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 ――荒野の向こうには、何があるんだろうなあ。

 兄の声を聞いたように思って、ノイは目を開けた。
 暗い。何度か瞬きをしても、なかなか眼は暗闇に慣れなかった。
 さっきの声は、夢だったのだろうか。
 土埃と、それに黴だろうか、湿った匂いがする。体の下は、どうやら平らな石の床だ。そのうえなぜか、ノイは覚えのない薄手の毛布に包まっていた。
 いま自分がどこにいるのかわからずに、ノイは半身を起こして、何度も目を擦った。
 先ほど目の当たりにした夜明けの鮮烈な光が、まだ瞼の裏に残っている。自分は疲れきって、倒れたのではなかったか。あの荒野の果ての、山の麓で。
「起きたか」
 突然かけられた声に、ノイは飛び上がった。
「俺だ、俺」
 苦笑する声は、叔父のものだった。
 ようやく暗がりに慣れはじめた目を眇めて、声のするほうをじっと見つめると、そこに人影があることだけが、かろうじてわかった。
「なんで」
 思わず訊くと、叔父が低く、喉の奥で笑うのがわかった。
「なんでもなにも、お前を追いかけてきたに決まっているだろう。姉貴からたたき起こされたときには、肝が冷えたぞ。あまり心配させるな」
 そう小言を言うわりには、叔父の声はどこか、上機嫌だった。「まったく、ずっと見えているのに、追いつかないのだからな。この俺が」
 叔父は呆れているというよりも、面白がっているようだった。
 荒野で人の声を聞いたように思ったのは、この叔父の呼びかけだったのだろうか。ノイは思い当たって、ばつの悪い思いで身じろぎをした。
 途中、何度となく後方を振り返ったというのに、後を追う叔父の影に、一度も気づかなかった。それだというのに叔父の目にははっきりと、ノイの姿が見えていたという。《導きの眼》は、やはり特別らしかった。
「ここじゃ、ティカは連れてこられんし……まあ、もともとあれは寒いところの生き物だそうだから、仕方ないんだが」
 ティカというのは、叔父のもつ四ツ足鳥の名前だ。ぼやきながら、叔父は革の袋を手渡してきた。ちゃぷんと、水の揺れる音がする。
「どうせ、陽が落ちてからでないと戻れんしな。まだ休んでいろ」
 言われてみれば、体じゅうが痛かった。特に足は、いまだに熱をもってじんじんと痺れている。
 いまさらどっと安堵が押し寄せてきて、ノイは水を飲むと、崩れ落ちるように横たわった。冷たい石に体温を奪われて、ぶるりと震える。
 家族の誰かがノイの不在に気づくのがあともう少し遅かったなら――あるいは叔父が塩を買いに果ての町を出ているときだったなら、自分はほんとうに今ごろ死んでいた。そう思うと、いまさらのように怖くなった。
「ここは?」
 ノイは辺りを見渡した。よく見えないが、声の響き方からすると、それなりに広い場所のように思える。
「建物の地下室だ。お前が倒れていた場所から、そんなに離れていない」
「建物って」
 叔父の言葉に、ノイは勢いよく跳ね起きた。暗がりにようやく慣れつつある目で、あたりを見渡す。闇に沈んで全景はわからないが、それでも手に触れる平らな床は、言われてみればあきらかに人の手の入ったものだ。
「やっぱり、誰かが住んでたんだ!」
 ノイは興奮して叫んだ。人の生きる世界ではないと言われつづけてきた果ての荒野の、その先に、誰かが住んでいた。
 自分がずっと言い続けてきたことが、現実になったその手触りを、信じられないような思いでノイは味わった。
「静かにしてろ。崩れるかもしれんぞ」
 言葉の内容というよりも、その声の厳しさにすくんで、ノイはとっさに体を小さくした。声をひそめて、叔父のほうを伺う。
「この場所って……」
「ずっと昔には、誰かが住んでいたんだろうな」
「じゃあ、いまは?」
 その問いに、暗闇の向こうで叔父がうなずく気配があった。
「長いこと、誰も住んでいないようだ。……俺がこの場所を知らなかったら、いまごろ二人とも、命はなかったぞ」
 肩をすぼめて、ノイは小声で詫びた。それ以上は咎めたてる様子もなく、叔父はまた、可笑しそうにくつくつと笑った。
「それにしても、無茶をするもんだ。周りのやつらに馬鹿にされたのが、そんなに悔しかったのか」
 むっとして、ノイは顔をしかめたが、薄暗い中のことで、叔父にはどうせ見えなかっただろう。
 ノイはしばらく不貞腐れて黙り込んでいたが、叔父の言葉にふと思い当たることがあって、ますます機嫌を悪くした。ここを知っていたというからには、叔父は前にも、ここまでやって来たことがあったのだろう。
 そうノイが糾すと、叔父はあっさりと頷いた。
「まあ、俺にもガキの頃はあったのさ。誰かさんと同じように、な」
 それはノイを揶揄うというよりも、自分自身に苦笑するような声だった。
 けれどそれなら、なぜ町の人たちは誰もこの場所のことを知らないのか。ノイがそう言うと、叔父はあっさりと頷いた。「誰にも言わなかったからな」
「言っても信じてもらえないから?」
「いいや。秘密にしておきたかったのさ」
 その声には、普段の叔父には似合わない、悪戯っぽい響きがあった。この偉大な叔父がそんなふうに子供じみた口をきくところを、ノイは初めて耳にした。
「お前にだけこっそり教えてやっても、別によかったんだ。だがそうすれば、お前が後先考えずに行ってみようとするんじゃないかと思ってな。まあ、黙っていても結果は変わらなかったが」
 居心地悪く身じろぎして、ノイは叔父に背を向け、改めて床に転がった。石の床は驚くほどひんやりとしている。外がいまや灼熱の世界というのが、嘘のようだ。
「寝ろ。夜にはまた、ひと晩かけて歩き通しになるんだ」
 叔父の声に素直にしたがって眼を閉じると、疲れきった体は重く、ノイは水底に引きずりこまれるようにして、深い眠りに落ちた。

 ふたたび目が覚めたときには、叔父もまた、うつらうつらとしていたようだった。暗闇の中で声を掛けると、少し眠たげな返事が返ってきた。
 火を使わない食事を終えたころ、叔父はふっと、真面目な声を出した。
「お前、本当にただ悔しかっただけか」
 ただそれだけで、こんなところまで本当にやってきたのかと、そう問われて、ノイははじめ、言葉を飲み込んだ。けれどふたりの間に横たわった沈黙は重く、結局、その重みに気おされるようにして口を開いた。
「……兄ちゃんが」
「ジエリが?」
 聞き返されて、ノイは俯いた。
 ――ジエリは、あの荒野の向こうに行ったんだよ。
 いつか、涙に嗄れた声でそう囁いた母の言葉が、ノイの耳にはいまでも残っている。
 ある日突然、兄はノイの前から姿を消した。もうそれからずいぶんになる。月が何十回も巡るほど、前のことだ。
 自慢の兄だった。皆に頼りにされ、また誰かれとなく世話を焼いていた。いつも穏やかなその横顔を見上げながら、自分もせめて兄の半分でも出来がよかったらと、何度思ったかわからない。
「ジエリは、病で死んだんだよ」
 叔父がぽつりと、そう囁いた。
 悼む響きが、そこにはあった。早すぎた別れを、いまでも惜しんでいる。
「そうか。……お前はあいつの亡骸を、見なかったんだったな。流行り病だったから」
 子供がかかると篤く、命を落とすことも珍しくない熱病だったから、母親はノイに、けして兄の骸を見せようとしなかった。それどころか、形ばかりの弔いさえせず、遺体を焼いて葬ってしまった。
「そうだよな。ある日いきなりいなくなって、死んだなんて言われても、見もしないで納得なんかできないよな」
 ノイは抱えた膝に口元をうずめて、じっと、こみあげてくる思いを噛み殺した。
 自慢の兄だった。ただひとり、ノイの話を信じてくれたひとだった。
 ――あの荒野の向こうには、何があるんだろうなあ。
 そう目を細めて、南の空を見上げたジエリの横顔を、ノイはまだ覚えている。
「ジエリは、ここにはいないよ」
 しばらくして、叔父が囁いた。
「ここは《死者の国》なんかじゃない。実際に来てみて、わかっただろう?」
 そんなんじゃない、と言おうとして、しかしノイは言葉を飲み込んだ。何も本当に母の言葉を真に受けて、荒野の向こうに渡ればそこに兄がいるなどと、そんな子供じみた考えを持っていたわけではなかった。
 叔父は答えを急かすでもなく、ただノイのほうを見つめていた。その視線に促されて、彼は口を開いた。
「おれのほうが」
 自分の声が震えていることを、ノイは、みっともないと思った。「おれが死んでいればよかったんだ。兄ちゃんじゃなくて」
 叔父がゆっくりと、目を見開くのがわかった。
「誰かがお前に、そう言ったのか?」
 ノイは黙って首を振った。
 言われなくてもわかる。みんな、死んだのがジエリではなく、ノイだったらよかったと思っている。ノイは兄のように賢くはなく、皆から好かれてもいない。背も低く非力で、畑仕事の役にもろくに立たない。誰に言われずとも、そのことをノイは自分でよくわかっていた。
「お前、それ、姉貴の前で言ってみろ」
 叔父の声に呆れの色が混じっていることに気づいて、ノイは顔を上げた。
「見せてやりたかったよ。俺をたたき起こしにきたときの、姉貴のあの血相。――まあ、帰ってから存分に叱られろ」
 後半は、笑い含みの声だった。その言葉をぼんやりと聞いて、ノイは居心地悪く膝を揺すった。ずっと石の床の上に座っているので、方々が痛み、身体のあちこちが軋んだ。
 死んだのが兄ではなく自分だったらよかったと、誰もが思っている。母もそうに違いないと、そんなふうに頑なに思い決めていた心が揺れて、ノイは惑った。叔父の話はほんとうだろうか。母はいまこのときも、自分を心配して眠れずにいるのだろうか。
 考えても答えは出なくて、だからノイは違うことを聞くことにした。「叔父さん」
「なんだ」
「死んだ人は、どこにゆくの」
 叔父はすぐには答えようとせず、いくらか考えてから、口を開いた。
「さて。死者の魂は風になって、空にのぼるのだというが」
 そんな話は、耳にしたことがなかった。ノイが怪訝な顔をしたのがわかったのか、叔父は小さく笑った。
 叔父はその話を、旅人から聞いたらしかった。塩の仕入れに行った隣の町で、世話になった相手だという。ひとつの場所に留まって暮らすことなく、さまざまな土地を転々として生きる流浪の民。そういう人間がいるということを、ノイははじめて知った。
 その旅人が言うことには、死者の肉体は塵となって土に還り、その魂は風となって、世界じゅうの空を気ままに飛んで回るのだという話だった。
「世界中?」
「そう。誰も知らない土地にも」
「世界の果てにも?」
 叔父は小さく笑った。「たぶん、な」
 腹が膨れたら、またかすかな眠気が押し寄せてきて、ノイは目を擦った。暗闇の中では、外の時間の経過など知りようもないが、叔父はノイが目覚める前に出口のそばまでいって、陽射しの加減を見てきたという。もう一眠りして目が覚めたら、出立にちょうどいい頃だろうと、叔父は告げた。

 月は昨夜よりもわずかに明るく、けれど変わらずどこか冷たく冴えた光を、荒野に落としていた。
 叔父の持っていた布を裂いて、ノイは足元の防護をくわえたが、それでもひび割れた大地は、やはり焼けるように熱かった。
 身を潜めていた建物を振り返れば、それはいまだに形を保っていることが不思議に思えるほど、古びてひび割れた建物で、石を削り積んで作られた外壁は、あちらこちらが欠け落ちていた。
 実際に崩れたらしい建物の残骸も、あたりにはいくつも見受けられて、広場だったとおぼしき場所には、井戸らしきものまであった。だが覗き込んでも、とっくの昔に枯れ果てたものか、そこには黒々と吸い込まれそうな深い穴があるばかりで、耳を澄ましても何の音もしない。水面が月光を反射するような光も見えなかった。
 廃墟を去り、町をめざして荒野を歩きながら、ノイは何度となく後ろを振り返った。
「あそこに住んでた人たちは、どうやって暮らしてたんだろう。あんなに暑い場所で」
「さてなあ……」
 叔父は言って、少し考えるようなそぶりを見せた。
「何か、暑さに耐える知恵があったのだろうかな。だがそれなら、いまでもここで暮らしていてもおかしくない。あるいは、昔はもっと、この辺りは涼しかったのかもしれないな」
 ここに来るまでの途中に、大きな動物の骨を見なかったかと、叔父は言った。ノイはあっと声を上げた。あの風化した、巨大な獣の顎のような岩。
「荒野がもし、いまよりもずっと涼しかったのなら、もっと南の土地にも、人が移り住んでゆけたのかもしれない。それがだんだん暑くなって、また俺たちの町のあたりまで、引き上げてきた……」
 叔父の話に耳を傾けていたノイは、ふと思いついて、口を開いた。「逆かもしれない」
「逆?」
 怪訝そうに聞き返してきた叔父に、ノイは二度頷いて、言葉を足した。
「果ての町からこっちに移ってきたんじゃなくて。もともと南に住んでいた人たちが、向こうに移っていったのかも」
 それはただの思いつきだったが、叔父は笑いとばしはしなかった。その代わりに、感心したように呟いた。「お前は、面白いことを考えるな」
 その言葉が兄を思い出させて、ノイは胸を詰まらせた。
 叔父はいっときノイの沈黙に付き合って、それからぽつりと言った。
「お前、もう少しでかくなったら、俺と一緒に、隣町まで行ってみるか」
 ノイははっとして、顔を上げた。
 叔父は足を止めて、まっすぐにノイの顔を見つめた。その表情は真剣なものだった。叔父が何気ないふうに口にしたその言葉が、けしてその場の思いつきではないことを、ノイは悟った。
 すぐには答えず、ノイは空を見上げた。風になって空を渡る兄の姿が、この目に見えるはずもなかったが、そのかわりにノイは、月明かりに負けじと輝く星々の並びを、じっと見つめた。荒野の道なき道を渡るための、空のしるべを。
 いつか兄が、この叔父のあとを継いで《導きの眼》になるだろうと、そう思っていた。世話好きで誰からも慕われていた兄。誰よりも賢く、優しかったジエリ。
 叔父は答えを急かすことなく、やがて元のように歩き出した。ノイもそのあとに続く。ともかくいまは、先を急がねばならない。
 沈黙のうちに、ふたりは歩き続けた。青白い月明かりが影を落とす荒野から、人の生きる世界に戻るために。


  (終わり)
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