夜明けを告げる風 へ   小説トップへ  その2 へ




 里のはての岩壁には、ぽっかりと空いた穴がある。
 さして大きなものではない。大人なら、少し身を屈めなければくぐれないほどのものだ。あらゆる光を吸い込むような、黒々とした穴。その先は、暗闇の路へと続いている。
 そこへ足を踏み入れることは、禁じられている。例外はふたつ。男たちが銀を掘りにゆくときと、葬儀のときだ。
 暗闇の路のなかばには、死者の川がある。
 轟々と音を立てて流れる、冷たい川だ。人が死ねば、なきがらはそこに投げ込まれる。
 死者は川をどこまでも下ってゆき、やがては水底の国にたどりつく。彼らはそこで、永遠の眠りにつくといわれている。
 暗闇の路は、死そのもののような、深い静寂に包まれている。それでいて闇の中には、驚くほど多くのものが息をひそめている。音を立てずに地を這う、目のない蛇。毒をもつ蜘蛛。それから、川を下りそこねた亡霊たち。
 道すじはひどく入り組んでいて、そこで上げた声は、響く端からほうぼうに跳ね返って、耳を惑わす。ひとたび迷えば、けして無事に戻ってはこられない。
 けれど、その長く危険に満ちた路を、どこまでもたがわずに正しく辿ることができたならば、その先ははるか彼方の地、天上にあるもうひとつの世界へと続いている。
 火の国。
 その大地は、燃え盛る炎に包まれているという。


「今日からサフィドラの月になるのね」
 その日の早朝、母さんが感慨深げにそういったのを、よく覚えている。部屋の中にまでほのかに霞のかかる、しっとりと涼しい朝だった。
 その言葉を聞いたわたしは、ちっともいうことを聞かない縫い針から視線を上げて、母さんの顔を見上げた。母さんは、近頃とみに白髪の増えた頭をかしげて、わたしの手元をのぞきこんでいた。
「年があらたまるのをいい機会と思って、お前もそろそろひとつ、何か大きなものを仕上げてはどうかしらね」
 母さんの声は、心配げな色を帯びていた。もう少し針が上達しないことには、嫁いだ先で困ることになりますよというのが、そのころの母さんの口癖だった。
 けれどわたしはそのとき、ほかのことに気を取られていた。サフィドラの月という、聞きなれたはずの、けれどいつ聞いても不思議な響きのする名前のほうに。
 サフィドラ、レヴェ、ルークス、エオン、ヤクシェ、イディス、ユヴ……。ぜんぶで十七ある月の名前は、どれもきれいだけれど、音の響きがよいという以外に、意味があるようには思えない。そういうものだと思っていたけれど、考えてもみれば、そんなにたくさんの名前で暦を呼び分ける必要なんて、どこにあるのだろう。
 ようやく言葉を覚え始めたばかりの幼い子どもらには、一の月二の月と、数字で暦を教えるくせに、彼らが少し大きくなると、今度は正式な長い名前で覚えなおさせる。わざわざそんなことをする意味が、どこにあるのだろう。
「ねえ。月の名前って、なにか意味があるの」
 母さんはすぐに答えず、日々の仕事に荒れた指先で、そっと額を押さえた。叱りつけたいのをこらえるときの、母さんのくせだ。
「さあ、どうかしら。もともとは星の名前からとられたと、導師が仰っていたと思うけれど」
 ずいぶん前に聞いたことだから、忘れてしまったわ。母さんはそんなふうにいって、小さく首をすくめた。
「星って、なあに」
「さあ、何かしら。難しいお話は、母さんにはわかりませんよ」
 それよりも、と母さんが厳しい顔をしたので、てっきりお説教が続くものと思って、わたしは首をちぢめた。けれどそうではなかった。母さんはゆっくりと、噛み含めるようにいった。
「わかっていると思うけれど、今日は火の国の使者さま方がお見えになる日ですよ。続きは裁縫室でなさい」
 はい、と返事はしたけれど、いわれるまでわたしはほとんどそのことを忘れかけていた。あわてて裁縫道具を抱え込んで立ち上がると、母さんがまたため息をつきかけて、飲み込んだ。
 姉さんたちはみんなしっかりしているのに、あなただけ、いつまでも小さい子どものままみたいね。そんなふうに、何度ため息をつかれたことだろう。そのたびに首を縮めて、お説教をやり過ごしながら、わたしは実のところ、ちっとも反省していなかった。母さんも、姉さんたちも、みなでよってたかってわたしを子ども扱いするのだから、いつまでも子どもっぽいのは当たり前だ。
 ヒカリゴケに淡く照らし出される通路(ヤァタ・ウイラ)を歩きながら、わたしはそのとき、まだ月の名前のことを考えていた。
 星、とは何のことだろう。
 小さいころから、一度なにかを気にしだすと、答えを知るまでずっと気になり続ける性質だった。ソトゥの月だけがほかの月の半分ほどの日数しかないのはなぜだろう。どうして日が経つことを、月が満ちるというのだろう。ひとたび気になりだすと、疑問は次から次へと湧き出してくる。わたしはこのとき、暦に秘められた謎に、すっかり夢中だった。
 長い通路の先には、裁縫室がある。姉さんたちはすでにそちらに行って、縫い物なり、糸紡ぎなりに、精を出しているはずだった。
 けれどわたしはその手前の、勉強室の前で足を止めた。母さんは、裁縫室で縫い物の続きをやるようにといったけれど、要は邸の奥に大人しくひっこんでいさえすれば、それでいいのだ。
 サフィドラの月の頭から三日間、この邸に暮らす未婚の娘たちはみな、奥の部屋に篭もらなくてはならない。表のほうの部屋には、使者の方々をお泊めするからだ。
 母さんたちは、導師のご指示を仰いで忙しく立ち働いている。男の人たちは今年の荷をあらためて、火の国よりもたらされた物珍しい品々に、目を輝かせているころだろう。わたしたちだけが、にぎやかな表から切り離されている。わたしにはそんなふうに思えてならなかった。
 使者はいつも、男のひとたちばかりのようだった。女性の使者さまはいらっしゃらないのですかと、導師に訊いてみたことがある。もし許されるものなら、火の国の話を聴いてみたいと思ったのだ。
 ――さて。女性(にょしょう)の使者は、すくなくとも私がこのお役目についてからは、お見かけしたことがないが。
 わたしががっかりして肩を落とすと、導師は困ったように微笑んで、ゆっくりと仰った。
 ――火の国からこの里へいたる道のりは、とてもけわしく恐ろしいものだというから、たとえ火の国の御方といっても、女性の足で通り抜けるのは、難しいのではないかな。
 いわれてみれば、もっともな話だった。いつだって導師はそんなふうに、わたしの考えの足りないところを、やんわりと気付かせてくださる。
 導師はお優しい。教えを請えば、たいていのことは詳しく答えてくださる。月の名前のことも、お訊ねすれば、教えてくださるだろうけれど……。
 垂れ布をくぐって勉強室に入ると、立ち並ぶ書架が、持ってきた手燭のあかりに淡く照らし出された。この部屋だけの、独特のにおいが鼻をくすぐる。古びた紙とインク、それから埃のにおい。
 誰もいない勉強室は、静かだった。
 奥の裁縫室からは、ときおりはしゃいだ高い声が漏れ聞こえてきていた。自分もそちらにいって姉さんたちの話に混じろうかと、思わなかったわけではない。けれどわたしはそうしなかった。ひとりでいるのが好きなわけではない。だけど、お裁縫はもううんざりだった。向かないのだ。
 昔からずっとそうだった。まわりの娘たちと違うものに興味を惹かれ、皆が喜ぶものにはあまり関心を持てない。べつに意地を張ってそうしていたわけでもないのだけれど、自然といつもそうなった。
 皆がわたしのことを変わり者だと思っているのは、知っていた。わたしのそういうところが母さんを心配させているのも、わかっていた。けれどそれでも、好きではないものを好きだということが、わたしにはどうしても耐え難かった。
 わたしはため息を飲み込んで、奥の書架に向かった。
 目に付いた本を取り出すと、それはずしりと手に重かった。その列の書架には、とくに古い書物が集めてある。表紙に張られた布は、端がほつれてしまっていた。綴じ糸もすでにもろくなって、雑に扱えば、ばらばらになってしまいそうだった。
 机まで運んで、明かりのそばでそっと表紙を開くと、中のページに記された文字は、すでに古び、薄れかかっていた。そろそろ写本をつくるべき時期にさしかかっているようだった。
 わたしは以前から、導師が古い本を書き写されるのを手伝っていた。裁縫は苦手だけれど、読み書きならば、姉さんたちの誰よりも上手にできる。けれど母さんは、それをあまりいいことだとは考えていないようだった。
 いずれお嫁にいってしまえば、本など読むこともないのよと、母さんはいう。それが本当なら、嫁ぐというのは、なんてつまらないことなのだろう。
 書物に記されているのは、古い叙事詩のようだった。在りし日、族長イグラン――というように、そのつづりは読めた――が、無用のいくさに明け暮れるあまりに、とうとう神々の怒りに触れて、水という水を奪われてしまった。渇きのために苦しむ一族に、ひと柱の美しい女神が心を痛め、天より降り立った。女神は道を示し、わたしたちの祖先を新たな地へ導いた。この豊かな水の溢れる楽園、エルトーハ・ファティスへと。
 本の中には、その長く苦難に満ちた旅のことが、活き活きと綴られていた。
 それは、いつか耳にしたことのある物語だった。母さんが寝物語に聞かせてくれたのではなかっただろうか。
 けれど、記憶の中の話とは、細部がかなり違っていた。それに母さんの語った内容は、この書物のように詳しくはなかったと思う。己の過ちを悔いながら、民を率いて道を切り拓く族長の、人間的な苦悩に満ちたようす。それに、巫女の口をとおして語られる女神の託宣の、謎めいた、神秘的な響き……。
 読みながら、わたしは何度もため息を漏らした。母さんは子ども向けに話して聞かせるために、話の難解なところをすべて省いてしまったのだろうか?
 その書物のなかには、知らない言葉がたくさん出てきた。わからないところでは手を止めて、その単語をそっと指でなぞり、不思議な響きの音から自分なりの(きっとそのいくらかはとんだ見当はずれの)想像をめぐらせながら、わたしは夢中になってそれを読んだ。
 読み終えていっときの間、わたしの心は古代の英雄たちの姿から離れることができなかった。
 時がたって興奮がいくらかしずまると、今度は嵐のような疑問が押し寄せてきた。これは何百年前の話なのだろうか。この地が、苦難の果てにようよう見出された楽園だというのなら、その前にわたしたちの祖先が住んでいた場所は、どのようなところだったのだろう。神々に水を奪われる前の、その土地は。
 少なくともここより、ずっと厳しい土地だったのだろう。深い暗闇にうち沈む、寒々しいところだろうか? それとも話に聞く火の国のように、灼熱の土地なのだろうか。あるいは水を奪われるその前には、こことよく似た土地だったのだろうか。
 導師にお訊きしてみたいと思ったけれど、この三日間は、勉強室にお見えにはならないだろう。使者の方々をもてなすのに、お忙しいはずだから。自分が入ってきたほうと反対側、ト・ウイラへ続く戸口をちらりと見て、わたしはため息をついた。
 奥の裁縫室のほうで、誰かが歌っているのが、かすかに響いていた。耳を澄ませば、それは一番上の姉さんの声だった。

――愛しいひとの名を呼んで、
   乙女は駆ける、暗闇の路を。

 それは、古い恋歌だった。
 炎の乙女の歌。火の国からの使者に恋をした乙女が、帰りゆく使者のあとを追いかけて、越えてはならぬ火の国との境を、とうとう踏み越えてしまう。そして乙女は炎に焼かれ……。
 その歌が、わたしは昔から好きになれなかった。正直にいえば、悲しいばかりで、辛気臭い歌だと思っていた。どうせ歌うのなら、もっと楽しい歌がいい。
 対抗しようと思ったわけではないけれど、つい、ちがう歌を口ずさんでいた。豊穣の歌。豊かな実りを大地の女神に感謝する歌だ。
 それは本当ならば、女が歌うようなものではないのだけれど、ときおり男のひとたちの畑のほうから聞こえてくるのを、耳で覚えていた。その喜びにあふれた力づよい音律が、わたしはとても好きだった。
 誰かの足音が、近づいてきた。それでもわたしは、歌を止めはしなかった。母さんたちか、姉さんたちの誰かだろうと思ったので。
 けれど、その予想は裏切られた。
「――いい声だな」
 心臓が、止まるかと思った。
 あろうことか、それは、男のひとの声だった。いまこのとき、この場所に、導師以外の男のひとが、いるはずがないというのに。それどころか声は、ヤァタ・ウイラから聞こえた。女たちしか使ってはならないはずの通路から!
 声の主は戸口のそば、ほとんど垂れ布のすぐ向こうから、話しかけてきたようだった。布に、うっすらと人影がうつっているのが見えた。
「もう、歌わないのか」
 不思議そうに、通路の声はいった。低く、語尾のやわらかい、不思議な響きの声だった。
「すまない。邪魔をしただろうか」
「いえ……」
 ようやく、どうにか喉から声を絞り出すことができた。声の礼儀正しい響きからは、少なくとも悪い人ではなさそうだと思えて、それでいくらか、わたしは落ち着きを取り戻した。
 そちらがわの通路は、ヤァタ・ウイラですよと、そう声の主に教えようと思った。けれど口が勝手に、違うことをいっていた。
「もしかして、火の国からの使者さま?」
 訊いてしまってから、考えが言葉に追いついた。それ以外に考えられることがあるだろうか?
 男のひとの言葉には、あまり聞かないような古風ないいまわしが混じっていたし、それに抑揚や声の響きも、どこか変わっていた。第一、里の男で知らずにヤァタ・ウイラに闖入するものなど、いるはずがない。
 そうと知っていてわざと入り込んだ狼藉者の話ならば、耳にしたことはあるけれど、それにしては声の主は礼儀正しかったし、なによりここは、導師のお邸なのだ。使者のいらっしゃるこの大切な時期に、それほど愚かなことをする男がいるとは考えづらかった。いたずら盛りの子どもならともかく、声は、大人の男のひとのものだった。
「ああ……いや、そうだな。お前たちが、火の国と呼ぶ場所から、荷を運んできた」
 ああ、なんていうことだろう! 使者さまとお話しができるなんて。わたしは小走りに戸口のほうへと駆け寄った。
 気分が高揚していた。母さんや導師に知られれば、ひどく怒られるだろう。わかってはいたけれど、そんな心配よりも好奇心のほうが勝った。
「今日の早朝に、ようやく着いたところだ。ほかの者は皆、まだ休んでいる。……ひとり早々に目が覚めたはいいが、ここの暗さに惑わされて、どうやら道に迷ってしまったようだ」
 弁明する声は、とてもまじめな調子だった。それがどうにも可笑しくて、わたしは小さく吹き出した。
「いやだ、お邸の中で迷うなんて」
 そういってから、慌てた。あまりに無礼な口のききようだっただろうか。とても偉い方なのだということは知っていたけれど、そうといって、使者にどんなふうに礼を尽くすべきかなんてことは、誰からも教わらなかった。それも当然のことだ。わたしたちは、使者にお会いすることそのものを、厳しく禁じられているのだから。
 けれど、使者はわたしの無礼を咎めるふうでもなく、ただ困惑したように呟いた。
「ここは邸の中、なのか」
 何を不思議に思っていらっしゃるのだろう。わたしはちょっと首をかしげた。火の国では、お邸というのはもっと立派なものなのかもしれない。
「いや、すまない。妙なことをいうと思っただろう。……邪魔をしてすまなかったな」
 使者が立ち去ろうとする気配を感じて、わたしはあわてた。こんな機会、もうあるとは思えなかった。とっさに垂れ布の近くまで駆け寄っていた。
「ねえ、火の国のお話を、聞かせてくださらない?」
 そう口に出してしまってから、わたしはうろたえた。相手は家族でもなければ、導師のようなお爺さんでもない、大人の男の人なのだ。
「あの、わたし……その」
 なにか言い訳をしなければならないと、そう思うのだけれど、焦るとよけいに言葉が出てこなかった。少しして、垂れ布にうつる影が揺れた。
「どうした」
 うながされて、わたしは恥じ入りながら、小声でたずねた。
「その、はしたないと思う?」
 訊きながら、いたたまれなかった。垂れ布の向こうから、使者が喉の奥で笑うのが聞こえた。
「お前はまだ、子どもだろう」
 とっさに反論できなくて、わたしは口を開閉させた。
 たしかにわたしは歳のわりに幼いと、姉たちからも母さんからも、口癖のようにいわれている。自分でもちょっとそう思うふしはある。けれどいくらなんでも、男の人に話しかけて、子どもだからと笑って済ませてもらえるような年ではない。
 けれど、そう誤解してもらえるのなら、わたしにとっても都合のいいことではあった。憮然として、わたしは答えた。「そういうことにしておくわ」
 使者が、今度は声を立てて笑うのが聞こえた。こっそりふくれながら、わたしはその場に座り込んだ。
「地上の、どんな話を?」
 使者はどうやら、子どものわがままにつきあってくれるつもりになったようだった。面白がるようにそう囁く声は、けれど、意地悪そうではなかった。
 わたしは気をとりなおして、顔を上げた。訊きたいことは、いくらでもあった。火の国の人たちは、どんな姿をしているのか。いつもたくさん運んでくる、あの不思議な品々は、だれがどうやって作っているのか。火の国をつねに覆っているという炎に焼かれても、ちっとも熱いと感じないのか。どれくらいの数の人がいて、どんな暮らしを送っているのか……。
「火の国のことを、あなたがたはなんというの?」
 まっさきに口から飛び出したのは、そんな疑問だった。
 使者はさっき、お前たちが火の国と呼ぶ、という言い回しをした。ならば、彼らは自分たちの国を、ほかの名で呼んでいるのだ。
「俺たちの町は、ファナ・イビタルという。中央砂漠にある、大きく美しい、オアシスの町だ」
 いいながら、使者は少し口ごもったようだった。わたしが話を理解できないでいる気配が、沈黙に乗って伝わったのかもしれない。
「オアシス、という言葉はわかるだろうか。砂漠は?」
「いいえ。それは、どんなもの?」
 使者は少し、言葉をさがすような沈黙を落とした。それからゆっくりと説明を足した。
「ここと違って、地上はとても暑く、ひどく乾いているのだ。見渡すかぎり、焼けた赤い岩の大地か、そうでなければ、乾いた砂を敷き詰めたような地面が広がっている。その中にときおり、水の湧く場所がある。その水場のことを、オアシスと呼ぶ。そうした水のそばに、人が集まって暮らしている」
 使者はいったん言葉を切った。それから、わたしの頭に砂漠の情景が沁みるのを待つような間をおいて、続けた。
「それらの中でもっとも美しく、とびきり豊かなオアシスが、ファナ・イビタルだ」
 声は全体に落ち着き払っていたけれど、そのことを口にしたときだけ、子どものように、自慢げに弾んだ。
 地上、という言葉にはなじみがなかったけれど、きっと火の国のある場所のことなのだろう。それよりも、火の国の人も水がなければ渇くのかと、わたしはそのことに驚いた。
 灼熱の大地で暮らすことができるのは、かの国の人々が、けして炎に焼かれることのない、特別な肌を持っているからだと教わっていた。それなのに、水がなければ生きてはゆかれないのだと思うと、それはとても、不思議なことのような気がした。
 ファナ・イビタル。口の中で、そのきれいな響きの音を転がすと、それは神々の住まう天のどこかではなく、生きた人の暮らす里なのだという感じがした。
 その考えは、わたしに先ほどの本を思いださせた。母さんの話ではいかにも英雄然として、神々の眷属のようにしか思われなかった人物が、書物の中では活き活きとした、ひとりの人間として描かれている……
「ここのように水の豊かな土地は、地上ではとても珍しい。羨ましいことだ」
 そう囁いた使者の声には、憧れるような響きがあった。その声音が、言葉の内容よりもなお雄弁に、遥かな土地の乾いた風を、わたしに想起させた。
「火の国は、とても遠いところだと教わったわ。どれくらい遠いの?」
「ああ、そうだな。地上までは一日も歩けば着くが、ファナ・イビタルへは、そこからさらにひと月ほどだ」
 ひと月! わたしは自分の耳を疑った。それがどれほどの距離なのか、見当もつかなかった。試したことはないけれど、里の端から端まで歩いても、二日もかからないだろう。
 わたしがあんまり驚いていたからだろう、使者は笑って付け足した。「途中のオアシスに立ち寄りながらの旅だ。ひと月のあいだ、ずっと歩き詰めというわけではない」
 それにしたって、途方もない話だった。それに、荷のこともある。使者とお話しするのはこのときがはじめてのことだったけれど、火の国から運ばれてきた荷ならば、わたしも見たことがある。あんなにたくさんの荷物を、ひと月もかけて、ここまで背負ってくるというのだろうか。
 わたしがそういうと、使者は首を振った。
「荷は、駱駝をたくさん連れてきて、運ばせるのだ。いまも、里の外で待たせている。仲間が一人残って、面倒を見ているが」
 ふと気づいたように、使者は言葉を途切れさせた。「ああ、駱駝も見たことがないだろうな」
 駱駝というのは、火の国に棲む動物なのだと、使者はいった。四つ足で歩き、気性が大人しいのだと。また賢くて、人のいうことをよく聞くのだとも。
「この里には、人より体の大きな動物はいないようだな」
 使者の言葉に、わたしは何度も頷いた。鼠や蝙蝠よりも大きな動物がいるのだということも、獣がひとのいうことを聞くだなんていうことも、とても信じられないような気持ちだった。それこそおとぎ話か、神話の中の出来ごとだとしか思えなかった。
 人よりも体の大きな動物。そんなものがたくさんいるのなら、食べるものは足りるのだろうか。蝙蝠だって魚だって、ものを食べる。大きい動物なら、食べものもたくさん必要とするだろう。
 ああ、だけどあれほどたくさんの荷を、惜しげもなくもたらしてくださるのだから、火の国はきっと、とても豊かな土地なのだろう……。
 なにかをひとつ訊ねるたびに、ますます疑問はあふれかえるようだった。
「さっき、暗くて迷ったと仰ったけれど、そんなにここは暗い?」
「ああ、俺たちにとってはな。……お前たちのその眼には、暗闇の中でも、ちゃんとものが見えるのだろうが」
 その返答に、わたしは目をしばたいた。
「暗いところでは、明かりを使うわ。あなたがたは違うの?」
「いや、同じだ。けれど、俺たちが明かりがないと何も見えないような暗がりでも、お前たちはなんなく歩き回っている……」
 使者は、ため息のような声でいった。
「はじめてお前たちの同胞に会って、その眼を見たときには、とても驚いた。地上でも、明るい色の瞳をした人間は、稀に見ないではないが。お前たちの瞳は、どういったらいいか……そう、暗がりの中で、うす青く光るだろう。あんな眼をもった人間は、ここ以外では見たことがない」
「青い? ひとの目が?」
 わたしが素っ頓狂な声を上げると、使者は訝しげにいった。「俺には、そのように見えるが」
「そんなふうに考えてみたことなんて、なかったわ」
 わたしの声は、よほど途方に暮れていたのだろう。使者はゆっくりと言葉を考えるようにして、説明を足した。
「いままで会ったここの人々は皆、うすい灰青というか、そのような色の目をしているように見えたな。あるいは、青という言葉のさす色が、お前たちと俺とでは、少し違うかもしれないが……」
 その言葉の内容を、少し考えて噛み砕いてから、わたしはわかったような気になって、うなずいた。
「そうかもしれない。言葉か、あるいは、色の見え方が」
「見え方、というのは?」
 訊ねかえされて、わたしは向こうに見えるわけでもないのに、大きくうなずいた。
「たまに、ほかの人と違う目のつくりをしていて、明かりのあるところでも、うまく色が見分けられない子どもが生まれてくるのだそうよ。記録に書いてあったわ。あなたがたとわたしたちとでは、もとから色の見え方が違うのかもしれない。同じものを目にしても、同じような具合には、見えていないのかも」
 使者はいっとき黙り込んだ。なかなか返事がかえってこないことに、わたしが不安になりだしたころ、囁くような声で、ようやく使者はいった。
「面白いことを考えるものだ。……お前は、字が読めるのか」
 ええ、と頷いてから、わたしは少し声を沈ませた。「おかしいかしら?」
「いいや。なぜ?」
「女が読み書きなんかできたって、それが何になるのって、姉さんはいうわ。母さんも」
 わたしはいって、うつむいた。そもそも、里で書物の集められている場所といったら、この導師のお邸くらいのものなのだそうだ。何か知りたいことがあればみな、導師を訪ねてここまでやってくる。わたしたちが特別で、ふつうの家で暮らしていれば、書物に触れる機会などほとんどないのだと、母さんはいう。
 ずっとこのお邸で育ったわたしには、それは、なかなか飲み込みにくい話だった。けれど母さんは、繰り返しわたしにいってきかせる。導師はとても偉い方で、本当なら、わたしが気安くお話しをできるような相手ではないのだと。
 姉さんたちやわたしは、たまたま父さんが早くに死んでしまったために、里のしきたりに従って、導師の邸においていただいている。導師はお優しいから、本当の家族と思うようにといってくださるけれど、わたしたちはそれを当然のことと思ってはならないのだと。
 ひととおりのお説教のあとに、かならず母さんはいう。あなたはいずれお嫁にいくのだから、字が読めたって、何にもならないのよ。
「さて、学があって悪いことはないように思うが」
 わたしはぱっと顔を上げた。けれど使者は、ふと考えなおすように、苦笑した。「ただ、そうだな。学のある女を煙たがる男は、いるかもしれないな」
「なぜ?」
 わたしはとっさに訊きかえした。わたしがよく知っている男のひとといったら、導師くらいのものだけれど、導師はわたしが新しいことを学ぶと、とても喜んでくださる。
 使者は苦笑の気配をさせた。
「さて、なぜだろうな」
 それはいかにも、大人が子どもを煙にまくときのいい方だった。わたしはちょっと唇をとがらせた。けれど、抗議するよりも早く、垂れ布にうつる使者の影が立ち上がった。
「あまり長居をすると、探されてしまうな」
 使者は今度こそ、立ち去るようだった。衣擦れと、それからかすかに、なにか金属のぶつかって鳴る音がした。
「また、お話しできる?」
 使者はすぐには、答えなかった。わたしは息をつめて、返事を待った。
「……そうだな、明日も来よう。暇を見つけることができたなら。お前は、明日もこの部屋にいるのか」
「昼間はずっといるわ」
 そう答えながら、もどかしくてならなかった。聞きたいことはいくらでもあったし、明日かならず使者がいらっしゃるとは限らないのだ。ああ、どうしてもっと大急ぎで、色んなことを訊かなかったのだろう? わたしは歯噛みした。
 それでも、これ以上使者を引き止めて、もし彼がこの場所にいることが誰かに知られてしまえば、きっと次はない。そう考えるくらいの分別はついた。
「来た方向へ戻って……そうね、よく見えないのなら、左手を壁についたままゆくといいわ。角をふたつやりすごしてから、今度は反対側の壁に手をついて進んで、最初の角を折れると、広間に出ます」
 戸口の布にかすかにうつった使者の影は、こちらを振り返ったようだった。
「ありがとう」
 そういった使者の口調は、子どもにかける言葉にしては、いささか丁重すぎるように思えた。気恥ずかしいような、いたたまれないような、複雑な気分をもてあまして、わたしは口早に言葉を重ねた。
「きっと、いらしてね」
 その声は自分の耳にも、いかにも幼い子どものおねだりと聞こえた。恥ずかしさのあまり、頬が熱くなるのがわかった。
 布ごしに、かすかに笑いを含んだ声がした。「努力しよう」
 やがて足音が立ち去ったあとも、わたしはその場に座り込んだまま、呆然としていた。たったいまあった出来事が、夢ではないのかと思えて。
 そんなふうに思うくらい、勉強室は元の通り静まりかえっていて、布一枚へだてたヤァタ・ウイラには、もう何の気配もなかった。
 いや――立ち上がり、そっと垂れ布をくぐって通路に顔を出すと、ほんのわずかに、空気が違っていた。かすかに甘く、涼しげな匂い。いつか、使者さまがたの荷のなかにあったという香料を、導師が見せてくださったことがある。どうやって使うのか見当もつかない、やわらかい石のような塊。それの匂いと、よく似ていた。
 けれど、それはほんとうにかすかなもので、じきにわからなくなってしまった。
 姉さんはまだ奥の裁縫室で、炎の乙女の歌を歌っていた。まるで時間が経っていないような気もしたけれど、気づけば、机の上の手燭はすでに消えかかっていた。
 戸棚から新しい蝋燭を取りだして、わたしは書き物机に戻った。そうして本のページに手をかけたまま、長いあいだ、ぼんやりしていた。
 奇妙な魅力にいろどられた空想の切れ端が、幾度となく頭の中にひらめいては消えていった。火の国からやってきた使者。見渡すかぎりどこまでも広がるという、砂の大地。とびきり美しいという彼のオアシス……。
 明日も来ようと、使者はいった。ならばそのときに、何をたずねよう。今度はよく考えておかなければならない。知りたいことは限りなく、そう、星の数ほどあった。
 星の数ほど(セイラ・ウェルヤ)という言い回しを、そういえばわたしは、この勉強室にある古い書物の中で覚えたのだった。そういうひとくくりの言葉として覚えていて、語源なんて考えたこともなかったけれど、母さんのいう星とは、この星(ウェル)と同じものだろうか。
「トゥイヤ、そこにいるの?」
 その母さんの声がして、わたしはほとんど飛び上がるように椅子を蹴立てた。母さんがここにきたということは、もうかなりの夜更けということだ。使者の方々に夕餉を出して、その始末が終わるまでは、とても娘たちの様子を見にくるような暇は、ないはずだから。自分がとんでもなく長い時間、ぼうっと心を飛ばしていたらしいということに気がついて、わたしは驚いた。とっくに消えていた手燭に、母さんが新しい蝋燭を挿した。
「食べるものを持ってきたのよ」
 そういって母さんは、わたしの顔を、心配げに覗き込んだ。「姉さんたちのところに運んであったのに、食べにこなかったというから」
「ごめんなさい。本に夢中になっていたの」
 自分の声に、嘘の気配がにじんでいないか、ひやひやしながら、わたしはそう返した。
 そうして、ようやく気づいたのだけれど、お腹はとっくに空っぽだった。当たり前だ。朝の早い時間にここにやってきて、それからずっと食べることも忘れていたのだから。
 母さんが持ってきてくれたエトヤ豆のスープは、すっかり冷めていたけれど、どちらにしても、じっくり味わうような余裕はなかった。大慌てで流しこむと、ゆっくり食べなさいというお小言が降ってきた。
「ねえ、母さん」
 空っぽになったスープ皿を、母さんに手渡しながら、わたしはなんでもないふうを装って訊いた。「使者の方々って、どんなふうな人たちなの?」
「さあ。母さんは直接お会いするわけではありませんからね」
 なあんだと、思わずがっかりした声を出すと、母さんの目がつりあがった。
「こっそり広間をのぞいてみようなんて、思ってないでしょうね」
 大慌てで首を振ると、母さんはいっとき疑わしげにわたしを見下ろしていた。それからふっと、短いため息を落とした。
「そんな愚かな真似をするほど、もう小さい子どもではないわね?」
 はい、と生真面目な顔をとりつくろって頷くと、母さんはもう一度、今度は長いため息をついた。
「あなたはほんの小さなころから、好奇心が強すぎて、お母さんはいつも苦労のしどおしでしたよ。……今日はもう遅いわ。裁縫室の姉さんたちのところにいなさい」
「……はい。でも、明日もここに来ていいでしょう? 読みたい本がたくさんあるの」
 母さんが渋い顔をするのに、慌てて言いつのった。「だって、ふつうのときは、こんなに一日中勉強室にいられる機会なんてないもの」
 裁縫室などは、そもそも女たちしか使わないけれど、勉強室はそうもいかない。というよりも、むしろここは本来、男の人たちが使うための部屋なのだ。それを、彼らの用のないときに、わたしたちが使わせてもらっているというのが正しかった。
 導師は里のみんなの先生だから、ここには色々な人がやってくる。毎年ユヴの月になると、大人になる手前の年頃の少年たちが導師のもとにあずけられて、さまざまのことを学ぶ。けれどそれ以外のときにも、何かあると皆、導師の知恵をあおぎに、ここまでやってくる。水場のようすがおかしいときにも、作物の出来がよくないときにも、複雑な諍いが起きてしまって誰もが仲裁に困るときにも。
 そして、そうやって導師を頼ってくる人たちのほとんどが、男の人だ。それだから、わたしたち女は、あまりここに長くはいられない。
 母さんは肩を落として、けれど、頷いてくれた。「いいでしょう。でも、少しはお裁縫の練習もなさいね」
「ありがとう、母さん!」
 わたしは思わず声を上げて、母さんの細い肩に飛びついた。それを慌てて受け止めながら、母さんは苦笑した。
「ほんとうに、あなたは本が好きなのねえ」
 その呆れた、けれど優しい声を聞きながら、ほんの少し、気が咎めるような気がした。
 けれど本当のことを口にしてしまえば、叱られてすむような話でないのはわかっていた。だから、素直にはしゃぐふりをして、わたしは裁縫室へと向かった。
 裁縫室の戸口をくぐると、姉さんたちは皆そろって、仮の寝床の支度をしていた。わたしたちがいつも使っている部屋にいくには、使者の方々をお泊めしている部屋のそばを通らなくてはならないので、予備の敷布や毛布や枕を、あらかじめ運びこんでいたのだった。
「ずっと見かけないと思ったら、また本なんか読んでたの?」
 そういったのは、二番目の姉――三月ほど前にそれまで長く一番年上だったイラバが嫁いだことで、二番目に年かさになった、カナイだった。その声には嘲笑のひびきがあって、いつもだったらかちんときているところだったけれど、わたしはこのとき、半ばうわの空だった。「ええ、そうなの。つい夢中になってしまって」
「本なんて、何が面白いの」
 信じられないというふうに、カナイはいった。「まあ、あんたは導師のお気に入りだから、点数稼ぎをするのもわかるけれど」
 姉がそういう底意地の悪い口をきくのは、いまに限ったことではなかった。それにまともに反論することは、とっくの昔に諦めていた。本の中に記されているものごと、たとえば古い時代の人々の暮らしや、これまで作物を改良してきた一々の工夫、物語の中の神々や乙女たちのようす、そうしたものがどれほど面白いかということを、わたしがいくら言葉を尽くして語っても、姉の心にはそれらの事は、ちっとも響かないらしかった。
「どんな本を読んでいたの?」
 とりなすようにそういったのは、三番目の姉だった。
「すごく、古いお話。わたしたちの祖先が、この里へ移り住んできたときの。姉さんは聞いたことがある?」
 姉はあいまいに首を傾げた。
「さあ、あったかもしれないわね」
 わたしは落胆した。母さんはしばらく忙しいし、姉さんたちが知っていれば、記憶の中の母さんの話や、書物のなかの物語と比べられるかと思っていたのだ。というのも、わたしの記憶のほうが、母さんの話と違ってしまっているかもしれなかったので。なにせわたしは幼い頃、とても夢見がちな子どもで、ときには聴いたお話の続きを、勝手に自分で作ってしまったりしていた。
「さあ、そろそろ寝ましょう。もう遅いわ」
 一番上の姉さんがいうと、下の姉さんたちもその言葉に従って、それぞれの寝床にもぐりこんだ。
 明かりが吹き消された。かすかなヒカリゴケの明かりだけが残る室内で、眼を閉じずに、ぼんやりと天井を見上げていた。
 ――いい声だな。
 使者はたしかにそういった。そのときの声が、きゅうに耳の奥に蘇って、わたしは暗闇の中で、ひとり赤面した。
 いい声ですって! 姉たちを起こして、話して聞かせたいくらいだった。けれどじっとこらえて、わたしは毛布のうえから自分の胸を押さえた。心臓の音があまりにうるさくて、姉たちに聞こえるのではないかと、心配になった。
 だけど、本当かしら。そう思ったとたん、浮かれていた気分が急速に沈んでいった。今まで声を人にほめられたことなんて、あっただろうか。姉さんたちは三人とも(嫁いだイラバもあわせれば、四人とも)、とても美しい声をしている。母さんや、ほかの姉さんの母さんたちだってそうだ。けれどわたし一人は、昔からちょっと低くてかすれた、あまり可愛らしいとはいえない声をしているような気がして、わたしはそのことをひそかに気にしていた。
 声の美しいのは、裁縫がじょうずなのと同じくらい、女にとっては素晴らしいことだと、誰だってそう思っている。そしてそのどちらも、わたしには持ち合わせがない。読み書きならばわたしが一番だなんて、そんなふうに強がってみせても、ちっとも気にしないでいられたわけではなかった。
 いい声だといったあの言葉は、もしかしてただのお世辞だったのだろうか。ひとたびそう疑ってしまうと、もうそうとしか思えなくなった。
 だけど、火の国の女の人たちは、わたしたちと声の感じが違うかもしれない。その思いつきに、わたしは縋った。
 目の見え方が違うというくらいなら、耳の聞こえ方だって、ずいぶん違うのかもしれない。そんなふうに、わたしは自分を慰めた。わたしたちにとってはそれほど良い声ではなくても、使者様の耳には、きれいな声に聞こえたのかもしれない。
 けれど、その考えがただの慰めだということは、自分でよくわかっていた。
 使者さまは、ほかにどんなお話をされていたかしら。
 落胆から自分の考えを逸らそうとして、わたしは記憶をたぐった。私たちの目が、暗いところでは青く光ると、使者はいった。たしかに人の目は、暗闇のなかではかすかに光るけれど、火の国のひとたちは違うのだろうか。
 彼らの瞳は、どんなふうだろう。わたしたちとそんなに違うのだろうか、形は、色は?
 ああ! たったひとこと、訊いてみればよかったのだ。あなたの瞳は何色をしているのって。いまさらのように気づいて、わたしは自分のうかつさを悔いた。
 明日、訊いてみようか。ああ、でも、それこそはしたないと思われるだろうか。
 それより、使者さまはほんとうに明日、勉強室までやってこられるのだろうか。急に不安になって、わたしは胸をぎゅっとおさえた。誰にも見つからず、じょうずに広間を抜けだしてこられるだろうか?
 もう眠らなければと思うほど、目はますます冴えて、わたしはじっと天井に目を凝らしていた。ヒカリゴケの明かりにも、時間によってわずかに強弱がある。夜にはいくらか暗くなって、よくよく目を凝らさなければ、部屋の中の様子はわからない。
 姉さんたちの寝息を数えながら、ようやくうつらうつらしては何度も目が覚めて、そうこうしているうちに、やがて遠くから、夜明けの鐘が響いてきた。
 はれぼったい目をこすりながら、寝床から這い出すと、姉さんたちの誰かが明かりを灯した。
「あーあ、たいくつねえ!」
 食事の支度をしながら、カナイが叫んだ。三日間ものあいだ、外に出ることも許されないというのは、たしかに姉さんの性分には合わないだろう。
 カナイは裁縫がじょうずだけれど、けして好きではないのだ。いつだって、とてもつまらなさそうに針を使っている。それでも、その手は魔法のように針をあやつって、あっというまに布地にきれいな刺繍を縫いつけてゆく。それなのに裁縫が好きじゃないなんて、わたしには不思議でしかたなかった。あれくらい上手にできれば、わたしだって裁縫が好きになっただろう。
 母さんが夜のうちに持ってきてくれた食べ物は、まだたくさん残っていた。四人でそれを等分して、いつもよりゆったりとした朝食が始まった。
 この三日間、洗濯は母さんたちがかわってくれるし、菜園の世話も、ほかの子たちに頼んである。閉じこもらなくてはいけないのは、このお邸の娘たち、わたしたち四人だけなのだ。あとの子たちはこのお邸に近寄らないようにして、ふつうに過ごしている。
 姉たちはそれぞれ、いまやっている手仕事の相談などをしながら、ゆっくり食事を味わっていた。けれどわたしはひとり、いそいで口の中に食べ物を詰め込むと、さっさと立ち上がった。
「勉強室にいるわ」
 そう声をかけると、姉さんたちの間からため息と、からかうような笑い声がそれぞれに上がった。
 カナイの意地の悪い視線を横顔に感じたけれど、わたしは気にせず、くるりと背を向けて部屋を出た。あきれられはしても、誰も止めないとわかっていた。
 廊下を小走りに駆け抜けると、わたしは勉強室の前で足を止めた。そうしてひとつ、息を吸い込んだ。
「どなたか、いらっしゃいますか」
 返事がないのを確かめて、念のためもう一度、声をかけた。返事がないと思えば、中にいるひとが本を読むのに夢中になっていて、気づかなかったということもある。何年も前に、それで一度、恥ずかしい思いをしたことがあった。
 前の日は、今の時期ならばまさか誰もいないだろうと思っていたので、声さえかけずに入ったけれど、本当ならそれはとても無作法なことだ。まして、先にあの方がいらしているかもしれないのに、同じことをする度胸はなかった。
 手燭に気をつけながら戸口の布をくぐり、静まり返った勉強室に入った。
 書き物机の上に手燭を置くと、ごとりと重い音がした。石の机は、何百年もここで使われ続けているうちに磨り減って、天板がまっすぐではなくなっている。手を放しても手燭が傾かないことを確認して、わたしは奥の書棚に向かった。
 本に読みふける気にはなれなかったのだけれど、もし誰かが様子を見にやってくることがあれば、そのときに何もせずにぼんやりしているというのも、言い訳に困るような気がした。
 この日も涼しく、前日のように霞が出てはいなかったけれど、人のいない部屋の空気は、ひんやりしていた。適当に選んだ古い書物を持って、わたしは机についた。そうしていっとき、表紙を開いたり、また閉じたりしていた。
 けれど使者は、なかなかやってこなかった。わたしはやがて、自分を落ち着かせようと、本のページをめくりはじめた。そうしていっときの間、ちっとも頭に入ってこない文面を流し見ていた。
 途中、はっとして手を止めたのは、火の国という文言が目に飛び込んできたからだった。
 ――火ノ国ヨリ来タル使者、数ハ七、何レモ天ヲ突ク偉丈夫ニテ、頭髪マタ眼ハ黒色、膚モ暗キ色ヲシテ、古ノ作法ニテ祝詞ヲ述ベ……
 とても背が高い人たちなのだわ。そう思うと、なんだか妙にそわそわした。昨日の使者も、ここに書かれているような姿をしているのだろうか。それともこの記録のときにいらしたのが、たまたまそういう方々だったのだろうか。
 これは何年前の記録だろう。文体の古めかしさからして、二百年か三百年前、あるいはもっとだろうか。代々の導師が残しておられる正式の記録ならば、冒頭に必ず日付が記されているのだけれど、この書物はどうやら誰かの私記、ちょっとした覚え書きをまとめたもののようだった。
 なかなか見つからない日付をさがすことを諦めて、もとのページに戻った。続きには、そのときの里の状況が記されていた。
 ――其ノ節、草苗ノ病アリ、麦実ラズ、餓エニ因リテ死スル者数拾余ノ折、使者ノ下サレシ麦、乾酪ナル食物、干シタル果実等、数多ニテ、長、跪キテ謝意ヲ述ベ……
 ぎくりとして、わたしは文字をなぞる手を止めた。
 とても、偉い方々なのだわ……。ようやくそうした実感がわいてきた。昨日の自分の物言いを思うと、冷や汗が出るようだった。長がひざまずいて礼を述べるような方々なのだ。導師よりも、長よりも、もっと偉いひとたち。
 そのときト・ウイラのほうから足音が近づいてきて、わたしはびくりと肩を竦めた。
「中にいるか?」
 前の日に聴いたのと同じ、やわらかな声だった。今度はト・ウイラのほうから、見当をつけてやってきたらしかった。もしかすると、誰かにヤァタ・ウイラの意味を教わったのかもしれない。
 あれほど使者の訪れを望んでいたにもかかわらず、わたしは戸口に駆け寄るのをためらった。ひと呼吸、いや、ふた呼吸だろうか。声も出せずに息を呑んでいると、ふたたび声がした。「――まだ、来ていないか」
 呪縛を解かれたように、わたしは立ち上がった。
「使者さま」
 どうにか振り絞った声は、自分でわかるくらい、震えていた。
「なんだ、いたのか。……どうかしたのか」
 使者の声は訝しげで、そこには怒っているような気配はなかったけれど、それでもわたしは肩を縮めた。
「その、わたし、昨日は失礼な口を……」
 いいかけた言葉が途中で細って、消えた。布越しに、使者が笑う気配がしたのだった。
「なんだ、今日はずいぶんとしおらしい声を出す」
 からかうようなその声は、優しかった。「気にすることはない。どうせ、ほかに誰が聞いているわけでもないのだから」
 そう悪戯っぽく笑う声に、心臓が撥ねた。ああ、秘密という言葉は、どうしてあんなにどうしようもなく魅力的に響くのだろう?
「だけど――」
 まだためらうわたしを制するように、使者はいった。
「それに、俺も、お前の話に興味がある」
 はっとして、わたしは顔をあげた。使者の気配は、たしかに生身の人のそれとして、布一枚隔てた向こうにあって、わたしの言葉を待っていた。
 もう、無理に振り絞らなくても声は出た。
「ほんとう?」
「そんな嘘をついてどうする」
 使者の声は、まだ可笑しそうに笑っていた。
 ようやく胸のつかえがとれると、訊きたいことが、いっぺんに体の底からあふれてきた。けれど、その勢いがあまりに強すぎて、わたしはかえって言葉を詰まらせた。
 やがて使者のほうから、何気ないふうに口を開いた。
「先ほど、お前たちの畑を見せてもらった。土の畑と、水耕池のほうと。なかなか美しいものだな。水がいいのか、土がいいのか……。あのようなわずかな陽射しで、よくあれほどの作物が作れるものだ」
「わずか?」
 素っ頓狂な声が出て、わたしはとっさに自分の口を押さえた。大声を出したら、姉さんたちに聞こえるかもしれなかった。
 わたしが驚いたことに、使者は戸惑ったようだった。
 男の人たちが世話する畑を、わたしは見たことがないけれど、女たちの管理する菜園と、それほどつくりは違わないと聞いていた。
 菜園には毎日きまった時間、目の眩むようなまばゆい光が降り注ぐ。光輝の神の恩恵だというその白い光は、作物が育つには不可欠のものではあるけれど、同時に、恐ろしいものでもある。眩しすぎるのだ。不用意に昼間の光を見つめすぎて、失明してしまったという人さえいる。
 それを、わずかな光だなんて。驚きの波が弱まると、持ち前の好奇心が、胸に突き上げてきた。
「火の国は、昼間の畑よりももっと明るいのね?」
 使者は、あっさりと頷いた。
「地上では、むしろ陽の光は強すぎて、水を干上がらせ、草木を枯らせてしまうのだ。といって、陽がなければそもそも作物は育たない。水さえもっとあればと、いつも思う」
「水……」
 わたしが呆然と呟くと、使者は苦笑まじりに続けた。
「地上にここのような、豊かな水があれば。あるいはここにもっと明るい陽射しが入れば、どれほど豊かな実りが望めるだろうかと思う。ままならぬものだ」
 ため息のようなその言葉は、わたしに、一冊の書物を思い起こさせた。古くから続く、作物についての綿密な記録、そこに記された、途方もないような工夫の積み重ねを。
 わたしは記憶を手繰りながら、そのことを使者に話した。魚の脂を利用して作る肥料。いくつもある畑の、光の射す具合に応じた作物の選択。同時に近くに植えるものの組み合わせ。ひとつの作物を収穫したあとは、続けて同じものを作らないこと。そのうえで一年を通して実りの偏らぬよう、細かく計算して作られた暦。あるいは間引きの時期や病害への対処……。数え上げればきりのないような、そうしたさまざまの手順を、いまある形に整えるまでに、どれほどの苦労と積み重ねがあったかということ。
 豊穣の神は、ただ恩恵を伏して待ち、己の知恵を尽くそうとしないものには、けして加護を与えてはくださらないと、その記録の序文には、記されている。そうしたことを話すうちに、使者が小さく唸った。
「たいしたものだ。そうしたことを、すべて書物で学んだのか」
 その声の、感心したような調子のなかに、子どもにしてはというような含みを感じて、わたしはちょっとむくれた。
「あなたが思っているほど、わたし、小さな子どもじゃないわ」
 その抗議に対して帰ってきたのは、笑いぶくみの謝罪だった。「これは失礼した」
 それがいかにも子どもをなだめる調子だったので、わたしはますます拗ねて、自分の沓(くつ)のつま先を握りしめた。そうしてから気づいたのだけれど、わたしのほうから使者の影がうっすらと見える以上に、机上に置いた手燭のあかりは、わたしの影を垂れ布へと投げかけているのに違いなかった。
 気づいてみれば、座り込んで身を乗り出している自分の格好は、話をせがむ小さい子どもそのままだった。きゅうに頬が熱くなった。きちんと座りなおして姿勢を正すと、布越しに、またかすかな含み笑いが届いた。
「このような場所に、ずいぶん多くの人が暮らしていられるものだと、不思議に思ってはいたのだが」
 感心したように、使者はいった。わたしははっとして顔を上げた。
「けれど、人の数は……」
 いいかけて、わたしは口ごもった。その先を口に出すことが、恐ろしかったのだ。それは、これまで誰にもいったことのない話だった。
「どうした?」
 わたしはためらい、けれど、結局はそれを口にした。
「人の数は、少しずつ減っているの」
 そのことを、このときまで誰にも話したことはなかった。導師にさえも。訊いてはならないことではないかと、そういう気がしたので。だからなるべく、意識に上らせないようにつとめていた。
 だけど、わたしはずっと、怖かったのだ。誰かに不安を打ち明けたかった。口に出して、ようやくわたしはそのことがわかった。
 その怯えは、声にもにじんでいたのだろう。使者はなだめるような声でいった。「どれくらい減っているのか、わかるか」
「三百年前には千二百あまりの人がいたと、記録には残っているわ。それが少しずつ減っていって、いまでは、もうじき千を割る」
 ほかの誰も、そのことを憂いているような素振りがないことが、わたしには怖かった。どうして誰もそのことに気づかないのかと、そう思ったこともあったけれど、しかし目に見えてどんどん人が死んでいるというわけではなく、それは長年にわたるゆっくりとした変化だったから、普通にしていれば、気づかなくても無理のないことなのかもしれなかった。
 けれど、このままずっと人が減り続けていったら? 百年後はまだ大丈夫かもしれない。でも、五百年、千年が経てば?
 抱え込んでいた不安を吐き出して、わたしはようやく口をつぐんだ。使者は、いっとき沈黙したあとに、ようやくいった。
「そうしたことを、誰に教わった?」
 誰からも、とわたしは答えた。わたしは何年も前から、導師が記録をつけたり、写本を作ったりされるのを手伝っていた。そうした中で、あるときそのことに気づいた。それから古い記録を辿っていった……。
 なかなか返事がかえってこないので、わたしはますます不安になって、自分の服の裾をきつく握りしめた。やはり、口に出してはいけないことだったのだろうか。それとも、使者が気を悪くされるようなことを、なにかいってしまったのだろうか。
 やがて使者は、半ばひとりごとのように呟いた。
「智というのは、こうしたものなのか」
 その声は、何かに驚いているようだった。その反応をどう受け取ったらよいのかわからなくて、わたしは戸惑った。どうやら自分が褒められているらしいということにも、すぐには気づけなかった。
「十年後にオアシスの水が枯れることをおそれる者は、いくらでもいる。だが、男たちのうちでどれほどが、千年先の部族の行く末に、思いをめぐらせることができるだろう?」
 その声は、どこか熱を孕んでいた。
「それにしても、たいしたものだ。ファナ・イビタルならば、そうした記録の管理は通常、部族の中でも特に選ばれた男たちが任されるものだが」
 わたしはそのあたりでようやく自分が褒められていることに気づいたけれど、喜ぶよりもむしろ、うろたえた。やはり、自分のようなものがこうしたことを口にするのは、分をわきまえないことなのだ。それだけがはっきりとわかった。
 すっかり黙り込んでしまったわたしに、ようやく気づいたのだろう。こちらの様子をうかがうように、使者の影が揺れた。
「どうした?」
「わたしは何も、そんな……」
 その声は、よほど萎縮していたのだろう。使者はふっと、我にかえったようだった。
「いや、驚かせてすまなかった。何も咎めてはいないのだ。ただ、そうだな。もしお前が……」
 いいかけて、使者は口をつぐんだ。「いや……、なんでもない」
 使者はあのとき、なにをいいかけたのだろう。わたしは語られなかった言葉の先を、想像した。もしわたしが、男だったなら? それとも……
 もしわたしが、火の国の人間だったなら?
 なぜ自分が、そんなことを思いついたのか、自分でもわからなかった。けれど、その思いつきは、思いがけないほどの強さでわたしの胸を掴んで、激しく揺すぶった。
 もしも。
 それはひどく荒唐無稽な空想だった。もしも自分が神様だったならと、幼い子どもが思い描くのと、なんら変わらない。その上、そう――とても不遜な考えでもあった。
 けれど、子どもが夢想することを、誰に止められるだろう? わたしはその頃、まだ幼かったのだ。少なくとも、子ども扱いをされてむっとするくらいには。
 わたしの内心の葛藤には気づかないようすで、使者は感慨深げに続けた。
「ファナ・イビタルの族長の邸にも、書庫はあり、教師はいる。その門戸はつねに開かれている。学ぼうと思えばその機会はあったのに、俺はそうしたことに、ほとんど興味をもとうとしなかった」
 使者はそういって、ため息をついた。わたしは我にかえって、使者の言葉に耳を傾けた。
「そうだな。お前の年の頃には、ただ剣の腕を磨くことばかりを考えていたように思う。そのほかに学ぶことといえば、迷わず砂漠を渡るための知恵くらいで……」
 つい可笑しくなって、わたしはくすりと笑った。「きのうはお邸の中で、迷っていらしたのに?」
 考えてみれば、それこそ不敬も甚だしい言い分だったのだけれど、使者はちょっと苦笑しただけで、怒りはしなかった。
「このような暗さではな。星さえ読むことができたならば、砂漠のどこであっても、迷いはしない」
「星? いま星と仰った?」
 驚いたわたしは、とっさに身を乗り出して、廊下と部屋とを隔てる布を掴んだ。その剣幕に驚いたのか、使者がのけぞるような気配があった。「どうかしたのか」
「星を、知っているの?」
 わたしの声は、よほど興奮していたのだろう。使者は面食らったようだった。けれどわたしの頭の中は驚きでいっぱいで、恥じる余裕もなかった。
「知っているも何も……ああ、そうか。星を、見たことがないか」
 言葉を切って、使者はなぜだか、答えをためらったようだった。けれど少しの沈黙のあとに、返事があった。「ああ。よく知っている」
「教えて。それは、火の国にあるものなの?」
 そうだ、と使者はいった。
「どう説明したものか……。星というのは、天に輝くしるべなのだ。夜ごとに遥か高い空にあらわれる、小さな光の粒だ」
 使者はまたそこで言葉を切って、少し考えるようだった。待ちかねてわたしが身を乗り出していると、かすかに笑うような気配があった。けれど今度は、むくれるような余裕はなかった。
「夜になると、数え切れないほどたくさんの星が、空いっぱいに輝きだす。それが時のたつにつれて、ゆっくりと頭上を巡ってゆく。ひとつひとつはとても小さいが、ほかの何よりもたしかな輝きだ。砂漠を旅するものを、つねに導いてくれる」
 その光景を、わたしは頭のなかに思い描こうとしたけれど、それは成功したとはいいがたかった。
「天井に光るしるしが描かれているの? ト・ウイラの壁に、二本の線が刻まれているみたいに?」
 答えに迷うように、使者がかすかに首をかしげるのが、うっすらと布にうつる影と、空気の動く気配でわかった。「まあ、そのようなものだ。星は、ひとが作ったものではないが」
 驚いて、わたしは目を丸くした。「では、誰が作ったの?」
「さて。色々な話がある」
 使者はまた少し考えてから、ゆっくりと、いくつかの物語を語りだした。
 ――砂漠で迷って死んだ男がいた。干からびたその遺骸を見たひとりの賢者が、死したる旅人を哀れんで、その手にしていた杖を掲げると、それが空高くへまっすぐにのぼり、煌々と輝くみちしるべとなって、以来、砂漠を渡るものを末永くたすけるようになった。
 ――あるオアシスにひとりの鍛冶師がいた。男は妻を大変に愛し、仲睦まじく暮らしていたのだが、その腕があまりにすばらしかったために、あるとき神々の目に留まり、星を鍛える者として天に召し上げられてしまった。男の妻はひどく嘆いて泣き暮らし、夜毎に神々を呪った。天高くからそのようすを見ていた夫は、一夜にひとつの星を地上へと流し、妻への慰めとした。
 ――銀を巧みに磨いてうつくしく輝かせる、とびきりのわざを持った細工師がいた。それを知ったずる賢い商人が、細工師をだましてその粒を安くで買いたたいた。商人は粒を持ってほかの人々のところへ行き、高く売りつけようとした。これは地上に落ちた星であり、手にすれば願いが叶うと、そんなふうに騙って。最初の客を騙そうとしたその夜、たくさんあった銀の粒はすべて、音もなくひとりでに商人の手を離れて、そのまま天高く上っていった。呆然と見上げる商人の前で、それらはほんものの星になってしまった。
 どれも、聴いたことのない話ばかりだった。わたしは息をつめて使者の話に聞き入った。途中、何度もこの話を書き留めることが許されるなら、誰かに話して聞かせることができるのならと考えた。
 星というものは、小さな光の粒なのだと、使者は教えてくれたけれど、その色やあかるさは、ひとつひとつ違っているらしかった。
 話を聞きながら、わたしはたくさんの光の粒が頭上に輝いているところを、なんとか想像しようとしてみた。けれど、それらの印象はいつのまにか、見慣れたヒカリゴケの明かりと、重なってしまうのだった。
 星はゆっくり動いているというけれど、いったいどうやって動くのだろう。星というのは、生きているのだろうか。
 けれどそうたずねる前に、影が揺れて、衣擦れの音がした。
「もう行ってしまうの?」
「ああ、そろそろ戻らねば。来年の荷のことも、導師殿と、もう少し打ち合わせねばならないのでな」
「明日もお話しできる?」
 使者は、少し困ったようだった。「いや。明日は、出立の支度で忙しい」
「そう……」
 肩を落として、わたしは唇を噛んだ。引き止めたかった。もっと色んな話を聴きたかった。けれどそれが、ひどくわがままなことだというのは、自分でもわかっていた。
 わたしはじっと、垂れ布越しにかすかにうつる影を見つめていた。引きとめるまいと口をつぐむのでせいいっぱいで、旅の無事を祈る言葉どころか、話を聞かせてくださったことへの礼さえ、口にできなかった。
 やがて、影がゆれた。
「それでは、達者でな」
 使者は今度こそ、立ち去るようだった。その足音に縋るように、わたしは声を上げていた。
「お名前を、教えてくださる?」
 足音が止んだ。
 ほんのわずかなためらいのあとに、使者は名乗った。「ヨブ。ファナ・イビタルの、ヨブ・イ・ヤシャルだ」
 ――ヨブ。その名をけして忘れないように、わたしは口のなかで繰り返した。どこに書きとめるわけにもいかないと、重々承知していたので。
「――知恵の女神の娘よ、お前の名はなんというのだ」
 その大それた呼びかけを、畏れ多いと感じるだけの気持ちの余裕さえなかった。わたしは慌てて名乗った。「トゥイヤ」
「いい名前だ」
 使者は、ほほえんだようだった。顔を見たわけではないけれど、その言葉に、やわらかな笑みの気配が滲んでいた。
「お前の名もまた、星にちなんでいるようだ」
 わたしはひどく驚いた。トゥイヤというのは、はるか昔、空に星がまだなかったころの世に、いちばん最初に輝くようになった星なのだ。ヨブはそう説明してくれた。
 まだわたしが驚きから醒めないでいるうちに、ヨブはいった。「エルトーハ・ファティスのトゥイヤ。また会おう。来年の、サフィドラの月に」

 使者の足音が遠ざかり、すっかり聞こえなくなってしまうと、彼がそこにいたという痕跡は、やはり何も残ってはいなかった。
 ヨブ・イ・ヤシャル。聞きなれない響きの名前の気配だけが、古い書物のにおいと混じって、部屋の中に、まだ漂っているような気がした。
 話していた時間は、どれほどのものだっただろうか、あっという間に過ぎたようにも思えたし、百年も話しこんでいたようにも感じられた。
 トゥイヤ。使者がわたしの名を呼んだ、その抑揚が、耳に残っていた。彼が口にすると、ほんのすこし響きが変わって、まるで別の人間の名前のように感じられた。
 来年のサフィドラの月に。
 夢から醒めたように、わたしは目を瞬いた。長い時間おなじ姿勢で座り続けていたために、体はすっかりこわばっていたけれど、手のひらは火照って熱かった。
 ふらつく足取りで書き物机にもどると、短くなった灯心が、音を立てて炎を揺らした。


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