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  熱が下がりきるにはさらにもう一日が必要だった。彼女はその間、何度となく様子を見に来てくれた。
 あの男や、ほかの人間がやってくることもあったが、イアラと子供たちのほかは、皆うす気味の悪いものを見るようにして私を眺めた。話しかけてもぎょっとした顔をされたり、無視されたりした。単純に見慣れない人間を警戒していたのかもしれないし、あるいは私の話す言葉が、彼らのそれと同じようでいてわずかに違うことが、気味悪く思えたのかもしれない。
 立ち歩くことができる程度に体調が戻ると、私はすっかり困ってしまった。ずっと寝てばかりいるのも苦痛だったし、かといって出歩こうとすれば、集落の人々から気味悪がられる。
 彼らは私の処遇をどうすることにしたのだろう。拘束もされていなかったが、かといって歓迎するようすはなかった。皆が私のことを遠巻きにしていた。
 実際、彼らはこの奇妙な客を、持て余していたのだろう。異分子ではあるが、さっさと殺してしまえとまでは、もう思わない――なぜなら私は仲間ではなくとも、言葉の通じぬ悪鬼でもなければ獣でもない、れっきとした人間だから。
 彼らに精いっぱい愛想を振りまこうと努力しながらも、自分がそういう皮肉な思いを顔に出さずにいられたかについては、自信がなかった。
 奇跡のような偶然で、同胞に出会えたというのに、何か寂しいような話ではあったが、そういう巡りあわせだったのだろうと、私は割り切ることにした。なるだけ早いうちに、ここを出てゆこうと思った。
 しかし案内人はもうおらず、この深い森の奥からどうすれば外の町まで辿りつけるものか、私には見当もつかなかった。
 案内人――あの狩人の青年にすまないことをしたという思いが、体調の戻りはじめたころから、腹の底にわだかまりはじめた。もとをただせば、人語を話す鳥をただ見てみたいという、私の子供じみた好奇心が、彼を死なせたようなものだった。そのくせに私自身はこうして、彼を殺した人々の手で生かされている……
 森には人に似た魔物がいると、あの狩人がそう話したことを、私は思い出した。こんなふうに、彼に危害を加える者が森にいると知っていたのなら、あの青年はどうして案内などを引き受けたのだろう。その疑問は、遅れて湧きあがってきた。そもそも彼は日ごろから、狩りのために森を歩きなれていたはずだった。
 月夜でもないのに。
 死んだ青年の残したあの言葉が、頭の隅で明滅した。月夜だったら、何が違っていたというのだろう?
 食べ物を運んでくれたイアラに、言葉を選びながらその質問をぶつけてみると、彼女はあっさりと答えをくれた。
 ――私たちはふつう、月の夜にしか狩りをしないの。それ以外のときには、森には入らないわ。
 ――どうして。
 ――決まりだから。
 そっけなくそう言ったイアラは、いっときしてから言葉を継いだ。
 ――あいつらは月夜には森に入ってこないわ。月の光が、魔のものにとっては毒だから。
 彼女は月光が穢れを浄化するのだというような言い方をしたが、私はそうではないと思った。それはおそらく、彼らと外の町の人々がむやみに殺しあわなくてすむように、長い歳月のうちに培われた、暗黙の了解のようなものだったのだろう。
 そこまで考えて、私は首をかしげた。
 ――じゃあ、あのとき、君はどうして。
 森でイアラと出会ったとき、まだ日は高かった。木漏れ日が射し込んで彼女の顔をまだらに照らしていたのを、はっきりと覚えている。
 ――あのときは、鳥が……
 少女は言いかけて、ためらった。
 ――鳥?
 続きをうながしたが、イアラは唇を引き結んで、かぶりを振った。そうしてさっと立ち上がると、呼び止める間もなく出て行ってしまった。

 そのあとすぐに、私は奇妙な場面を見た。
 私が退屈に飽かせて小屋の外に出ると、集落の人々はそれまでどんなににぎやかに歓談していても、ぴたりと口をつぐんでしまうのだが、そのときだけは、初めからしんと静まり返っていた。
 人影が少ないわけではない。十余人の人々が外に出ていたのだが、誰もが一様に緊迫した表情で、一定の方角を睨み据えていた。
 気味悪がられているのを承知で、どうかしたのかと訊こうとすると、中の一人がぎょっとした様子で、あわてて私の口元を押さえた。声を出すなというのだ。
 しかたなしにそろりと首をめぐらせて彼らの視線を追いかけてみると、集落の端、深い森の始まる境界の樹の枝に、あざやかな赤い色が見えた。
 それは鳥の羽色だった。
 大人の手のひらに乗ってしまえるような、小さな鳥だ。それがイアラと出会ったあの日に見かけたものと同じ種類であることは、すぐにわかった。
 目を凝らしたのとほとんど同時に、鳥が翼を激しく鳴らして飛び立った。遅れて、風切り音が耳朶を打った。一条の矢がするどい軌跡を描いて空中を走ったが、そのときには鳥はすでに高い空に舞い上がっており、矢はむなしく木々の枝に吸い込まれていった。
 飛んで逃げる鳥のあとを、何本もの矢が追いかけたが、赤い色がすっかり森の中にまぎれてしまうほうが早かった。
 あっけにとられて地上に視線を戻すと、射手たちが苦い顔をして弓を下ろすところだった。中の一人に、私は声をかけた。
 ――どうしてあの鳥を?
 ――あれは、悪霊(バルゴ)の遣いだからさ。
 それが、悪い霊や悪鬼というような、魔のものを指す言葉の一種だということを思い出すのに、いくらか時間が必要だった。
 男は私もその同類ではないのかといいたげな視線をくれたが、それでもともかく、逃げ出したり私に射かけたりはせず、説明してくれた。
 ――あの鳥は災いを呼ぶんだ。人の言葉を盗んで、近づくものを惑わせる。外から悪鬼を呼び込む。
 小さい子供に言い聞かせるような口調で、彼は言った。実際、それは彼らからしてみれば、子供のするような質問だったのだろう。
 だからあの鳥の姿のあるところではけして口を利いてはならないし、あの鳥から話しかけられることがあっても、絶対に返事をしてはならない。彼らはくどくどと私に言って聞かせた。
 奇妙なものだと思った。森の外では同じ鳥が神の遣いとして崇められ、森に暮らす人々の間では凶兆として忌み嫌われている。そこまで考えて、私は気づいた。彼らがあの鳥をおそれるのは、鳥が言葉を盗むからだというのだ。
 鳥は、はじめから人の言葉を話すわけではなく、人々の話すのを聞いて、それを覚えるのだろう。そう考えれば、鳥が喋るという神秘めいた出来事も、いくらか納得のいくことに思われた。
 かつて彼らの祖先がこの森に移り住んだ頃のことを、私は想像した。
 失われた祖国には、国を統べるものとして、王ではなく巫女がいたという。父も私も、呪術などというものにはかつて縁がなかったが、それでも父が、言葉には力が宿るから軽々しく用いてはならないというようなことをいうのを、何度か聞いた覚えがある。
 言葉によって呪いを行う巫女――その力を隣国の王は恐れ、同じ言葉を使う人々を根絶やしにしようとした。逃れた人々の多くは、異国の言葉を習い覚えてほかの土地に紛れ、祖国の言葉を忘れたふりをした。
 ここにいる彼らは、祖先の言葉を捨てるかわりに、はるか遠くの地に流れ、森の奥深くにひそんだ。そうしてなお、追っ手の存在に怯えたのだろう。祖国の言葉を子孫に伝えながら、それをほかの人々に聞かれることを恐れた。知られれば、再び槍もて追われるだろうから……
 鳥そのものよりも、鳥が自分たちの言葉を聞き覚えて、外でそれを口にすることを、彼らの祖先は危惧したのだろう。それがいまも、こうして続いている。
 苦い思いを覚えて、私は口を開きかけ、そしてやめた。それがもうすでに無意味なことだと、私がいくら言い聞かせたところで、どうして彼らがそれを信じるだろう。
 私はかわりに、じっと空に目を凝らした。空に舞う鳥たちの数は多かったが、その中にはもうあの赤色は見当たらなかった。

 同じ日の、昼下がりのことだった。
 食事を運んでくれたイアラが、前の晩の猟の成果について、弾んだ声で話してくれた。彼女の話を信じるならば、イアラの猟師としての腕前はかなりのもののようだった。はじめて彼女に出会ったときの、あの力みのない姿勢を思い出せば、それもうなずける話だった。無心を体現したような、凛とした立ち姿。
 声がしたのは、五人がかりで追い込んで仕留めたという牡鹿の話を聞いている、ちょうどその最中だった。
 ――コッチニオイデ。
 はっとして、私たちは窓を見上げた。軽やかな羽音を立てて、その鳥は窓辺に舞い降りた。
 首をかしげるようにして、鳥はそこに留まった。午後の陽射しを受けて、羽が、鮮やかな朱色に輝いた。
 イアラはすぐに弓を構えようとはしなかった。とっさに立ち上がりはしたものの、そのままじっと食い入るように、鳥の黒くつぶらな瞳を見つめた。鳥のほうでも、彼女を見つめ返した。まるで何か伝えたいことがあるとでもいうように、身じろぎもせず。
 私は口をつぐみ、両者の間で、じっと息を殺していた。彼らのようすに、何か感じるものがあった。
 午後の陽射しの中で、鳥が首をかしげて身じろぎするたびに、その羽は、わずかに色を変えた。明るい朱色から真紅へ、真紅から火焔の色へ。脂を塗ったようにつやのある、絢爛な羽だった。
 長い葛藤の末に、イアラはようやく弓を掲げた。その指が、わずかに震えていた。鳥はやはり黒い目を彼女のほうに向けたまま、黙りこくっていた。
 イアラはゆっくりと矢をつがえ、じわじわと、時間をかけて弦を引き絞った。ひどく静かだった。いや、そんなはずはない――鳥たちの声も、風のうねりも、木々のざわめきも、変わらず森から轟々と押し寄せていたはずだ。それだというのに、私がこの日のことを思い出すときには、どうしたわけか、いやに静謐な印象ばかりがつきまとっている。
 矢は放たれなかった。それよりも早く、戸口の向こうに、足音が響いた。
 赤い鳥は瞬時に飛び立った。その尾羽だけが赤くはなく、つやのある美しい白色をしているのが、かろうじて見て取れた。
 羽音の残滓がまだ室内に残っているうちに、足音荒く中に入ってきたのは、最初の日に私を問いただした、あの男だった。
 ――父さん。
 イアラはわずかに息をのんだ。男は黙りこくったまま、彼女に厳しいまなざしを向けていた。
 長い沈黙のうちに、父娘の間にどういう無言のやりとりがあったのか、私にはわからない。やがて顔をあげたイアラは、感情の見えない、ひどく硬い声音で言った。
 ――かならず仕留めます。
 男は黙ってうなずいた。そうして結局ひとことも発しないまま、踵を返し、部屋を出て行った。
 イアラはいっときの間うつむいていたが、やがて顔を上げると、あらためて身支度を整えた。そうして出掛ける際になって、最後に弓の弦をそっと撫で、ちらりと私のほうを振り返った。
 その眼は、妙に心細げな色をしていた。
 ――ついていっても?
 とっさにそんなふうに声をかけたのは、その眼のせいだった。私が一緒にいったところで、きっと足手まといにしかならないだろう。だが彼女が、それを望んでいるような気がした。
 少女は驚いたように目を丸くしたが、ほんの短い逡巡のあと、うなずいた。そこに安堵の気配を見たと思ったのは、私のうぬぼれだっただろうか。
 慣れない衣服での身動きが不安だったので、借りていた服を脱ぎ、もともと着ていた服に着替えた。肩口には穴が開き、イアラが洗ってくれてはいたものの、血の染みが残っていた。
 体調はずいぶん戻っていた。歩きだすと、最初のうちこそいくらかふらついたが、集落を出て森に足を踏み入れるころには、もう体が歩くことを思い出していた。
 少女の足取りは、見るからに重かった。
 ――まだ夜ではないのに、いいの。
 思わずその背にたずねると、少女は振り向かないまま、かすかにうなずいた。それきりイアラは何も言わなかったが、弓を握るその手がやはりかすかに震えているのを、私は見た。
 その肯定が、月夜でなくともいまの時間なら大丈夫だという意味なのか、それとも彼女の身の安全よりもあの鳥を仕留めることのほうが大事だという意味なのか、私は訊かなかった。父親に向けた彼女の目の色を思い出せば、それが酷い質問のような気がしたので。
 ――どうやって、あの鳥を探すんだい。
 ――心当たりがあるから。
 イアラは答えたが、その声はうち沈んでいた。うつむくようにして歩く少女の背は、丸くすぼまっていた。
 集落を離れていっときもせぬうちに木々は鬱蒼と繁り、たちまち密集した下生えに、足をとられがちになった。いくら息をひそめて慎重に歩いても、彼女のように音を立てずに歩くということが、私にはできなかった。うっかりして私が大きな物音を立てるたび、イアラは緊張した様子であたりに神経を張り巡らせた。申し訳ないような気分になったが、それでも彼女は、一度も私を責めなかったし、邪魔だから帰れとは言わなかった。少女の華奢な薄い背中を見ながら、私は黙々と歩いた。
 長いこと無言のままで歩いていたが、あるときイアラが足を止めないまま、ふっと息をこぼすように言った。
 ――友達だったの。
 私は黙ってうなずいた。私のほうが後ろを歩いていたのだから、そうしたところで少女に見えるはずはなかったのだが、声を出して返事をするのが、なんとはなしに憚られた。イアラは問わず語りに小声で話し続け、私は口をはさまずに、ただそれを聞いた。
 ――みんながいうような悪いものだとは、どうしても思えなかった。
 窓辺にときおり訪れる小さな友人に、彼女はこっそりと食べ物をわけ、内緒話をきかせた。鳥は少女の言葉を覚え、ときおり思いがけないあいづちをはさんだ。それが楽しくなって、イアラは鳥に、いくつもの言葉を教えた。彼女が今よりももっと幼かったときの話だ。
 だが秘密はやがて露見した。
 お前の手で殺せと、彼女の父親は言った。それでイアラは何度となく、昼間の森に足を運んだ。危険は承知だったが、あの鳥は昼間にしか活発に動かないので、夜に探すわけにはいかなかったのだ。
 そして彼女は、あの鳥が森のある場所で、よく羽を休めているのを知った。森には似た姿の鳥たちがいくらでもいたが、彼女は友人をひと目で見分けることができた。
 見つけても、いつも射かける前に気づかれて、すぐに逃げられてしまうのだと、少女は言った。子どもじみた嘘だ。彼女自身が鳥を逃がしたがっていたのは明らかだった。このときのこともそうだ。私を連れて歩けば足手まといにしかならないのは明白だというのに、なおこうして連れている。
 絡み合った蔦を避け、苔むした岩を乗り越えたあたりで、あたりの風景に見覚えがあることに、私は気が付いた。特徴的なねじれた枝をもつ巨大な樹、岩の間から湧き出る泉。
 あのときの場所の、すぐ近くだった。少女が私に射かけ、気の毒な若い狩人が命を落とした場所。
 ちらりと樹上を仰いだ彼女は、迷わずに樹の後ろに回り込み、例の場所のほうに向かった。そうだ、たしかにあの日、ここで鳥の話すのを聞いたのだ……
 そこからはすぐだった。少女のあとに続いて、記憶に焼きついたその風景にたどり着いたとき、あの青年の遺骸がないことに、私は気づいた。
 森の獣たちが食い尽くしてしまったのか? こんなにも早く、骨も残さずに? まさか。
 だが現に、亡骸はそこになかった。では彼女の一族の誰かが、遺体を運んで隠したのだろうか? だが、何のために?
 私はその疑問を口にしかけた。だが話しかけるべき少女の背中がこわばっていることに気づいて、一瞬、言葉を飲み込んだ。
 複数の足音が響いたのは、そのときだった。
 少女の反応のほうが、早かった。ぱっと身をひるがえしたその足元に、矢が突き立った。少女はよろめいたが、素早く体勢を整えて、跳ねるように駆け出した。風切り音がいくつもあとに続いた。
 彼女の腕に、矢の一本が突き立った。長く、細い矢だ――彼女らの部族が使うものとは違う。少女は低くうめいたが、立ち止まらなかった。
 ――待ってくれ。
 叫んでから、私は気付いた。そのときとっさに口をついて出てきたのは、故国の失われた言葉ではなく、このあたりの地方で一般に広く使われている言葉だった。私はそのことに気付くなり、心臓を引き絞られるような不安と後悔を感じた。なぜ自分がそんなふうに感じたのかも、はっきりと自覚しないまま、私は慌てて少女のほうに駆け寄ろうとした。
 いずれにせよ、遅すぎた。叫んだのも、駆け付けようとしたのも、その前に、何が起きたのかを察することも、何が起こってしかるべきか想像することも。何もかも、あまりに遅すぎたのだ。
 自分の判断の遅れというものを、あんなに呪ったことはなかった。
 足音はすぐそばまで迫ってきていた。
 ――大丈夫か、あんた。
 ――畜生、魔物め。
 男たちの声に、とっさに答えそこなったまま、私は少女のほうを、必死に目で追った。イアラは藪の向こうに完全に姿を消してしまうその直前、ほんの刹那、こちらを振り返った。
 裏切られたという、眼をしていた。
 ――待ってくれ。違うんだ。
 私は自分がその言葉を、どちらに向けて口にしたのか、自分でもわかっていなかった。あれは少女への弁解だったのか。それとも町の人々への制止だったのか。
 だが後から記憶をたどってみると、やはりそれは、故国のそれではなく、町の人々の使う言葉なのだった。
 彼女はそれを聞いて、どう思っただろうか。そのことを思うたびに、あの瞬間の、突き上げるような後悔がよみがえってくる。
 あのとき、もし私が祖国の言葉で同じことを叫んでいたら、どうなっていたのか。何かが違っていただろうか。わからない。だが私は、あの一瞬のことを、死ぬまで悔い続けるだろう。
 ――あんた、無事だったのか。ひどい目にあったな。
 ――カッツィのやつは気の毒だったが、せめてあんただけでも、助かってよかったよ。月夜でもないってのに、何で連中が出てきたんだか知らないが……
 よく見れば、男たちの顔には覚えがあった。ほんの数日前、森の案内を頼める相手を探し回っているときに行き会った、町の人々だった。
 殺された狩人の兄という人も、その中にいた。彼の顔が涙にぬれ、その眼がひどく充血していることに、私は遅れて気が付いた。彼はこの場所で弟の遺体を見つけたのだ。そして彼を殺したものを、探していた。
 そうしたことを、ようやく私は理解した。何もかもが遅すぎた。当然、あらかじめ想像していてしかるべきことだった。
 ――違うんだ。
 私は繰り返したが、自分が誰に対して何を弁解しているのか、自分で理解していなかった。
 何が違うというのか。
 罪なき狩人を殺したのは、あの少女だった。私が森に入る前、町の人々と親しくしていたことにも、やはり疑いようがなかった。一人の善良な青年が殺される原因を作ったのも、あの少女が矢傷を負うきっかけを作ったのも、間違いなく、他の誰でもない、この私だった。
 何も知らぬ善良な人々は、私に向かって口々に慰めの声をかけた。彼らは言った。あの連中は、姿かたちこそ人間にそっくりだが、中身は魔の領域に属するもので、人を惑わせて殺す、血も涙もない怪物なのだと。あんたは命を落とす前に助けられて、せめてよかったと。彼らは何度も繰りかえし私にそう言い聞かせた。
 人の良い、親切な男たちの顔を何度も見渡して、私は、違うのだと言い続けた。だが彼らは、私が恐怖のために混乱しているのだ、あるいは魔物に惑わされていて、まだ状況が飲み込めていないのだと、頭からそう決めてかかるばかりで、ただの一度も、私のことを責めようとしなかった。
 私は愚かにも、無為にただ違うと言い続けただけだった。
 あれからずいぶん時間が経ったいまならば、言葉にすることができる。町の人々が悪鬼ではないのと同じように、彼女は魔物などではなかった。イアラという名を持つ、ひとりの少女だった。女だてらに狩りの名手であることを誇りながらも、似合わぬ可憐な名を恥らってみせる、ごく普通の少女だった。
 ほとんど彼らに抱え込まれるようにして、その場を立ち去る間際、私は頭上に鳥の羽ばたきを聞いた。
 とっさに空を振り仰いだが、あの鳥の姿を認めることはできなかった。木漏れ日のまだらに降りそそぐ中を、抜け落ちた赤い羽根が一枚、木々の合間をひらめきながら落ちてゆくのだけが、ただ見えた。

  ※  ※  ※

 語り止んで、養父はいっとき、焚き火に目を凝らした。揺れる炎の中に、いま彼は何を見ているのだろうかと、私はそのことを考えた。
 何故、旅をするのか。
 これまでに何度となく養父に問いかけてきた、その疑問への答えを、彼がいま口にしていたのだということに、私は遅れてようやく気がついた。
 炎が爆ぜ、火の粉が舞いあがって、私たちの間の沈黙を彩った。街道の脇には深い森が広がり、どこか遠くで、鳥の羽音が間遠に響いていた。
 何かを訊こうとして、そのたびに、私は言葉を飲み込んだ。その少女は、どうなったの。森の人たちと町の人たちは、今でも憎み合っているの。その赤い鳥は、射殺されずに済んだの。
 どの問いにも、養父は答えを持ち合わせていなかっただろう。それがわかっていたから、かわりに私は別のことを訊ねた。
 ――いまからゆく町は、どんなところ。
 ――さて。私も実際にゆくのは、今度が初めてなのだよ。
 静かな声でそう言って、かすかに首をかしげた後、養父はそれでも、知っているかぎりのことを教えてくれた。山の上の高い所にある土地だということ。その分だけ涼しくて、乾いた土地であること。ふもとの町との交易がさかんで、また隣国へと続く街道の通る町でもあること。そのために、高地にあるわりに人の行き来の多いこと。はじめて行くというわりに、養父の話は詳しかった。
 夜が更けるにつれて、風が出てきた。森がざわめき、流れる薄雲がときおり星々を覆いかくした。
 明日もたくさん歩くから、そろそろ休みなさいと、養父は言った。
 私は素直に毛布を被りなおして、草の上に横たわった。そうして眠るふりをしながら、薄目を開けて、焚き火を見つめる養父の顔を盗み見た。そろそろ若くはなくなりはじめている男の、こまかい皺の目立つ横顔を。
 やはりその眼は炎を通り越して、遥かな遠い場所を見ていた。


   (終わり)

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