苦笑気味に隅に陣取って、律儀なようすで人の歌を聞いて、手拍子なんか打っていた。
「佐波ちゃん、こないだから何か杜越くんのこと気にしてるよね。佐波ちゃんの好みのタイプって、ああいうの?」
 見ていたら、隣に座っていた目ざといクラスメイトにつつかれた。
「いや別に」
 普通だったら、そこから会話の糸口的にからかわれてもよさそうな会話なのだろうけども、「あ、そ」とあっけなく引き下がられてしまった。あたしの「別に」が、照れるでも動揺するでも厭そうでもなく、あまりにも含みのない「別に」だったからかもしれない。それとも、あたしをからかっても楽しい反応は返ってこなさそうだと思ったのかな。
 すっと引き下がられると妙な心理が働くもので、あんまり素っ気無かったかなと、あたしは内心ちょっと反省して、小声で「ある意味、気になるといえば気になるんだけど」と言おうとした。
 けれどちょうどそのときに、冷やかすような喝采のような、わっという喧騒が巻き起こって、あたしはびっくりして振り返った。そうすると、それまで全然歌わずに、人の歌だけ律儀に聞いていたモリゴエが、弱ったなあという感じでマイクを握っていた。
 モリゴエは傍目にも、いかにも気が進まなさそうだった。カラオケは苦手だと言っていたことだし、もしかしてひどいオンチだとか、そうじゃなかったらものすごいマイナーな歌しか知らないとか、そういうことだろうかなんて勝手に想像していたら、すぐによく耳にする曲のイントロが流れ出した。
 あいにくあたしは音楽関係にはうとくて、それが誰のなんていう歌なのか知らないのだけれど、とにかくその曲はCMソングだかドラマの主題歌だか、しょっちゅうそこらで流れていて、耳にすれば誰でも聞いたことがあるようなポップスで、まあつまりなんていうか、いかにも無難そうなセレクトだった。
 長いイントロが終わって、モリゴエがしぶしぶ歌いだしたその瞬間だった。興味深々で注目していたやつも、ひやかすように意地の悪い笑みを浮かべていたやつも、話に夢中になってぜんぜん聞いていなかったやつらも、いっせいにしんと静まりかえった。
 モリゴエの歌はすごかった。
 なんて言ったらいいんだろう。劇的に歌がうまいとか、声楽か何かやってるんだろうとか、そういう感じでは全然なかった。だいたいマイクを握る本人はいまいちノリがわるくて、声に気合いも入ってなくて、ごくフツーの地声で、淡々と歌っている。
 でも、そのテンション低い歌声が、めちゃくちゃ耳に甘くて、気持ちよかった。
 終始淡々と歌い終わったモリゴエが、気まずそうに身じろぎしながら、マイクを隣のやつに押し付けるまで、全員、無言でぽかんと固まっていた。
 次の曲のイントロが始まったとき、ようやくみんなの呪縛が解けたみたいだった。がやがやと興奮冷めやらない調子で、それぞれ好き勝手に騒ぎ出す。「びびったあ」「杜越くん声キレー」「うわ、鳥肌たった」
「杜越、おまえ、何か音楽とかやってんの」
 モリゴエの隣に座っていた男子が、どこか呆然ととした調子で、モリゴエをつついた。モリゴエは「まさか」と興味なさそうに答えながら、反対側の席に座っていたやつにマイクを渡そうとして、苦戦していた。そいつは自分の入れた曲がとっくに始まっても、モリゴエからマイクをぐりぐり押し付けられても、まだぽかんとしていた。
「もったいねえ、もったいねえよ、杜越! 何かやれよ、お前。軽音系のサークルとかバンドとか、学内にだってあるだろ」
「大げさな」
 モリゴエはいかにも興味なさそうというか、その話はあんまりしてほしくないという感じだったんだけども、そいつはよっぽど興奮したのだろう、あきらめ悪く食い下がった。「いやだって、マジもったいねえよ」とか、「そんだけの才能、ゴミ箱に捨てる気かよ」とかなんとか、いつまでも粘っていた。そうしたら、あんまりしつこかったからだろう、とうとうモリゴエが怒った。
「その話は、もうよしてくれよ」
 いや、怒ったというほどには、モリゴエの表情も声も、べつに怒ってなかった。ただちょっとうんざりした風に、小声でそう言っただけだ。
 でもそれだけで、言われたほうはいきなり、かちんこちんにフリーズした。たとえばピストルでも懐に隠し持ってそうなオニイサンにドスの聞いた声で脅されたなら、こうなってもおかしくないだろうというくらい、ぴしりと凍り付いていた。
 大げさな反応だった。もちろん、普段はうんうん頷いて人の話を聞いてるだけのモリゴエが、めずらしくはっきり拒絶したので、意表をつかれて驚いたというだけなのかもしれなかった。でも、何をどう控えめに言っても、その反応は異様だった。
 そして言ったほうのモリゴエはモリゴエで、なんだかぎくっとしたような顔をした。そして急に深々と頭を下げて、「ごめん」と言った。そりゃ、へんな空気をつくったのはモリゴエにも原因があるだろうけども、それにしてもいったい何をそんなに真剣に謝るのかと思うくらい、真摯な謝罪だった。
 言われたほうも、「いや、えっと……悪かったよ」と、戸惑ったように頭を掻いて、気まずげに咳払いをした。
「おいおい、しらけちゃったじゃん。誰だよ次、料金もったいないだろ、歌えよー」
 幹事の小城が、なんとかその場の空気をもとに戻そうとして、おどけた調子でどやすと、みんなどこかほっとしたように雑談を再開した。モリゴエの次の次の順番で曲を入れていたやつが、やっと思い出したようにマイクを握って、曲の途中の中途半端なところから、いまいち乗り切れないふうに歌いだした。
 みんながみんなその場の空気を取り繕おうと、何もなかったようなふりをして、たわいのないことを喋りながらも、いつまでもちらちらとモリゴエのほうを気にしていた。あたしももちろんしっかり見ていた。モリゴエが罪悪感に打ちひしがれたように、肩を落としているのを。

 カラオケを出ると、モリゴエはそそくさと皆から離れた。まだまだ遊び足りないぞという元気なやつもいれば、いつの間にかそっと姿を消していた男女もいたけれど、時間も終電が近いというくらいだったので、ばらばら帰るやつらの方が多かった。あたしも帰るつもりだったけれど、モリゴエが向かっているのがちょうど駅の方角だったので、その気落ちしたような背中を小走りに追いかけた。
「モリゴエ」
 呼びかけると、モリゴエは顔だけで振り向いた。あたしの顔を見ると、ちょっと気まずそうな表情にはなったが、それでも足を緩めてはくれた。
「佐波は、電車?」
「うん。駅まで一緒にいこうよ」
 まさか断らないよねというニュアンスをこめて、「夜だし、物騒だし」と付け足すと、モリゴエは困ったような顔で、それでも小さく頷いた。
「ね。モリゴエ、あんた自分の声、きらいなの?」
 歩きながら訊くと、モリゴエは素直に頷いた。
「うん」
「なんで。いい声じゃん?」
 モリゴエはすぐには答えなかった。でも、その沈黙には、何か答えようとするような、言葉を考えているような色合いがあった。だからあたしは口を結んで、ただ歩きながら、おとなしく返事を待った。
「佐波は……」
 ずいぶん歩いてから、モリゴエはようやく何かいいかけた。そして、思い直したように、途中で口をつぐんだ。
「言いかけてやめるのって、けっこーイラッとする」
 思わずそう言うと、なぜかモリゴエは驚いたような顔をして、そしてどういうわけか、いきなり微笑んだ。
「佐波はいいやつだな」
「はあ?」
 あたしは素っ頓狂な声を出した。なんで今の話の流れでそうなるのか、さっぱり分からない。
「人がまじめな話してるのに」
 あたしが不機嫌な声を出すと、モリゴエは目顔で謝るような視線をよこして、それから例の甘い声で、ぼそぼそと言った。
「人のために怒るやつは、いいやつだ」
 あたしは毒気を抜かれて、思わず黙り込んだ。なんなんだろう、こいつ。
 それきり、黙り込んで歩いているうちに、駅についてしまった。二人とも定期だから、券売機には向かわず、そのまま改札を通る。
 構内には、ほろ酔い加減の赤ら顔が目立った。通勤ラッシュの時間帯とは比べ物にならないけれど、こんな遅い時間でも、それなりに人は多い。終電が近いからこそかもしれない。
「モリゴエは何番線?」
 モリゴエがぼそぼそと答えたのを聞くと、どうやら同じ電車になりそうだった。
 乗り場までたどり着いたとき、モリゴエが、電車の到着アナウンスに紛れないぎりぎりの大きさの声で、ぽつぽつと話しはじめた。
「佐波はさ、もしも、周りの人がみんな、自分のいうことを何でも聞いてくれたら、どう思う?」
 なんだなんだ、いったい何の話が始まるんだと、ちょっとあきれながらも、あたしはいちおう、マジメに答えた。
「ちょっとお嬢様みたいな気分になれて、楽しいんじゃない?」
 軽い言葉のようだけれど、わりと本音だった。あたしにはわがままな妹が一人いて、うちの両親は、妹のおねだりなら、叱ったりぼやいたりしながらも、たいてい聞いてやっていたけれど、あたしには『お姉ちゃんなんだからガマンしなさい』の一点張りだった。だから、甘やかされる一人っ子や末っ子を見ると、あたしはいつでもけっこう本気でうらやましい。
「それが、どんな頼みでも?」
 モリゴエは何がいいたいんだろう。あたしは怪訝に思いながら、首を捻った。どんな頼みでもって、たとえばどんな?
「おれね、長男で」
 モリゴエの話はまた飛んだ。あたしは眉をひそめたが、いちおうは黙って頷いた。
「物心ついたころから、親が何でもいうことを聞いてくれてね」
 なんだよ自慢話かよ。あたしは思わず唇を曲げた。それでも、自分からは喋らないはずのモリゴエが、珍しく長い話をしそうだったから、一応は黙って最後まで聞いてみようと、口ははさまなかった。
「最初はね、別に自分では、へんだと思ってなかったんだ。たとえばさ、プレステ買ってっていったら、買ってきてくれたりさ、勉強勉強ってうるさいなっていったら、もう勉強しろっていわなくなったり。ピーマン嫌いだから入れないでっていったら、次の日からピーマンが食卓にのぼらなくなったりさ」
 モリゴエは途切れ途切れに喋った。
「それくらいだったら、ただの甘い親だって思うよな」
「思うね。めちゃくちゃ甘い親だって思うね」
 そこでホームに電車が入ってきて、ちょっと会話が途切れた。電車に乗り込むと、空いている席は全然なくて、モリゴエとふたりで横に並んで吊り革につかまった。車内でも飲んでいるらしいおっさんがいて、電車の中はビールくさかった。
「両親に、ふたりともケンカすんのやめて、っていったら、次の日からホントにまったく喧嘩しなくなって」
「子どもに諭されて、恥じ入ったんじゃない?」
「そのあと十年くらいになるけど、それ以来、ほんとに一回も喧嘩してるの見たことない」
「いいことじゃない」
 合いの手を入れると、モリゴエは唇の端をちょっと吊り上げた。
 電車が動き出した。スピードが徐々に上がっていく。トンネルに差し掛かって、白い蛍光灯がちらちらと視界をよぎった。モリゴエは窓の外をじっと凝視するようにしながら、話を続けた。
「小学校の高学年くらいだったかな、ある日、おふくろが言ったんだ。あんたに頼みごとされたら、何でか、絶対にきいてあげなきゃいけないって気分になるのよね、って」
 モリゴエのその言葉に、なぜかあたしはぎくりとした。それは身に覚えのあることだった。PBRってなに。モリゴエが何気なく尋ねてきた、あのときあたしは確かに、なんでか、何が何でも答えなきゃいけないような気になった。
 へんな沈黙をはさんでしまったのをごまかそうとして、あたしはわざと、馬鹿みたいに軽いノリで言った。
「それってさ、単に、モリゴエが甘え上手っていうだけじゃん? 女殺し?」
「おやじも弟も、その頃の友達も、みんな別々に、似たようなことを言った」
「じゃあオトコ殺しだ」
 モリゴエはあたしの軽口に怒り出しはしなかったが、ちょっと怒ったような顔にはなった。
「ごめんごめん、冗談だって」
 あたしは肩をすくめて謝って、それから、ちょっと考えた。考えて、聞いた。
「モリゴエってさ、超能力とかって信じるタイプ?」
 ちなみにあたしは全然信じてない。吊り革を握りなおしたモリゴエは、あんまり興味なさそうに首を傾げた。
「さあ。あってもなくても、別に驚かないけど」
 さっきまでの自分の話は、てんで棚に上げたような調子だった。ちょっと拍子抜け。
 そんなふうに訊いてはみたものの、あたしはいまいち、モリゴエの話を信じてなかった。頭がゆっくり発言のアイツらじゃないけど、モリゴエがちょっと気にしすぎなんじゃないかとか、思春期のときって何かと思い込みがちだからとか、そんなことを考えて、でもどういったらモリゴエが気を悪くしないだろうかと考えると、すぐには何も言えなかった。
 そしてあたしがうまい話の切り出し方を見つけるよりも先に、モリゴエが言った。
「小学校の、運動会のときにさ。徒競走の前に、トモダチのマコトってやつと、ちょっとケンカしたんだ。そんでつい、『お前なんか転んじまえ』って」
 あたしは思わずモリゴエの横顔を、じっと見た。モリゴエは、窓ガラスに映った自分の顔をにらみつけるようにしていた。
「まさか、ホントに転んだの?」
 訊くと、モリゴエは小さく頷いた。唇を引き結んで、窓から視線を動かさないまま。
「偶然じゃなくて?」
 慎重に聞くと、モリゴエは何か答えかけて、そしてためらった。何度も口を開きかけて、やめて、また開いて、それからようやく言った。
「おれの目には、マコトが、わざと転んだように見えた」
 その返事に、あたしはちょっとほっとした。だってそれなら話は簡単だ。
「それはさ、その子があんたをからかおうとしたんだよ」
 けれどモリゴエは、ゆっくりと首を横に振った。
「終わって、そいつ、悔しがって泣いてた。一等賞だったら、親からゲーム買ってもらえる約束だったんだって」
 あたしはちょっと黙った。それから、モリゴエの顔を見ないで、小声で言った。
「それは、きっとさ、あれだよ。ちょっと意地悪な考え方かもしれないけど、その子はさ、たとえば本当は、最初から一等になれる自信がなくってさ、それで、ダメだったのを、あんたのせいにしたかったとかさ、そういうのかもしれないじゃない?」
 だけどモリゴエは、小さく首を振った。「マコトは学年で一番足が速かった」
 あたしはまたちょっと黙り込んだ。それならやっぱり、偶然だよ。わざとに見えたのは、あんたの気が咎めてたからだよ。そう言おうと思ったのだけれど、口にできなかった。モリゴエはガラスに映る自分の顔を、親の仇みたいに睨みつけていた。
「たとえば、もしも俺が、そこでさ、『転んじまえ』じゃなくて……」
 モリゴエは言葉の続きを飲み込んだけれど、その先は、言われなくてもなんとなく分かった気がした。
 たとえばモリゴエが、そこでマコトくんに、『お前なんて死んじまえ』とか、そういうことを言ってたら?
 電車がゆっくりと減速する。疲れて投げ遣りな感じの車掌が、マイク越しに駅名を告げて、忘れ物をするな、気をつけて降りろというようなことをぼやいている。あたしははっとして窓の外を覗いた。
「あ、あたし次だ。モリゴエは? もっと先?」
 モリゴエは頷いた。その目が一瞬、何か言いたそうに揺れたけれど、結局は何も言わなかった。あたしも、もう少し話の続きをしたいような気がしたのだけれど、そうすると電車がなくなりそうだったので、しかたなく軽く手を上げて、降り口の方に足を向けた。
「また明日、ね」
 モリゴエは何も言わず、小さく頷いた。
 電車を降りる人波に押されながらも、つい気になって首を捻ると、窓の向こうでモリゴエが、こっちを見て微笑んでいた。それはちょっと寂しそうな笑い方で、あたしは思わず足を止めた。背中にぶつかったおっさんから、舌打ちが聞こえてきた。そのままモリゴエを乗せた電車がホームを出て、すっかりその姿が見えなくなるまで、あたしはおおいに人の流れを妨害してしまった。

 駅のホームを出ると、生ぬるい風が吹き付けた。見上げれば、空の半分くらいは、ぼやっとした雲に覆われていた。雨が降るかもしれない。
 しけった風に吹かれながら、アパートまでの道をぼうっと歩いていると、なんだか全然現実感がなくて、さっきのは全部モリゴエのつまんないウソなんじゃないかって、そんな気がしてきた。
 でも、どう考えても、モリゴエがあたしをからかおうとして、適当なホラを吹いているとは思えなかった。そういうやつじゃない、と思う。まだ浅い付き合いだけどさ。
 そうじゃなくて、多分あれだ、子どもがよくやるやつ。トモダチの気を引こうとして、自分には超能力があるんだとか霊感があるんだとか、そんなことを繰り返し言ってるうちに、だんだん引っ込みがつかなくなったり、自分でも本当にそうなんだって思い込んじゃったりするアレ。
 一人暮らしをはじめてほんの数ヶ月で、早々に目も当てられないほど散らかったアパート。考え事をしているうちに、いつの間にか部屋にたどり着いていた。化粧を落としてシャワーを浴びて、シーツのぐしゃぐしゃしたままのベッドにもぐりこんでも、まだあたしはその件を考えていた。明日、モリゴエに会ったらなんて話しかけようか。昨日のあれウソでしょって? それとも、よく分かんないけどあんまり悩みすぎないほうがいいよ、って?
 でも、モリゴエはどう見ても本気みたいだった。そしてあたしはあのときの、モリゴエに質問された瞬間に感じたヘンな引力の説明を、自分の中でうまくつけかねていた。もしかしたら、モリゴエがいうようなことも本当にあるんじゃないかって、そんな風に血迷ったことを、ふっと考えてしまうくらいには。
 もう少し真剣にこのことを考えてみようと思うのに、帰りが遅かった分だけあたしはきっちり疲れていて、根性のないことに、ベッドにもぐりこんで五分もしないうちに、あっさりと眠りに落ちた。
 そして明け方に何度もくりかえし、似たような夢を見た。小さな子どもが、自分の言葉が周りに与える影響におびえて、何にも口に出せなくなる夢。その子どもはモリゴエだったり、あたしだったりした。

 講堂に向かう途中、ひょろりと伸びたモリゴエの背中を見つけた。
「はよーっす、モリゴエ。今日も眠そうな顔してんね」
 駆け寄って話しかけると、モリゴエは振り返って、やたらとびっくりしたような顔をした。人の顔をみて驚くなんて、失礼なやつだ。
「…………おはよう」
 長すぎる間のあとに、モリゴエは挨拶を返して、それから何か言いたげに、口をもごもごさせた。けれどやっぱり迷って迷って迷って、何も言わなかった。
 だからあたしはモリゴエの困惑に気づかないふりをした。
「モリゴエって、どの辺から通ってるの?」
「……葦ノ尾町」
「へえ、けっこう遠いね」
「でも、電車一本だから」
 モリゴエはヘンな顔をしたまま、それでも律儀に答えをよこした。あたしが昨日の話を信じたのか、それともウソだと思っているのか、測りかねているようだった。
 そしてあたしはというと、実際のところ、モリゴエの話が本当だともウソだとも、決め付けきれないままだった。それでも、モリゴエが本気で言っているのだろうということだけは、根拠もないけど確信していた。事実かどうかはともかくとして、モリゴエは本当にそう思っていて、そのせいで喋ることに対してものすごく慎重になっているのだ。うっかり変なことを言って人を傷つけないように、人に迷惑をかけないように、気をつけて気をつけて喋っているのだ。それだけ分かっていれば、とりあえずそれでいいかなという気がした。
 あたしがどうでもいいような世間話を振って、モリゴエがそれに言葉少なに答えているうちに、講堂に辿りついた。そして入った瞬間、昨日カラオケに居合わせたやつらから、居心地の悪いような視線が、モリゴエにぱっと集まった。ついでにモリゴエと並んで一緒に講堂に入ってきたあたしにまで。
 あたしはそれに知らん顔をして、しれっと講堂の後ろの方に陣取った。何せ眠くて眠くて、とても一時間半、マジメに講義を聴いていられそうにはなかったから。

 電車の中で奇妙なうちあけ話を聞いたあとも、あたしはやっぱりモリゴエがちょっと気になっていて、ときどき誰にも頼みごとをできないで困っているモリゴエに、おせっかいな言葉をかけたりしていた。モリゴエが見逃したらしい休講の張り紙について教えてあげるとか、辞書を貸してあげるとか、どれもそういう些細なことなんだけど。
 そのたびにモリゴエは、ちょっと困ったような、何か訊きたそうな顔をして、けれどやっぱり散々迷った挙句に、「ありがと」とぼそぼそ言った。
 あたしがもう少し繊細で気弱な女の子だったら、もしかしてモリゴエには迷惑なのかなとかいって遠慮したかもしれないし、周囲の学生たちの目線も気にしたかもしれないけれど、あたしは持ち前の図太さを発揮して、気軽に声をかけ続けた。
 季節が夏めいてきた頃だった。木曜日の、最後の一コマがモリゴエと一緒だった。あたしは講義の途中で、ちょっとうたた寝してしまって、よく分からなかったところがあった。それで、帰ろうとしているモリゴエの背中を追いかけた。
 話しかけて講義の内容を質問すると、モリゴエはやっぱり困惑したふうで、それでも律儀に説明してくれた。モリゴエの話はとぎれとぎれではあったけれど、たぶん、講師もそこまで親切な説明はしていなかっただろうというくらい、噛み砕いてあって分かりやすかった。話をしていてときどき感じるのだけれど、モリゴエの頭は多分、全然ゆっくりどころではない。
 あたしは礼を言って、用事はそれで終わりだったのだけれど、コンビニのバイトに向かうモリゴエと向かう方向が同じだったので、そのまま何気なく並んで歩いた。
 風が吹いて顔を上げると、構内に植えられた木々の緑の色合いが、春のやわらかな色とは変わってきていて、ああ、夏になるんだなあと、あたしはぼんやりそんなことを考えていた。そこにモリゴエが、ぼそりと聞いてきた。
「佐波は、おれが気持ちわるくないのか」
「……ないよ、べつに」
 あたしはそう答えたけれど、それが本当に自分の本音かどうか、実のところ、よく分からなかった。例の話については、信じているようないないような、中途半端な心境のままではあったので。
 モリゴエはまたちょっと黙って、困ったように頭を掻き、それからぽつりと言った。
「おれ、弟がいて」
 へえ、とあたしは相槌をうって、ひょろっと背の高いモリゴエの、ずいぶん上のほうにある頭を見上げた。そういえば、長男だって言ってたっけ。
「弟はチビの頃から、すごく運動神経がよかったんだ。走っても、球技なんかやらしても、喧嘩しても、何歳も上のやつらが、ぜんぜんかなわないくらい」
「モリゴエは?」
「おれは普通」
 それはどうでもよくて、と、モリゴエは話を元に戻した。
「弟が小学校六年生のときだった。弟は毎日、野球ばっかりやってた。リトルリーグとか、そういうちゃんとしたところじゃなくて、学校のクラブみたいなのだけど、エースで、打つほうも、よく四番なんか任されてて」
 口調はいつものようにゆっくりだったけれど、モリゴエにしては、ずいぶんすらすらと喋った。何をどう話したらいいのか、何回も頭の中で練習してきたみたいだった。
「弟は、野球の強い中学に行きたがった。そうじゃなかったら、シニアかなんか入りたいって。学校の先生も、そう薦めてくれてた。でもおふくろは、弟にいい中学を受験させたかった。シニアになんて入ったら、勉強するヒマもないかもしれない、野球なんてうまくなっても、大人になったらそれだけじゃ何にもならない、それよりしっかり勉強しろって。その一点張り」
 あたしは頷いた。気の毒だけれども、よくある話だ。あたしの母親だって、似たようなタイプだった。子どものやりたいことを好きなだけさせて、その結果、子どもの人生がどうなろうと全くかまわないという親も、それはそれでどうかとは思いはするけど。
「弟はもちろん、嫌がった。どうしても、ちゃんと野球がしたいって。おふくろはおれに、弟に何か言うようにって、頼んできた。おれも、ちょうどその頃、自分のことで頭がいっぱいで、親と口喧嘩するのも面倒だった。それで深く考えずに、何気なく弟に、言ったんだ。『おふくろの言うことをきけ、ちゃんと勉強しろ』って」
 あたしは口を挟めなかった。モリゴエは思いつめたような顔で、一息に言った。
「弟はその日から野球をやめた。そんでいきなり勉強熱心になった」
 モリゴエは、そこで用意してきた言葉が尽きたように、ぶつりと黙り込んだ。
 すぐには言うべき言葉が出てこなかった。モリゴエはうつむきがちに、黙々と歩いている。
 とっくに大学の敷地を出て、一般歩道を踏んでいた。あたしは歩きながら、そのときのモリゴエの恐怖を、想像してみようとした。自分が妹に同じようなことをしたら、と考えてみた。けど、どうしても好き放題に言い返してちっともいうことを聞かない妹しか思い浮かばなくて、うまく想像できなかった。
「……でも、でもさ。ただ単にそれはさ、モリゴエの弟くんが、やってみたら意外と勉強が性に合ってて面白くなった、っていうだけかもしれないじゃない」
 フォローのつもりでそう言って、そして、あたしは自分の頭を殴りつけたくなった。これじゃフォローしようとしてるんだか、アンタの言うことなんて信じてないよって言ってるんだか、分かりゃしない。でもモリゴエは、信じてないのかなんて怒り出したりはしなかった。頷いて、また少し考えて、それからぼそりと言った。
「かもしれない。でも、ときどき思う。あのときおれが、余計なことを言わなかったら、もしかして、弟は今ごろ、甲子園なんか行ってたりして」
「……それは、兄馬鹿かもよ。弟さんには悪いけど」
 冗談っぽくいうと、モリゴエもつられるようにして、ちょっと笑った。
「そうかも」
 でも、とモリゴエは真顔になって、ぼそぼそと続けた。
「おれはおれが気持ちわるい」
 その言葉には、あのときの、モリゴエがPBRってなに、と聞いてきたときの感覚に近い、奇妙な引力があった。あのときほど強い感覚ではなかったけれど、たしかにあった。
 あたしはその引力に引き込まれるようにして、思わず頷きそうになった。それから愕然として、とっさに自分で自分の頬をぱあんとひっぱたいた。
 モリゴエはびっくりして足を止めて、うつむいていた顔を上げた。そしてあたしの顔をまじまじと覗き込んで、口をぱくぱくさせた。ついでに通行人も何人か振り返って、いったい何ごとかというような表情であたしたちを見た。ちょっと恥ずかしい。
「そんなこと言っちゃだめだよ」
 あたしはひりひりとする頬をさすりながら、きっぱりと言った。
「だってさ、あんたがそんな風に自分に言い聞かせたら、本当になっちゃうかもしれないじゃない。あんたのその、暗示だかなんだか分かんないチカラは、あんたにも効いちゃうんじゃないの?」
 勢い込んで言うと、モリゴエはまだ目を丸くしたまま、それは考えたことがなかったと言った。考えとけよ、自分のことなんだから。
 あたしは深呼吸して、一気に言った。
「モリゴエは気持ち悪くないよ。だってさ、人に無理やりいうこときかせるのがイヤで、それであんた、あんまり口をきかないんでしょ?」
 モリゴエは勢いに押されたように、こくこくと頷いた。
「だったらモリゴエは優しいんだよ」
 言うと、モリゴエは「それは」とか「そういうわけじゃ」とか、そういうことをもごもごと言って、また黙った。はっきりしないやつだ。
 あたしは仏頂面で歩き出した。モリゴエもつられたように、あわてて足を動かした。
「けど、佐波」
 モリゴエは何か言いかけて、また口をつぐんだ。
 また何かいろいろ、いらないことを考えて、迷っているのだろう。モリゴエと話をするときには、先を急かしてはいけないと、だいぶ分かってきているつもりだったけれど、今はなんだか沈黙が居心地わるくて、長くは耐えがたかった。
「何か言いなさいよ」
 思わずそう催促すると、モリゴエはちょっとうつむいた。それから顔を上げて、ぼそっと言った。
「………………ありがとう」
 低くかすれたモリゴエの声は、迷うように揺れていたけれど、それでもやっぱり耳に心地よかった。
「ありがとう、佐波」
 モリゴエはもう一度言った。
 何か返事をしようと思ったけれど、何を言うのも気恥ずかしいような気がした。それきり二人で黙々と歩いて、やがてモリゴエがバイト先のコンビニに入るまで、二人とも何も言わなかった。

 あたしはベッドに寝転がって、ぼけっと天井を見つめていた。木目模様のプリントされた天井の、木目を目で数えるなんていう意味のないことをしながら、ぐるぐると同じことを考えていた。
 うっかり口にしたことが本当になるかもしれない。何気ない言葉がひとの人生を変えてしまうかもしれない。もしもそんな状況に置かれたら、自分なら何をするだろうか。利用することを考えるだろうか、それともモリゴエのように黙り込むだろうか……とか。昔なにかのマンガで読んだ、日本の昔の言霊信仰の話とか。過去にメディアに取り上げられてきた超能力の存在と、その実証の難しさとか。モリゴエの弟は、自分の人生が変わったことをどう思っているんだろうとか。考えはあちこちに節操なく飛び跳ねたけれど、つまるところは、帰宅してからもずっとモリゴエのことを考えていた。
 そしてときどきケータイを取り出して、あんまり意味はないと分かっているのに「言霊」「超能力」なんていう言葉の検索をかけたりとか、空腹に気づいて冷蔵庫の中にあった叉焼をそのままかじったりとかしていた。
 ケータイの小さな画面で、どっかの民俗学のセンセーが作ったとかいうサイトをぼけっと眺めていたら、手に持っていたそのケータイがぶるぶるした。
 届いたのは、中学校の同級生からのメールだった。それは、久しぶりだけど元気にしてるかとか、今度結婚することになったので招待状を送りたいとかいう内容のメールだった。まさか十代のうちに同級生が結婚するなんて予想してもいなかったあたしは、けっこうしゃれにならない衝撃を受けて、「早っ!」とでっかい独り言を漏らした。
 それからだらしなくベッドに寝そべったまま、ぽちぽちと返信を打った。ぜひ参列したいから送ってくれというようなメッセージに添えて、いまの住所を添えて、送信ボタンをぽちっと押した、その瞬間だった。
 あたしは自分の間抜けさに気づいて、愕然とした。ひいてはモリゴエの間抜けさにも。
 そうだよ、メールだよ。
 あたしはばたばたと跳ね起きて、学校関係の書類やアパートの契約書やなんやかやを一緒くたに放り込んでいるカラーボックスに駆け寄った。しかし慌てているときは目当てのものはなかなか見つからないのが相場だ。これも違う、それも違う。住民票、入学のしおり、携帯の契約書、家賃の領収書、実家のエアコンの取説……なんでこんなものが紛れてるんだろう。
 なんでか書類の一番底の底に紛れていたクラス名簿を気ぜわしくひっぱりだして、あたしはモリゴエの名前を探した。あった。
 幹事の小城は、連絡網をかねた名簿をつくるときに、無理強いはしないけど差し支えのない人はメールアドレスも書いといてと言った。ストーカーとか名簿業者とか、いろいろ怖いからといって、あえて書かない子もいたけれど、あたしは深く考えずに載せてもらっていた。けれど、肝心のモリゴエのメールアドレスは空欄だった。
 でも、電話番号は書いてあったし、たいていみんなそうであるように、固定電話なしで携帯だけ載っていた。時計をちらりと見る。バイトのシフトが何時までなのかは聞いていないが、まさかモリゴエの性格上、バイト中にうっかりケータイをマナーモードにもせずに持ちっぱなしにしてはいないだろうから、かけてみても、それほど迷惑にはならないだろう。
 五コールめのあたりで、これはまだバイト中かなと思い、あきらめて切りかけたところで、ちょうどモリゴエが出た。
 ――はい、モリゴエですが。
 電波に乗っていても、やっぱりモリゴエのかすれ声は独特だった。そこには、知らない番号だがいったい誰からだろうというような、かすかな警戒が滲んでいたが、それでもやっぱりその声は、耳に甘く響いた。
「あたし、佐波。いきなりゴメン、名簿みて掛けてる。バイト終わった? いま話せる?」
 ――大丈夫。なに。
 モリゴエの声は、明らかに戸惑っていた。しゃべるのが苦手なんだから、電話はもっと苦手なんだろう。
「あのさ、いいこと思いついた。ちょっと実験してみようよ」

 五分後、喋り方と同じくらいそっけないメールが来た。『杜越です。届いてる?』
 まあ、絵文字を駆使した長文メールが来たりしたら、それはそれでびっくりするけどね。そんなことを考えながら、いそいそと返信を打つ。
『ばっちり。さー、さっそくやってみよう』
 喋るときの沈黙と同じように、返信までに、迷いに迷っているような間があった。単にメールを打つのが遅いというのもあるかもしれないが。
 メールで何か、あたしに頼みごとしてみてよ。あたしが電話口でそう言うと、モリゴエはものすごく困ったような声を出した。
 ――え。それはちょっと……
「だいじょうぶだから。あんたに、ホントに相手に言うことを聞かせるチカラがあるんだとしたら、たぶん、その声なんだと思うよ。メールだったら、きっと平気だよ。それとも試してみたこと、ある?」
 ――ない。
「だったらさ。実害のないような、しょうもない頼みごとで試してみ。実験しよう。そんで、あたしは、あんたの頼みを断るから。あたしがきっぱり断ったら……」
 ――実験成功?
「そゆこと。じゃ、アドレス言うから。ちょい長いけど、メモ取れる?」
 ――覚える。
 英数てきとうに並べただけで、何の規則性もないあたしのメールアドレスを、モリゴエは一度聞いただけで、すぐに復唱した。モリゴエの頭の回転が遅くないというのは、前から薄々気づいていたけれど、それでも正直これにはびっくりした。
 それにしても、モリゴエは本当に、いままでそんなことも思いつかなかったのだろうか。それとも、考えたことはあっても、試してみる勇気がでなかったんだろうか。
 さてさて、きっぱり断らないといけないんだからと、気を引き締めて待つが、その肝心のメールが、いつまで待っても来ない。あまりにこないので、モリゴエが怖気づいたかと思って、催促のメールを打つことにした。
『遅いなあ。何でもいいよ、テキトーなこと送ってみてよ』
 さらに間があって、あたしがいいかげん待つのに飽きて冷蔵庫に飲み物を取りに行く頃、ようやくケータイがぶるぶるした。
『じゃあ、佐波、こんどナース服着てみて』
 一瞬の間の後、あたしは大爆笑した。
 参った。腹がよじれるくらいツボにはいった。女の子にはあんまりキョーミないです、みたいなしれっとした顔しておいて、ナース服なんか好きなのかよ、モリゴエ。それはちょっとオヤジ趣味だよモリゴエ。
 笑いの発作はなかなか収まらなかった。ひーひー笑い転げていては、返信のメールが打てない。あんまりあたしの返信が遅いので、心配になったのか、もういちどケータイがぶるぶるした。一生懸命笑いをこらえようとしながら、ケータイのフリップを開いてメールを開けると、やっぱりモリゴエからだった。
『佐波? まさか買いに行ってたりしないよな?』
 あのぼけっとしたのが焦ってるところを想像したら、それもやたらとツボった。ぶははははと、年頃の女性にあるまじき笑い声を上げながら、なんとかしてメールを打とうとする。指が震えてボタンが押しづらい。
『だいじょうぶ、ちょっと笑いすぎて死にそうだっただけ』
 なんとか呼吸を整えて、続きをおもむろに打った。
『ぜったいヤダ』
 送信。
 っていうか、害がないことを頼めとはいったが、これは実現したら、充分あたしに害があるような気もするんだけど。うっかりあたしがそっちの趣味に目覚めちゃったら、どう責任とってくれるんだよモリゴエ。
 また返信までに、長い間があった。さすがに次に携帯が振動するころには、笑いの発作も、さざなみ程度に収まっていた。
『ありがとう』
 断ってお礼言われるのって、ちょっとヘンだ。しかもその頼みごとがもっとヘンだ。そんなしょうもないことが妙に可笑しくて、あたしはにやにやしながら、なんて返信しようかと、ケータイをぱかぱかさせた。

「好きなの? ナース」
 翌朝、開口一番そう訊くと、モリゴエは講堂にむかう道を歩きながら、いやそうに顔を顰めた。
「佐波が正気だったら、絶対断ることって、なんだろうと思ったんだよ。急かすから、何も思いつかなくて」
「またまた。認めなよ、好きなんでしょ。個人の趣味嗜好は恥じることじゃないよ」
「人聞きのわるい」
 まあ、往来で話していたら誤解を招きそうな会話ではあった。あたしは声を気持ち小さくして、話を変えた。
「ともかくさ、いっこ分かったじゃん。頼みごとがあったら、紙に書くとかメールを打つとかしたらいいんだよね。それなら、頼まれたほうもイヤだったらちゃんと断れる」
「うん」
「まあ、相手と内容によっては、礼儀の問題とかはあるかもしんないけどさ」
 モリゴエは頷いて、ちょっと笑った。そしてまた、律儀に礼を言った。
「ありがとう、佐波」
 へへんと笑って、あたしは意味もなくモリゴエを小突いた。
 礼を言われてはみても、モリゴエがうっかりヘンなことを口走れないことには変わりないわけだ。だから昨日の実験結果は、根本的な解決にはなっていない。それでも少しは気が楽になったのか、モリゴエの声は明るかった。
「ま、なんか手伝うことがあったら、メールしてよ」
 あたしはわざと軽い調子で言った。イヤならまた断るからさと続けると、モリゴエは小さく首を振った。
「うん。でも、そっちじゃなくて」
 モリゴエはやっぱり、長い時間をかけて考えながら、ゆっくりと言った。
「気持ちわるくないって、言ってくれたのが、うれしかったから」
 あたしは思わず、黙り込んだ。モリゴエもそれ以上、言葉を続けなかった。口を開かないまま、二人で並んでゆっくりと講堂に向かった。大学の構内というのは、馬鹿みたいに広い。講堂につくまで、もう少し時間がかかる。
 初夏の風が吹き抜けて、髪を押さえて顔を上げる。根性のありそうな真っ白い雲のカタマリが、風に煽られて悠然と流れていく。
 いいたいことはすぐ言うのが性分だけど、いろいろ考えながら黙って歩く時間も、悪くはないかもしれない。
 モリゴエがいま歩きながら何を考えているのか、そんなことを想像しようとしてみながら、あたしは黙ってモリゴエの隣を歩いた。
 

(終わり)

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