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 少年のころ、養い親にあたるその人と、二人で旅をしていた。
 背が高く、痩せぎすで、穏やかに話す人だった。緑の瞳をいつも遠い地平に投げかけて、無心に彼方を見通そうとするような、まっすぐなまなざしをしていた。
 私たちはたいていの場合、歩いて旅をした。馬や四ツ脚鳥に乗ることもあったが、いずれも稀だった。疲れから私の歩みが遅れだすと、養父はかならず気付いて、何も言わずに歩調を緩めた。勘の鋭い人で、私が何か具合を悪くすれば、私自身よりも先に、養父のほうがそれと察した。気分が悪いのかいと訊かれてから、自分が熱を出しているのを知るようなことが、度々あった。
 それよりも前に暮らしていた場所のことは、あまりよく覚えていない。眠りに落ちる間際に、きれぎれの記憶がふと浮かび上がることもあるのだが、どの場面も朧で、ときどき何もかも、遠い夢の中の出来事だったような気さえする。
 確かなのは、いつも雨の降っている土地だったこと、岩屋の中で暮らしていたこと、それから姉がいたこと。
 父母の顔はわからない。ものごころつく前に逝ってしまったのだと思う。旅立ちの日の朝、母代りだった姉が、何も言わずにきつく抱きしめてくれたこと、その腕が雨に濡れて、ひどく冷たくなっていたこと。その感触ばかりが、やけにくっきりと記憶に刻まれている。
 その後はずっと、養父に連れられて、さまざまな土地を巡った。
 自分たちが何のために旅を続けているのか、疑問に思うようになったのは、いつ頃からだっただろう。はじめのうちは新しい暮らしに夢中で、なぜということを考える暇がなかった。はじめて知るものごとを見聞きするのはいつでも面白かったし、道行くにつれて移り変わる風景の中を、養父とふたり、他愛ない話をしながら歩くのは楽しかった。
 ふつうの人は自分の生まれた土地で一生を過ごすのだということを、あらためて意識したのは、ずいぶんと経ってからのことだった。土地を持つとか、家を建てるとか、そういうことが、子どものころの私にはよくわかっていなかった。
 そういう世間のありようをようやく意識するようになったころ、私は自分たちの一風変わった暮らしに、疑問を抱きはじめた。
 ――どうして旅をするの?
 何度となく尋ねてはみたが、養父の口からはなかなか要領を得た返答が返ってこなかった。そのかわり、彼はいつも同じことを訊き返してきた。
 ――旅が、辛くなったかい?
 その問いかけに、私はいそいで首を振った。養父との旅がいやになったわけでは、けしてなかった。たまさか訪れた町で親しくなった人がいるときなどには、またいずれ旅立たなくてはならないことが、寂しく思えるような日もあったが……
 いつしか私は、次第にその疑問を口に出さなくなっていった。養父が私のために、落ち着ける土地を探すようなそぶりが見られたからだ。彼は具体的なことは何も言わなかったが、置いてゆかれるのではないかという不安が、私の口をつぐませた。

 ひとつの土地で、およそひと月からふた月ほどの日々を過ごした。ときにはもう少し長く留まることもあった。土地の人々の反応はさまざまで、物珍しさから歓迎されることもあれば、不安と警戒のまなざしを向けられることもあった。
 日銭を稼ぐために日雇い仕事を請け負うこともあったし、土地柄によっては、養父が遠い異国のできごとを人々の前で語り聞かせるだけで、寝床や食べ物を分け与えられるときもあった。とても食べ切れないほどの豪勢な食事を気前よくふるまわれることもあれば、ほんのひときれのパンを得るのに、たいそう苦労することもあった。対価があろうが、なかろうが、養父はすすんで人々に遠い土地の話を語った。
 人々の話す言葉は、土地によって少しずつ違っていた。地方ごとにほんの少し訛りが異なるだけのことも多かったが、ときには河一つ渡っただけで、がらりと違う言葉が使われているような場合もあった。ある土地ではどしゃぶりの雨をあらわす言葉が、隣の土地ではお調子者という意味になったりした。そういう国ざかいを越えるたびに、養父は私にその土地の言葉を教えた。
 私はものを覚えるということに関して、どうにも要領の悪い子どもだった。養父は根気づよい人で、私が何度同じことを尋ねても、けして苛立つことなくくりかえし教えてくれたのだが、それでも私のほうで、自分の覚えの悪さに辟易してしまった。
 どうせいずれまたその土地を離れるのなら、わざわざ苦労して言葉を覚えることもないのではないか。いつしか私はふてくされて、そんなふうに考えるようになった。
 ある晩、街道わきで焚き火を囲んで野宿をしているときに、やはり新しい土地の言葉を教えようとする養父に向かって、反論してみたことがあった。苦労してこんなにたくさんの言葉を覚える必要が、いったいどこにあるのかと。
 いつも穏やかな養父の眼が、その一瞬、深い翳りを帯びた。
 私は急に怖くなった。養父を怒らせたと思ったのだ。だが彼は私の怯えたようすに気付くと、すぐに目元を和らげて、小さく首を振って見せた。
 ――お前に怒ったのではないよ。
 焚き火の炎に照り返されて、深い陰影のさした養父の顔を、私は注意深く観察した。たしかに彼は、腹を立ててはいないようだった。だがその瞳には、乾いた哀しみの色があった。
 やがて遠くを見るまなざしをして、養父は言った。
 ――同じ言葉を話せるということには、大きな意味があるのだよ。
 疲れたような、低く籠った声だった。私はそれ以上反論しなかったが、内心では疑問を感じていた。言葉が通じずとも、身ぶりや表情である程度の意思は交わせることを、それまでの旅の中で学んでいたからだ。
 私のその思いは、顔に出ていたのだろう。養父は焚き火に枯れ枝をくべながら、ゆっくりとその話を語り始めた。

  ※  ※  ※

 はるか西南の地に鳥たちの楽園があると聞いて、そこを目指したのは、人の言葉を話す鳥がいるという話を耳にはさんだからだった。
 私は若いころから、そうした不思議なものごとに、強く興味をひかれる性質だった。北に日の沈まない国があると聞けば北に行ったし、南に煮えたぎる大河があると聞けば、そちらを目指した。そうして向かった中にはとうとう辿りつけなかった土地もあったし、根も葉もないただの噂だったこともあったのだが、それでも私は懲りるということを知らなかった。
 鳥たちの楽園があるのは、湖沼地帯よりもさらに西、灼熱の大河の流域よりはやや北にあたる、広大な平地だ。暑い土地だった。周囲に山麓は見当たらず、ただ深い森と、点在する湖と、地の底に網の目のように張り巡らされた地下水脈とがあった。
 森の外には沃野と、いくつもの大小の町があり、近くを通る街道にはしばしば豊かな積み荷が行き交う、にぎやかな一帯だ。しかしひとたび森に足を踏み入れれば、そこは人知を超えた原初の森、人の世の理などなにひとつ通用しない、鳥と、獣たちと、深く生い茂る草木の世界が広がっていた。
 見上げても梢が視界に入らないような巨木が数え切れぬほどそびえ、それらの葉から透ける木漏れ日を浴びて、足元には地を這う灌木がみっしりと茂っていた。木々の枝には猿や、何か体の大きな四つ脚の獣が飛びかっていて、彼らの手の届かないはるかな高みの細い枝に、ひしめき合うようにして鳥たちが羽を休めていた。
 よくよくそのようすを眺めていれば、そこは鳥たちにとって、かならずしも楽園と言いきれるほどには、甘い世界とも思われなかった。森は豊かだが、それにしても鳥たちの姿は多すぎた。少なくとも、餌に事欠かぬということはなかっただろう。彼らの天敵にあたるだろう獣の数も多かった。
 だが全体に目をやれば、やはりそこは紛れもなく、鳥たちの王国なのだった。多彩な色の羽根と、さまざまな形のくちばしを持った、大小の鳥、鳥、鳥。地面だろうと枝の上だろうと、ところ構わずさまざまな形の巣が築きあげられ、彼らの鳴き声は、細い川の流れが寄り集まって大河になるように、うねりとなって森じゅうにとどろいていた。
 その中にいるという、人の言葉を話す鳥をひと目見ようと、私は酔狂にも森の奥深くへと足を踏み入れたのだった。

 まだ若かった私は、いま思いかえせば呆れるほど無鉄砲な真似もしばしばしたが、それでもさすがに見知らぬ森の奥深くに入ってゆくのに、ひとりきりというわけにはいかなかった。私は現地の青年を雇って、案内をしてもらうことにした。普段から森に入って狩りで生計を立てているという、当時の私とさして変わらぬ年頃の、若い猟師だった。
 森の中は木々の天蓋に陽射しのさえぎられる分、外の街道ほどには暑くなかったが、そのかわりに、むせかえるような湿気が体を押し包んだ。草いきれに混じって、常に甘い香りがしていた。朽ち葉が立てるにおいだ。口を開くたびにその甘くしめった空気の塊が喉に押し入って、胃の腑の底まで落ち込んでゆく気がした。
 案内人のあとに続いて、道なき森の道を踏みしめて歩くうちに、汗がとめどなく頬を伝って顎から落ちた。前を行く連れは慣れたようすで灌木を掻き分け、ときに山刀をふるって足元を拓いた。途中、一度は代わろうとして申し出たのだが、こつがあるのだろう、私のふるった刃はあえなく緑の蔓に圧し返されて、危なっかしく滑るばかりだった。
 森は人の世の理など通じない、獣と鳥と虫たちの世界だ。私はそのように聞かされていたし、実際に足を中に踏みいれたときにも、たしかに自分の肌で同じことを感じた。
 だが事実は、やや異なっているようだった。
 連れが行く手の草叢を払ってくれるのを待つあいだ、疲れに顎を押されるようにしてふと視線を上げた、そのときだった。私は藪の向こうに、青く光るふたつの眼を見た。
 とっさに悲鳴を上げると、連れが振り返って、訝しげに私を見た。けれどそのときには、藪の中の眼は、どこかへひっこんでしまっていた。何の気配もしなかった。まるで狩りをする獣がそうするように、物音ひとつ立てず、いなくなってしまったのだ。
 しかし私が見たものは、人のまなこに他ならなかった。私はたったいま目にしたものを、若き狩人に説明した。そして訊いた。この森に人は住んでいないということだったが、あれは嘘だったのかと。
 青年は鼻に皺を寄せて、首を振った。
 ――嘘ではない。この森の中に人間は、誰ひとりとして住んではいない。
 では、私が見たものは何だったのか。彼のような猟師のひとりだろうか。だがそれならば、私に見つかったからといって姿を隠す理由が、いったいどこにあるというのか?
 そうくってかかる私に向かって、青年は、噛んで含めるように言った。この森に、人は住んでいない。人に似たものがいるとすれば、それは魔物だと。
 ――魔物?
 聞きとがめて、私は詳しい説明を求めようとした。だが青年は首を振るばかりで、それ以上この話を続ける気はないようだった。

 人語を話すというその鳥は、人の背丈よりも高い枝にしかとまらないというので、必然的に、上を見上げながら不自然な姿勢で歩くことになる。そればかりでは首も腰も参ってしまうし、足元も危ういので、小刻みに立ち止まって、度々休みながら歩いた。そのたびに私は藪の深いところに視線を投げかけて、そこに潜んでいるかもしれない何者かを探ろうとした。
 森は深く、険しく、そして豊かだった。多くの生き物が、その中には棲んでいた。彼らの多くは藪や樹上にひそんで、おいそれと姿を見せようとはしなかったが、そこかしこで何かのひっそりと動く気配や、吠え声や、藪の鳴る音がひっきりなしに続いていた。頭上で甲高い叫びがしたと思って振り仰げば、何か四足の獣が枝から枝へと飛び移る、その残影だけが、かろうじて目の端を掠めて消え、遅れて色鮮やかな青い羽根が、一枚、ゆっくりと舞い落ちてきた。
 実りも多いようだった。樹上の果実を、案内人は難なく落としてみせ、ときおり私に放ってよこした。足元の草を手で引っこ抜き、土を払って根を齧ることもあった。
 青年はその生業のゆえか、ときおりすっと気配を消し、獲物を狙う目をした。だがいっときすると、今日は狩りをするために来たのではないと思い出したように、ふっと緊張を解いた。そのたびに彼は頭を掻いて、照れ笑いをした。そうやって白い歯を見せると、少年じみた顔つきになった。
 どれくらいの間、森の中を歩いただろうか。疲れた足と首とを休めるために、私たちは腰を下ろした。湧きでる泉のほとりだった。すぐそばに、特徴的なねじれた枝の樹がどっしりと生え、苔むした大きな岩がいくつも転がっていた。そのなかの一つに腰かけると、思いがけずひやりと冷たい感触がして、私は声を上げた。
 木々のざわめきと鳥たちの声とが、ひっきりなしに轟々とうねっているので、下手をすればすぐ近くで目当ての鳥が言葉を話していても、騒音にまぎれて気がつかないのではないかと、心配になるほどだった。だがそんな私の心配は、杞憂に終わった。
 頭上で短く、涼やかな声がした。
 何と言ったのか、明瞭には聞き取れなかったのだが、それは獣の鳴き声とはあきらかに一線を画した、たしかに人の話す声と聞こえた。それも、かすかに甘い響きのある、少女の声のように思われた。
 私たちははっとして顔を上げ、慌てて辺りを見渡したが、目にとまるところにそれらしき鳥の姿はなかった。私は立ち上がり、背にしていた樹を回り込んで、その向こうを見ようとした。
 忙しない羽ばたきが耳を打って、どこか近くの枝から、鳥の逃げてゆく気配がした。
 ――いまのが、そうか。
 ――そうだ。おそらく。
 連れは曖昧に言葉を濁した。言いきれないのは、内容をはっきりと聞き取れなかったためというよりも、あまりにも声が人間そっくりで、それが本当に鳥の発したものとは思い難かったためかもしれない。自分の眼で鳥が喋る瞬間を目の当たりでもしないかぎりは、本物の人間が話すのと区別がつかないほどだと、町の人々が話していた、まさにその通りだった。少なくとも私のほうでは、この時点ではまだ疑う気持ちがあった。声は頭上からしたように聞こえたが、あるいはそれも、座り込んでいたために起こった錯覚かもしれないではないか。
 ――誰かが鳥のふりをして、私たちをからかおうとしているかもしれない?
 私が訊くと、青年は首をすくめて鼻の頭に皺を寄せた。
 ――誰が何のために、そんな酔狂なことを? こんな森の奥深くまで、はるばるやってきて?
 青年はそういったが、私はもうひとつの可能性のほうを、頭の隅においていた。町の人間があとをつけてきたのではなく、もとよりここに住んでいる人間がいるのではないか。そして、その人々の声を、みなが鳥の声だと信じ込んでいるのではないか?
 けれど私はその考えを、この若き案内人には伝えなかった。この地域の人々にとって、人語を話すというその鳥は、特別なもののようだったからだ。
 言葉を話すというその鳥に関して、彼らの間では、さまざまな言い伝えが残されていた。いわく、さらわれて森に捨てられた子どもに道を教えて、町のそばまで導いた。いわく、人を殺して森に逃げ込んだ罪人を、その声で惑わせて高い崖から突き落とした。いわく、迷える領主に啓示を与え、町をあやうく戦火に巻き込まれる事態から救った……
 町によって細部の少しずつ違う、いくつもの逸話があった。人々はその鳥を神の遣いか、あるいは神そのもののように思っているらしかった。
 ただ好奇心からその姿をひと目見ようとしているだけの私のことも、彼らはどうやら、巡礼か何かと間違えているようで、敬虔な男だと感心されている向きさえあった。ばつの悪い思いをしながらも、私はその誤解をあえて解かないまま、この森まで来てしまったのだった。
 ――あちらへいったようだったが。
 私が羽音の遠ざかっていった方角を指さすと、案内人はなぜだか、迷う目をした。それから何度か唇を湿すように舐めて、青年は言った。
 ――今日はこのあたりで、もう切り上げないか。
 唐突なその言葉に、私は首をかしげた。さっきまではむしろ、彼のほうが積極的に鳥の姿を探していたくらいだったというのに、どうしたわけか、青年の表情は緊張にこわばっているように見えた。木々に遮られてしかとは見定めがたいが、まだ日は高いはずだった。せっかくここまで近づいたのだからという気持ちもあった。
 私がそう言うと、青年はまだ少し躊躇う顔つきをしながらも、結局はうなずいた。私たちは腰を上げて、泉をあとにした。

 四方から響く鳥たちの鳴き声や羽ばたきは、木々の鳴る音と重なり混じり合い、耳を聾するほどに激しく押し寄せていたけれど、その強弱にも波があった。彼らの立てる物音がふいにいくらか弱まった、その拍子に、私はその物音を聞いた。
 人の足が、枯れ枝を踏み折る音に聞こえた。
 緊張感が走った。私はとっさに、前をゆく青年の足元を見た。だがそこには、枯れ枝などなかった。
 ――ほかの猟師が?
 ――いや、いまの音は違う。
 青年はきっぱりと言い切った。それから警戒するように、周囲を素早く見渡した。
 ――なぜだ。月夜でもないというのに。
 不可解なつぶやきが、案内人の口からこぼれた。私の怪訝な表情に気がついたのだろう、彼はかぶりを振って、やってきた方角を腕で示した。
 ――やはり、今日はもう戻ろう。いやな感じがする。
 ――さっきの音と、何か関わりが?
 ――そうだ。案内料は半分返す。何なら日を改めてまたやってくればいい。
 何がなんだかわからなかったが、ともかく私は黙ってうなずいた。その土地に住むものにしかわからない種類の危険というものがある。そうした現地の人の言葉に耳を貸さないことの愚かさを、私はすでに知っていた。説明ならあとでゆっくり聞けばいい。私は素直に踵を返して、引き返そうとした。
 だが、遅かったのだ。
 鋭く風を切る音がした。
 私ははじめ、連れの青年が何かを射たのだと思った。狩りに来たわけではないのだが、彼はこの日も弓を背負ってきていた。小ぶりだが、しっかりとした作りの、頑丈そうな弓だ。危険に備えてのことだと口では言っていたが、それよりもむしろ、あわよくば案内ついでに何か手ごろな獲物があれば獲って帰ろうというつもりではないかと、私は感じていた。その弓で、彼が何かを射たのだと、とっさにそう思ったのだ。
 まだ事態を呑み込めずにいる私の耳に、空気の漏れるような、どこか間のぬけた音が飛び込んできた。どさりと重い音がそのあとに続いた。ようやく私が振り向いたときには、若き狩人はすでに、地に倒れ伏していた。そのうなじのところに、短く太い矢が生えているのを、私は見た。
 状況を理解するよりも早く、肩に衝撃が走った。
 悲鳴を上げたつもりだった。それが連れのむごい姿を見たためだったのか、自らの痛みに対する反応だったのか、自分でもよくわからない。どちらにせよ、その声は悲鳴というにはあまりにも貧相な、弱々しく掠れたうめき声にしかならなかった。
 とっさに逃げようとした足がもつれ、膝がくだけた。その私の視線のすぐ先に、案内人の突っ伏した頭があった。
 その横顔は、目を見開いたまま唇を震わせていた。赤黒い血があふれ、朽ち葉をじわりと濡らしてゆくのが見えた。
 左肩が熱を持って痺れ、脈打つように軋んでいた。目の前が暗くなりかかった。だが気を失うほとんど寸前で、かろうじて私は踏みとどまった。自らを襲う危険の正体をせめて見定めようと、どうにか視線を青年から引き剥がして、首を持ち上げた。
 少女がひとり、そこにたたずんでいた。
 ほっそりとした、象牙いろの肌の少女だった。その手の構える弓を目にしてさえ、私は自分の見ているものの意味を、いっとき理解できなかった。簡素で武骨なつくりの弓は、少女の細い腕に、あまりにも不釣り合いだった。
 木々の天蓋から斜めに零れ落ちる午後の日差しが、少女の姿をまだらに染め分けていた。少女は無表情に近寄ってきて、私からは手の届かない位置で足を止めた。そうして、小さく首をかしげた。
 その仕草には、あどけないといってもいいような無邪気さがあった。実際に少女はまだ年若かったが、私の眼にそれは、無垢な子どもの幼さというよりも、獣の無心さと映った。一切の欲得やしがらみのない場所にしか存在しない、無関心な注視。
 目の前にいる少女の姿をしたものが、精霊か、そうでなければ悪霊(ジン)の作りだした幻ではないかと思った。連れが先刻口にした魔物という言葉が、私の頭をかすめた。
 少女が手にしていた弓を、慣れた手つきで肩の高さに持ち上げるのを見て、私はやっと気がついた。彼女は確実に私を殺すために――間違いなく急所を射ることのできる位置まで、近寄ってきたのだ。
 私はそのとき、命乞いをすることも忘れて、呆けたように座り込んでいた。少女の立ち姿の凛とした美しさが、現実感を削いでいた。背筋のすっと伸びた、何の力みもない構えだった。このまま、ほんの数秒後には自分があの矢に貫かれて死ぬのだろうということを、私は実感していなかった。ただ息を詰めて、少女に見とれていた。
 そのとき頭上の梢が揺れ、羽音が響いた。
 あざやかな赤色をした羽根が一枚、私と少女のあいだにひらひらと舞い落ちた。少女は刹那、ひどく焦ったような顔になって、頭上を振り仰いだ。
 ――オ前、オ腹ガスイテルノ。
 枝の上で、鳥が喋った。
 それは涼しげな、少女めいた声だった。声はたしかに樹上から響いたのだが、それでも目の前の少女が喋ったのではないかと思いたくなるような、人間そっくりの話し声だった。
 だがそれよりも、私は別のことに気を取られていた。
 その言葉は、このあたりの地方で使われている言語ではなかったのだ。それどころか、いまでは使うものもほとんどいない、失われたはずの言葉だった。
 驚愕する私に気付くようすもなく、少女は舌打ちをして、つがえた矢の先を、頭上の枝に向けようとした。それからわずかに迷うような顔をして、あらためて私のほうを射殺そうと、弓を構えなおした。そこでようやく呪縛から解き放たれて、私は叫んだ。
 ――待ってくれ。
 それは長く口に出したことのない、祖国の言葉だった。
 樹上の鳥が話したのと同じ、失われた国の言葉だ。少女が鋭く息をのんだ。その眼が、信じられないものを見るように、私を凝視した。
 私は慌てて言葉を継いだ。
 ――殺さないでくれ。話をさせてほしい……
 少女は驚きを困惑に変えて、まじまじと私を見下ろした。その表情には、もうあの獣のような無心さは残っていなかった。
 その顔に浮かんだ躊躇の色が、決心にかわるまで、私は見定めることができなかった。助かるかもしれないという希望が芽生えた途端、気が緩んだのだろう、再び視界が暗くなりはじめたのだ。
 肩はじっとりと重く濡れ、熱く痺れていた。脈打つような痛みがすっと遠のき、水底に沈み込むようにして、私は意識を手放した。


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