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 ――仁、仁。ちょっと聞いてちょうだい。
 母親の、べっとりと耳に貼りつくような声に、仁は顔をしかめた。
 彼の返事を待たずに、母親は話しはじめる。いつものことだった。
 ――義姉さんったら、ひどいこというのよ。苦労知らずのお嬢様は金銭感覚も違うわねですって――わたしはただ周りに恥ずかしくないようにって……
 母親の口から滔々と流れ出る際限のない不平は、たわいのない愚痴をよそおっていても、にじむ毒の強さが、いつも彼を閉口させる。
 他人への批難以外の彼女の言葉を、仁はひとつも覚えていない。
 彼女の話の中では、母はいつも善良な被害者で、そのほかの人間はすべて、彼女へいわれなき悪意をぶつけてくる、恐ろしい怪物だった。
 わずかでも反論すれば、ますます歯止めが利かなくなる。自分で自分の言葉に興奮して泣き叫ぶことまであった。まあ、なんてことをいうの、どうしてそんなひどい子になったんだろう――そうよ、だいたいあんたは昔っから人の気持ちっていうものがわからない子だった――
 いつからか、聞き流すことばかりがうまくなった。母はあいづちさえ必要としていなかった。話しているあいだ、反論しない誰かが目の前にいさえすれば満足なのだ。
 人形でも目の前に置いて、それに向かって気のすむまで話していればいい。
 一度、口に出していったことがある。母親はヒステリーを起こして暴れ、彼は三針縫う傷を腕に負って、家の中は嵐に巻き込まれたような在り様になった。
 母の不平は、義姉のことから彼の担任の女性教師へとうつり、それからメディアに近ごろよく言動を取りあげられる女性議員に向かった。彼女の悪意は、わけても世の女という女に向いているようだった。その悪意が毒になって自分の体にしみこんでいく錯覚を、この頃よく覚えた。
 ――母さん、これ、見といて。
 姉の声がして、彼は顔を上げる。高校の制服を着崩した姉が、リビングの端末に、何かの書類を表示させているところだった。
 母はそれに返事をするどころか、一瞥もくれなかった。姉に話しかけられたことなどなかったように、まったく変わらないトーンで、彼に向かって話し続ける。
 ――そりゃあね、わたしも気の毒とは思うわよ、義兄さんのところは経営が大変だっていうし――だからって、そんないい方することないじゃない――
 彼はもう母親のことを見てはいなかった。その背後に立っている、姉を見つめていた。
 姉もまた、じっと彼を見ていた。恐ろしいほど感情のない眼つきだった。
 彼女がわかりやすい嫉妬や憎悪の色さえ、表情に出さなくなったのは、いつごろからだっただろう。
 ふっと踵を返した姉は、軽い足音を立てて、階段を上っていく。階上に姿を消す直前、一瞬だけ、その顔が振り返った。
 姉はうっすらと、微笑んでいた。敵意も、同情も、失望も、なにひとつそこには読みとれなかった。

 背中にいやな汗を掻いていた。
 ジンは呻いて、身じろぎをした。腕から伸びる点滴用のチューブがひきつれる。大げさなことだ――思わず苦笑が漏れる。中身はただの栄養剤だというのに、点滴に繋がれているというだけで、なにか自分が重病人にでもなったかのような気がする。
 息をつくだけで、体の節々が痛んだ。眼に汗が入る。白々とした天井が、ぼやけて滲む。
 いやに古い夢を見たのは、熱があるせいだ。
 体を起こすと、医療用ロボットがカメラアイを点滅させて、警告を発してきた。医師も看護師もあまりやってこないが、彼の体調は別室でモニタされているはずだった。
 病室は静まりかえっている。静寂がストレスになるということを、ジンは久しぶりに思いだした。
 このごろでは、朝から鳥の鳴き声で目が覚めることが多かった。少し前に、寮の裏庭に植えてあった背の高い木に、エトゥリオルが巣箱を取りつけた。ジンが見守る前で、作業を終えたエトゥリオルが喉を震わせて声を立てると、空を舞っていた小鳥が、まっすぐに滑空してきて、そのまま中に入った。
 あの鳥は、まだ居ついているだろうか。
 視線をずらせば、その先には小さな窓がある。リハビリテーションセンターと同じ、嵌め殺しのものだ。
 防疫上の理由だとわかってはいたけれど、その開きもしない小さな窓を見ていると、つい、別のものを連想してしまう。精神病棟の、自殺防止のための窓。
 妙なことを考えるのは、体調のせいだ。
 ジンは無理やり思考を止めて、眼を閉じる。ずいぶんと眠っていたはずなのに、すぐに眠気がさして、意識が頼りなく揺れる。また楽しくもない夢を見るような予感がした。

  ※  ※  ※

 ジンが医療センターに搬送されて、丸二日になる。
 エトゥリオルは医務室の前で、ひとり、途方に暮れていた。ジンのようすが訊けないかと思って、仕事がひけてからハーヴェイに会いに来てみたのだが、あいにくと医務室は無人だった。
 代わりに出てきたのは円筒形の医療ロボットで、そいつは合成音声の英語のあとに続けて西部公用語(セルバ・ティグ)で、どうされましたかと彼にたずねた。
 エトゥリオルは返答に窮した。口ごもって、ロボットのカメラ=アイと見つめ合う。ロボットが質問をもう一度繰り返して、ようやくエトゥリオルは、ハーヴェイに会いにきたのだと、英語で伝えた。
 医療ロボットは胴体側面に文章を表示させて、同時に音声でもその内容を読みあげた。医師不在につき、軽度の負傷については医療ロボットで対応中――緊急時は中央医療センターへ通報のこと。
 ご丁寧に通報ボタンまで表示させて、医療ロボットは所在なさげに動きを止めた。エトゥリオルの返事を待っているらしかった。
 エトゥリオルのほうは、もっと所在がなかった。どうやってこのロボットに引き取ってもらえばいいのかわからない。
 一体とひとりはいっとき途方にくれて、見つめ合ったまま立ちつくした。
「――リオ?」
 呼ばれて振り返ると、当のハーヴェイが廊下を歩いてくるところだった。ほっとしたようすのエトゥリオルと、足元の医療ロボットを見くらべて、ハーヴェイは笑った。
「ああ――医療センターに行ってたんだ。医者の数が足りないもんだから、未知の病気が見つかると、僕みたいな産業医までいちいち呼びつけられる」
 患者がうちの社員だからっていうわけじゃなくてねと、ハーヴェイは苦笑した。口調はいつものように明るくても、その顔が疲れていることに、エトゥリオルは遅れて気がついた。
「原因、まだわからないんですか」
「うん――これじゃないかっていう目星はついてきたんだけど、その先がなかなかね。……中でちょっと話していかないか。ジンの様子を聞きにきたんだろ」
 いって、ハーヴェイは医療ロボットの胴体に触れる。パネルに何かのコードを打ち込むと、ロボットはカメラ=アイを点滅させて、おとなしく引っ込んでいった。
 事務室に入ると、ハーヴェイはエトゥリオルに椅子をすすめて、自分は一度デスクに向かって、端末を立ち上げた。仕事が溜まっているのだろう。ざっと目を通してから、急ぐ案件はなかったのか、ディスプレイから視線を外した。
 落ち着かずに身じろぎしているエトゥリオルの様子をみて、ハーヴェイは笑ってみせる。
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ。熱もそんなにすごく高いってわけじゃないし、症状自体は、大したことないんだ。治療法が見つかるよりも先に、自力で治しちまうんじゃないかな」
 エトゥリオルはじっと、ハーヴェイの眼を見た。その言葉を真に受けていいのか、それとも彼を安心させようとしてそういっているだけなのか、わからなかった。
「だいたいあいつは、たまに風邪くらい引いたほうがいいんだ。こんなことでもなけりゃ、自分の体も、機械か何かと思ってるようなやつだから」
「――でも、入院なんて」
 ああ、と納得したように、ハーヴェイはうなずく。「そうか、君らは入院なんていったら、もう生きるか死ぬかだものなあ」
 防疫といった概念自体が、トゥトゥにはなじまない。三日も閉じ込められて飛べずにいれば体調を崩す種族にとって、隔離という考え方はないのだ。
「本当に、大丈夫だよ。僕らはこっちの病原体については抗体をほとんどもたないから、たいしたことなくてもいちおう大事を取って、対抗手段が見つかるまで、なるべく感染が広がらないようにしてるだけなんだ。万が一にも重篤化したときに、薬の開発も何も間に合わなかったら、おおごとだからね」
 他にも何人か発症者が出ているけれど、いまのところ誰も、命にかかわるような重い症状はないと、ハーヴェイは説明した。
 話しながら微笑んではいたけれど、ハーヴェイのようすが、いつもとどこか違うような気がして、エトゥリオルは身じろぎをした。多忙で疲れているせいだろうか。
「だけど、まあ、隔離しても無駄になるかな」
 ふっと、ため息のように、ハーヴェイはいった。隈の浮いた目頭を揉んで、椅子に深く腰掛ける。「今日、また新しく感染者が出たそうだよ。まあ、このまま広がっちゃうだろうね」
「そんな……」
「――仕方ない部分なんだ。僕らはこの惑星にとって異物だし、自分たちの生まれ育った星を離れて暮らすっていうのは、そういうことだ」
 病気に罹って、そのたびに治して、抗体を作り上げていくしかないんだと、ハーヴェイはいった。旅行とでもいうならともかく、この先もずっとこの惑星で生きていくつもりなら、そうやって長い時間をかけて、適応していくしかないのだと。その話は、エトゥリオルにも理解できるような気がした。
「追いつかなくて死者が出ることもあるだろうけど――でも、それは本来、あたりまえのことだし、ね。へたに医療が進んだせいで、僕らは病気で死ぬっていうことから、遠ざかりすぎた」
 途中からは、ひとりごとのような口調だった。ハーヴェイは、ふっと、皮肉っぽく笑う。「出向組の連中には、僕がこんなこといってたなんて、教えないでくれよ。問題になっちまう。――何年かで地球に帰るつもりのやつらからしてみたら、そんなの医者の怠慢にしか聞こえないだろうし、たまった話じゃないだろうから」
 薄情だって叱られちまうといって、ハーヴェイはおどけてみせる。その顔も、声の調子も、たしかに笑っていたけれど、なぜかエトゥリオルには、彼が悲しんでいるように見えた。
「薄情だなんて」
 エトゥリオルが首を振ると、ハーヴェイは一瞬、ふっと影に落ち込むように、暗い眼をした。
「僕は薄情者さ。友人が病気で伏せっているときにまで、こんなことをいってるんだから」
 エトゥリオルはとっさに声を上げた。「ほんとうに薄情なひとだったら、そんな顔はしないと思います」
 いってしまってから、エトゥリオルは慌てて冠羽を揺らした。何をわかったようなことを、と自分で思った。
「――あの、すみません……僕」
 眼を丸くしているハーヴェイに、なにか言い訳をしようとして、エトゥリオルは口ごもった。
「いや――ありがとう」
 ハーヴェイはそういって、手のひらで顔をこすった。それからいっときして、ぽつりとつぶやいた。「なんだろうな、君にはどこか、話を聞いてもらいたくなるようなところがある……」
 ありがとう。もう一度いって、ハーヴェイは何度か目をしばたいた。エトゥリオルには、黙って首を振ることしかできなかった。

 ジンは大丈夫だよ。もし何か状況が変わったら、すぐ知らせるから。
 そういったハーヴェイは、少し仮眠をとったらまたセンターに戻るのだといった。
 心配する以外にできることが、驚くほど何もない。エトゥリオルは事務室を出て、とぼとぼと歩く。
 ジンが入院している医療センターへの行き方は、エトゥリオルにもなんとなくわかるが、面会は禁止といわれている。病原体を拾って持ち帰らないための措置だそうだ。
 エトゥリオルは肩を落として支社を出た。寮まではすぐだけれど、なんとなく一人の部屋に戻る気になれなくて、反対の方向に歩きだす。
 今日はちょっと風が強い。視線を上げて雲の流れをたしかめてから、エトゥリオルはふっと、不思議な気分になった。そういえば近ごろ、あまり空を見上げなくなった。
 マルゴ・トアフの街並みは、いつも驚くほどにぎやかだ。仕事帰りに食事をするもの、浮き立ったようすで買い物に出かけるもの、連れだってシアターに入ってゆくもの。ほかの町でも似たような光景は見られるが、トゥトゥは空から町を見下ろすから、看板も広告も、地上にはほとんど見られない。
 このごろエトゥリオルは、街中をとりとめもなく歩く習慣が身についた。賑わう中を歩いているだけで、なんとなく気が晴れるような気がする。
 エトゥリオルはふと気が向いて、初めての道に足を踏み入れた。メインストリートを逸れても、どの裏道にもそれなりの広さがあるし、それに、街灯が等間隔にきちんと整備されている。表示もあちこちにあって、道に迷う心配がない。
 いったいどこから運ばれてくるのか、土のにおいがしている。エトゥリオルは不思議に思って、あたりを見渡した。
 一般的なトゥトゥの町と違って、ここでは水や空気を通す特殊な樹脂で、地面を固めてある。地表にあまり土ぼこりが立たないのは、そのためだ。この町ではなにもかもが、歩いて暮らすひとびとにあわせて作られている。
「ねえ、ちょっと、そこの君」
 急に横合いから声がして、エトゥリオルは立ち止まった。聴き覚えのある声だった。
 振り向くと、塀の上に、テラ系の女性の顔が突き出していた。お下げからはみ出した金髪が風に踊って、あちらこちらに跳ねている。エトゥリオルは思い出した。いつか食堂で会った女性だ。レイチェル・ベイカー。
「僕、ですか?」
「そう。――きみ、ええと、エトゥリオル? 業務外で悪いんだけど、ちょっと手を貸してもらえないかしら。この風で、授粉前に花が落ちそうなのよ」
「あ、ええと――はい」
 素直に門に向かうと、塀の向こうには、畑が広がっていた。さきほどからの土のにおいは、これだったらしい。
 けっこうな広さがある。まだ種を植えられたばかりなのか、何も生えていない畝もあれば、採りごろを迎えて実の重さに耐えかねたように垂れる枝もある。女史の周囲では、農作業用ロボットが黙々と作業を進めていた。
 見れば彼女は手にビニールシートを持っている。エトゥリオルは駆け寄って、シートの一方を持った。
「助かるわ。この子たちだけじゃ追いつかなくて――ほんとうは、人間が手を貸さないでも勝手に育つ環境をつくるのが理想なんだけど、なかなか本職のようにはいかないわね」
 本職というのは、トゥトゥの農家のことだろう。ベイカー女史は日焼けした腕で、勢いよくシートを引いた。
 トゥトゥの農法は、地球のそれよりもずっと優れていると、女史は話した。地球では経済性ばかりを考えて、ひとつの土地で一斉に単一の作物をつくる農法が主流なのだと。
 それに対してトゥトゥは、かならず混栽をやる。その組み合わせが肝心で、一緒に植える作物同士や、周囲の生態系との相互の作用を緻密に把握することによって、農薬も化学肥料にもほぼ頼らずに土を肥やし、作物の育成を助け、病害を最低限に抑えてしまう。そういう技術は、地球でも研究はされているけれど、なかなか広がらないのだそうだ。
 一度計画を立てて、そのとおりに植えてさえしまえば、あとはひとの手をほとんどかけずに、安全性の高い作物が大量生産される。そういうトゥトゥのやり方を学んで向こうに伝えたいのだと、女史はいった。おいしい野菜を作ってみせると、前にいっていたけれど、それだけが目標ではないらしかった。
 作業の手を止めず、何度となく風にさえぎられながらの話だった。畑は、通りからのぞいたときの印象以上に広い。
「これだけぜんぶ、おひとりで管理されてるんですか?」
「いつもは三人なのよ。ひとりは交替で寮に帰して、もうひとりはちょうど出張中――あとは、この子たちね」
 いって、ベイカー女史は農作業ロボットたちを示した。さまざまな形の機械が働いている。いまは動いていないものも含めれば、かなりの数があった。
 はじめは話しながら手を動かしていたが、やがて作業に没頭して、黙りがちになった。
 それにしても、地道な作業だった。けれど、エトゥリオルは単純作業がきらいではない。頭を空にして、黙々と体を動かすのは、気持ちがいい。
 作業がひと段落するころ、自分をじっと見つめる女史の視線に気づいて、エトゥリオルは戸惑った。
「――あの、僕、なにか変なことをしましたか」
 女史は首を振って、にっこりと笑った。頬に泥がついていて、乱暴に手でぬぐったのか、筋になっている。
「あなた、トゥトゥにしては根気強いわ――珍しいタイプね」
 褒められて、エトゥリオルは困惑した。「そうですか?」
 ベイカー女史は、妙に嬉しそうにうなずいた。
「いいことよ」
 根気強い、という部分のことかとエトゥリオルは思ったが、女史は違うことをいっているらしかった。「変わりものっていうのは、重要な特質だわ」
 いって、女史はひとりでうんうんとうなずいている。
「――そう、でしょうか」
 あいまいに首をかしげたエトゥリオルに、女史はきっぱりとうなずく。
「大事なことよ。生物の群れとしては。――覆いはこんなもので大丈夫そうね。ちょっと温室で、お茶でもしていかない?」
 エトゥリオルはその誘いに乗った。
 女史の温室は、みごとなものだった。多様な作物が、のびのびと葉を茂らせている。背丈も葉の色つやも、そのあたりの畑ではなかなか見かけないような勢いだった。
 出された茶は、変わった味と香りをしていた。エトゥリオルが首をかしげると、ベイカー女史はがっかりしたように肩を落とす。「口にあわなかったかしら」
「いえ、おいしいです――初めて飲む味だったので、びっくりして」
「そうでしょう。ベイカー謹製、オリジナルブレンドよ――でもまあ、まだまだ改良の余地ありね。トゥトゥにも地球人にも美味しいものを、目下、模索中なのよね」
 いって、女史はにっこりと微笑んだ。
 一定のマイノリティを含むことが、群れ全体の生存確率を上げるというようなことを、レイチェル・ベイカーは滔々と語った。彼女が生物学者だという話を、エトゥリオルはようやく思い出した。
「――まあ、そんなふうにいうのは、強がりもちょっと、入ってるけどね。わたしもよく、変わりものっていわれるから」
 エトゥリオルはうなずきかけて、慌てて首を止めた。気を遣わなくてもいいのよといって、女史はくすくすと笑う。
「子どものころは、草木や動物とばっかりお話ししててねえ――まあ、小さい子どもなら、それもほほえましいで済むけど、あいにくと育っても、なかなか人間らしくならなくて」
 母親をずいぶん心配させたと、女史は笑って話した。
「大人になって、世間にあわせるということもそれなりに覚えたつもりだったけれど、でも、やっぱり駄目ね。こっちにきたら、自分がそれまでどれだけ無理してたのか、いやになるほどわかったわ」
 そういってから、ふっと、女史は真顔になった。「向こうでね、あなたのお仲間が鳥と話している映像を見たとき、すごく羨ましかった――それからわたしはずっと、ここに来たかったの。よく空想したわ。もし自分があの星で、トゥトゥとして生まれていたらどんなだっただろうなんて」
 懐かしむように目を細めて、女史は空を見上げる。温室のガラス張りの天井からは、星空がよく見える。
 まあ、そういうわけで、と女史はいった。
「ここまで来るような連中は、たいていご同類なのよね。まあ、あたりまえといえばそうなんだけど。地元で順風満帆に暮らしてたら、親類も友達もみんな捨てて、こんなおいそれと地球に帰れないような場所に移り住んだりなんて、なかなか思いきれないもの」
 そういうものかもしれないと、エトゥリオルは思った。自分がもし、当たり前に空を飛べる普通のトゥトゥだったら――たとえば恋人がいて、たくさんの友人がいたならば、この街で働こうとまでは思わなかったかもしれない。テラからヴェドにやってくるほどの距離ではないけれど、多くのトゥトゥにとって、マルゴ・トアフは縁遠い場所だ。
 だから、変わりものは大歓迎。そういって、女史は微笑む。
「だけど、ちょっと不思議な気もするのよ。ひとりひとりを見たら、わたしたちよりもトゥトゥのほうが、享楽的っていうか――失礼、言葉が悪くて申し訳ないんだけど、地道な苦労に耐えるとかって、好きじゃないように見えるのよ。でも歴史とか、社会全体のことを見たら、あなた方のほうが急な変化を嫌う傾向があって、わたしたちのほうがすぐ、短絡的に新しいものに飛びつくのよね」
 首をかしげて、ベイカー女史はいう。「社会学者の人たちが、とっくに論文でも書いてるかもしれないわね。こっちにきてから野菜の相手で毎日いそがしくて、すっかり報道なんか見なくなっちゃったわ」
「――いいですね」
 自分の口からとっさに言葉に、エトゥリオルは驚いた。女史が面白がるように首をかしげる。
「社会情勢に疎くなるのが?」
「ええと、うまく言えないんですけど……」
 考え考え、エトゥリオルは言葉を探す。「手で土に触って、天気と生き物を相手にする仕事が、かな」
「地に足のついた暮らし、っていうやつかしら」
 いって、ベイカー女史は笑う。「自分の仕事の成果が眼に見えるっていうのは、まあ、いいものね。そのかわり駄目なときも、はっきり眼に見えちゃうけど」
 そうかもしれないと、エトゥリオルは思った。
 すっかり暗くなった外を見て、ベイカー女史は肩をすくめた。「わたしは今日は、ここで泊まりこみ。あなたはそろそろ帰ったほうがいいんじゃないかしら?」
 いわれて、エトゥリオルも外を見た。たしかにもう遅い。寮には門限のたぐいはないが、地球人はトゥトゥよりも眠る時間が長いから、夜中にはなるべく大きな物音を立てないようにといわれている。
 女史は温室の出口までエトゥリオルを見送りながら、歯を見せて笑った。
「今日は手伝ってくれて、助かった。報酬は現物支給でね。そう遠くないうちに、とびきり美味しい野菜を届けにうかがうわ」

 寮に向かって歩くあいだ、マイノリティの意義というベイカー女史の言葉について、エトゥリオルは考えた。群れの生存率、という言葉は、彼にとっては新鮮だった。
 その生息域に最適化されすぎた群れは、環境の変化でたやすく絶滅する――群れに多様性が保たれるのは、生物としての本能だと、女史はいった。
 自分のようなものが生まれてくるのにも理由があるのだとしたら、とエトゥリオルは考える。群れからマイノリティをはじきだそうとする集団の力学は、どこから発しているのだろう。それもまた、生物が生き残るための知恵だろうか?
 寮について、すれ違うテラ系の知人と声をかけあいながら、エトゥリオルはまだそのことを考えていた。寮住まいのトゥトゥは、あまり彼に話しかけない。
 けれどそれも、お互い様だった。エトゥリオル自身にとっても、自分から声をかけるのには、トゥトゥよりもテラ人のほうが敷居が低い。自嘲して、エトゥリオルは自分の部屋に戻る。
 寮の食堂はまだ開いているが、食欲があまりなかった。もともと彼はあまり食べるほうではない。ふつうのトゥトゥは、一日に五回は食事を摂るけれど、飛ばないエトゥリオルは、そんなに食べてもエネルギーを使う場所がない。
 生まれてくる場所を間違えたのは、自分のほうだ。
 ヴェドで生まれたかったといった女史の横顔を思い出して、エトゥリオルはひとりうつむく。健康診断の日に医師からいわれた言葉と、あのときのいじけた気持ちが、まだときどきよみがえっては、胸の中をぐるぐる回っている。

  ※  ※  ※

「――本当に助かりました」
 ギイ=ギイは顔をしかめて、赤毛の医師を睨みつけた。彼は礼をいわれることが、好きではない。
「しつこい。医者が医療に手を貸して、礼なぞいわれる筋合いがどこにあるか」
 彼がそういうと、どういうわけだか、ハーヴェイは微笑んだ。
 なぜそこで笑うのか。テラ人の考えることはわからん――ギイ=ギイはふてくされて、そっぽを向く。
 彼がテラ人の間で発生した疫病について耳にはさんだのは、単なる偶然だった。先日の健康診断で診たO&W勤めのトゥトゥがひとり、彼の医院に通院している。診察の合間の世間話として、たまたまその話が出たのだった。
 患者が処方を受け取って帰って行ったあと、ギイ=ギイはいっとき考え込んだ。
 テラ人の体のことについては、彼は素人も同然だ。素人が医療の現場に口出しをするものではない。
 だがヴェドに存在する病原体への知識については、また別だ。
 トゥトゥが罹患する病原菌やウイルスが、テラ人の体にどう作用するかは、ギイ=ギイにはわからない。それでも顕微鏡を覗いてみれば、なにか貸せる知恵のひとつかふたつくらいは、あるかもしれないと思った。
 彼がO&Wとの間に交わした契約は、あくまで月に一度の健康診断だけだ。それもトゥトゥを相手にする仕事であって、テラ人の健康管理までは、本来、知ったことではない。
 だが、あのテラ人の医師は、マルゴ・トアフまで足を運ぶトゥトゥの医者が、なかなかみつからなかったともいっていた。それなら今ごろは下手をすると、テラ人ばかりで顔をつきあわせて、効率の悪い議論でも繰り返しているのではないか。
 そこで聞かなかったふりをできるなら、ギイ=ギイはそもそも医者にはならなかっただろう。
 幸いにも彼の医院には、若い医師たちが育ってきている。彼らにあとを任せてトラムに乗り込みながら、ギイ=ギイはふと、自分は年を取ったのだと思った。若いころなら、多少の距離ではトラムになど頼らなかったし、動く前にこんなごちゃごちゃした理屈を考えたりもしなかった。
「――それにしても、脆弱な種族だ」
 ギイ=ギイは吐き捨てる。テラ人の医学について、セルバ・ティグに翻訳された文献はさして多くないから、これまでに論文の記述に首をかしげることはあっても、違和感の正体まではわからなかった。だが実際に患者の容体を目の当たりにし、テラ人たちの口から治療方針について聞いて、ギイ=ギイは納得した。テラ人の肉体は、脆い。
 いったいどういう環境で育てばそうなるのだと、研究者たちを前に、ギイ=ギイは何度か怒鳴りそうになった。
「抗体の問題はわかるが、それを差し引いてもだ。ああいう乗り物に頼ってばかりおるから、あんたがたはそうまで弱くなるのではないか」
 今朝がた治療方針の目途が立つのを見届けて、医療センターからO&Wまで移動するとき、ギイ=ギイははじめ、自分で飛んでくるつもりだった。たいした距離ではないのだ。
 だが気まぐれを起こして、ハーヴェイのいうテラ人流の礼儀とやらに、つきあってみる気になった。彼は請われたとおりに彼らの自動車に乗り込み、そして愕然とした。
 テラ人の体格にあわせた車内は、トゥトゥにとってはやや窮屈ではあったが、そのことを差し引いても、それはひどく快適で便利な乗りものだった。
 気に食わん――ギイ=ギイは思う。乗り心地がいい、結構なことだ。移動が早い、それも結構だろう。乗っている人間は操縦のために頭も体も使う必要はなく、何もかもを機械が勝手にやってくれる。好きにするがいい、と思った。
 ちょっとした移動にまでいちいちこんなものに頼っているから、彼らは自分の体ひとつで生きる力を失ってゆくのではないか。
「――返す言葉がありません」
 ハーヴェイは苦笑して、それからふっと、何かを考えこむような仕草をした。いっとき迷うような間のあとに、赤毛の医師は真顔でいった。「僕らの会社は、航空機を作る企業です」
 ギイ=ギイは訝しく首を傾けた。そんなことは、とっくに聞かされている。今さら何をいうのかと思った。
「地球人がよけいな技術を持ち込んだから、トゥトゥの退化が進んだのだというメディアもありますが――どう思われますか」
 気にくわない質問だった。ギイ=ギイはハーヴェイを睨みつける。それでも医者のいうことか、とも思った。
 だがギイ=ギイは、若い医師の表情を見ていて、ひとつ気付いた。この地球人は、自分で心にもないことを、あえて口に出している。
 ますます気に食わんと、ギイ=ギイは思った。こいつは医者のくせに、まるで下世話な記者かなにかのようなやりくちではないか。
「馬鹿げた話だ」
 それでも彼は、乗せられる気になった。「飛べるようにならん子どもらなぞ、あんたらが接触してくるよりずっと昔から、常におった。それこそ私らの祖先がまだトリだったころからだ。たかだか二百年かそこらで、なにが退化か。――大体、そのせいで退化するほど、トゥトゥはあんた方の乗り物に頼りきってはおらんだろうが」
 ハーヴェイはいかにも恐れ入って拝聴していますという顔をしている。だがそれがポーズであることは、ギイ=ギイにも察しがついた。まったく、つくづく気に食わなかった。
 腹を見せない相手が、ギイ=ギイは嫌いだった。だがそれは同時に、ある意味で、医師としての資質なのかもしれなかった。正直で率直なだけでは、医者はつとまらない。
「まったくもって、つまらん話だ。どこにでも他人に責任をなすりつけたがる連中はおる」
 いってから、ギイ=ギイは顔をしかめる。「まあ、あんた方の飛行機は、私も好きではないが」
 ハーヴェイは間髪いれず、真顔でいった。「理由をお聞きしても?」
 やはり記者のようなやつだと、ギイ=ギイは呆れる。それからふと、思い直した。彼らはトゥトゥの率直な意見を耳にする機会に、恵まれていないのかもしれない。O&Wに雇われているトゥトゥはいるが、彼らは雇い主にものをいうには、どうしても気兼ねするだろう。
「危なっかしすぎるからだ」
 断じて、ギイ=ギイは顎をそらす。「あんた方は、発着場所を厳密に決めて、そのエリアにトゥトゥの立ち入りを禁じさえすれば、安全だという。だが若いトゥトゥはしばしば頭に血を上らせるものだ。オーリォの時期にもなれば、目立つ表示があったところで、知らんうちにうっかり迷いこむ連中が出ないとも限らん。まして鳥たちはどうだ。連中にいうことをきかせて、ここから先には入ってくるななどというわけにはいかんだろう。――鳥の嫌う音を出すか? だが、すべての鳥が嫌う音を出そうとすれば、その音はトゥトゥにも不快なものになるだろう……」
 ハーヴェイはうなずきながら、口を挟まずに聞いている。異論も反論も内心ではあるのかもしれなかったが、そうしたものを、何一つ外に出さない。
 若造めと、ギイ=ギイは鼻を鳴らす。若いのに小器用な人間というのは、可愛げがない。
 やはり自分は年を取ったと、ギイ=ギイは思った。若いころならこういうときに、わかっていてわざと話題に乗せられてやったりはしなかった。
「――だが、そいつが役に立つものでもあるのはわかっとる。輸送が早くなったことで、救われた命もある。災害のときに、あんたがたの飛ばした飛行機で救助された怪我人も、救援物資を受け取った連中もおるからな」
 ギイ=ギイ自身も、航空機の輸送のおかげで薬の到着が間に合った経験を、一度ならず持っていた。速度はときに、大きな力になる。
 憮然として、ギイ=ギイはいう。
「弊害があるのを承知でその恩恵を被っておきながら、何かあれば責任だけをなすりつけるようなやり口は、私は好かん」

   ※  ※  ※

 設計部の連中に聴かせてやりたい話だなと、ハーヴェイは思う。近ごろ、反対派の声が大きい。
 あいかわらずヴェド上の航空機は、大きな事故もないまま運用されている。それでも反対の声が減らない。何が彼らに、それほどまでに航空機を嫌わせるのか。
 機械の力に頼って空を飛ぶということに、抵抗があるのか。異星人の作ったものが、自分たちの飛べないような高い空を駆けることが、感情的に気に入らないのかもしれない。そういう表に出て来づらい感情の部分が理由なら、問題は根深い。
「まあ、若い連中は、飛行機に特別な抵抗もないようだ――いつかは良かれ悪しかれ、当たり前のものになるだろうさ。一度慣れた便利さというものは、そうそう捨てられるものではない」
 慰めのつもりなのか、ギイ=ギイはそんなふうにいって、窓の外を見た。つられてハーヴェイも、空を見上げる。高いところを、飛行機雲が流れている。
 このトゥトゥの医師が、怒っているように見せて、どこか面白がっていることに、ハーヴェイは気付いていた。
 器の大きな人物だと、ハーヴェイは思う。頑固で怒りっぽいようでいて、ほかのトゥトゥと話しているときにはあまり感じない、寛容さのようなものが垣間見える。
 彼が駆け付けてくれたことは、正直にいって、本当にありがたかった。ギイ=ギイの示唆がなければ、病因の特定も薬の製造方針が固まるのも、まだ遅れていたはずだ。
 病原は、トゥトゥの間ではそう珍しくもない細菌だった――トゥトゥに使われる薬が、地球人にそのまま投与できるわけではないが、彼の示した処方は、治療薬の開発の指針にはなった。
 環境が環境なので、地球上の諸国家で新薬の認可を受けるのに比べると、その類の手続きはずいぶんと簡略化されている。それでも充分な薬がそろうまでには時間がいるだろうが、ともかくなんとか治療方針の目途は立った。
 ギイ=ギイの見つめる窓の外が、薄暮に包まれ始めたことに、ハーヴェイは気付いた。つい長々と引きとめてしまった。
「お忙しいのではなかったですか」
「うちの病院には、頼りになる若いのがおるから、私が三日四日不在にしたくらいでは、たいして困らん」
 不機嫌をよそおっていた表情を緩めて、ギイ=ギイはいう。その声には、自慢げな響きがあった。「――いまの時期ならな。オーリォの頃ならそういうわけにもいかんが」
 ハーヴェイは首をかしげた。初夏になると、かなりの数のトゥトゥたちが北に向かうと聞いた。その分、医師の数が不足するにしても、患者の数もまた減るのではないかと、漠然と思っていたのだ。
 実際に、O&Wでもトゥトゥたちは夏季休暇に入るし、取引先の企業も、夏はあまりまともに動いていない。そういうと、ギイ=ギイは首を振った。
「もっと南のほうの連中が、このあたりにやってくるからな」
 ギイ=ギイの説明は簡潔だった。「オーリォの頃になると、頭に血を上らせた若いのの喧嘩が増える。――おかげで私は、もう三十年ばかり、まともに遠出しておらん」
 いいながらも、ギイ=ギイはそのことを、どこか誇りにしているようなふしがあった。そうした機微は自分たちにはわかりづらいなと思いながらも、ハーヴェイは医師の上機嫌につられて、つい微笑んだ。
「遠くまで旅に出る若者は、地球にもいますが――体ひとつで空を飛べたら、気持ちがいいでしょうね」
 医師はすぐには答えなかった。少し遠い目をして、黙り込んで、それからおもむろにいった。「オーリォか。あれはいいものだ」
 かつての日々のことを思い出しているのか、窓の外を見ながら、ギイ=ギイは目を細める。
 まだわれわれの祖先が渡りをしていた頃の、名残りというか、古くからの血なのだろうなと、ギイ=ギイはいった。
 あるいはその習慣こそが、地上に住まう彼らをして、いまだに空を飛びつづけさせている知恵なのかもしれないと、ハーヴェイは思う。
「いい風の吹く初夏の朝にな」
 口元をほころばせて、ギイ=ギイはいう。今日あたりに行くかと決めて、大空に舞い上がる。はじめのうちは思い切り羽ばたいて、力の限りに飛ぶけれど、やがて疲れてきたら、今度は上昇気流をうまくつかまえて、高度を稼ぎながら、休み休み滑空する。
「そうすると、どこまででも飛んでゆけるような気がするものだ――実際には、そう何日も飛び続けていられるものではないが」
 夜には降りて休み、朝を待ってまた旅立つ。そうしているうちに、ときどき鳥たちの群れにゆきあうこともあると、ギイ=ギイはいう。
 地球でもそうだが、鳥は、混群を作ることがある。何種類もの鳥が数羽ずつ、体を寄せ合って飛ぶのだ。そうすることで、天敵を避ける。
「トゥトゥを見かけると、連中はたいてい近寄ってくる。群れの中に大きい鳥がいるほうが、敵を遠ざけるのに有利だからな。連中、トゥトゥは飛んでいる鳥をそのまま捕まえて喰ったりはせんと、ちゃんと知っておる」
 そのことが嬉しくてしかたないというように、ギイ=ギイは嘴を反らす。
「ときどきわざとスピードを上げて、若い鳥たちをからかったりしながら、何日か休み休み飛んでゆくうちに、だんだん風が冷たくなってきて、体の中はかえって燃えるように熱くなる……」
 医師の語る空に、ハーヴェイはいっとき、思いを馳せた。
 それが実際には、見た目の優雅さに反して過酷な旅であることも、知識で知ってはいたけれど、それでも聞いていれば、やはりひどく羨ましいような気がする。
 トゥトゥからみたら、航空機はさぞ不自然で無粋なものだろうと、ハーヴェイはあらためてそのことを思った。速度は出るし、生身ではとても飛べない高いところをゆけるけれど、鳥を脅かさずに一緒に飛ぶことはできない。

  ※  ※  ※

 照明を絞った自室で、横になったまま、ジンは天井を見るともなく見つめていた。
 寝過ぎて、もう眠れる気がしなかった。ようやく退院できたのは有難いが、まだ数日は安静といいわたされている。
 熱もすっかり下がって、食事も常食に戻った。無視して出歩いてもいいくらいだったが、ご丁寧に、医療ロボットまでついてきている。老人の介助でもあるまいし、手を借りることもないのだが、規則で体調をモニタしなくてはならないといわれれば、断れなかった。
 大仰なことだと思う。故郷を離れて遠い惑星で暮らすというのは、そういうことだ。わかってはいても、やはり滑稽にしか思えない。何十回目かわからない苦笑を漏らして顎をさすると、無精髭が手のひらを刺した。
 ずっと空調の効いた屋内にいると忘れそうになるが、季節はもう秋も深まるころのはずだった。窓の外に視線を投げる。エトゥリオルの設置した巣箱が、ちょうどここの窓から見える。
 小鳥の姿はなかった。いまの時期は、もっと南のほうに渡ってしまうのかもしれない。
 また来年も来るだろうか。
 日はそろそろ暮れかかろうとしている。空を眺めていても、落ち着かなかった。こうまでずっと寝ていては、そのせいでかえって体調をどうにかしそうだ。
 かすかな電子音を立てて、部屋に備え付けの端末が、ランプをともらせる。メールの受信を知らせる合図だった。
 退院して部屋に戻ったときに、一度は確認している。置き去りにしてしまった仕事の簡単な進捗が入っていたのは、同僚の気遣いだろうが、アンドリューからのいたずらメールまで入っていた。
 またその類だろうか。顔をしかめて、ジンは立ち上がった。端末に歩み寄ってディスプレイを起動したところで、発信元を表す表示に、眼が釘付けになる。
 EA041JPの七ケタから始まる、長いコード。
 故郷からの通信だった。

   ※  ※  ※

 エトゥリオルは寮への道を急いでいた。手には籠を抱えている。中にはぎゅうぎゅうに詰め込まれた果物。
 ジンが退院したと聞いたのは、昼休みのことだ。ハーヴェイが内線で知らせてくれて、設計部は沸いた。まだ数日は自宅療養だけれど、もう会っても大丈夫だということだった。仕事が引けるなり、エトゥリオルは支社を飛びだした。
 多すぎただろうか? エトゥリオルは手の中の色とりどりの果物を見下ろして、不安になる。
 ちょっとした病気くらいでは病床につくということのないトゥトゥには、見舞いの品を持っていくという習慣がない。近くのショップで、テラ系の店員におっかなびっくり相談したら、これを薦められたのだが、そのまま真に受けてよかったのだろうか。テラ人はトゥトゥに比べたら、ずっと小食だ。
 映画の中ではどうだっただろう。いつかサムから教えてもらったテラの映画の中で、ヒロインを見舞う俳優は、両手にいっぱいの花束を抱えていたような気がする。やっぱりこれが普通なのだろうか。
 慣れないことをしているので、いちいち緊張している。ジンの部屋の前まで来て、エトゥリオルは一度深呼吸をした。
 部屋の扉に、小さな機械がついている。そっと手をかざすと、電子音がした。
 実のところ、人の部屋を訪ねるのは、エトゥリオルにとっては初めてのことだった。機械の操作は、入寮したときに教わっていたけれど、なんとなく緊張する。
 ふた呼吸ほどのあとに応答をしめすランプがついて、そのまま扉が開いた。照明を控えめにしてある――自分の部屋と同じ間取りだった。狭い玄関があって、そのまま部屋に続いている。
「――リオ?」
 ジンの声が、ひどくかすれているのに、エトゥリオルはどきりとした。
「あの、退院おめでとうございます」
 いいながら、その言葉が適切ではなかったような気がして、エトゥリオルはたじろいだ。
 痩せた――顔を見るなり、まっさきにそう思った。ジンは自分の足で立っていたが、まだ体調は戻りきっていないようだった。顔色がよくない。ハーヴェイはああいったけれど、やはり症状は軽くなかったのだ。
「迷惑をかけたな」
 エトゥリオルはぶんぶんと首を振った。それから、ジンのようすが、どこか上の空なことに気付いた。まだ具合が悪いのだろうか。
 不安になりながらも、手の中の果物のことを思い出して、エトゥリオルはおっかなびっくり差し出した。
「みんな心配してました。あの……これ」
「――ありがとう」
 いいながら、ジンは面食らったようだった。やはり変だったのだろうかと、おろおろしているエトゥリオルに気付いて、ジンは頬をゆるめる。「いや。ずいぶん豪勢だと思ったんだ」
 いくらかほっとして、エトゥリオルは気付いた。部屋に備え付けの端末が、起動している。
 まさか、もう仕事を始めているのだろうか。エトゥリオルの心配を察したのか、ジンは苦笑して首を振った。「仕事じゃない。姉からメールが来て……」
 いいながら、端末を振り返るジンの視線が、ふっと陰った。
「あ、お邪魔でしたか――」
 体調の戻りきらないところに長居するのは、気が引けた。家族からの通信だって、人前では再生しづらいだろう。出ていこうと身じろぎをしたエトゥリオルを、ジンは呼びとめた。
「――君も、いてくれないか」
 エトゥリオルは目を丸くした。家族からのメールなのに?
 まじまじと見上げると、ジンはいままで見せたことのないような、覚束ない表情をしていた。家族と折り合いが悪かったという、いつかのジンの話を、エトゥリオルは思いだす。
 病み上がりで、いつになく気が弱っているのかもしれなかった。実際、ジンはすぐに我に返ったように、瞬きをして首を振った。
「――いや。妙なことをいった。忘れてくれ」
「います。僕でよければ」
 反射的にそういって、エトゥリオルは自分の言葉の勢いに、自分で驚いた。
 ジンは目をしばたいて、それから、かすれた声でいった。「――ありがとう」

 テラ人用に調整されたディスプレイは、エトゥリオルには実は、ちょっと見づらい。首を傾けて、斜めに見るような姿勢になる。
 ジンがキーボードを叩くと、わずかなタイムラグのあとに、メールが開いた。
 映像はホログラフではなく、ディスプレイ上の平面画像だ。テラから通信を送るのにもそれなりの費用と手間がかかるというから、データ量を節約するためなのかもしれない。
 画面の中で微笑んでいたのは、女性だった。
 きれいな顔立ちをしている。少なくとも、エトゥリオルにはそう見えた。トゥトゥの美的感覚がどれほど彼らと近いかはわからないが、切れ長の目をした、肌のきれいな女性だった。まっすぐな黒髪を、肩の上で切りそろえている。
 目元がわずかに、ジンと似ているような気がした。地球ふうの化粧なのだろうか――こちらで見かけるテラ系の女性よりも、くっきりと赤く、唇を塗っている。
 やがて画像が、動き出す。女性は赤い唇を開いて、微笑んだまま話し出した。
 女性の言葉の内容は、エトゥリオルには聴き取れなかった。英語ではない――ジンの母国語なのだろう。椅子に深く腰掛けたジンの手が、ぴくりと揺れるのを、エトゥリオルは見た。
 女性は微笑を浮かべたまま、歌うようなリズムで、何かを話している。聞いているうちに、ざわりと羽が逆立って、エトゥリオルは身じろぎした。
 何をいっているのかはわからない。エトゥリオルにわかるのは、その楽しくて仕方がないというような微笑みと、そして、悪意に満ちた声音だけだ。
 ジンが一人でこのメールに向き合いたくなかった理由が、わかるような気がした。
 とっさに振り向くと、ジンの表情はこわばっていた。その視線は、画面にくぎ付けになっている。
「あの」
 思わず、エトゥリオルは声を上げた。「もう少し、体調が戻ってからのほうが――」
「いいんだ」
 ジンは掠れた声で遮った。視線は画面を見つめたままだ。
 その思いつめたような横顔を、エトゥリオルは途方に暮れて、ただ見守った。

   ※  ※  ※

『母さんが死んだわ』
 画面の中で、姉がいった。
 よく知っている表情だ。嫌になるほど記憶に焼きついているのと同じ、楽しげな微笑みだった。
 変わらない――ジンはまずそのことを思った。もう十年以上も会っていないというのに、姉は記憶の中とまるで変わっていないように見えた。
 母の死は、とっくに知っていた。ちょうどジンが入院する前に、向こうの弁護士から連絡があっていた。相続放棄の手続きのために返送した書類は、まだ向こうに着くまでには何か月もかかるだろうが、姉がそのことを知らないとも思えなかった。
 そもそもジンは、連絡先を家族の誰にも伝えていない。勤務先も教えたことはないが、調べることはできただろう。
 姉がそうまでして連絡を取ってきたことに、ジンは動揺していた。画面の中で、彼女は笑う。
『ひどいものだったわ。一日おきにみるみる痩せていって、最後には骨と皮みたいになって、個室でたくさんのチューブに繋がれて――もう麻酔もあんまり効かないみたいだった。最後の瞬間まで、世界中の何もかもを呪いながら死んでいったわ』
 姉の声は、楽しくて仕方がないという響きをしていた――何がそんなに楽しいのだろうと、ジンは思う。母の苦しむようすか。それとも弟を断罪することがだろうか。
『散々あんたを恨みながら死んでいったわ――可哀相な母さん、ずっと恥ずかしそうだった。そりゃあ、そうよね。母親がもう長くないっていうのに、一度も会いにも来ないで、さっさと宇宙に出ていくような息子じゃあね』
 エトゥリオルが急に、声を上げた。「あの――もう少し、体調が戻ってからのほうが」
「いいんだ」
 いって、ジンは苦笑した――つもりだった。唇が動いたかどうかはわからない。
 日本語だ。エトゥリオルには姉の話す中身は分かっていないだろう。それほど自分はひどい顔色をしているだろうかと、頭の隅で考えた。けれど意識のほとんどは、ディスプレイの中で歪む姉の微笑に向かっていた。
 母の死に際のようすを、姉は、歌うように滔々と語る。
 彼女が病床の母に最期まで付き添っていたのだということに、ジンは驚いていた。姉はいったいどういう思いで、自分を愛さなかった母親の面倒を見ていたのだろう。
 それが姉なりの、復讐だったのだろうか――そう思う自分と、その考えを疑いたがる自分がいた。本当に、ただそれだけだろうか。
 姉はふいに、初めて表情をゆがめた。口元の笑みが深まる。何かを嘲るように。
『あの女、死に際になって、ようやく私の名前を呼んだわ――初めてじゃないかしら?』
 それまで以上に、毒のある口調だった。
 可笑しくてならないというように、姉はいう。『馬鹿みたいだわ。――馬鹿みたい』
 通信はそこで、唐突に終わっていた。

   ※  ※  ※

 再生がおわり、画面が暗くなっても、しばらくジンは口を利かなかった。
 エトゥリオルは何度も口を開きかけては、言葉を飲み込んだ。
 ジンはひどい顔色をしていた。それでも、通信が終わったあとの画面を、じっと見つめている。身じろぎひとつせずに。まるで見つめ続けていれば、もう一度彼女がそこに戻ってくるとでもいいたげに。
「ジン」
 名前を呼んで、エトゥリオルは上司の腕を引いた。ジンはいっとき、反応らしい反応を見せなかった。
「――ジン」
 ほかにどうしようもなくて、エトゥリオルは繰り返し、彼の名前を呼んだ。何度目かで、ジンはようやく顔を上げて、エトゥリオルのほうを見た。
「すまない。気分のよくないものに突き合わせて」
 ふっと、現実に戻ってきたように、ジンはいう。
「そんなこと……」
 いいかけて、エトゥリオルは嘴を閉じた。画面越しに、悪意に中てられたような気がした。
 言葉はわからなくても、画面の向こうの女性が、ジンを傷つけたくて仕方がないというように、エトゥリオルには見えた。言葉を見つけられず、エトゥリオルは首を振る。
「大丈夫だ。――ありがとう」
 ふと小さく笑って、ジンが目頭を揉む。それから言葉を探しあぐねるように、いっとき黙っていた。
「――姉は、昔から、俺のことを憎んでいて」
 ようやく口を開いたジンは、また、暗くなったディスプレイを見つめていた。
 だけど多分、それだけのことを、俺もしてきたんだと、ジンはいった。
「家族とはもうとっくに縁を切ったつもりでいたし、いまさら連絡があるとも思ってなかったんだけどな。母親が死んだことを、人から聞いた時にも、ちっとも悲しいとも思わなかった」
 そういいながら、ジンはふらりと立ち上がって、端末に向かった。その手が、据え付けのデスクの引き出しから小さなディスクを取り出すのを、エトゥリオルはただ見ていた。
「だけど、妙なもので――どうしてだろうな。姉のことだけが、いまでも、どうしても憎いような気がするし」
 ジンはいいながら、メールをディスクに保存した。それから引き出しを漁って、適当な大きさのケースを見つけると、そのなかに、ディスクを慎重に収めた。そっと、大事なものを扱うように。
 エトゥリオルはわけもわからず、そのしぐさが、ひどく悲しいような気がした。
「彼女に責められるのだけが、いつまでも、怖いような気がする」
 エトゥリオルはジンの横顔を見上げる。姉のことが憎いといったジンの言葉は、彼の耳にはまるで違う風に聞こえた。
 彼女のことを愛していると――そういうふうに。
 その自分の考えを、エトゥリオルはおかしいと思った。ジンはひとこともそんなことをいっていないのに。
 手の中のディスクを見つめて、ジンはふっと、ため息のようにいった。
「――そうか、名前を、呼んだのか」

 
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