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 夜の町は、静まりかえっていた。
 ノイは裸足になり、足音を殺して路地を歩く。家を抜け出すのは簡単だった。彼の家族はひとりのこらず寝静まるのが早い。畑の世話をするのに、みな夜明け前から起き出さねばならないからだ。
 月明かりを頼りに人のいない通りを歩く行為は、思いがけず少年の胸を弾ませた。走り出しそうになる足取りをおさえ、町の外へと足早に向かう。暗闇に沈む路地にすべりこみ、廃屋に隠してあった荷物を取り出すときにだけ、自分で立てた物音に心臓が縮んだ。
 空を上りつつある月は丸く、青かった。あと二日もすれば満月だ。
 家々の間隔は、町はずれに近づくにつれてまばらになっていく。一軒だけ、遅くまで何かの手仕事に励んでいるらしい物音を立てる家があって、肩をすくめながらいっそう足音を忍ばせてやり過ごした。
 誰にも見とがめられずに、とうとう最後の民家の前を通り過ぎたとき、ノイは一度だけ立ち止まって、自分が後にしてきた町を振り返った。

 ノイの暮らす町には名前がない。いや、本当はきちんとした長い名前があるはずなのだが、住人は誰もその名を使わない。名前があることさえ、知らない者も少なくない。
 ただ果ての町、と呼ばれている。そこに暮らす住人たちからも、ごく稀に町をたずねてくる外の人々からも。
 果ての町の、南の端を通り過ぎて、さらに道なき道をひたすら歩けば、やがてはるか眼下に荒野を見下ろす丘に出る。
 その荒野が世界の果てだ。少なくとも、皆はそう言っている。
 ――あの向こうには、何があるの。
 果ての町で育った子どもらは、誰もが一度は身近な大人にそう尋ねたことがあるはずだ。
 ――あの荒野のずっと向こうには、《死者の国》があるんだよ。死んだ人の魂は、皆、あの向こうに行くんだ。
 あるいは《死者の国》など作り話だという者もいる。
 ――何も。ここより先には、もう何もないんだよ。人の世界は、この山でおしまいだ。だからここは、果ての町なのさ。
 たいていの子どもらは、素直にその言葉を信じる。疑う者もいることにはいるが、そういう子らも大人たちに手を引かれ、南の丘を下ってみれば、そこにある現実をつきつけられる。
 荒野は灼熱の世界だ。
 果ての町は、高い山の上にある。斜面を下るにつれて、徐々に空気は熱をはらんで乾いてゆく。ふもとまでたどりつきもしないうちに、子どもらは音を上げる。そして納得する。あの荒野から先は、ほんとうの意味で誰も住めない死の大地だと。
 だがノイは知っている。荒野の南をずっとゆけば、そこには高い山がそびえていることを。
 晴れて空気の澄んだ日に、南の丘から眼を凝らせば、はるか遠く、荒野の果てにうっすらと青い山かげが見える。
 そこに誰か、人が住んでいるのではないか。死者ではない、生きた人間が。
 果ての町は、本当に世界の果てなのか。
 だがノイがその話をしても、大人は誰もとりあおうとはしない。
 ――山なんか、見えないよ。それによしんばあったとしても、あんなところまで、どうやって行くね。あの荒野は、とても人の生きて通りぬけられるような場所ではないよ。
 彼の母親はそう彼を諭し、馬鹿なことばかり言っていないで畑仕事を手伝っておいでと、溜め息をつくのだ。
 ――夜のうちに、低地を渡りきればいい。
 彼がそう言うと、周りの大人たちは、みな笑った。
 ――たしかに夜ふけを待てば、ふもとに下りるくらいのことはできるがね。丘から見えるあの荒野の向こう側まで、いったいどれほどの距離があると思っているね。どんなに急いだところで、夜が明けるまでにたどりつけるものか。
 そんな調子で、誰もまともにノイの言い分を真に受けようとしない。母も祖母も、その妹も。《導きの目》として人々に尊敬される、偉大な彼の叔父でさえ。
 ――この先には、人の住めるような場所はないよ。もしあれば、そこから誰かがやってくるはずだ。違うか?
 その叔父の言葉には、説得力があるようにも思えたが、ノイは納得しなかった。
 少年は思う。これまで町の誰も行ってみたことがないのに、どうしてそんなことがわかるのかと。
 それにノイには勝算があった。足の速さでは、誰にもひけをとらない自信があるのだ。たとえ相手が大人たちであっても。食べられるものや薬になる草木を集めて、男手の足らない家の暮らしの足しにするべく、年端もゆかぬ子どもの頃から、毎日のように高地を駆け回ってきた。自分の足ならあの荒野の果てまで、ひと晩もあればきっと辿りつくことができる。
 日持ちのする食料を用意して隠しておくのが、一番大変だった。食べたふりをしてそっと隠し、あるいは家の戸棚からくすね、なんとかそれなりの量をかき集めたはいいが、準備を誰かに気取られるわけにはいかない。家の中のどこに隠したところで、母は気づくだろう。それでもういまは人の住んでいない廃屋に忍び込んで、水と食料とをそっと隠しておいたのだった。
 いま、その荷を背負って、ノイは月あかりの下を急ぐ。町から十分に遠ざかったところで、弾みをつけて駆けだした。
 じきに視界がひらけ、見渡すかぎりの荒野が眼下に広がる。ノイは息を詰めて、行く先を見はるかした。晴れた昼間にならば、かろうじて遠くに見えていた山は、いまやまるきり夜の淵に溶け込んでしまっている。
 ノイは落胆した。山影そのものは夜に沈んでしまっても、むしろ星が隠れることによって、その形をはっきりと見定めることができるのではないかと考えていたのだ。
 だが実際には、地平線には光源があって、南の低空に星は見えなかった。
 人家の明かりではない。それは燃え溶ける岩の放つ、赤い光だ。
 果ての町がある高地の、さらに高い峰にも、気まぐれに炎と煙とを吐き出す火口がある。果ての町の人々は、めったにその神聖なる火の峰には近寄らない。代わりに街中に火の神を祀る廟を立てて、日夜丁寧に掃き清め、その怒りを買わぬようにと請うている。それと同じような火口が、どうやら荒野の向こうにもあるらしかった。
 だがいまさら怖じ気づいて引き返すつもりはなかった。ノイは弾みをつけて、斜面を下る。誰も足を踏み入れることのない世界の果ての、その先をめざして。
 下り坂の勢いが、小さな背中を押す。しんと冷えた夜の空気を吸い込みながら、ノイは走った。蹴たてた小石が斜面を転がり、岩場にすむ鼠が驚いてねぐらを飛び出してゆく。
 斜面を下りきったときには、熱い夜気に押し包まれていた。ノイは足どりをゆるめ、顔を引き締める。ここから先は灼熱の荒野、陽のあるうちには誰一人として立ち入ることのできない、死の大地だ。

 夜の低地は、思いがけないほど生命にあふれていた。
 どこかで低く、虫が鳴いている。小さな蜥蜴や蛇たちが、地割れからのそのそと這いだしては、ゆっくりと頭をもたげて月光に身を踊らせる。どうやら昼のあいだは太陽を避けて、地面の下に隠れているらしかった。
 彼らのように、地の底にも人が住んでいたりしてと、ノイはふと思いついて、自分のその考えに、声を忍ばせて笑った。それこそ子どもの空想というものだ。そんな人たちがいるとすれば、叔父の言い分ではないけれど、果ての町と行き来のひとつもするだろう。
 けれどその考えに、知らず、彼の心は踊った。地上は昼間、鉄鍋の上のようになるから、人がもし地面の底に隠れるというのなら、そのためには深い穴が必要だ。それだけの穴を、どうやって掘る? 鶴嘴ではあまりに途方もない。
 遠い国では、火薬で岩に穴をあける人々がいると、叔父から聞いたことがあるけれど、そうした方法だったらどうだろう? いやそれとも、夜毎にこっそりと低地をたずねて、何年もかけて根気強く掘り進めていけば、鶴嘴ひとつでもやってやれないことはないかもしれない。
 ノイの空想は広がる。地の底は、どういう世界だろうか。真っ暗だろうか。地上の熱を避けられるくらいに深い地の底ならば、きっとそうだろう。もしかすると、寒いかもしれない。
 水はどうか。この地上はからからに乾いているけれど、こうやって蛇やなにかが這いだしてくるくらいだ。どこかに水があるはずだった。
 山羊の革で作られた水袋から、ひとくち水を含んでから、ノイは思っていたよりも、自分が渇いていることに気がついた。暑いのだが汗が出ない。高地よりも空気が乾いているのだ。そのせいもあってか、ひどく体が火照っていた。
 だがまだ疲れてはいない。ノイは口元を拭って、歩みを再開した。

 先に進むにつれて、はっきりと空気が冷えてゆく。昼間の灼熱の世界が嘘のようだった。歩いているうちはいいが、休憩のために立ち止まれば、肌寒く感じるほどだった。
 顔を上げれば、天には数え切れないほどの星が広がって、まるで銀砂を撒きちらしたようだ。
 ――もし人里があるんなら、そこから誰かがやってくるだろう。違うか。
 叔父の言葉を思い出して、ノイは一瞬、かすかな不安に囚われ、それから慌てて首を振った。
 もしかするとそこに住んでいる人たちも、果ての町の大人たちと、同じことを言っているのかもしれないではないか。この荒野が世界の果てで、ここより北には誰もいない。いればそこから、誰かがやってくるはずだろうと、そんなふうに。
 叔父は賢く、誰からも尊敬される特別な役目についていて、町の人たちの知らないことをたくさん知っている。それでもこの世のことを何もかも知り尽くしているわけではないだろう。
《導きの眼》というのは、代々伝わる大切なお役目だ。
 果ての町の近くでは塩が採れない。人と家畜を養うため、誰かが遠く離れた隣町から、仕入れてこなければならない。その役割を先代から引き継いだのが、叔父だった。
 果ての町には、暮らしに必要なほとんどのものがある。ただ塩をのぞいては。
 山頂から流れる川があり、湧き水がある。人々の口を養えるだけの畑があり、放牧地があって、糸を採るのに足りるだけの綿も育つ。小さな鉱山さえあって、鉄も銅もわずかながら採れるが、遠路をはるばる売りにゆくほどの量にはならない。
 それで、町で織られた布や畜産物などを、四ツ脚鳥の背に括り、叔父がその手綱をひいて、隣町まで売りにゆく。その帰りに、塩の袋を積んで帰る。
 人の行き来の少ない道ならぬ道だから、慣れぬ者が踏破するのにはひどい困難を伴う。延々と似たような風景が続く場所もあるという。
 そういうわけだから《導きの眼》には、脚が達者で、眼がよくないとなれない。また、世慣れた商人たちに、舌先で丸め込まれて品を買いたたかれないだけの知恵もいる。誰にでもつとまる役目ではないのだ。
 町の誰もがそうであるように、ノイもまた、叔父を尊敬している。だがその叔父でさえ苦笑して、果ての荒野のその先には、誰も住んではいないと言った。
 ほかの大人たちは皆、頭ごなしにノイの話を笑い飛ばす。そうでなければ頑是無い幼子にそうするように、頭ごなしに叱りつける。そうすると、それを見ている子どもたちも真似をする。彼が意固地になればなるほど、彼らはノイを馬鹿にした。
 ただひとり、ノイの話を信じてくれたのは、兄のジエリだけだった。
 ――そうだな。あの向こうに、本当に何もないなんて、誰かが行って確かめたわけじゃないものなあ。
 そうまじまじと見下ろして、兄はノイの頭に手を置いた。ノイよりずっと早くに生まれたジエリは、もうその頃にはじきに大人の仲間入りをする頃合いで、乾いた手のひらは骨ばって、大きかった。
 ――お前はときどき、面白いことを考えるなあ。頭のつくりが、人とは少し、違うのかもしれないね。お前は、賢いから。
 近所の子どもらに泣かされて帰ってきたノイに、そんなふうにいって、ジエリはふと遠い目をした。そこからは見えるはずのない、南の荒野のほうに顔を向けて。
 ノイのことを、賢いなどと言う者は、兄以外に誰もいなかった。
 そういう兄のほうが、彼よりもよほど賢かった。口数こそ多くはなかったが、その分だけじっくりとものごとを考えるたちで、すぐ短気を起こすノイとは違い、大人たちからも信頼されていた。あんたに兄さんの半分でも落ち着きがあったらねえと、母は口癖のように言った。
 ――だけど、危ないことはするなよ。
 そう苦笑してノイの手を引いた兄とは、けれどそれからもときどき荒野の向こう側の話をした。
 兄だけは一度もノイの主張を否定しなかった。叔父の手伝いで隣町までついてゆくこともあったジエリは、町の外の世界を知っている分だけ、ほかの大人たちよりものの見方が広かったのかもしれない。
 いずれ叔父のあとをついで、兄が《導きの眼》になるのだろう。いつからかノイは、そう思っていた。そしてそれは、周りの大人たちも同じようだった……

 ずいぶんと月も高く昇るころ、ノイは行く手に奇妙な形の岩を見つけた。
 白茶けたその奇岩は、近づくと、ノイの背丈よりもなお高さがあった。まじまじと仰いで見れば、何かの骨のような形をしている。巨大な生き物の、顎の骨。
 軽く触れてみれば、奇岩はその力にさえ耐えかねて、半ばのところで崩れるように割れた。
 飛び散った欠片に頬を打たれながら、ノイは半歩、あとずさった。
 もしこれが本当に生き物の骨だとしたら、高地にいるもっとも大きな水牛よりも、はるかに巨大な体躯をしていたはずだ。まるで、そう、異国の物語に出てくる竜のように。
 叔父がときおり話して聞かせる遠い国々の物語は、どれも荒唐無稽なおとぎ話のようだった。こんなに大きな獣なんか、いるものか。ノイはそう自分に言い聞かせようとしたが、細かな気泡がところどころにあいたそれは、どう見ても、やはり骨のようにしか見えなかった。
 ノイは思わず息を潜めて、辺りを見渡した。だが、幸いにも大きな獣の姿はない。ほかに似たような岩も見あたらなかった。
 恐る恐る奇岩の横を回りこんで、ノイはちらちらと振り返りながら歩き続けた。
 後にしてきた高地はずいぶんと遠ざかり、おぼろげな影となって夜空の淵に沈んでいる。行く手に視線を戻すと、その先にはたしかに、黒く切り取ったような山の峰が見える。
 やはり自分が正しかった、とノイは思った。
 ほかの連中は誰も見えないと言った、荒野の向こうの山の峰。それはたしかにあったのだ。
 あとは夜のうちに、荒野を渡りきるだけだった。

 歩くうちに、視界の端を人影がかすめたような気がして、ノイはぎくりと振り返った。
 だがそれは縦長に地面から生えた、ちょうど人間ほどの大きさの、ただの岩塊だった。ノイは胸をなで下ろして、それから自分の臆病さを恥じた。
 青褪めた月は中天に達し、あたりを白々と照らしていた。濃い影が足元に短く落ちている。
 視界の先、赤い光がちらちらと揺れる。どうやらそれは出立時に遠目に見た、地面の裂け目から漏れ出る、燃え溶ける岩の光らしかった。
 遠くからはひとつの高い山と見えたが、いざ近づいてみれば、目指す峰よりももっと手前に、台地が広がっているのがわかる。その頂上に、小さなひび割れがいくつも口を開け、その中で、何かが脈打つように赤く光っている。そしてその方向からは、まだ距離があるというのに熱気が伝わってきていた。
 とても近くまでは行けそうにない。立ちはだかる台地を、どうやら、大きく迂回してゆかねばならないらしかった。
 そんなことをしていて、夜明けに間に合うだろうか。ノイは漠然とした不安に背筋を掴まれて、その場に立ち止まった。だがほかにどうしようもない。
 ノイは果ての町で、鍛冶場のようすを見せてもらったことがある。親方が握り締めた厳つい工具の先で、どろどろに溶けてしゅうしゅうと音を立てる、真っ赤な鉄。遠目に見えるその赤い光は、溶けた鉄の色によく似ていた。
 荒野の向こうには、《死者の国》がある。
 年寄りたちの語るその話を、ノイは思い出して、押し寄せる熱気にもかかわらず、身震いをした。
 ここはもう、死者の国なのではないか。自分は気がつかないうちに、その境界を踏み越えてしまったのではないのか。
 そのとき遠くで、人の声が聞こえたような気がした。ノイはぎょっとして、辺りを見回した。だが当然ながら、こんな場所に人がいるはずがない。
 妙なことを考えていたから、風の音を聞き違えたんだ。そう自分に言い聞かせて、ノイは止めていた足を踏み出した。
 天を見上げれば変わらず月は冴え、空のどこにも雲ひとつなく、ときおり星が流れて落ちる。それは果ての町から見上げる当たり前の空と、何も変わらなかった。ここは《死者の国》などではない。南の丘からよく見下ろしていた、あの荒野だ。ノイは自分に言い聞かせながら、足を速めた。
 めざすべき前方の山は、少しは近づいてきたように見えるが、やはりのっぺりとした黒い影としか見えない。

 歩き続けるうちに、時間の感覚が薄れてきていた。あれからも何度か、人の声がしたような気がしたが、それはよく耳を澄ませば、どうやら自分の胸の奥から響く、町の人々の声なのだった。荒野の向こうに人などいるはずがないと、彼の考えを笑った連中の。あるいは叱りつける大人たちの。
 ノイは重い頭を振って、水を口に含んだ。夜が明けるまでに、何とかしてあの山までたどりつかなければならない。
 いや、たどりつくだけではだめだ。ある程度の高さまで、上らなければならない。低地にいるうちに太陽がのぼって、真昼の陽射しに焼かれれば、ひとたまりもないだろう。
 それでもかまわないと、頭の隅で、自分の声がした。
 けれどその前に、ひとめ確かめてみたかった。果ての荒野の、その向こうにあるものを。
 どちらにしても、引き返して夜明けに間に合うだろう距離は、とっくに過ぎていた。月はゆっくりと空を下っている。
 叔父が大切に世話をしている四ツ足鳥の、堂々たる威容を思い出して、ノイは歩きながら、しばし眼を閉じた。
 あいつに一度、乗ってみたかったな。
 四ツ足鳥は人の背丈ほどもある、大きな鳥だ。鳥でありながら空を飛べないが、力が強く、重宝されている。多くの荷を運びながら、足場の悪い場所でも器用に駆ける。人を背に乗せることもできるが、気性が荒いので、時間をかけて馴らさなければ無理だといって、まだ一度も乗せてもらったことがない。
 叔父とともに旅立っていく背中を、町の北のはずれから、何度も見送った。あのきれいな鳥の背に乗って、一度でいいから、高地を駆けてみたかった。

 朦朧とする頭を振りながら、ノイがようやく麓にたどりついたときには、すでに空の端が白み始めていた。
 持ってきた水は、かなり余裕を見ていたつもりだったのに、ここに来るまでにほとんど飲み干していた。低地の道行きを、ノイは結局のところ、甘く見ていたということだ。
 走らなければならないと、わかってはいたが、体がいうことをきかなかった。ノイは重い足を引き摺りながら、行く手の斜面を仰ぐ。尖った岩ばかり転がる、殺伐とした光景。それでも山頂近くを見上げれば、まばらな緑が見えていた。
 あそこまでゆけば、果ての町がそうであるように、涼しい空気があるのだろう。だが、とても間に合いそうになかった。
 それでもノイは足を止めなかった。足元だけを見つめて、ただ黙々と歩く。このまま、上れるところまで行ってみようという気になっていた。そのまま死ぬとしても、高いところから、荒野を見下ろしてみたかった。
 いくらも上らないうちに、曙光が射した。
 光がまっすぐに大気を切り裂き、目の前の風景を塗り替えていく。青ざめた山肌が、真っ白に染まる。
 どこかずっと高いところで、鳥の声が響いた。
 こんなところにも、鳥がいるのか。驚いて顔を上げた拍子に、目がくらんだ。足がもつれる。体が倒れていくのに、なす術もなかった。
 熱い砂利が、ノイの頬に食い込む。視界が白む。
 遠ざかっていく意識の片隅で、ノイは、誰かの足音を聞いたような気がした。

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