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 つぎに気がついたときには見覚えのない部屋で、寝台の上に寝かされていた。
 このあたりの地方に独特の、やたらに背の低い寝台だ。土台になる木の脚に、乾燥した植物の蔓が編み込まれていて、苦いようなにおいがする。体の上にかけられていた織り目の粗い布は、ずいぶんくたびれてはいたものの、ともあれ清潔そうではあった。
 状況が分からず、困惑したまま瞬きをすると、汗が目に入って痛みがはしった。髪の中までぐっしょりと濡れ、手足がいやに冷えている。
 部屋には誰もいなかったが、壁越しに、誰かのくぐもった話し声が聞こえていた。
 窓から射し込む光の角度からすれば、まだ日が高いのだろうと思われた。倒れる前のことをおぼろげに思い出しながら、掌で顔を擦ると、やけに粘りけのあるいやな汗を掻いていた。
 誰の家だか知らないが、案内人がここまで背負ってきてくれたのか、あるいは人を呼びに走ってくれたのか。あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
 状況のわからないまま、軋む体を引きずるようにして、どうにか寝台から降りると、体重を支え損ねた膝がくだけて、ほとんど倒れ込むように床に落ちた。
 その物音を聞きつけたのだろう、話し声がやんで、足音が近づいてきたとき、私はまだ情けなく床にへたり込んだままだった。
 ――目を覚ましたか。
 入ってきたのは浅黒い肌をした、見知らぬ男だった。このあたりの出ではないと、ひと目見てわかる容貌をしている。肌の色や顔立ちもそうだが、体つきからして、まるで違う。もっと南の、砂漠地帯に暮らす民族のように見えた。
 男は私の体を支えて寝台に押し上げると、低い声で、まだ起き出すのは無理だというようなことを言った。その言葉は、このあたりの地方で広く使われているものだったが、抑揚にはやはり、南方の訛りがあった。
 ――あなたが助けてくれたのか。あなたは医師か。
 ――まあ、そんなようなものだ。
 男は応えながら、熱だか脈だかを確かめるように、私の手首と喉に触れてから、納得したようにうなずいた。
 ――経過はいいようだ。
 言って、男は首を傾げた。
 ――湿地で、虫に食われなかったか。
 ――食われた。
 ――それだろう。
 虫が運ぶ風土病があるのだと、男は言葉少なに説明した。そうといって、無防備に湿地帯に踏み入った私の浅はかさを責めるでもなく、
 ――このあたりでは、皆たいてい子供のうちに済ませてしまう病だが。大人になってから罹ると、篤くなる。
 そんなことを言いながら、扉から出て行った。そのまま放っておかれるのかと思いきや、男は手に椀を持って、すぐに戻ってきた。やはり無言のまま、椀に入った薬湯らしきものをつきつけてくる。ぶっきらぼうというか、ぞんざいな仕草だった。
 その椀を、受けとっていいものか、私は逡巡した。
 ――実は持ち合わせが、それほどないのだが。
 気兼ねしながらそう申し出ると、男は片眉をあげたが、無言のままこちらの手に椀を押し付けてきた。それでも私がまだ迷っていると、
 ――お前が、代金を払えないから飲まないと言ったところで、もう煎じた薬を捨てる以外に、俺にどうしようがある?
 仏頂面のままそんなことを言った。いわれてみればそれももっともな話なのだが、それでもまだ私がためらっていると、小さく肩を揺すって、
 ――どのみちたいした薬でもない。もとはといえば、その辺の沼地に生えている草だ。
 そんなふうに、商売けのないことを言った。

 もらった薬湯を飲んで一眠りすると、起きたときには熱はもう、ほとんど下がっていた。男は言葉少なに指示を出し、着替えをよこし、麦の粥を食わせてくれた。薄い塩味のする粥には、何か草のようなものが入っていて、苦いような渋いような、なんともいえないにおいをさせていたが、食べていっときすると嘘のように気分がよくなったから、それも薬の類だったのだろう。
 そうする合間にも、男の家には途切れず誰かが駆け込んでくる。やれ、子供が転んで腕を切ったの、もう何日も腹を下しているだの、頭が割れるように痛いのと、向こうの部屋から頻々に呼ばわる声がして、そのたびに男はせわしなく出て行った。
 ずいぶんと忙しそうな男から、それでも合間合間に聞き出した話からすると、やはり私をここまで連れてきてくれたのは、あの陽気な案内人らしかった。
 その当人はといえば、私が目を覚ました次の日の午後遅く、不意に訪ねてきて、
 ――ああ、すっかりいいようだ。さすがはエトゥキだ。
 そんなふうに笑った。エトゥキというのは、医師のことを指しているらしかったが、どうも彼の名前ではなく、何か、尊称のようなもののようだった。
 おかげで命拾いをしたと、礼を言うと、案内人は前歯の欠けた歯を見せて笑い、
 ――何、案内料の半金を、受け取れなくなっては困るからな。
 そう手を差し出してきた。その現金な態度に思わず苦笑したものの、しかし彼がその気になれば、わざわざ私をあんな場所から担いで医者のところに駆け込まなくても、財布だけを盗って捨て行けばよかったようなものだから、その言い分は、照れ隠しと受け取るべきだろう。あんな足場の悪い場所で、大の男ひとり担いで歩くのは、並たいていの苦労ではなかったはずだ。
 ――エトゥキというのは、偉い人なのか。
 半金を数えて手渡しながら訊ねると、男は真剣そのものの顔になって、何度もうなずいた。
 ――大変、立派な人物だ。この町に彼のようなエトゥキが居て、あんたは幸運だった。
 そのようだ、もらった薬がよく効いたという話をすると、案内人は自分が誉められたかのように目を輝かせて、
 ――そうだろう、そうだろう。よく診てもらえ。
 そんなふうに何度も頷いてみせた。

 熱も下がったからには、あるだけでも礼金を置いて、早々に暇乞いをするべきだろうと思ったのだが、私がそのことを切り出すと、医師は首を振って
 ――病を、甘く見るものではない。
 思いもかけず厳しい口調で、そう言った。少なくとも熱が下がって七日は、様子を見なくてはならないと。それで、代金を気にしているのなら払えるだけでかまわないと言う言葉に、つい甘えた。
 この小さな診療所にやってくるのは、誰も彼も、懐に余裕のあるとはとても思えない人々ばかりで、見れば代金を満足においてゆけないのは、どうやら私ばかりではないようだった。金の代わりに卵だの、その辺の沼地で採れたのだろう芋だの菜っ葉だのと、せめてもの気持ち以上の何でも無いような、雑多な礼の品ばかりが、診療所の片隅に積み上がっていく。そうした品々さえ持ってこれない連中や、あるいは近所の人々が、代わる代わる顔を出して、医師の食事を作ったり、洗濯を手伝ったりしているらしかった。
 私に飲ませた薬湯を、たいして高い薬ではないと言ったのは、どうやらあながち気を遣わせないための方便だったわけでもないらしく、本当に裸足の子供らが、ときどき泥だらけで駆け込んできては、まさしくいまそこの沼地で集めてきたというような、怪しげな草の根やら虫やら蜂の巣やらと、薬の材料らしいものを置いてゆく。医師はそれをいちいち検分して、次はできれば何をとってきてくれだの、この花を持ってくるときは根を切るなだのと、子供らに向かって大まじめに教えている。
 診療所にあまりにも頻々に人がやってくるものだから、このあたりにほかに医師はいないのかと聞いてみたところ、
 ――いることにはいるが。
 そんなふうに、歯切れの悪い返事が返ってきた。
 ――エトゥキの家系の男が、東側のはずれに一人住んではいるのだが、大して何を教わるでもないうちから、先代を亡くしてしまったらしくてな。見よう見まねで適当なことをしているものだから、治ったり治らなかったりするようだ。
 そんなことを、憤るようにでも蔑むようにでもなく、淡々と語る。不思議な男だと思った。
 まともに代金も置いて行けぬような貧しい人々を、毎日せっせと診てやっているくらいだから、おそらくは情に厚い人物なのだろうし、面倒見のいいことには間違いがないはずなのだが、それにしては感情的になることもなく、しじゅうただ黙々と、やるべきことだけをやっているように見えた。
 聞けば最初の印象通り、南の出だと言って、彼は砂漠地帯の中ほどにある、大きなオアシスの名前をあげた。私も立ち寄ったことがある、街道沿いの大きな交易都市だった。各地の知識や文化の混じり合う拓けた街で、優れた医術のわざを持つ者も多い。彼の医師としての腕や知識は、そこで培ったものなのだろう。
 ――こちらに来て、もう随分になるが、ここいらの風習には、未だに戸惑うこともある。
 そんなことを、やはり困ったふうには聞こえない淡々とした口調で言うのだが、それ以上の詳しい話はしようとしない。口数が少ないというより、言葉の足りない男だった。聞かれたことには答えるし、治療に必要なことは喋るのだが、己の身の上について語るのに、慣れていないのかもしれない。

 起きられるようになると、私も足りない代金の代わりにせめてと、細々としたことを手伝うことにした。
 医師の指示に従って、薬のもとになるらしい草だの虫だのを干したり磨り潰したり、包帯を洗ったりする。その合間に、同じように手伝いに来た近所のおかみさん連中と、よく世間話をした。医師はずいぶん彼らに信頼を受けているようで、ただ単に借りがあって頭が上がらないという以上に、尊敬されているように見受けられた。
 だがそれは同時に、親しまれ愛されているというよりは、畏れられているようにも見えた。それは、彼がよその土地からやってきた人間だからということもあったかもしれないが、それ以上に、彼の生業のためだっただろう。というのも医師が、患者に向かって指示を出すときの物言いには、しばしば脅しめいた文句が混じるのだった。
 ――きちんと洗って、傷がふさがるまで包帯で覆っていなくては、傷口から悪い霊が入り込んで、足を腐らせる。
 ――誰か、おそらくはおまえの母方の血に連なる遠い祖霊が、古い恨みを引きずって、悪さをしているようだ。この薬湯には悪い念をしりぞける力があるから、必ず日に一度、煎じて飲むように。
 つまるところ、エトゥキというのは医者というよりも、呪医のたぐいなのだろう。人々はかしこまって彼の言葉を聞き、何か言われるたびに、いちいち神妙にうなずいていた。ひとけが絶えたときに何気ないふうを装って、
 ――あの、祖先の霊がどうたらというのは、ほんとうのことか。
 そう訊いてみれば、医師は困ったように、小さく肩をすくめた。
 ――ここらの人間は、ああした言い方をせねば、なかなか言うことを聞いてくれんのだ。
 その口調はやはり淡々としたものだったが、それでも彼の苦労は、十分に察しがついた。
 代わる代わる人々の押しかけてくる日中と違って、日が暮れればとたんに医院は静まりかえる。掃除だの洗濯だのと言った細々した用事は大概、昼間に近所のおかみさんが済ませてしまっているものだから、その日最後の患者が帰ってしまえば、あとは質素な食事を摂って、庭で水でも浴びるくらいしかすることがない。
 医師は酒を飲むでもなく、このあたりの連中が男も女もよく吸うような、莨(たばこ)もやらないようだった。することがなくなれば、ただ椅子に掛けて、何か考えに耽り、じっとしている。何が楽しくて生きているのかと言いたくなるほど、つましい暮らしを、医師は送っていた。
 こちらから話しかけなければ、治療に必要のないかぎりいつまでも黙っているような、言葉の少ない男だったが、それでも何日も泊まるうちに、多少は話もした。気まぐれに私のほうが話しかけて、それに彼がぽつぽつと答えるのが常だったが。
 私はちょうど、このあたりの地方に来る前に、砂漠地帯を通ってきたところだったから、泊めてもらっている引け目から、半ば世辞のつもりで旅路で見た星空について話を振ると、
 ――そうだな。郷里に未練など、何もないようなつもりでいたが……
 そこで言葉を切って、医師は窓から外を見上げた。
 ――砂漠の星空よりも美しいものを目にすることは、なかろうなとは思う。

 三日目の夜ふけ、ふと浅い眠りから覚めた私は、家の外で足音がしていることに気がついた。不規則な、どこかおぼつかないような足取りで、診療所に近づいてくる。
 こんな時間に急患だろうかと、怪訝に思いながら耳を澄ませていると、戸の開く音がした。そのまま足音は廊下を通り、医師が寝室に使っているもうひとつの部屋に消えたようだった。
 何事かと思いはしたものの、何か切迫したような騒ぎの気配があったわけでもなかったから、起き出してわざわざ問いただすのも気がひけて、そのまま寝直してしまった。私が眠っていて気がつかないうちに、医師が急患でも診に行って、ちょうど帰ってきたところかもしれないなどと、頭の隅で考えながら。
 驚いたのは翌朝になってからだった。診療所の床に、点々と泥だらけの足跡がついている。
 起きてきた医師の足元を見れば、やはりべっとりと泥がこびりついていた。雨も降っていないのに、いったいどこをさまよい歩けばこんなふうになるというのか。
 何があったのだと問いただしても、医師は首をかしげて、覚えていないという。その声音もやはり淡々としていて、自分でも驚いているというような調子ではなかった。初めてのことではないのだ。
 ――どうやら、夢歩きをするくせがあるようなのだ。
 他人事のような口調で、医師は言った。それも一度や二度ではなく、ずいぶん前からのことなのだと。
 医師はたいして気にしてもいないという具合に語ったが、それは、私には、ずいぶんと薄気味の悪いことのように思えた。自分が知らない間にさまよい出て、どこで何をして帰ってきたのかわからないというのは。
 ――夢歩きというのは、治せないのか。ほかの病のように、薬かなにかで。
 ――さて、どうだろうか。
 本当に心あたりがないのか、それとも治したいという気がはじめからないのか、医師はいかにも気のないふうにそう首をかしげただけだった。


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