灼熱の海の向こう へ   小説トップへ   火の国より来たる者 へ



 ちょうどいまごろが、一年でもっとも星明かりの眩しい時節だ。ヨブはめざす南西の空を見上げて目を細めた。
 満天の星空の中、下弦の月が天頂をすぎて、ゆっくりと沈みゆこうとしている。西寄りの低い空、ふたつ並んで青白い光を放っているのはタ・ディハル《七の導きの星》。その位置を頭の中で暦と照らし合わせて、ヨブは夜明けまでの時間を数えた。今夜は少し、急いだほうがいいかもしれない。
 ヨブが歩調を早めると、忠実な驢馬は何の不満もみせずに従ったが、人間の連れのほうは、そうはいかなかった。
「急ぐのか」
 ひびわれ、枯れた声だった。慣れないせいで砂を吸い込んでしまうのだろう、歩きながら、ときおり不器用に咳き込んでいる。
「日干しになりたくなければな」
 ヨブが素っ気なく答えると、連れの男は苦笑をひとつ漏らして、急ぎ足になった。砂を踏む音に、疲労がにじんでいる。
 見れば、男は歩きながら震えていた。外套を羽織りなおして、男は白い息を吐いた。「寒いな」
 ヨブは肩をすくめた。これくらいは寒いうちに入らない。
「これほど寒いというのに、ひとたび陽が昇れば灼熱の地になるとはな。この目で見ても信じられない」
 そう呟いて、男は目をしばたいた。
 何を当たり前のことを、といいかけて、ヨブは言葉を発する前に気がついた。砂漠の外は、そうではないのだろう。
 男は砂漠の涯(はて)よりさらに遠く、はるか北の土地からやってきたのだという。砂漠に外というものがあることを、ヨブは知識として知ってはいるが、そのことが身に迫って感じられたためしはない。それほどヨブの知る砂漠は広大だった。不毛の海をのぞむ、南西の断崖を別にすれば。
「お前の郷(くに)では、夜は冷えないのか」
 退屈しのぎのつもりでそう訊くと、男は真面目な顔でうなずいた。
「もちろん、昼間に比べれば少しは冷える。だが、これほどではない」
 それから男は目を細めて、故郷の話をした。男の生まれた町は、山の中腹にあるのだという。怪訝な顔をしたヨブに気づいて、男が補足したところによると、山というのは、巨大な砂丘のようなものらしかった。ただし砂ではなく、湿った土と岩とで出来ており、その斜面には数え切れないほどの草木が繁っているという。人々は石と煉瓦ではなく、伐り倒した木で家を作る。
 その話の何から何までが、ヨブには眉唾もののように思えた。このあたりでは、雨は二月か三月に一度も降ればいいほうだし、木というものが、建物の材になるほど太く育つというのが、まず信じられない。
 だが口を挟みはせずに、ヨブは黙って男の語る風景に耳を傾けた。男がひどく楽しげに、それを語ったからだ。痩せた麦から丁寧に実を外す、年寄りたちの皺ぶかい手。高くそびえる樹々の、梢に繁るあまたの葉。その隙間から漏れる陽射し。その枝に、月が満ちるごとに実る酸い果実。競うように樹に登ってそれをもぐ子どもらの、泥に汚れた足の裏。
 そうした話を聴きながら、ヨブはオアシスで待つ息子たちのことを思った。この話を聞かせたならば、まだ幼い息子らは、どのような顔をするだろうか。
 彼から濃灰色の瞳を受け継いだ、三人の息子たち。それぞれの顔を思い浮かべて、ヨブは驢馬の背を撫でた。それから小さく首を振った。彼らに再会できる日は、ずっと先のことだ。道行きは長い。


 いかにも異国の風貌をしたこの男が、ヨブの部族が暮らすオアシス、ファナ・イビタルを訪れたのは、三日前、イディスの月の七日の出来事だった。
 それは部族にとって重要な聖祭日、一年の降雨を祈願する祭りの日だった。この日にオアシスを訪れるものは、鳥であれ獣であれ、大変に縁起がいいとされ、古来、殺生を固く禁じられている。
 くたびれた外套をまとった男は、隊商からはぐれたのか、あるいは驢馬を失ったのか、たったひとりでわずかばかりの荷を背負って、よろよろと歩いてきた。それでも水と食べ物を与えられて顔色を戻すなり、驚くほど必死に人々の間を乞うて回った。砂漠の涯にあるという灼熱の海へと、誰か、案内してはもらえないだろうかと。
 オアシスは騒然となった。その海岸そのものは、何も特別な禁忌の地というわけではない。だがそこは、部族の聖域にほど近かった。よそものが訪れたいといって、けして歓迎される場所ではない。男がやってきたのがその日でさえなければ、物騒な話になっていてもおかしくはなかった。
 しかし男はほかでもないその祭日にオアシスを訪れたのだし、その上、真摯に彼らの助力を乞うたのだった。どこで身につけてきたものか、それはたどたどしいながらも砂漠の部族であればどこでも通用する、正式な作法にのっとった請願だった。また、男はその無理な願いにふさわしいだけの報酬を積んだ。
 古来より交易で身を立ててきたファナ・イビタルの男たちは、砂漠の案内人として名高い。その知恵を頼んでやってくる者は珍しくもないが、それにしてもこのような妙な出来事は、そうあるものではない。
 だが、ヨブの知っている限りでは、かつて一度だけ、似たような来訪者があった。その男もやはりイディスの聖祭日にオアシスを訪れ、灼熱の海への案内を乞うた。もう十年も前のことになる。
 そのときの男を案内したのが、ヨブだった。十年を経て、奇妙な類似を思わせる二人目の男がやってきたことを知ったとき、ヨブは喧騒に満ちた広場の隅で、眩暈を覚えて立ちすくんだ。
 その晩、長が呼んでいると遣いの男が告げたとき、ヨブはその呼び出しが来ることを、なかば予期していた。できることならばその予感が外れてほしいと願いながら。だが夜更けになって、遣いはやってきた。不安げな顔をする末の息子の肩を叩いて、ヨブは急ぎ足に長の邸へと向かった。
 ――入るがいい。
 声にしたがって垂れ絹をくぐると、銀糸で施されたきらびやかな刺繍が、視界の端に尾を引いた。
 常にそうであるように、部屋の脇には二人の番兵が控えていた。ヨブは視線を伏せたまま、部屋の半ばまで進み出た。奥にしつらえられた椅子の主を、直視することが耐えがたかった。ヨブは頭を垂れたまま、長の言葉を待った。
 ――奇妙なものだ。
 長は重々しくいって、言葉を切った。それから、ヨブが身じろぎひとつしないのを確かめるように、じっと見下ろす気配があった。
 長すぎる沈黙のあとに、長は言葉を続けた。
 ――あのような不毛の海へと、案内を請う男があらわれるとは。それも二人目だ。
 ヨブは相槌をはさまなかった。うなずきもしなかった。ただ伏せた顔の下で、床を凝視していた。敷き詰められた数え切れない日干し煉瓦、そのひとつひとつに職人の手によって彫られた、精緻な彫刻を。
 表に出すことを許されない反発の、それが精一杯のあらわれだった。だが、長がそうしたヨブの感情に気づいているとは、とうてい思えなかった。長がおもむろに椅子から立ちあがる音が、ヨブの耳に届いた。
 ――ヨブ・イ・ヤシャル。お前ならば、今度もまた、立派につとめを果たしてくれるだろう。
 それはすでに定められたことがらを語る声だった。
 たとえ脇に控える番兵がおらずとも、逆らうことなどできるはずがなかった。無言のまま顔を上げると、長の掛けていた椅子、その肘置きに施された装飾が、まっさきにヨブの目に飛び込んだ。それは床の彫刻と同じ短刀の意匠で、部族の威をあらわすものだ。
 長はじっとヨブを見下ろして、皺ぶかい顔に微笑を浮かべていた。それはいかにも、部族の優秀な若者に期待をかけているというような表情に見えた。ただその中で、濃灰色の眼だけが、ひどく温度の低い光を宿していた。
 ――亡き父の、名誉にかけて。
 ヨブは低く答えて、長の顔を見つめたが、その表情には、欠片ほどの変化も見られなかった。立ち上がり、ヨブは一礼して踵を返した。
 日取りを考えれば、翌日の晩には発たねばならなかった。すぐに退出しようとしたヨブの背中を、低い声が追いかけてきた。
 ――わかっているな。
 振り返ると、長はもう微笑を浮かべてはいなかった。ヨブはうなずき、振り返らずに部屋を出た。背中にいやな汗をかいていた。悪夢にうなされたあとのように。
 次の夜には、ヨブは旅支度をすませて、驢馬の一頭を借り受けた。そうして会ったばかりの男と二人、はるかな旅路についた。


 十年前に涯の海へ導いた旅人と、いまヨブの隣を歩く男の顔立ちは、どこか似通っているように、ヨブの目には映った。異国の者はたいてい似たり寄ったりの顔に見えるものだが、もしかするとそればかりではなく、出身が近いのかもしれなかった。
「お前、名はなんというのだったか」
 いまさらのようにヨブが問うと、男は困惑したふうに目を瞬いた。
「悪い。すっかり名乗ったつもりになっていた」
「いいや。皆の前で名乗るのを聞いていたが、覚え切れなかった。音が、耳になじみがないから」
 ヨブがそういうと、男はああ、とうなずいて、気を悪くしたようすもなく名乗りなおした。
「俺の名はアシェリという。故郷では、風を意味する言葉だ」
 アシェリ。口の中で二度呟いて、ヨブはうなずいた。
「今度は覚えた」
 それを聞いた男は、歯を見せて人懐こく笑った。
「あんたのヨブという名には、どういう意味があるんだ」
 ヨブは面覆いの下で、わずかに顔をしかめた。それに気づいたのか、アシェリは困惑したふうに首をかしげた。
「俺は何か、失礼なことを訊いただろうか」
「いや。ヨブというのは、鳥の名前だ」
「へえ。気に入っていないのか」
「そうではないが。どうせなら父も、もう少し逞しそうな名をつけてくれればよかったのにとは思う」
 ははあ、とうなずいて、アシェリは笑った。「なるほど、たしかにあんたには、もっと強そうな名前が似合うかもしれないな」
 肩をすくめながら、ヨブは奇妙な既視感を覚えていた。十年前の道行きで、似たような会話を交わしたのだった。
 あのときの男はイーハと名乗り、アシェリがそうしたように、続けてその名の意味するところを説明したのだった。それは男の育った土地の言葉で、夜明けを意味する名だということだった。
 いわれてみれば、男の眼は、黎明の空を思わせるような紺青色をしていた。しかしヨブがそういうと、イーハは怪訝そうに首をかしげた。そうだろうか。そのようにいわれたことはなかったが。
 やがて旅の途中、明けゆく東の空を見て、イーハはようやく腑に落ちたようにいった。なるほど、砂漠の夜明けとはこうしたものなのか。長年さまざまな地を旅してきたが、このような空を、初めてこの目に見た。俺の父親の生まれは砂漠地帯のどこかだと聞いていた。お前のいうように、この空を思って、俺にこの名をつけたのかもしれないな。
 ほかでは言葉少なだった男が、ゆいいつ自ら長く語ったのが、その話だった。男はいかにも異国の者らしい風貌をしていたが、それでも黒い髪と浅黒い肌とを持っており、砂漠の民族の血を引いているといわれれば、うなずけないことはなかった。
 十年前のあのとき、あの異国の男を連れて歩いた旅路で、ほかにどのような話をしたのだったか。ヨブは口をつぐんで、遠い記憶を探った。静かなまなざしをした男だったのが、印象に残っている。寡黙で、ぽつりぽつりと切れ切れに言葉を落とした。
 アシェリはしばらくのあいだ、ヨブの沈黙につきあっていたが、ふと思い立ったように、慣れない手つきで驢馬の背を撫でた。
「それにしても、こいつは変わった馬だなあ。前に通った町でも、何度か似たようなのをみかけたが、砂漠の馬は、みなこのような姿をしているのか」
 ヨブは振り返って、思わずアシェリの顔をまじまじと見上げた。表情を見る限りは、どうやら真面目にいっているらしかった。
「お前、驢馬を知らないのか」
「へえ。これは驢馬というのか。なかなか愛嬌のある顔をしている。こいつの名前は、なんというんだ」
「驢馬に名前などつけるものか。……お前、驢馬もしらずに、どうやってファナ・イビタルまでたどりついたというのだ」
 思わず強い剣幕で問いただすと、アシェリは肩をすくめた。
「金がなかったのだ。あんたたちへの謝礼をかき集めるだけで、精一杯だった。あんたたちの町へ向かう星のたどり方は、ひとつ手前のオアシスで、地元の少年に教わったのだが」
 それでも最後の一日は水も食糧も尽きて、あやうくのたれ死ぬかと思った。アシェリはあっけらかんとそういった。
「それにしても、あの少年は、やけに熱心に道を教えてくれるものだと思ったが、あれはもしかすると、俺の無謀さに同情してくれたのだったかな」
「そうだろうな」
 ヨブが呆れてうなずくと、アシェリは照れ隠しのように笑って頭を掻いた。
「それにしても、あんたたちの星の読み方は、信じられないほど詳しいなあ。俺もどうにか、いくつかは覚えたのだが」
 アシェリはそういって、進行方向の低い空にある、ひときわ眩しい星を指した。「あの白い大きな星が縦に並んでいるのが、イオ・イディス《賢人の杖》。南西にある二連のものがタ・ディハル……」
 つられて遠景に目を投げたヨブは、遠くの地平に町の明かりを見いだした。
「ああ、見えてきたな」
 夜明けにはまだいっとき時間がある。間に合ったことに安堵しながらそういうと、アシェリは訝しげな表情になった。
「どこだ」
「そら、あそこに灯があるだろう」
 指さしてみせても、アシェリは首をひねるばかりだった。
「ちっともわからない。砂漠の人間は目がいいと、噂には聞いていたが、ほんとうなのだなあ」
 感心するようにいって、アシェリは笑った。
 それにしても、よく笑う男だった。これほど頻繁に表情を変える男を、ヨブはほかに知らない。女子どもならいざしらず、立派な男は、おいそれと感情を顔に出すものではないからだ。
 だがアシェリは、そうしたことを、ちっとも恥とは思っていないように見えた。そのことに毒気を抜かれるような思いをしながら、ヨブは驢馬の手綱を引いて足を速めた。


 オアシスに辿りついた二人は、安宿をたずねて大部屋の一角を借り、水の値についてそれなりに満足のいく交渉をすませた。前払いの代金を銅貨で支払ったヨブが、驢馬に水を飲ませていると、アシェリが感心したようにうなった。
「あれだけの水で足りるものだろうかと、正直なところ不安に思っていたのだが。着いてみれば、ずいぶんと余裕があったな。さすがは名に聞く、イビタルの案内人だ」
 何をいうかと思えばと、ヨブは肩をすくめた。
「ふたつ先のオアシスまでもつだけの水を用意するのは、砂漠を旅するものの鉄則だ」
「へえ、そういうものか」
「あてにしていたオアシスに、ようようたどりついてみれば、すっかり水が枯れていたということも珍しくはないのだ。それがたとえ、何百年と続いた町であっても」
 声を落として、ヨブは説明した。この町もまた、二百年あまりの歴史を誇るオアシスだった。
「それで、二つ先か。なるほどなあ」
 いちいち感心したように、アシェリはうなずいている。ヨブは呆れて首を振った。
 しかし通常の道行きであれば、そもそももっと水場の多い道を通るものだった。砂漠の中ほどを横切るように大河が流れており、その周囲には人里もまた多い。河の流域に沿って旅をできるときには、多少遠まわりをしてでもそのようにする。大河ならばオアシスに湧く水と違って、水量が減ることはあっても、枯れることはまずないからだ。
 だが今度の道行きは、まったく別の方角で、しかも人里の少ないほうへ、少ないほうへと向かっていく。途中からは、よほど正確に進路をとらなければ、灼熱の太陽に焼かれてあっという間にひからびてしまう。交易を生業とする旅なれた者でも、避けたがる道だ。
 アシェリは軽い気持ちで持ち上げてみせたのかもしれないが、ファナ・イビタルの者、それもよほど南部の地理に精通している一握りの男以外では、灼熱の海へ生きて案内することは、まずできない。ヨブにはそれだけの自負があった。
 そうした場所へ、大金を積んでまで、なぜ行こうというのか。案内された大部屋で隅のほうの寝台へ陣取りながら、ヨブは何度目かの問いを口に乗せた。
「なぜお前は、涯の海などへ行きたがるのだ」
 アシェリは曖昧に笑うだけで、答えない。だがヨブとしては、なんとしてでも確かめねばならないわけがあった。その近くには、禁域があるからだ。
 部族の中でさえ一握りの者以外にはその場所をかたく秘された土地が、砂漠の南西にはある。アシェリがもしも言葉どおりに海へ向かいたいのではなく、その存在をかぎつけて秘密を探ろうとしているのならば、捨て置くわけにはいかなかった。
 だがこの男が何も知らない場合、下手な問い詰め方をすれば、かえって隠したいものがあることを勘ぐらせてしまうかもしれない。ヨブはひとまず追及することを諦めて、嘆息した。
「まあいい。午後遅くに買出しに出かけて、日が沈んだ直後に発つ。しっかり休んでおけ」
「わかった」
 アシェリは素直にうなずいて、さっさと寝台にもぐりこんだ。
 その場所に近づくまでに、うまく聞き出す方法を考え出さねばならない。蚤の跳ねる掛布にもぐりこんで、ヨブは目を閉じた。
 考え事のせいか、眠りはなかなか訪れなかった。空が白んだあとになって、ようやくヨブは浅い眠りについた。そしてきれぎれの夢の中で、この旅を命じた長の、表情のない顔を見た。わかっているなと念を押した、温度のない眼を。


 翌日は風がなかった。砂は舞い上がらず、空がよく澄んでいる。その分だけ陽射しはより強く、二人は予定よりも日が傾くのを待ってから宿を出た。
「それにしても、砂漠に入って以来、女の姿をほとんど見ないな。いてもガキか、婆さんばかりだ。いったい女たちはどこにいるのだ」
 アシェリがそんなふうにぼやいたのは、市場で食料を買い込んでいる最中だった。固焼きパンと引き換えに、店主へ銅貨を渡しながら、ヨブは振り返らずに答えた。
「女がおいそれと外を出歩くものではない」
「そんな話があるものか。夜中だとでもいうならわかるが、まだ空も明るいのに」
「陽が高かろうが、若い女が、男のいる場所に姿を見せるものではない。そのようなことをするのは、娼婦くらいのものだ」
 ヨブが苦々しくいいきると、アシェリは唖然として、手にしていた荷を取り落としかけた。だがヨブは、男の無知を笑いはしなかった。北の国々では、女たちが顔を晒してそのあたりの道を歩いているところもあると、前に聞いたことがあったからだ。眉唾ものの話だと、耳にしたときには思ったが、アシェリの様子からすると、それも本当のことなのだろう。
「では、どうやって暮らすのだ。水を汲むのは。日々の買い物は」
「売りにくる。それで足りなければ、子どもか下男でも使いに出すだろう」
 それを聞いたアシェリは、頭を振ってため息をついた。
「なるほどなあ。女たちを家の中に隠しているというわけか。値の張る持ち物をそうするように」
 その口調は、皮肉めいてはいなかったが、ヨブは思わず顔をしかめた。
「では訊くが、お前たちは自分の女にそのあたりを出歩かせて、平気だというのか。どこの誰とも知らない男の、目に付くところに」
 くくっと喉の奥で笑って、アシェリはいった。
「なるほど、賢いやり方なのかもしれないな」
 言葉としては肯定だったが、納得したというような口調でもなかった。それからふと思いついたように、アシェリは問いを重ねた。
「それでは、貧しい男たちはどうするのだ。女を家で遊ばせておくような、資産のない男は」
「そのような男に、妻を娶る資格などあるはずがない。小金があるときに、安い娼婦でも買うだろうさ」
 財のある男は何人でも妻を持つのが当然のことだし、逆にそれだけの男でなければ、父親もなかなか娘をやりたがらない。食料を買い込む合間に、ヨブがそう説明すると、アシェリは理解し難いというように、首を降って肩をすくめた。
「娘をやる、というのがまずわからん。女とは、やったりもらったりするものではないだろう」
「では、お前の故郷ではどうするのだ。妻を娶らなければ、子は。家は誰が継ぐのだ」
「ふつうは男も女も、己が生まれた家で一生を終えるものだ」
 アシェリはあっさりとした調子でいった。「女はその家で子を産んで育てる。その顔を見るために、男はせっせと女のもとへ通う」
 あまりの話に、ヨブが言葉をうしなう番だった。アシェリはため息交じりに付け加えた。
「いっておくが、俺の故郷だけではないぞ。いままで見てきた限りでは、そういう国がほとんどだった」
 その家にあまりに女ばかりが生まれすぎるようなら、家を分けるか、養女に出されることもあるが。そう説明しながら、アシェリは未練がましく、女の姿のない雑踏を見渡した。
「しかしそれではいったい誰が、女たちを食わせるのだ。親兄弟か」
「男がわざわざ食わせずとも、女たちは勝手に食うさ」
 なんということもないようにアシェリはいい、ヨブはとっさに天を仰いだ。
 女に外で働かせるなどということは、男にとって、恥以外のなんでもない。戦や病で稼ぎ手を失えば、女もやむに止まれず酌婦もやろうし、体も売ろう。気の毒な話とはいえ、しばしばあることだ。だがアシェリにとっては、女が働くというのは、むごいことでも何でもないようだった。
「山あいの、畑だの織物だので食っていくような村ならば、女たちのほうが、男よりもよほど働く。まあそうした按配は、土地ごとに違うものだが」
 ヨブは首を振って、それ以上の質問を差し控えた。聞けば聞くほど、頭の痛くなるような話だった。
 妻たちが自分の知らない間に出歩いて、気軽にほかの男と口を訊くところを思い浮かべて、ヨブは己の想像に勝手に腹を立てた。


 風がない分、昨夜よりいっそう星明かりが眩しかった。その中を歩きながら、アシェリは砂漠の暮らしについて、飽きずにあれこれと質問をかさねた。それにひとつずつ答えてやりながら、それにしても口数の多い男だと、ヨブは面覆いの下で苦笑した。
 やがて夜ふけになり、背後から上ってきた月に照らされて、二人分の影が細く伸びた。自分の影と、その横でより長く落ちる連れの影を見ながら、そういえば十年前のあの男も、アシェリと同じようにひどく背が高かったと、ヨブはふとそのことを思った。
「砂漠の外では、みなお前のように背が高いのか」
 アシェリはさて、と首をかしげた。
「俺はまあ、故郷のほかの連中と比べれば、かなり背のあるほうだったが。しかし、土地によってさまざまのようだ。ずっと北のほうの土地には、まるで巨人のような大男たちがいるからなあ」
「まるでおとぎ話だな」
 半信半疑でそう返すと、アシェリは笑ってうなずいた。「遠い国の話というのは、そのように聞こえるものだ」
 砂漠は広い。異なる三つの言葉を話す何百万もの人々が、四つの国と五十を越える部族にわかれて、各地の水場に点在するように暮らしている。いま目指している南西の海岸をのぞけば、まるで涯がないように思えるが、その砂漠にも限りがあるのだという。そのことに、ふと眩惑されるような思いがして、ヨブは首を振った。
「世界は、砂漠をいくつも集めたよりも、ずっと広いのだというが」
 ヨブの呟きに対して、アシェリはどこか厳かな調子でうなずいた。ヨブはいっとき無言で、砂漠よりも広い大地というものを、想像してみようとしたが、じきに諦めた。途方もない話だ。
「この砂漠では、太陽や月は、ほとんど頭の上を通るだろう」
 アシェリが突然、そのようなことを言い出したので、ヨブは面食らった。怪訝な思いを隠しもせずに、それでもいちおううなずいて見せると、アシェリは楽しそうに目を輝かせていった。
「では、北にゆけばゆくほど、その通り道が低くなるのを、あんたは知っているか」
 この問いにも、ヨブはうなずいた。南北へ旅をすると、月や星の高さはわずかに変わる。地平線の向こうに隠れて見えなくなる星もある。そのようなことも知らずに、砂漠の旅などできようはずがない。
「へえ、さすがは旅人の国だな。俺の故郷では、誰ひとりその話を知らず、何をいっても信じようとはしなかった。俺はあの村では、頭のおかしい男だと思われているのだ」
 そういうわりには、それを気に病むふうもなく、アシェリはさも可笑しそうにくつくつと笑った。
「それではあんたは、さらにどこまでも北を目指すと、その涯にはどのような場所があるか、知っているか」
「冷たい海があるのだろう」
 聞きかじりの知識でヨブが答えると、アシェリは笑って首を振った。「そのさらに北だ」
 ヨブが降参の意味で首を振ってみせると、アシェリはにやりとした。
「北の涯の、そのさらに最果てまでゆくとな、そこには太陽の沈まない国があるのだそうだ」
「なんだ、馬鹿馬鹿しい」
 ヨブは一蹴して、真面目に話を聞いた自分の馬鹿らしさに腹を立てた。
「信じないか」
「信じられるはずがないだろう」
 ヨブがいうと、アシェリはあっさりとうなずいた。
「そうだな。俺も実は、まだ信じられない。自分の目で見たわけではないからな。だが、いつかは行って、確かめてみたいものだ」
 そういうアシェリの目は、楽しげに輝いている。その少年じみた表情を見て、ヨブは首をひねった。外見からは自分と同じ年頃のように見えていたが、もしかするとこの男は、思っていたよりも若いのではないかという気がした。
「お前、歳はいくつだ」
「歳?」
 鸚鵡返しに聞き返されて、ヨブはまさか、と思った。
「お前、自分の歳も知らないのか」
「歳というのは、いったいなんのことだ」
 ヨブは目を剥いた。異国の者だけに、ただ単に歳という単語を知らないだけかとも思った。
 だが、何度か訊き方を変えてみても、アシェリは困ったように首をかしげるばかりだった。ヨブは恐る恐る質問を変えた。
「まさかお前たちの土地では、自分が生まれてから何年が経ったかを、数えないのか」
「待ってくれ。年、というのはなんだ」
 絶句して、ヨブは目の前の男の顔をまじまじと見た。だが、そこにはとぼけてみせるような調子は、まるで見当たらない。
「……空の星は時間が経つにつれて、ゆっくりと空を巡るだろう。あの位置が、日を追うごとに少しずつずれていくのは知っているな」
 もちろんだといって、アシェリはうなずいた。そのことにいくらか安堵しながら、ヨブは続けて確認した。
「では、月が満ち欠けするのを十六と半分かぞえると、星の位置がすっかりもとに戻るということも、知っているだろうな」
 ヨブとしては、まさかというつもりで訊いたのだが、アシェリの相槌はあろうことか、「へえ、そうなのか」という呑気なものだった。
 とっさに言葉を失って、ヨブは額を押さえた。アシェリは感心したように唸って、空の星を目で追いかけている。
「お前によほど学がないのか、それともお前の故郷では、誰もそのことをしらないのか」
 訊くと、アシェリは困ったような顔をした。
「俺はたしかに、学問がない。だがこれまでどこの国を旅していても、そのようなことを真剣に数える人々を見たことがなかった。ただ、砂漠に住む人々が数を大変に重んじるというのは、たしかに耳にしたことがある」
 日が何度昇り、月が何度満ち欠けしたか。そうした以上の長い単位で時を数える必要を、これまでに感じたことがなかった。アシェリはあっさりとそんなふうにいった。
 確かに、砂漠の暦はほかのどの場所のそれよりも、はるかに優れているのだという話は、どこかで聞いたことがあった。だが、そもそも暦を数えない人々がいるということは、ヨブの想像の外のことだった。
 いっとき打ちのめされてから、ヨブは唸った。
「学問は俺にもないが、それにしても暦くらいは、子どもにでも読めるだろう。お前はいくつもの土地を旅してきたというが、暦を知らずに、どうやって星を読むというのだ」
 ああ、とアシェリはうなずいて、急にわかったような顔になった。何を納得したものか察しがつかず、ヨブが眉をひそめていると、アシェリは面白がるような目をして説明した。
「きっと、それだよ。この砂漠では、星をよく読まなければ旅ができない。だからあんたたちの間では、そうしたことが重んじられるのだろう」
 いっていることの意味がわからず、ヨブが聞き返そうとしたとき、急に強い風が吹いて、驢馬がいち早く身を伏せた。
 彼らはいっとき足を止めて、その場で姿勢を低くした。砂が舞い上がり、激しく体を打つ。ヨブは面覆いを引き上げて、しっかりと目を閉じた。アシェリが咳き込むのが、風の音にまぎれて聞こえる。
 やがて風が止むと、彼らは立ち上がって目を開けた。服を手で払い、顔についた砂をぬぐう。足元には、つい先ほどまでとはまるで違う風紋が広がり、やってきたときの足跡は、すっかり砂に埋もれてしまっている。方角を確かめるために空を仰ぐと、《七の導きの星》は空の端で、ほとんど沈みかかっていた。
 アシェリが顔についた砂をこすりながら、話の続きをはじめた。
「ほかの土地では、何も星を読まなくとも、旅はできる。前後左右、どちらを見ても同じような景色というのは、砂漠の外ではそうそうないものだ。たいていもっと、地形がはっきりしている」
 歩きながら、アシェリは説明した。驢馬の手綱を引きながら、ヨブは信じられないような思いでその話を聞いた。
「だが、歳を数えないというのなら、お前の郷の男たちは、どうやって兵役につくのだ」
 その質問に、アシェリは妙な顔をした。
「俺の故郷か。ほかの人里からずいぶんと離れた小さな村で、役人がわざわざ兵士を募りにくるような場所ではなかった。だが、そうだな、俺がこれまで立ち寄った土地では、たいてい兵隊には、なりたいものがなるようだったが」
「なりたくないものがいるのか」
「いるさ、そりゃあ」
 ごく普通のことをいうように、アシェリはいった。「あんたらは違うのかい」
「当たり前だ。そんな臆病者がいるはずがない。いるとすれば、それは男ではない」
 あきれ果てて、ヨブは吐き捨てるようにいった。アシェリは反論せず、小さく口の端を上げて、感心してみせた。
「そうか。砂漠の男は皆、戦士なのか。そいつはすごい」
 言葉自体は賛辞だったが、その声は本気の調子ではなかった。ヨブは憮然として問い返した。
「それではお前たちの土地では、敵に攻め込まれたら、どうするのだ。兵士でない男は、女子どものように、敵から逃げ惑うのか」
 そうだなあ、と首をひねって、アシェリはいった。「まあ、逃げるやつもいるだろうし、いざとなれば鍬でも持って、なりふりかまわず戦うやつもいるだろうな」
「ろくな訓練も受けずにか」
「そうとなればな」
 アシェリはうなずいて、それから小さく笑った。
「でも、まあ、俺の故郷では、戦に巻き込まれることなど、まずないからなあ。なんせ、貧しいところだから」
 のんびりとそういって、アシェリは目をこすった。砂が入ったのだろう。面覆いをきちんとつけていないからだとヨブは思ったが、それよりも、話の内容のほうが気になった。
「そんな土地が、あるのか」
「ある。奪ってもうまみのない土地というものは、けっこうどこにでもあるものだ。そんなところにでも住む人間はいる、というべきだろうかな。……ここらでは、戦は多いのか」
「戦など、珍しくもない。水が枯れればすぐだ」
「よそのオアシスを襲って、水を奪うのか」
「ほかにどうする。移住できるような距離に、ほかの水源があるならば、話は別だが」
 だがそのような場所は、めったにあるものではない。ヨブがそう続けると、アシェリは何か、考えこむようだった。顎を撫で、鬚の中に絡んだ砂をつまみながら、いっとき沈黙していたが、やがて口を開いた。
「金を払って、分けてもらうことはできないのか」
 面食らって、ヨブは目をしばたいた。連れの男の正気を疑いかけたが、アシェリの表情を見る限りでは、どうやら真面目にいっているらしかった。
「隣のオアシスが枯れたということは、地下水脈の動きが変わったということだ。こちらのオアシスも、じきに枯れる可能性がある。そのようなときによそものに水を分けて、自分の一族を渇かせる危険をおかす長など、そういるものか。いるとすれば、よほど金に目の眩んだ愚か者だ」
「そういうものか」
 アシェリは納得しがたいように首をひねって、遠く、地平線を見渡すような仕草をした。そんなことをしても、砂漠の遥か地下の水脈が、透けて見えるわけでもないだろうが。
 やがてふたたび風が吹いて、砂が舞い上がり始めた。今度は足を止めねばならないほどのものではなかった。砂が目や口に入らぬよう、ヨブは面覆いを上げて、足を速めた。
 歩きながら、ヨブは渇きを恐れずにいられる世界に思いをめぐらせた。いつでも雨が降り、女たちが自由に外を出歩く土地。年月を数えることを知らぬ人々の暮らすという土地に。


 途中で一度だけ、砂嵐が激しく足止めをくらった晩があったが、そのほかではごく順調な道行きだった。
 いくつものオアシスを転々と辿りながら、南西へ進んでゆくにつれて、砂はいっそう熱さを増す。やがては夜になっても、かなりの時を待たねば、靴を履いた足が焼けると思えるほどに。
 各地のオアシスを辿りながら、十二夜をかけて歩いたところで、延々と拡がっていた砂の海は、ひび割れた赤い大地へと変わった。南西の岩砂漠、人の住まぬ不毛の大地だ。
 宙を舞う細かな砂がない分、空はくっきりと澄んで、北の砂漠では見わけることのできない暗い星までが目に映る。空を見上げて、ヨブは目を細めた。流星が南の空へふたつ続けて、尾を引いて落ちていく。
 新月を過ぎて、いまは徐々に月が膨らんでゆく時期にあたる。アシェリがつられたように青褪めた半月を見上げ、ふとため息を漏らした。
「それにしても、不思議なものだ。土地が変われば、月がのぼる高さどころか、色まで変わる。これほど青い月を、俺は初めて見るぞ」
 ヨブは黙って肩をすくめた。案内人としては、この先の道のほうがいっそう神経を使うのだが、岩砂漠に入ってから、アシェリの足取りは、むしろ軽くなったようだった。
「この先には人里がない。辛い道になるぞ」
 そう告げても、そうかとうなずくばかりで、アシェリは不平の一言も口にしない。それがヨブには、意外なように思えた。
「しかし、そういうわりには、水はあまり積まなかったのだな。食糧はずいぶんと、多めに買い込んだようだったが」
 アシェリは不思議そうにいって、荷を運ぶ驢馬の黒い瞳を覗き込んだ。
「ああ。水場を辿ってゆくからな。だが、人の住む町はない」
「水があるのに、住む者がいないのか」
「夜にしか外を歩いていないから、実感が湧かないかもしれないが、ここまでくればもはや、短い時間ならば太陽の下に出ていられるというような土地ではないのだ。人などあっという間に、焼け死んでしまう」
 そのような土地に人は住めまい。そうヨブが説明すると、アシェリはへえ、と感心したような声を上げて、足元を指さした。
「だが、獣や虫はいるようだ」
 その指の先には、赤茶けた毛皮の鼠がいた。器用に虫をつかまえて食べていたのが、こちらの視線に気づいて耳をぴくりとさせると、あっという間に走り去ってしまった。
「砂漠では、夜のほうが賑やかだな。ああしたやつらは、昼間はどこにいるのだろう」
「砂の中に。岩陰に。あるいは地の底に」
「地の底?」
 聞き返されて、ヨブは思わず苦笑した。この男と話していると、まるで小さな子どもにものを教えているようだった。とりわけものを知らないことを、ちっとも恥ずかしがらないところが。
「そうだ。砂漠の地下には、水脈があるといっただろう。地面の下にはところどころ、水に削られた空洞がある。そういう場所を辿って、ここから先の道をゆくのだ」
「日中を、地下にもぐってやり過ごすのか」
「ああ」
 ヨブがうなずくと、ひどく感心したように唸って、アシェリは顎をこすった。
「そういう場所は、たくさんあるのか」
「まれだ。だから、正しく辿る道を知らなければ、このあたりの土地を生きて通ることはできない」
 二度うなずいて、アシェリは遥かに煙る地平線を、見通すような目をした。ここから海が見えるわけでもあるまいが。
 夜も更けた頃、ヨブは少し休息をとろうといって足を止めた。驢馬にも荷を下ろさせて座ると、赤い大地はすでに熱を失っており、二人の尻を冷やした。
 熱い珈琲を沸かし、塩の欠片を舐めるあいだ、アシェリはいっとき無言で座っていたが、やがてぽつりと問いかけを落とした。
「海までは、あとどれほどだ」
「九夜を歩けば、その次の夜の早い時間には、海をのぞむ場所へ出る」
 ヨブは断言した。砂嵐はここまではやってこない。また、精確な日程と道のりを辿って、かならず陽の昇る前に次の地下洞窟まで辿りつかなければ、どのみち灼熱の陽に焼かれて死んでしまう。
 熱い珈琲を、苦そうにちびちびと舐めながら、アシェリはふと思いついたように、話を蒸し返した。
「なあ、このあたりに人里は、まったくないのか」
「そういっただろう」
 呆れたように答えながら、ヨブはひやりとするものを胸のうちに覚えた。
「そうか。そうだよなあ」
「なぜ、こんな不毛の大地に、人が住むと思うのだ」
 穏やかならぬ内心を押し殺して、ヨブは訊いた。
「あんたが道をよく知っているから」
 アシェリはなんでもないようにいって、辺りを見渡した。「用もないのに、こんな遠くの土地まで、道を知り尽くしている必要はないだろう」
「塩を取りにくるのだ」
 用意していた言葉を口にして、ヨブはアシェリの表情を観察した。だがいくら見ても、言葉以上の他意をそこに見出すことはできなかった。
「目的の海辺からは少し離れるが、よい塩が採れる場所がある。だがそこは、我々の聖地でもある。けして盗もうなどと思うなよ。神罰が下るぞ」
 嘘ではないが、事実のすべてでもないことを告げて、ヨブは厳しい目を向けた。だがアシェリは肩をすくめて、あっさりと笑いとばした。
「盗むもなにも、あんたが道を教えてでもくれないかぎりは、俺はそこにたどりつけもしないだろうさ。それに、あんたらにとって塩は貴重品かもしれないが、ほかのたいていの土地では、それほど高価なものでもない」
 そんなふうに答えたアシェリの表情は、こちらの言い分をまるきり信じているように、ヨブの目には見えた。
 真実は、塩どころの話ではなかった。もしもアシェリが、聖地の真実を知り、あるいは探るそぶりを見せようものならば、それなりの手段に出ねばならなかった。長の冷ややかな眼を思い出して、ヨブは暗澹たる思いをもてあました。
 秘された聖地の名を、エルトーハ・ファティスという。いま彼らがいるこの場所から、歩いてほんの数日の距離に、その場所への入り口がある。
 ヨブはアシェリに、こんな場所に人は住めないといったが、それは地上の話だ。地下深くには何千人という人々が、身を寄せ合って暮らしている。
 彼らは遥か遠い過去にイビタルの一族から分かれた、遠い遠い血族だ。豊かな水を湛える暗がりの町で暮らす彼らと、毎年さだめられた日にファナ・イビタルから訪れた商隊とは、ひそかに荷のやりとりをする。
 なぜ聖地の存在が、固く秘されなければならないのか。人々がなぜそうまでして、このような不毛の地に隠れ住まなければならないのか。
 エルトーハ・ファティスでは、尽きせぬ銀が採れるのだ。


 明け方まで間もない時刻に、二人は最初の地下洞窟の入り口へとたどりついた。
 ひたすら平坦な地面にときおり岩の転がる、広大な岩砂漠の中で、その辺りだけ地面にいくつも亀裂が入り、あるいは突如盛り上がって崖を為している。その崖にひび割れが開いて、そのまま奥深くまで続いていた。
 こうした洞穴には天然のものもあれば、かつて掘られた鉱脈のなごりもある。この場所は前者だった。
 最後のオアシスから距離があったため、ふたりはこれまでの旅路よりも、早足で歩かねばならなかった。旅の前半では、アシェリのほうが疲れをあらわにしていたのだが、打って変わって、いまではヨブよりよほど余裕があるように見える。それがヨブには意外に思えたのだが、訊けば、アシェリはあっさりと笑って説明した。これまでは砂に足をとられることに慣れていなかったため、体力を消耗したのだという。なるほど、もともと世界じゅうを旅してまわっているというだけのことはあった。
 空の端はもう白みかかっている。驢馬を先にくぐらせてから、洞穴の入り口で、ヨブはふと立ち止まった。
「どうした」
 怪訝そうな声を上げるアシェリを、ヨブは手で制した。
「少し待て。長くはかからない」
「急がなくて大丈夫なのか。陽射しは危険なんだろう」
「そうだが、夜が明けた直後までは、まあ大丈夫だ。地面が熱せられるまでに、少しは間があるから」
 なるほど、とうなずいて、アシェリは首をかしげた。
「ならばいいが、いったい何を待っているんだ」
 ヨブは答えず、入り口の岸壁にもたれて空を見あげた。
 断ったとおり、長くは待たなかった。じきにヨブは、白みがかった空の端を、無言のうちに指さした。アシェリが顔を上げて、その指の先を見つめる。
 白い影がいくつも、薄明に包まれた空を切り裂くようにして、空を横切っていく。最初に三羽。あっというまにそれらが通り過ぎていき、そのあとを、次の四羽が追いかけてゆく。数羽ずつの小さな群れとなってやってきた鳥たちは、はるか地平線の彼方へと、次々に吸い込まれていく。
「あの鳥がヨブだ」
 アシェリは空を見上げたまま、眩しげに目を細めた。
「きれいな鳥だな」
 鳥たちの姿はじきになくなり、二人はひび割れの奥へ向かった。洞窟は、ゆるやかな下りの勾配になっている。中は暗闇で、入り口から遠ざかると、すぐに足元が危うくなる。ひとりずつ、岩壁に手をつきながらゆっくり進まねばならなかった。
 岩肌はひんやりと湿っていた。さらに奥のほうでは、かすかに水音が響いている。先に入らせた驢馬は、陽の届かない場所でおとなしくうずくまっていた。砂漠に生まれた獣の本能で、いわれずとも太陽の恐ろしさを知っているのだろう。
 暗闇の中で軽く食事を済ませて、驢馬のそばで待っているようにアシェリへ言い残すと、ヨブは手探りで奥に向かった。少し距離はあるが、それでも歩いて下れるところに、細い水の流れがある。
 二人ぶんの皮袋に水を満たして、ヨブは何度も暗闇の中を往復した。次の水場まで、ここで汲んだ水でもたせなくてはならない。
 やがてじゅうぶんな量を汲んだところで、ヨブも腰を下ろし、体を休めた。先に眠っていたかと思ったアシェリは、岩壁に背中をもたれかけさせて、水音に耳をすませていたようだった。
「不思議なものだ。外はもう、灼熱の大地へと変わっているのだろう。さっきの鳥たちは、どうやって生きているのだろうか」
 まだどこか心を空に残したような声で、アシェリが呟いた。
「あの種類は、翼が強い。この目で見たわけではないが、話にきくところによると、焼け死ぬ前に砂漠の上空を抜けて、さらに遠くの空まで飛んで行くのだそうだ」
 へえ、と感心したようにいって、アシェリは笑った。「いい名前じゃないか」
 洞窟の中は暗すぎて、ヨブにその表情は見えなかったが、目じりに皺を寄せて笑うそのようすが、目に浮かぶような気がした。
 この妙な男を気に入っている自分に、ヨブは気がついていた。そしてそれは、けして都合のいいことではなかった。もし、アシェリが聖地の存在をかぎつけたとして、果たして自分にこの男を殺せるのだろうか。ヨブは自問したが、答えは見出せなかった。
「なぜお前は、灼熱の海などを見たいというのだ」
 ほとんど切実な思いで、ヨブは何度目かの問いを口にした。
 アシェリは笑ってごまかす代わりに、言葉を探しあぐねるような沈黙を置いた。何度か、なにかを言いかけては、口ごもる。
 どうか話してくれと心のうちに念じながら、ヨブは待った。何か、俺が納得し、安心してお前を連れ帰ることができるような、そういう理由を聞かせてくれ。
「もう少し」やがてアシェリは、ぽつりといった。「もう少しして、海が見えたなら、そこで話そう。いまはまだ、どうにもうまい言葉が見つからない」
 そうかと答えて、ヨブは嘆息をこらえた。
 ヨブは眠る前に、自分の荷を引き寄せた。香料を取り出して、壁にこすり付ける。闇になれた目が、かすかにものの影を捉えている。真暗闇に見えても、入り口の亀裂からの光が壁に弾かれて届くのだろう。
「何か、妙なにおいがするな。薄荷のような……」
 アシェリがいって、落ち着かないように影が揺れた。
「我慢しろ。蛇よけの香だ」
 へえ、と感心したように相槌をうって、いっとき沈黙してから、アシェリは感慨深げに呟いた。
「蛇というものは、どこにでも仲間がいるのだなあ。山の中しかり、水の中しかり……」
 何にそれほど感心するのかわからなかったが、ヨブは口をはさまずに、アシェリが話すに任せて耳を傾けていた。
「俺は実際にやってくるまで、砂漠というものは、もっと生き物のいない、不毛の地だと思っていた。だが、人は大勢住んでいるし、ちゃんと虫も獣も、蛇までいる。セスはさすがに、いないだろうなあ」
「セスとはなんだ」
「水の中の生き物だ。蛇のような鱗があって、蛇ほど細長くはない」
「ああ、魚のことか」
 いるのか、と驚いたような声を上げたアシェリに苦笑して、ヨブはいった。
「いるさ。なんなら帰りにオアシスの水を、のぞいて見るといい。ただし、水泥棒に間違えられないよう、気をつけることだ」
 話しながら、この男を連れてファナ・イビタルへ戻るつもりでいる自分に気がついて、ヨブは暗闇の中で目を伏せた。


 四日後、五つ目にたどりついた地下洞窟は、ほかとくらべて、ずいぶんと広さがあった。水音も、遠くでひっきりなしに響いている。身体を休めようと横になりながらも、その音が気になるのか、アシェリはなかなか寝付けないようだった。何度も身じろぎするせいで、そばにいる驢馬が落ち着かず、迷惑そうに耳をぴくぴくさせている。
 ずいぶん口数の多い男だと思っていたが、目的地が近づくにつれ、なぜかアシェリの口は、少しずつ重くなっていくようだった。この日はとうとう、歩きながらほとんど何も話さなかった。
 それでもさすがに、やってこない眠気をもてあましたのか、アシェリはほとんど何時間ぶりかで、物憂げに口を開いた。
「この奥には、何があるんだろうな」
 その問いに、ヨブは闇の中で険しく目を細めた。それでも声に警戒を出さないように、努力を払いながら、なんでもないように答えた。「滔々と流れる、冷たい水が」
「この空間は、どこまで続いているんだろうか。途中ですっかり水に埋まってしまうのか」
「さてな。……奥へ入ってみようなどと思うなよ。命の保障はできないぞ」
「あんたは、ずっと奥までいってみたことがあるのか」
「いいや。だが、こういう洞窟の奥には、ときに蛇ばかりではなく、人を襲う獣がいる」
「こんな、日も射さない闇の中にか」
 アシェリは驚いたようだった。ヨブは相手に見えないことを承知でうなずいて、重々しくいった。
「そうだ。目でものを見るかわりに、鼻と耳が利く。鋭い牙と爪を持つ、凶暴な獣だ」
 ヨブは話しながら、自らも闇の奥に目を凝らした。
「足元が脆くなっている場所もある。砂漠の地下水脈は、地上のようすからは想像もつかないような激流だ。落ちれば、ひとたまりもないぞ」
「見てきたようにいうのだな」
 ひやりとしながら、それを声音に出さないように、ヨブは言葉を返した。
「いくつもの話が、語り継がれているのだ。砂漠に暮らすものならば、幼い子どもでも聞き知っている」
 へえ、と感心してみせる声が、いくらか元の明るさを取り戻したようだった。「なにか、聴かせてくれるか」
 アシェリのその言葉に、他意はないように思われた。
「俺はあまり、よい語り手ではないが」
 そう前置きして、ヨブは少し考えた。それから語り始めた。砂漠の地下洞窟に広がる、暗闇について。


 真アディス暦で九八一年のことというから、三百年あまりも昔の話になる。ああ、そうだ。十六と半月で一年だと教えたな。つまりは月が、五千も満ち欠けするほどの遠い昔のことだ。
 いまはとうの昔に枯れた南東部のオアシス、ファナ・ノーヴィスに暮らしていた部族の若者が、遠路はるばるこの南の岩砂漠まで、五人の手勢を率いてやってきた。いや、いま俺たちがいるこの洞穴ではないだろう。正確な位置は知られていないが、おそらくはもっと東のほうの地下洞窟ではないかと思う。
 五人の手下を率いてきた男の名は、イ・ハイダル。まだ十七歳の――成人してさほどたたない歳若い者で、その部族の長の、三番目の息子だった。
 彼は二人の兄に比べれば腕が立たず、学も劣るということで、父である長からは、つねづね軽く扱われていた。それで何とかして功を上げ、その目に留まろうとしたのだな。
 しかしあいにくというべきか、長く戦がない時期が続いていた。当たり前にしていては手柄の立てようもない。それでイ・ハイダルは男たちを従えて、新しい道を拓こうと思った。我々の部族が見つけたような質のよい塩か、そうでなければ砂漠のどこかに眠っているかもしれない、何らかの新しい資源を求めて。
 だがこの岩砂漠を生きて通ろうと思えば、いま俺たちがそうしているように、日のないうちに次の洞穴へとたどりつかねば、まず命はない。しかし彼らは初めてその土地に足を踏み入れたのだし、夜更けまであてもなく彷徨い、あるかないかもわからない洞穴を探さねばならなかった。それも、身を潜めて陽を避けるに充分な深さのものでなければ、意味がない。そうした場所が見つからなければ、夜明けまでに急いで引き返すよりほかはない。
 それだけでもイ・ハイダルの手下たちにとっては、貧乏くじであったのに、さらに、この若者は血気盛んで、年若いものにありがちなように、無謀さをこそ勇敢な男の証だと思い込んでいた。
 彼らは最後のオアシスを拠点に、夜毎に岩砂漠を歩きとおしては、そのたびに肩を落として引き返した。また次の夜には、何の確信もないままに、前の夜と違う方角へと向かう。そのようにして、十日目の夜更け、ようやく彼らは最初の水場を見つけた。
 それは長い長い地割れの跡で、まるで地面を切り裂く巨人の爪あとのようだったという。その底に、苦労して体をひねってようやく入れるほどの隙間が、ぽっかりと暗い口を開いていた。
 彼らが行き当たった洞穴には、かなりの奥行きがあるようだった。地下洞窟の中には、入ってすぐに水に埋もれてしまうところもあれば、かなりの距離にわたって、長い空洞が続いている場所もある。地下洞窟を抜けて、別の地上の出口につながっている場所も、中にはまれにあると聞く。そうした道を見つければ、夜明けのせまるのを恐れることなく、長い距離を稼げるかもしれぬ。見つけた洞穴の奥へ奥へと、イ・ハイダルは進んでいった。連れてきた男たちが引き止めるのも聞かず、手には雄雄しく松明を持って。
 ああ、俺は洞穴の中で、火を使わないだろう。炎はこうした暗闇の中で、多くの危険を退けるものでもあるが、その反面、ひどく危険な場合もあるのだ。地下にはごくまれに、火薬のような性質を帯びた空気が、よどんでいることがあるから。
 いまこの場所がそうであるように、イ・ハイダルの入ったその洞穴でも、遠く足元より、水音がどうどうと響いていた。その音を聞きながら歩くうちに、とつぜん何かが崩れる音がして、男たちの一人の姿が、一瞬にしてほかの五人の視界から消えた。ひきつれたような悲鳴が暗闇の中で長々と響きわたり、その声は急激に遠ざかりながら、やがて水音にまぎれて消えた。
 イ・ハイダルが松明を足元によせると、そこには黒い穴が、ぱっくりと口をあけていた。その先は果てのない奈落の闇で、落ちた男の姿どころか、水面が松明の光を反射することさえなく、形のあるものは何ひとつ見出すことはできなかった。
 残る四人の男たちは怖気づいたが、イ・ハイダルは仲間の犠牲を無駄にする気かといって彼らを叱咤し、さらに洞穴の奥へ奥へと足を進めた。
 やがてイ・ハイダルは、足に激痛を覚えて悲鳴を上げた。驚いた男たちが、ハイダルの足元に駆け寄ると、そこには目のない小さな蛇がいて、ハイダルの脛に、服の上からしっかりと牙を突き立てていた。
 怒って蛇をつかみ、打ち殺して投げ捨てたハイダルは、なに、大したことではないと強がって、また歩き出した。蛇が思いのほかに小さかったことに気づいて、大げさな悲鳴を上げた己を恥じたのだろう。大またに歩んでゆくハイダルの背を追いかけながら、男たちは顔を見合わせて肩をすくめた。
 いっとき歩くと、道は二股に分かれていた。壁に手をついて、左手の道へと彼らは進んだ。そちらから、より強く水音が響いたように思われたからだった。
 どれほど歩き続けた頃だろうか、やがて四人の手下のうち、二人が突然よろめいて、ほとんど倒れこむように、その場にうずくまった。
 その段になってイ・ハイダルは、手にもつ松明の火が、ひどく暗くなっていることに気がついた。長さは充分にあり、湿気っているわけでもないというのに。
 地下に溜まる毒気の中には、火薬のような働きをするものもあれば、なんの臭いもせずに、ただ静かに人の息を止めてしまうようなものもある。そうした空気は、ときに炎を弱める働きをするものだ。
 まだ歩ける三人があわてて仲間の肩を支えて、彼らは道を戻りにかかった。そして、先の分岐のところまで来たところで、支えてきた二人を地面に横たえると、ひとりはじきに顔色を戻したが、ひとりはもう二度と、目覚めなかった。
 そこで残った手下のひとりが、泣き言を漏らした。命あってのものだねだ、このような場所に長くとどまるべきではない。一刻も早く引き返そう。そうしないというのなら、もうあんたの指図には従わないと。
 だが、イ・ハイダルはなかなかうなずかなかった。もう一方の右手の道をゆけば、その先は豊かな水場につながっているかもしれない。しかしすでに二人を失ったあとのことだし、ほかならぬハイダルの足も、ひどく膨れ上がっていた。蛇の毒が回ったのだ。それにもかかわらず、ハイダルは右の道を、そこから続くかもしれない栄光を、諦めきれぬようだった。いや、本音のところでは、彼も引き返したかったのかも知れない。だが意地が、彼を引き止めていた。
 ほかの二人の男たちは、顔を見合わせて、どうしたものか決めかねた。二人とも、本音のところでは引き返したかったし、ハイダルへの忠誠心もさしてあったわけではないが、しかし彼の父親のことは恐ろしかった。
 だが結果的に、彼らはその道をゆくことはできなかった。右手の道から、低い唸り声が響いたのだ。
 あっと思ったときには、風がイ・ハイダルの頬をなでていた。その次の瞬間には、死したる男の亡骸が、彼の腕の中から失われていた。
 何が起きたのか、誰にもわからなかった。やがて暗闇の中に、ふたつの青白い光が見えた。それは白濁したふたつの目であり、ものが見えているとも思えないにもかかわらず、あやしく輝いて、彼らのひとりひとりを見据えた。
 やがてどさりと音がして、何かを食いちぎる濡れた音が、闇の中から響いた。それから、固いものを噛み砕く音が。ようやく男たちの誰かが悲鳴を上げると、化け物はゆるりと足を動かして、松明の光の届くところへと姿をあらわした。
 それは獅子に似た、大きな獣だった。獅子よりは小柄だが、その牙は異様なほどに尖っていた。口元がてらてらと血に濡れているのが、彼らの目にもよく見えた。逃げねばならぬとわかっていても、彼らの足は凍りついたようにその場から動かなかった。
 自分のわがままにつき合わせて、すまないことをした。突然ハイダルが口にしたその言葉の内容を、手下の者たちが理解したときには、彼はすでに走り出していた。出口ではなく、怪物のいるほうへと向かって。
 それでもまだ三人は、動かなかった。己の目で見ているものが、理解できなかったのかもしれない。彼らは立ちすくんだまま、化け物の牙がイ・ハイダルの肩に喰らいつくのを見た。そして部族の若い英雄が、必死の形相で怪物の首を締めようとするところを。
 逃げろ。搾り出すようなその声に圧されて、ようやく三人は駆け出した。
 地割れの外に顔を出したとき、満月が彼らの頭上に輝き、それはとうに中天をすぎて、ゆっくりと下ってゆこうとしていた。急いで、オアシスまで引き返さねばならなかった。旅立ちが遅れれば道半ばにして夜が明け、灼熱の太陽が彼らを焼くだろう。次の晩まで留まれば、化け物が次なる獲物を求めて、暗闇の底から這い出してくるだろう。
 命からがらオアシスまで逃げ延びた若者たちは、次の晩、大勢の男たちを引き連れて、くだんの洞窟を目指した。だがそこで彼らが見たものは、首をへし折られて息絶えた盲目の獣と、その巨大な首にしがみつき、目を見開いたまま冷たくなっている、イ・ハイダルの亡骸だった。
 うなだれて自分たちのオアシスまで戻った三人の若者は、長の足元に這いつくばって詫び、彼の息子の勇敢なる死を伝えた。厳格なことで知られた長は、彼らの話を聞き終えて、滂沱の涙を流したという。それから、死して面目をほどこした末の息子のために、壮麗な墓碑を築き、そこに彼の物語を刻ませた。
 いまもその碑は、水枯れて人の住まなくなったファナ・ノーヴィスの地に、変わらずそびえている。


「あんたはうまい話し手ではないといったが」
 ヨブが語り終えると、アシェリはそういって、息を吐いた。「それが本当なら、砂漠の人々はそろって、語りの名手なのに違いない」
 大仰な賛辞を聞き流して、ヨブは水で唇を湿らせた。
「これくらいは、道で寝ている乞食でも語るだろうさ。そのあたりのオアシスで聞いてみればいい。砂漠の地下洞窟にまつわる危険ならば、百と語り継がれている」
「他の話も、聞かせてもらいたいところだが」
 あんがい世辞でもなさそうに、アシェリはそういったが、ヨブは首を横に振って、体を横たえた。
「いや、今日はよしておこう。もう休んだほうがいい。明日は今日よりも、もっと早く歩かねばならない」
 アシェリの影は、いっときのあいだ暗闇の奥を見据えるようにしていたが、じきに横たわった。
 ヨブは自分が語った話を振り返り、暗闇の中で苦笑した。語りつがれる話のうちの半分は事実であり、残りの半分は、このあたりの地下洞窟から人を遠ざけるために、故意に広められた話だった。
 地下道の中には実際に、毒の空気に満ちた空間もあれば、足元の脆くなった場所もある。蛇や盲目の獣も、ところによっては実際にいる。だが、それはよく道に通じているものならば、どうあっても避けて通れぬたぐいの危険ではない。
 いま彼らがいる洞窟もまた、ずっと奥へと続いている。そして、険しく長い道には違いないにせよ、複雑に分岐する迷宮のような道を、正しく辿ることさえできれば、その先には、秘された入り口がある。この洞穴もまた、エルトーハ・ファティスまで通じているのだ。地下深くに眠る、銀の鉱脈へと。
 同胞とともにその道を通り、かの町に住まう人々と荷をとり交わしたことが、ヨブにはある。
 あの場所に住む人々は、壁にまばらに生えたヒカリゴケと、蝋燭の明かりのほかには、地上のわずかな亀裂から差し込むごく弱い陽射ししか知らない。瞳の色が薄く、夜目が利くのか耳がよいのか、暗がりの中でもまるでよくものが見えているかのようにふるまう。
 はるか昔に一族からわかたれた、遠い血族たち。眼の色ばかりか、話す言葉の抑揚までもが異なる、近しくて遠い人々の姿を、ヨブは暗闇の中で思い浮かべた。かの地へ続く道をかたく秘するべしという掟には、オアシスに暮らす同胞の利益ばかりでなく、彼らの安全もまた、かかっているのだ。
 ヨブは己が語った物語の、若くして命を落とした男へと思いを馳せた。命を賭して己の愚かさを償った息子を、滅びた部族の長は、涙を流して惜しんだという。それまで軽んじられていたイ・ハイダルは、命を失ってようやく父親の関心を引いた。
 暗闇の中で、ヨブはいっときのあいだ身じろぎもせずに横たわっていた。暗闇の中は息苦しく、わかっているなと念を押した長の眼の色が、何度となく瞼の裏にちらついた。
 ヨブは神経を張り詰めて耳を澄ませ、アシェリの寝息が深くなるのを待って、ようやく浅い眠りについた。
 そうして長い昼のうちに何度も目覚めては、アシェリが姿を消していないかをくりかえし確かめながら、きれぎれの夢の中に、十年前の旅路をかいま見た。あのとき、たった一人で辿った帰途、果てしないように思われた、長い道のりを。


 岩砂漠に入って十日目の夜は、もはや寒くはなかった。あたりはむっとするような湿り気に包まれている。海が近づいてきたのだ。
 ほんの数日前には、アシェリが夜の冷え込みに震えていたというのに、いまでは深夜になっても蒸し暑く、ともすればのぼせ上がりそうだった。面覆いも外套もとっくに外して、荷物の奥にしまいこんでいる。暑さそのものには慣れているヨブでも、空気が孕んだ水気の多さにあてられて、疲労が増すように思われた。
 広大な岩砂漠は途切れ、足元はいつしか水を含んだ土へと変わっていた。風に流される砂でも、硬い岩の大地でもない。それはヨブにとって長いあいだ、世界の涯を象徴する、ひどく特異な光景だった。しかし、アシェリがやってきた砂漠の外では、ほとんどの地面はこのようにやわらかく湿って、風が吹いてもほとんど形を変えないのだという。
 だがアシェリの語る大地には、数え切れないほど多くの草や木が、見渡す限り繁っているということだった。比べていま彼らの足元には、ただ赤茶けた土ばかりが延々と広がっている。
 流れ落ちる汗を拭いながら、アシェリは辺りを見渡した。
「洞窟の中には苔が生えているのに、一歩外に出たとたん、草木の一本もないのだな。見れば地面は湿って、いかにも植物が芽吹きそうに見えるのに」
「夜でこそ、こうして外を出歩くこともできるが、昼間には湯を沸かす鍋の真上のように、熱い蒸気が満ちている。昨日の昼間にいた洞窟でも、ずいぶんと奥のほうまで潜っただろう。そうでもせねば、地上の熱気から逃れられないのだ」
「ここは、死の大地なのか」
 妙に深刻な顔つきで、アシェリがそう囁いた。だが、ヨブは首を振った。
「いいや。まったく生き物がいないわけではない」
「沸き立つ鍋の上のようだという、地上にもか」
 ヨブはうなずいた。嘘ではなかった。しかしいま、辺りは見渡す限り死のような静寂に包まれている。彼らの足音のほかは、風の音が響くばかりだった。アシェリは腑に落ちないという顔をして、もう一度、周囲を見渡した。
「だが、もう夜だというのに、まるで生き物の姿を見ないぞ」
「いまはな」
 素っ気なくいって、ヨブはそれ以上の説明をしなかった。アシェリは首をひねったが、さらに重ねて問うことはしなかった。
 一晩を歩きとおすと、赤茶けた崖に、縦に細長く切れ目が入っているのが見えた。細いといっても遠目に見ての話で、近づいてみれば、充分に人の通れる幅がある。ここは水や風の抉った洞穴ではなく、人の手で作られた空洞だった。
 ここからまた少し西へ進むと、本当に塩の採れる場所がある。だが、そこまでのあいだには、もう天然の洞窟がない。正確にいうと、かつてはあったのが、五十年ほど前に落盤で、すっかり埋まってしまったのだという。それでヨブの遠い祖先たちが、繰り返しここまで足を運び、夜のわずかな時間を縫うようにして、長い時をかけて人工の洞穴を作った。
「ここが最後の中継地だ」
 そういって、ヨブは洞穴の中に驢馬を押し込んだ。人の手で均一に掘られた洞穴には、かなりの奥行きと深さがあり、その奥では、岩壁から冷たい水が滲み出している。彼らは暗闇の中で水を汲んで、体を休めた。
 涯の海まではもうわずかな距離だ。しかし、いまからすぐに発って、夜明けまでに戻ってくるには時間が足りない。もうひとつ昼をやり過ごして、次に陽が沈んでから出立することになる。
「それにしても、すごい霧だな」
 アシェリが唸ったとおり、辺りは白い霧に満ちて、それは洞穴の中にまで忍び込んでいた。外に出たところで、もはや空に星の並びを正確に見出すことなど、望むべくもない。だがそれは、あらかじめわかっていたことだ。煮えたぎる海にほど近いこのあたりでは、いつでもあたりは霧に覆われている。その代わりに、濃い霧を透かして頭上に輝く月を頼りに、方角を知るのだ。そのために、満月の夜に到着するように日程を組まねばならなかった。
「ここまで来れば、海は間近だ」
「そうか」
 アシェリの声音は、どういうわけか、沈鬱に沈んでいた。あれほど来たがっていた場所が、もう目の前だというのに。
 量の少ない食事を終えると、ヨブは壁にもたれかかって眼を閉じた。
 アシェリは、まだこの地を目指した理由を、話してはいない。問いただすべきか、ヨブは迷った。銀に用がないというのならば、理由など何でもかまわなかった。だが長は、それでは納得しないだろう。
 しかし、どこか思いつめたように沈黙しているアシェリに向かって、無理に問い詰めることもためらわれた。
 迷ううちに、いつしか眠りに落ちていたらしい。やがて頬をなでる湿った風に起こされて、ヨブは体を伸ばした。洞穴にふたたび、白い霧が流れ込み始めている。夜がやってきたのだ。
 それからさらにしばらくの時を、二人は腹ごしらえをしながら待った。洞窟の奥深くでは、霧はただ湿っているばかりだが、外の熱せられた蒸気がほんとうに冷めるまでには、時間がかかる。
 干した果物は、最後のひとつを半分ずつにわけた。干し肉はまだ余裕があるが、人里のある場所に戻るまでのあいだ、帰り道の食事は、味気のないものになるだろう。
 やがて無言で身支度をして、ヨブは不安げに鼻を鳴らす驢馬の背を、なだめるように叩いた。そして自ら背負ってきた荷物のほとんどを、そのそばに置いて、水の袋とナイフだけを腰に括りつけた。
「こいつは、置いてゆくのか」
「目指す場所までは、じきだ。水だけを持って出ればいい。驢馬は、帰りに迎えに来る」
 説明すると、アシェリが同じように支度をする物音がした。
 二人は無言で洞穴を後にした。空を仰ぎ、丸い月の形と崖の地形とを見比べてから、ヨブは慎重に一歩を踏み出した。このような霧の中では、方向感覚はすぐに狂う。月と、おぼろげに見える地形だけが頼りだった。
 頻々に空を見上げながら歩くうちに、やがてほとんど何年ぶりかに嗅ぐ潮のにおいが、ヨブの鼻をくすぐった。濃い霧と前方の丘とに遮られて、まだ海はこの目に見えないが、あとは時間の問題だった。
 やがて、低くどうどうと響く音が、霧を越えて二人の耳に届き始めた。それは、地下洞窟にいるときにはるか足元から聞こえる音にも、どこか通じるものがあったが、それよりもさらに低く、そしてゆったりとした強弱があった。
「潮騒だ」
 アシェリは呟いて、耳を澄ませた。ヨブは驚いて、勢いよく連れの横顔を振り返った。それが潮騒だとわかるからには、同じ音を、かつて聞いたことがあるに違いなかった。
「お前は、海を見たことがあるのか」
「ああ」
 アシェリはあっさりとうなずいた。
「それならば、いったいなぜ道案内などが必要だったのだ」
 ヨブが納得のいかない思いを抱えて問うと、アシェリはかぶりを振った。
「俺が知っているのはもっと北の、冷たい海だ。見たかったのは、ここの海なのだ。ほかのどの海辺でもない、砂漠の涯の、灼熱の海だ」
 その声は、砂に嗄れたためばかりでなく、ひどく掠れていた。
 アシェリがかつて見たという、煮えたぎっていない海、北の冷たい海というものを、ヨブは想像しようとしてみた。だが叶わなかった。ヨブにとって海とは、いつでもぐらぐらと沸き返り、蒸気を吹き上げて先の見通せない、黒い水の溜まりのことだった。
 そして、見たかったというわりには、海辺に近づくにつれてアシェリの足取りは鈍く、重くなるようだった。それにつきあって、ヨブもまたゆっくりと歩いた。
 霧の向こうに透ける真円の月が、ぼんやりとした明かりを夜に投げかけている。辺りには潮騒と、二人ぶんの足音が響くばかりだった。
「あんたに鳥の名をつけたという親父さんは、どんな人だ」
 突然、アシェリがそのようなことを聞いてきて、ヨブは面食らった。
「さて。よくは知らないのだ。俺が生まれる前に、死んだというから」
 そうかとうなずいて、アシェリは何かいいよどんだ。
「そら。あの丘を越えれば、海が見える」
 おぼろげに霞む前方の丘を、ヨブが指さして見せると、アシェリは立ち止まり、その指の先をじっと見つめた。それから再び重い足を動かして、ゆっくりと歩き出した。
「俺の親父は、俺がまだほんのガキの頃を最後に、顔をみせなくなった」
 アシェリはヨブのほうを見ずに、正面の丘へと視線をやったまま、きれぎれに話しだした。
「もっともその前から、いつでも旅に出ていて、めったに村には立ち寄らなかったようだ。……風の民、というのだそうだ。俺のようにひとりで好きに旅をして回るのではなく、一族のすべてが一つところにとどまらず、つねに放浪しているのだという。それでもたまには顔をみせていたのだが、ある日を最後に、完全に消息が絶えた。行き先は、お袋も村のほかの連中も、まったく知らなかった」
 ヨブは黙ってうなずき、よけいな相槌をはさむことは控えた。アシェリが約束通り、この海を求めた理由を話しているのがわかったので。
 砂漠では、人はよく旅をするなと、アシェリはいった。
「とりわけ、あんたらのような商売人は。だが俺の故郷のあたりでは、人はめったに、旅などはしないものだ。どの父親だって、村の、すぐ近くの家に住んでいて、数日とあけず子どもらの顔を見に通ってくる」
 風が鳴り、二人の背中をゆったりと押していた。ヨブの知る限り、このあたりではいつも、風は海に向けて吹いている。アシェリは淡々と続けた。
「なぜ自分の親父だけが、いつまでも戻ってこないのか、なぜ遠くに旅に出る必要があるのか、俺にはわからなかった。近所のガキどもにもわからなかっただろう。お袋と俺は、親父から捨てられたのだと、皆が思っていたし、俺もいつからか、そう思っていた」
 小さく息をついて、アシェリは続けた。
「ずいぶんと時が経ち、やがてもう二度と戻ってはこないのだろうと、すっかり諦めた。俺はやがて、自らもあてのない旅に出るようになった。べつに、親父を探すという意識はなかったんだがな。だがそうなってみると皮肉なもので、最近になって、旅先で偶然、親父と同じ一族の人間に行きあったのだ」
 アシェリは言葉を切って立ち止まり、いっとき眼を閉じた。
「親父は最期に、この灼熱の海を目指したという。そうして煮えたぎる海へと入って、命を落としたらしいと、その人はいった」
 己の心臓が強く跳ねるのを感じて、ヨブは唾を飲み込んだ。だが、とっさに言葉は出てこなかった。アシェリはヨブの様子が変わったことに、気がついているのかいないのか、再び歩き出しながら、話を続けた。
「もし会うことがあれば、いってやりたい文句は山ほどあった。会えないままだったのは残念だが、もう死んだというものはしかたがない。せめて親父が最期に見た風景を、この目で見てみたいと、そう思った」
 丘の頂を踏みしめると、足もとにはもう海が見えていた。
 アシェリは口をつぐんで、眼下に広がる光景を見つめた。ヨブもまた、蒸気の立ち込める水面へと、視線を向けた。海といっても、その全貌が見通せるわけではない。もうもうと立ち上る白い蒸気の切れ間に、ときおりわずかに黒い波間がのぞき、月明かりを鈍く弾いている。
「……だが俺は、心のどこかで思っていたのだ。煮えたぎる海などというものは、面白おかしく誇張された話に過ぎないのではないか。その光景を見たものがいるというのならば、そこにも人が生きて通る道があるのだろう。それならば案外、親父はその海を渡って、海の向こうにある別の天地を、呑気に旅でもしているのではないか。胸のどこかでは、そんなふうに思っていたのだ」
 そうした話を、いままであんたに出来なかったのは、なんのことはない。そんなわけがないといって、あっけなく否定されるのが、怖かったからだ。灼熱の海がどうしたものなのか、あんたはとっくに知っているはずだから。アシェリは力の篭もらない声で、そのようなことをいった。
 波の音が轟々とうなり、しかとは見定めがたい水の存在を、強く主張している。風が渦巻き、熱い蒸気が二人に吹き付けた。
 ふ、と息をついて、アシェリは顔をこすった。どうやら、自分のいったことを、笑いとばそうとしたようだった。だがその息は低く掠れて、いかにも力のない音にしかならなかった。
「だがこのような海に入って、人が生きていられるはずがないな」
 アシェリは言葉を途切れさせて、ふと思いついたように座り込むと、そのままじっと海を見つめた。夜になってさえもうもうと蒸気を吹き上げる、灼熱の海を。
 ヨブは黙って、その隣に腰を下ろした。小高い丘の上から見下ろしていると、波濤の砕ける音が、轟々と地響きのように押し寄せてくる。立ち上る蒸気のせいで、ひどく蒸し暑かった。アシェリは黙り込んで、ただ爛々と光る目で、じっと海を見つめている。
 気が進まなかったが、確かめねばならなかった。ヨブは息を吸い込んで、重い口を開いた。
「お前の父親の名は、なんという」
 アシェリは振り返らないまま、力のない声で囁いた。
「イーハ。あんたたちのような、姓はない。ただのイーハだ」
 ああ。思わず漏れた息が、震えていた。ヨブは天を仰いで、手のひらで顔を覆った。
「その男をこの海まで連れてきたのは、俺だ」
 アシェリは振り返って、信じられない話を聞いたというように、ヨブを見た。それから言葉を捜して、何度か息を飲み込んだ。
「……だが、それにしては、あんたは若いだろう。親父が死んだのは、ずいぶん前のことだというぞ」
「ちょうど十年前のことだ」
 ヨブは答えて、眼を伏せた。アシェリの目を見て話せる自信がなかった。「俺は十五になり、ようやく一人前と認められたばかりだった」
 アシェリが絶句して己の横顔を見つめているのが、ヨブには見なくともわかった。
 波が砕ける音が響き、それに遅れて熱気が海より吹き戻ってくる。背後から吹き付けているのは、風ばかりだろうか。何者かの手のひらが、自分の背を海に向かって押しているかのように、ヨブには感じられた。
 やがてアシェリが、再び口を開いた。
「親父が死ぬところを、あんたは見たのか」
「いいや。だが……」
 言いよどんで、ヨブは唇を引き結んだ。それからゆっくりと、首を横に振った。
 問い詰めてくるかと思ったが、アシェリはどうしたことか、無言のまま、黒い海に視線を戻した。波頭がはじけて、蒸気を巻き上げる。風がときおり乱れて渦となり、また海に向かって吹きおりる。ただ座っているだけでも、のぼせそうに暑かったが、石のように動かないアシェリに付き合って、ヨブもじっと海を見つめていた。
 ヨブは言葉をさがして、話しあぐねた。何から話すべきか、どう話せばいいのか。語るべきことは、いくらでもあるような気がした。十年前、夜明けの名を持つあの男と、何について言葉を交わし、どんなふうにこの海までの道を辿ったのか。あるいはどのようにして、ひとりきりの帰路についたのかを。
 アシェリは父親について、何を知っていて、何を知らないのだろう。自分はあの男について、どれほどのことを知っているというのだろうか。
 考えれば考えるほど、言葉はみつからず、ヨブはじっと、何かを待った。何を待っているのかは、自分でもわかっていなかった。アシェリが口を開いて己を問い詰めるのをだろうか。あるいは夜が終わりに近づくのをか。
 だが、満月が中天を過ぎて緩やかに下り、やがて低い空に滑り落ちても、アシェリは口をきかず、ヨブが隣にいることも忘れたかのように、じっと海を見つめていた。
 その表情は、悲嘆に暮れているというには静かで、感傷に浸っているというには硬かった。
 気の済むまで待っていてやりたかったが、月がじきに沈もうかという頃になれば、そうもいっていられなかった。やがてヨブは立ち上がり、アシェリの肩を叩いた。
 アシェリは振り返らなかった。肩を叩かれたことにも、気づいていないかもしれない。それほど反応が薄かった。
「戻るぞ」
 ああ、と生返事をかえして、しかしアシェリは動かない。ヨブは月を見上げて、それから黒々とした水面を見た。さすがに蒸気はいくらか落ち着いて、海は、打ち寄せる波の動きが見て取れるほどになっている。
「どうしても離れがたいというのなら、いったん引き返して、また夜が更けてから来ればいい」
 帰り道を考えながら、ヨブはいった。食料の残りは心もとなかったが、幸い、洞穴まで戻れば水はある。だが、それでもアシェリは腰を上げなかった。ヨブは思わず、声を荒げた。
「お前が死に急ぐのは勝手だが、俺には待つ者たちがいる。こんな場所で死ぬわけにはいかないのだ」
 アシェリは振り返らずにいった。「先に戻ってくれ。すぐに追いかける」
 そういって海を見つめる眼は、感情の読めない、奇妙な色をしていた。それが一瞬、十年前の記憶と重なって、ヨブはとっさにアシェリの肩をつかんだ。そしてほとんど怒鳴るようにいった。
「俺に二度、死にゆく友を見捨てさせる気か」
 はっと顔を上げて、アシェリはようやく振り返った。その鳶色の瞳に、自分の顔が映りこんでいるのを、ヨブは見た。立派な戦士だと胸を張ってはいえそうもない、情けない顔を。
 アシェリはゆっくりと目を伏せて、悪い、と呟いた。掠れた声だった。それからようやく腰を上げて、海に背を向けた。


 一晩中座っていたせいか、アシェリはいくらか足元がふらつくようだったが、それでも自分で歩き出した。
「大丈夫か」
 歩きながら訊くと、アシェリはちらりと笑ってみせた。
「当たり前だ。べつに何も、薄情者の親父のあとなど、追うつもりはなかったさ。親が子のために命を懸けるというならわかるが、子が死んだ親のあとを追うなど、馬鹿げているにもほどがある」
 そういう口調は、もとのあっけらかんとした調子を取り戻していた。
 丘を越える前に、アシェリは一度だけ海を振り返った。じきに陽の光を受けて再びぐらぐらと沸き返るだろう、無慈悲な灼熱の海を。
 急いで引き返すうちに、薄くなった霧越しに、東の空が端のほうから赤みがかってゆくのが見えた。それもじきに白へと色を変えて、辺りは徐々に明るくなってゆく。途中からは走りに走って、二人は驢馬を置いてきた洞穴を目指した。話をする余裕もなかった。
 あと少しというところで、二人は太陽に追いつかれた。正面、洞穴のある崖の上から、白い鮮烈な曙光が朝靄を払って、彼らの視界へ飛び込んできた。じきにあたりは灼熱の大地へと変わるだろう。夜通し吹いていた風がさらに強まり、正面から吹き付けている。
「急げ!」
 いわずもがなのことを叫んで、走る速度を上げたヨブは、アシェリが何かに気を取られて足を緩めたことに気がついた。
「あれは、なんだ」
 アシェリが指さした先で、霧の合間の地面が蠢いていた。
 説明する余裕はなかった。ヨブは怒鳴った。
「いいから走れ!」
 走る二人の足元で、大地から緑の萌芽が顔を出して、見る間に丈を伸ばしてゆく。そこから葉が広がり、太陽の光を弾いて煌いた。
 草が次々と芽吹いていく。その周りを飛びまわる、虫のようなものも、流れてゆく視界の隅をよぎった。驚きにアシェリが息をのむのが、ヨブの耳に聞こえたが、かまってはいられなかった。
 洞穴の周りには、出るときには見かけなかった緑の草々が、朝陽を受けて葉を揺らしている。その上を駆け抜けて、二人は洞穴に飛び込んだ。
 それまでの眩しい光景とうってかわって、洞窟の中は暗かった。乱れた呼吸が収まるまで、二人はいっとき、無言で肩を上下させていた。
 奥のほうで驢馬がいななくのが、かすかに聞こえている。困憊した足を引き摺るようにして、ヨブは洞穴の奥へと向かった。そのあとに続きながら、アシェリが口を開いた。
「さっきの草、あれは、なんだったのだ」
「いっただろう、この辺りにも、命がないわけではないのだと」
 ヨブは言葉を切って、歩きながら水を飲んだ。喉がひどく渇いていた。アシェリはといえば、疲れよりも驚きが勝つのか、見えるはずもないというのに、何度も入り口のほうを振り返っている気配がした。
 俺も詳しいわけではないが、と前置きして、ヨブは説明した。
「あれはどうやら、ああした植物なのだ。普段は地の中に隠れている。だが、ふつう草木というものは、陽の光がなくては生きられないものだろう。だから夜明けの、まだ辺りが灼熱の大地へと変わる前のわずかな時間だけ、外に顔をのぞかせるようだ。次の日に外に出ると、すっかり枯れきって土にまぎれ、元の姿の想像もつかない」
 アシェリはいっとき沈黙していたが、やがてぽつりと呟いた。「あの断崖にも、同じような草が生えるのだろうか」
 ああ、多分な。うなずいて、ヨブは驢馬の足元においていた荷から、食料を取り出した。あの場所で夜明かしするつもりなどなかったから、一晩何も食べていない。ひどく空腹だった。
 包みを押し付けると、アシェリは黙って暗闇のなかで、それを手元に引き寄せた。硬くなったパンを、水で喉の奥に押し込むようにして、二人は食事をとった。
「さっき、あの草の生えていた場所を覚えたか。発つときに、少し掘ってゆこう」
「どうするんだ」
「食うのさ。地面の下の茎に、こぶのような芋がある」
 へえ、と感心して、それからアシェリは少し笑った。「空腹も忘れていたようだ。今ごろ腹が減っている」
「そうだろうな、あの様子では」
 呆れて見せてから、ヨブは水を飲み、そして息を吸い込んだ。今度は、話すべきことは自然に口から滑り出てきた。
「ずいぶん、寡黙な男だった」
 途端に、アシェリが神経を張り詰めてこちらの話を聞いている気配が、暗闇の中で感じられた。ヨブは語り急がないようにと、つとめてゆっくり話し出した。


 イーハという名は、夜明けという意味だと、あの男はいった。たしかに砂漠の夜明けを思わせる、濃い青の眼をしていた。涯の海を見たいという、その理由については、頑として話さなかった。ちょうど、昨夜までのお前のように。
 ただ、そうだな。後になって思えばひどく顔色が悪く、それに、痩せていた。年老いているようにも見えないのに、そのわりに皺が多く、もとからこれほど痩せていたわけではないのだろうと思ったのが、印象に残っている。いまにして思えば、もしかすると最初から、生きて戻るつもりがなかったのかもしれない。
 最初にいったが、とにかく口数の少ない男だった。こちらから何か話しかければ、じっくり考えて、言葉少なに返事をした。砂漠の旅には、あまり慣れていないようだった。まだ若造の俺から、あれこれと頭ごなしに指図をされても、ちっとも気を悪くする様子がなく、真剣に耳を傾けていた。
 あの男も俺の名を、いい名だなといった。
 言葉こそ足りなかったが、それは偏屈というよりも、言葉で語る前に行動であらわす男なのだと、俺の目にはそのように見えていた。さて、そうとはいっても、いまだ世間をろくに知らぬ、若造の目だったからな。どこまで当てになるかはわからないが。お前の目には、どのように見えていたのだ。……いや、いい。無理に話さなくても、いいさ。
 俺はあの男のことが、嫌いではなかった。お前の故郷でどうかはしらないが、そうした人間、行動で語る男は、砂漠では尊敬されるものだ。ああ、そうだな。誰にもいったことはなかったが、俺はあの男に、憧れていた。
 お前もそうだったように、イーハはこの海辺に近づくにつれて、ますます口数が少なくなっていった。あのとき、あの男はいったい何を考えていたのだろうか。あとになって何度も考えてみたが、いまでもよくわからない。
 イーハはこの涯の海までやってくると、さっきの丘よりもさらに先、あともう一歩を踏み出せば真っ逆さまに落ちるだろうという、断崖の際まで歩いていった。あの場所はいつも、海に向かって風が吹いている。危ないからよせと俺がいっても、それを無視して、ずっとそこにとどまっていた。吹き上げる蒸気が、熱くはなかったのだろうか。そうして何かを見通そうとするように、じっと視線を遠くへ向けていた。
 夜明けの色をした眼は、海面ではなくその向こう、涯の海のさらに果てを見通そうとしているかのように、俺の目には映った。どうせ蒸気のせいで、何も見えはしないというのにな。
 海の向こうに、いったい何があるのだろうな。あのような恐ろしい場所の先に、見るべきに値するような何かが、果たしてあるのだろうか。
 お前も、呆れるほど食い入るように、海を見ていたな。あれは、父親の面影ばかりを探していたのではあるまい。
 蒸気の吹き上げる海を見つめたまま、あの男は夜明けが迫っても、腰を上げなかった。何をどういっても、俺が痺れをきらして腕を引いても、かたくなにその場から動かなかった。そして、ひどく静かな口調で、俺に案内の礼を告げた。おかげでずっと見たかったものを、この目で見ることができたと、イーハはいった。ここまで連れてきてくれたことに感謝する、お前はもう帰るといい。お前の生まれ育ったというあのオアシスで、なすべきことがあるのだろうからと。
 ぎりぎりまで俺はその場にとどまって、あの男を説得しようとした。だがイーハは何をいっても、頑として耳を貸さなかった。殴り飛ばして、無理やりかついででも連れてゆこうかと思ったが、大の男、それも自分よりもよほど体の大きな男をかついで、陽の昇る前に戻ることなど、到底できないと思った。だからといって、一緒に死んでやるわけにはいかなかった。
 俺は友を見捨てて、夜の海辺に背を向けた。
 次の晩、再びあの海辺に戻って、俺は誰もいない崖を見た。あの男の座っていた場所のすぐそばまでいってみたが、そこには、あの男がいたという何の痕跡も、見つけることはできなかった。海を覗き込んでもみたが、お前も見たとおり、あの蒸気だ。いくら目を凝らしても、靄の向こうに、何も見いだすことはかなわなかった。
 あの夜明け、友を置いてひとり逃げながら、黎明のなかで、諦めきれずに何度か振り返った。やがてずいぶん遠ざかった頃に、イーハが俺のほうを振り返って、ゆっくりと手を振った。その顔は、どうしたわけか、微笑んでいるように見えた。
 あの笑みの意味が、お前にわかるのならば、俺に教えてくれないか。イーハの息子よ。


 暗闇に慣れた目に、アシェリがゆっくりと首を振ったのが映った。長らく会ったこともない父親の心がわからずとも、当然のことだ。ヨブは短く謝って、口を閉じた。
 息子がいるということを、イーハは話さなかった。このような地の果てで、たったひとりで最期のときを迎えるよりも、なぜ故郷に帰って、この男に顔をみせてやらなかったのだ。ヨブは十年越しに、胸のうちで友の面影に呼びかけたが、当然ながら暗闇の中からは、何の答えも返ってはこなかった。
「さあ、もう休め。外が冷えたら、今夜は出立を急ぐぞ。芋も掘らねばならないからな」
「ああ、そうだな」
 そういってすぐに横になったわりには、アシェリはなかなか眠れないようだった。硬い岩の上で何度も寝返りをうつ気配を、ヨブは聞いた。
「寝付けないのなら、驢馬の腹を枕にして眠るといい」
 見かねてそう声をかけると、返事は返ってこなかったが、黙ってそのようにする気配があった。
 暗闇に沈む岩天井をみつめながら、ヨブは十年前の帰途を思い出していた。
 ひとりきりでオアシスに戻ったヨブに向かって、長は厳かにうなずいて、よくやったと、そういったのだ。
 俺は殺してはいないと、ヨブはいった。だが長は、わかっているとうなずいて、満足そうに微笑むばかりだった。その眼を見て、それ以上の言葉を、ヨブは飲み込んだ。
 長は、ときにぞっとするほど冷酷になる。しかしそれは、故なきことではない。その残酷さは、オアシスを守るためにこそ発揮されるものだ。ヨブにもそのことはよくわかっている。
 だがそれでもあのとき、ヨブは声を上げていいたかった。俺があの男を殺したのではないと。


 帰りの道もまた、長かった。同じだけの日数をかけて岩砂漠を越え、オアシスを辿らなくてはならない。ヨブは星を見上げながら、胸のうちで旅立ってからの日数を数えた。
 アシェリはもとの陽気な男に戻り、道々、見かける生き物や、星の名前など、思いつく端からヨブに訊ねた。
「それにしても、わかったようなことをいいたくはないが……」
 話が途切れたとき、ヨブは前置きをして、それからいった。「父親というものは、勝手なものだな」
 己の口からこぼれ出てみれば、言葉はあまりにも空疎だった。ヨブは口に出したことを後悔しながら、空を仰いだ。
 北の空には、ほのかに赤みをおびたアス・ディハル《三の導きの星》が、煌々と輝いている。言葉はいつでもむなしく、ただ星だけが、変わらずたしかな道を示してくれる。
 だがアシェリは、思いのほかに静かな声で、話の先を促してきた。「あんたが生まれる前に死んだという親父さんのことか」
 ヨブはかぶりを振った。残されるわが子のことを思いもせずに、さっさと死んでしまう男たちのことも、勝手といえば勝手に違いなかったが、頭にあったのは、そのことではなかった。
「いいや。俺は、不義の子なのだ。……俺の父は」
 言いよどんで、ヨブは唇を湿した。それから続けた。
「俺の父親は、戦で死んだ男ということになっている」
 それは、部族の人々の前では口に出来ないことだった。だが、いや、だからこそ、この男に聞いてほしいような気がした。
「だが、皆が知っている。それでは計算が合わないということを。そして長が、夫を失ったばかりの母のもとを、何度となく訪れたことも」
「では、あんたに名前をつけたのは……」
 ヨブは皮肉に笑って、アシェリの言葉をひきとった。「いつか息子が生まれたら、ヨブと名づけよう。そう話していたという、亡き夫がつけた名を、母はそのまま、不義の子へと与えたのだ。そ知らぬ顔をして」
 オアシスで帰りを待つ老母の顔を思い浮かべながら、ヨブは眉を寄せた。
「女が外を出歩くのが当たり前だと、お前がそういったとき、俺はそのことを馬鹿にしたな。だが、女を家の中に隠したところで、何のことはない、それでも俺のようなものは生まれる」
 驢馬が水を求めて、顔をすり寄せてきた。ヨブは休憩にするぞといって、まだ熱のなごりの残る岩の地面に腰を下ろした。
 火を熾し、残り少なくなった珈琲の用意をしながら、アシェリが珈琲の苦さにたびたび顔をしかめていたことを、ヨブはふと思い出した。「お前は白湯にするか」
「いいや、だんだんその苦いのが、くせになってきた」
 アシェリは笑ってそういった。部族に独特の、とびきり香りの立つやり方で珈琲をいれながら、ヨブは軽い調子を作っていった。
「それにしても、女とは怖ろしいものだ。口を拭ってこれは誰それの子だといえば、それで通ってしまうのだから」
「ははあ。どのような土地にいっても、そればかりは変わらないものか」
 ヨブの意図につきあって、アシェリは声を立てて笑った。それからやはり苦そうに、珈琲をちびちびと舐めた。
「しかし、お前たちのように女が家を継ぐのであれば、相続には争わずに済むかもしれないな」
「いや、どこでもそうしたことは、こじれるものさ。女が生まれず、家が絶えることもあるし」
 アシェリはそういって、にやりとした。「じつは俺のところが、まさにそうだ。生きている間に、片付け方を考えておかねばなるまいよ。とはいえ、あるのは小さな家がひとつばかりだ。まあ、娘にやってしまうだろうなあ」
 面倒ごとのようにいいながらも、目を細めるアシェリの声は、楽しげなものだった。
「なんだ。お前、娘がいるのか」
 あきれてヨブがいうと、アシェリはうなずいて、北の空を仰いだ。そちらに故郷があるのだろう。
「ああ。まだほんのガキだが。そろそろ一度戻って、顔をみせてやらねばなるまいな。ふ、しばらく見ない間に、でかくなっているんだろうなあ」
 まったく父親というのは、つくづく身勝手なものだ。アシェリはヨブのいった言葉を繰り返して、くつくつと喉で笑った。
「それならば、さっさと帰ってやれ」
 呆れ混じりにそういいながら、ヨブはため息をついた。アシェリはそうだなと笑って、顔を上げた。
「お、あれはなんだ」
 アシェリが指さしたのは、遠い崖にのぞく、古い廃坑の入り口だった。もう使われていないもので、特別に知られて困るものでもない。ヨブは説明してやりながら、つくづく呆れた。
「それにしてもお前、そのように好奇心をむき出しにしていては、嫌がられることも、物騒な目にあうこともあるだろう。興味のないふりも肝要だぞ。秘密を探られたくないものは、ときに過剰なほどに、慎重を期するものだ」
 そう言いきかせると、アシェリはにやりとした。
「ああ、あんたも、何度か物騒な顔をしたものな」
 ヨブはぎょっとして、思わず顔をこすった。
「そうか?」
「ああ。……だが俺は別に、あんたらの秘密だかお宝だかに、興味はないぜ。何を隠したがってるのかは、まあ、聞かないほうがいいんだろうな」
 両の掌をひらひらさせて、アシェリは人の悪い笑い方をした。思わずため息をついて、ヨブは首を振った。
「お前は案外、油断のならないやつだな」
 アシェリはからからと笑って立ち上がり、外套の土ぼこりを払った。


 迷った挙句、ヨブはファナ・イビタルよりもひとつ手前のオアシスで、アシェリと道をわかつことにした。
 長が、アシェリを生かして連れ帰ったことをどう受け止めるか、そのことを考えたとき、心配はいらないと説得できるだけの自信はなかった。長が話を信じた振りをして、その晩にアシェリの枕元に蠍の二、三匹を忍び込ませたとしても、自分は驚かないだろうとヨブは思った。
 本来であれば、砂漠の旅は隊商とともにゆくのが一番安全だ。危険な獣もいれば、道に迷うおそれもある。信頼の置ける商人に渡りをつけて、砂漠の外まで安全にゆけるように、交渉してやりたいところではあった。
 だがヨブはアシェリに星の辿り方と、食料や水の按配を細かく言い聞かせて、ひとりでゆかせることにした。つきあいのある商人に頼めば、いずれ長の耳にも入りやすくなるだろうから。もっとも、どことも知れぬ遥かな故郷に向かった人間を、追うすべもないだろうとは思えたが。
 満天の星空の下、荷を担ぎなおしながら、アシェリはいった。
「案内人が、あんたでよかった」
 親父の話も聴けたことだしなと、アシェリはそんなふうに笑って、名残惜しそうに、いっとき驢馬の腹をなでた。
「気をつけてゆけ」
「ああ。また会おう」
 そういって手を差し出したアシェリに、ヨブは思わず苦笑した。もう会うこともないだろうに、それでもそのようにいうのが、砂漠の外の流儀なのかもしれなかった。だがヨブは、アシェリの手を握り返しながら教えた。
「このあたりでは、こういうのだ。星の導きが、お前とともにあるように、と」
 アシェリは破顔して、同じ言葉を繰り返した。
 何度となく振り返りながら、アシェリは宵闇に包まれた砂漠の道なき道を、ゆっくりと遠ざかっていった。
 その姿が遠く離れ、とうとう見えなくなると、ヨブは驢馬の背を叩いて、自らの帰るべきオアシスへと足を向けた。それから胸のうちで独りごちた。さて、怪訝な顔をするだろう長へと、下手な話を聞かせてみせねばなるまいな。あの男が秘密をかぎつけて吹聴する心配はもういらないと、納得してもらうためには。

(終わり)

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