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 その晩、奇妙な夢を見た。
 私は酒を飲んでひっくり返り、鼾をかいて眠っている。その同じ部屋の、おそらくは反対側の隅で、獣の激しい息づかいが響いている。起きなければ、と夢の中で私は思う。だが体は眠っている。手足が自分の意思に従って動かない。
 獣の声に、低く掠れた苦悶の声が重なる。夢うつつの、まだ半ば酔いのなかにある朦朧とした意識のすみで、しかし、耳だけがやけに鮮明に物音を聴いている。自分の立てる鼾。獣の息づかい。くぐもった、低い、うめき声。
 水でも浴びせかけられたように、いきなり目が覚めた。
 夢の中で目覚めたのではなく、ほんとうの覚醒だった。自分がなぜ目を覚ましたのかが判らずに、何度か目をしばたいて、それから、なぜあんな夢を見たのだろうと思った。まるで数日前に医師から聞いた話が、私の夢に、そっくりそのまま忍び込んできたかのようだった。
 本当に水でも浴びたのかというくらい、ひどい寝汗を掻いていた。夢の中で私の胸を占めていたのは、不安や恐怖というような、受け身の感情ではなかった。そこにあったのは、怒りだった。苛立ちというような生ぬるいものではない、憤怒、といってもいいような、激しい衝動。その激情の残滓が、まだ胸に居座っていた。
 それはおかしな話だった。たったあれきりの夢の中で、私は何に怒っていたというのか。
 深呼吸をして、掌で顔の汗をぬぐい、それからようやく気がついた。家の中が、静まりかえっている。
 いつもは壁越しにかすかに聞こえている医師の寝息が、まったく耳に届かない。
 不安に駆られて寝台を抜け出したのは、例の奇妙な夢歩きのことが、頭の隅にあったからだ。
 予感は当たっていた。医師の寝室をのぞき込むと、そこはもぬけの殻だった。
 とっさに玄関から飛び出すと、あたりは一面、霧に飲まれて真っ白だった。
 足を踏み出すのに勇気がいるほど、視界がなかった。
 霧に閉ざされて、静まりかえった町の中を、壁に手をつきながら歩きだしたときには、方角も何も、ほとんど当てずっぽうだった。危なっかしい足取りでしばらく歩いてから、そうだ、あの日の泥だと、遅れて思いついた。前に医師が夢歩きをした晩、雨も降っていなかったというのに、彼の足は泥だらけだった。
 医師は、町を出て、沼地に行っているのではないか。
 ただひとこと沼地といっても、町の周囲をとりまく広大な湿地帯の、どこだかわかるわけもない。だが歩くうちに、医師と交わした言葉が思い出された。
 声は、聞こえたのか。医師は私にそう訊いた。
 死者の沼だ。
 道の脇に並ぶ、古びた家々の壁に手をつきながら、危なっかしい足取りで歩くあいだ、ときおり強い風が吹き付けて、道を遮る霧を薄れさせた。
 払われても払われても、霧はまた際限もなく新しく流れ込んでくるのだが、それでもときおり視界が開けるだけでも、いくらかは歩きよかった。私はそのたびに、道の先に人影がよぎりはしないかと目をこらし、耳を澄ませた。
 鄙びた小さな町のことで、真夜中に外を出歩く人間などいない。誰の気配も感じられないまま歩き続けて、しんと静まりかえった田舎町の、ささやかな目抜き通りを抜け、やがて人家も絶えた。
 そこで、引き返そうかとも思ったのだ。たとえ一度は通ったことのある道のりとはいえ、不慣れな沼地を、それも霧の晩に、ひとりで行こうというのは正気の沙汰ではなかった。
 だがそのときになって、風が吹いたのだ。
 びょうびょうと音を鳴らして吹きつける、強い風だった。霧は見る間に流れ、月明かりの照らす道の先に、私は人影を見た。
 距離はかなり離れており、実を言えば、それが間違いなく医師であるというほどの確信が持てたわけでもなかった。だが、彼のほかにいったい誰が、こんなところを夜分に一人歩きなどするだろう? 夢歩きをする病人でもなければ?
 だが、私が追いつくよりもずっと早く、霧はふたたびあたりを満たし、人影は再びおぼろげに霞んだ。私は慌てて声を張り上げた。
 ――おおい。
 返事はなかった。自分の声が、ただ無為に霧に吸い込まれて行く。
 ためらったのは、短い間のことだ。このまま何も気がつかなかったことにして、診療所の客間に戻れば、きっと後悔するという予感があった。
 町を出てたいして行かないうちに、足元は泥濘みはじめた。あの陽気な案内人から教わった目印を、霧の切れ間にさぐりながらの道行きだ。足取りは遅々として進まなかった。夢歩きのおぼつかない足取りと、どちらが早いだろうかということを、歩きながら頭の隅で、ずっと考えていた。
 躓き、惑い、足を止めるたびに、声を張り上げた。
 ――おおい。そこにいるのか。
 何度呼びかけても、返ってくる答えはなかった。だが、諦めそうになる頃に、たびたび先を行く足音らしきものが、耳をかすめる。草が掻き分けられ、水が跳ねる。羽を休めていた鳥たちが、慌てて飛び立ってゆく。
 道々、私は何度となく転倒した。とっさに履いてきた靴は、小枝を踏み抜いて、すでに穴が空いていた。生ぬるい泥が足指のあいだに入り込む。蹴った葦草が跳ねて、手足を打つ。
 あの陽気な案内人と連れだって歩くあいだには、足元こそ悪いものの、風光明媚な場所だと感じていた。その同じ湿地が、夜霧にまかれながらひとりで歩いていると、まったく違う場所としか思えない。
 死者の沼の伝承が、頭の隅をちらついていた。一方では、生者の暮らす町と死者の住まう世界が、同じ場所に重なって存在しているといいながら、もう一方では、死したる人々と言葉を交わしたいのならばあの沼へ行けと、指さして言う。奇妙なことではないか? 異界と現世が重なっているというのなら、死者の声を聞くのは何もこんな沼地でなくとも、町はずれの辻だろうと、広場の隅だろうと、同じことだろうに。
 あの沼だけが特別である理由は、何なのか。
 美しかったという医師の妻は、彼の元を去って、いったいどこに行ったのか。
 草いきれと、泥の甘い匂いの中を、どれほど歩いただろうか。死者の沼のほとりに到る、最後の目印を確かめながら、昼間でさえ何度も泥濘みに足を取られたあの道を、ろくに視界もきかない中で歩きとおしてきたのだということに、いまさらのようにぞっとした。泥沼に足を取られた数日前の記憶が、背筋を粟立たせた。
 茂みを掻き分け、寒気を振り払うように身震いした、ちょうどそのときだった。ひときわ強い風が吹いて、霧を吹き払った。
 死者の沼は、すぐ目と鼻の先だった。昼には空を映しこんでいた沼は、いまは黒々とした水面を揺らし、風に乱されては、そこに映り込んだ月をばらばらに引き千切っている。水上に咲いた白い花が、闇の中で、ほの白く浮かび上がっていた。
 その沼のほとりに、医師は立ち尽くしていた。
 目を開けたままで眠っているかのような、茫洋とした表情で、彼は突っ立っていた。小柄な体躯が月明かりを受けて、足元に濃い影を落としている。
 ――こんなところで、何をしているんだ。
 呼びかけても、医師は私に気がつかないようだった。
 私は彼のそばに、歩み寄ろうとした。その手を引いて、診療所へ連れ帰るつもりで。
 気がせいたのがいけなかった。蔓草の上を踏み外した足が、ぬるりとした泥に飲まれた。
 水面を蹴立てて転げ、とっさに手を突きながら、慌てて振り仰ぐと、月明かりに照らされた医師の横顔が見えた。
 先ほどまで茫洋としていたその目が、いまは、大きく見開かれていた。
 その口から、言葉にならないうめき声がこぼれるのを、私は聞いた。悲鳴というにはあまりに弱々しく鈍い、低い声。驚いた鳥たちが葦草のあいだから飛び立って、夜の沼地を騒がせた。
 風がうなりを上げている。頭上の雲が流れ、月明かりがひときわ鮮やかに地上を照らす。
 それまでただ苦しげに唸るばかりだった医師の声が、あるとき急に、形を取った。
 ――アダーシャ。
 医師は何もない水面に向かって、繰り返し、その名を呼んだ。
 それは、彼のもとを去ったという、妻の名前ではなかっただろうか。
 泥濘から這い出ようと足掻きながら、ほんの数日前、死者の声は聞こえのたかと、思いがけず真剣な声音で訊いてきた医師の表情が、私の脳裏をよぎった。
 ――許してくれ、アダーシャ。
 医師は身を折るようにして苦悶し、同じ言葉を、繰り返し叫んでいる。
 ――許してくれ。
 そのとき私は、奇妙なものを見た。
 死者の沼の、水面に、白い靄が凝っていた。
 それだけならば、ただ風の悪戯と思っただけだっただろう。だがそれは一瞬、人めいた形に――もっというならば、女の立ち姿のように見えたのだった。
 まさか本当に、その場に生身の女がいたわけではない。水面に立ち尽くせる人間がいるはずもない。第一それは、目を擦ればもうわからなくなるような、不確かな影に過ぎなかったのだ。
 だが医師は、その靄のほうに手を伸ばし、よろめくように、足を踏み出した。
 はっとして、私はいまひとたび、彼の名を呼んだ。ほとんど悲鳴のような調子だった。それでようやく、医師は、私の存在に気がついたようだった。夢から覚めたような顔で、彼は振り返りかけて――
 がくんと、その体が傾いた。
 鈍く重い、水音が響いた。水面が乱れ、葦草が騒々しく鳴る。慌てて駆け寄ろうとした、まさにそのとき、やっと抜け出しかけたと思った泥濘に、またしても足を取られた。
 再びしぶきを上げて、私は泥のなかに突っ伏した。体を支えようとして、その手が生ぬるい泥に沈む。丈高く繁った葦草に遮られて、医師の姿が見えない。
 ぞっとした。まさに数日前の再現だった。焦れば焦るだけ、手足が沈んでゆく。
 左足を飲み込んだ泥の抵抗は重く、まるで何者かの手に、足首を引っ張られているかのようだった。とっさに掴んだ葦草は、思う以上に葉先が鋭く、手のひらが切れるのがわかった。
 もがきながら、繰り返し医師の名前を呼んだが、返事はなかった。彼はもう、叫んではいなかった。夜の沼地は静寂に包まれ、ただ自分が立てる鈍い水音と、風に草の鳴る音だけが、そこに響いていた。
 ようやく足がかりを見つけて体を引き上げ、どうにか立ち上がったときには、もう何もかもが終わっていた。
 医師がいたという痕跡はどこにもなく、ただかすかに、沼地を覆う水草が揺れ、水面が波立っていた。
 ――なぜだ。
 答えがないのを承知で、叫んでいた。
 溺れる人間がそうするような、空気を求めてもがく気配は、少しもなかった。
 息を潜めていた虫たちが、再び騒々しく鳴き出す。沼のどこか向こう側で、ぷくぷくと泡の湧く音がする。
 水面に浮かび上がる白い花が、甘い芳香を立てていた。

 小さな町の隅々までが、慨嘆に塗りつぶされているように、最初のうちには感じられた。
 だが、呆然と野辺送りの火を見ているうちに、私はあることに気がついた。いつかの小さな兄弟や、診療所に来ていた患者の多くが、声を上げて泣き、医師の突然の死を激しく悲しんでいるその一方で、彼のことをよく知っている者ほど、深い嘆きの中にどこか来たるべきときがきたというような、諦めの色が混じっている。酒場の店主も、近所のおかみさん連中も、あの陽気な案内人もそうだった。
 不慮の事故で知己を失ったにしては、それは、いささか奇妙な反応だった。状況を受け容れられずに呆然とするのでもなく、嘆きを怒りにすり替えて激高するのでもなかった。彼らはただ、落胆していた。
 昼日中であるにも関わらず、空には薄雲がかかり、太陽が淡く煙っていた。弔いには似合いすぎる天気だった。
 ここらでは、弔いに来た人々が薪を一本ずつ積んでゆく風習があるそうで、広場に上がった炎は、彼の人徳を忍ばせる、盛大なものだった。炎は轟々と燃えさかり、広場から飛んだ火の粉が、近所の家に燃え移る心配をしなくてはならないほどだったが、それでも遺体のない野辺送りの炎は、どこか空疎に見えた。
 人々のうち沈んだまなざしを見ているうちに、私の中で何かがつながったような気がした。
 自らの生家であったはずの家から姿を消して、どこかに行ってしまった彼の妻――美しかったという女。
 酔っ払って鼾をかいていた医師と、部屋の隅から響く、低い、獣の声。彼の語ったあの夢が、もし、現実にあったことなのだとしたら。
 死者の沼で見た、朧な影を思い出したとたん、背筋が総毛立った。
 あんなものは、ただ夜霧が風に巻かれて吹き溜まっていただけだ。月明かりの見せた悪戯だと、私は自分に言いきかせた。
 許してくれと、沼に向かって妻の名を叫んだ医師の、青ざめた横顔が、目に焼き付いて離れない。
 医師の妻の亡霊が、彼を呼んでいたのだとは、思いたくなかった。死者があの男を、冷たい沼の底に引きずりこんだのだとは。
 ――あんたは、知っていたのか。
 居合わせた酒場の店主にそう問いかけると、彼は怪訝そうな顔をするでもなく、黙って目を伏せた。それから随分と長い沈黙のあとに、
 ――残念だ。
 それだけをつぶやいて、背を向け、広場から立ち去った。
 その小さく丸まった後ろ姿を見送っているうちに、それまで町の人々に漠然と感じていた不審と苛立ちが、いちどきに裏返って、私自身を鋭く突き刺すのを感じた。
 知っていて何もしなかったのかなどといって、彼らを責める資格が、私にあるはずがなかった。通りすがりにすぎない自分が、土地の人の事情に深入りするものではないなどという言い訳を盾に、とうとう何もしなかった私に。
 一度だけ見た医師の微笑が、脳裏に蘇った。あのとき彼は、ほんのわずかに微笑むことさえ、まるで罪深いことであるかのように、すぐに目を伏せた。
 医師の語った言葉が、きれぎれに耳に蘇る。助かる気のない者を救うことは誰にもできない。死者の声は聞こえたのか。
 酒が暴くのが、人の本性か。
 彼を夜の沼へと追いやった、その最後の一押しが、あのときの私の不用意な言葉ではなかったと、誰に言えるだろう?
 私はあのとき、否定するべきだったのだ。人々の病を無償で治し、己を厭う患者にさえ責任を感じていた、あの愛想のない男に向かって、言ってみせるべきだった。何が本性で何が上辺だなどと、そんなふうに、安易に割り切れるようなものではないと。人はそんなに単純な生きものではないだろうと。
 いまさら悔いても遅い。

 それから数日をかけて、診療所の片付けを手伝った。
 すでに身寄りのなかった彼の家は、空き家になった。わずかばかりの家財や、たくわえられていた薬のたぐいは、どういう取り決めがあったのか知らないが、近所の人々にうまい具合に分配されたようだった。誰かが言い争って死者の安息を乱すこともなく、哀しみに満ちた沈黙のうちに、作業は行われた。
 治療費を払う相手がいなくなってしまった以上、市が立つのを待つ意味もなくなった。がらんとした診療所を後にして、私は町を立ち去ることにした。
 出立の朝、街道にまっすぐ向かわずに、回り道をして、死者の沼をみたび訪れることにした。
 あらためてひとりで向かえば、猟師たちの目印はいかにも頼りなく風景に紛れて、あの霧の夜、よくも迷わずに沼までたどり着けたものだと、自分で呆れるほどだった。
 月明かりの下で見たときには、闇の中にぼうっと浮かび上がって、この世のものとも思えなかった白い花の群れは、昼間に見れば、どこにでもある当たり前の浮き草にすぎなかった。
 静まりかえる水面に向かって、二度、医師の名前を呼んだ。
 応える声はなかった。
 

   (終わり)
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