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 ハーヴェイがジンと知り合ったのは、大学の教養課程でのことだ。
 ジンは周囲から浮きに浮いていた。飛び級を重ねて入学したのはハーヴェイ自身も同じことだったが、東洋人は若く見られるから、ジンは講堂の中でひとりだけ、まるきり子どものように見えた。それでいて優秀なのは飛びきりだったから、よく目立ったし、人の妬みも買った。
 似たりよったりの状況にあったハーヴェイのほうはというと、社交というものに心血を注ぐ父親を見て育ったこともあって、人の嫉妬をかわしてそつなく振る舞うことに慣れていた。
 けれど、ジンはそうではないようだった。言葉も文化も違うところからひとりでやってきたためか、あるいは生来の性分か、とにかく口数が少なく、愛想がない。それで面白いように敵を作っていた。
 もっとも、本人は向けられる悪意にも素知らぬ顔をしていたから、やはり口下手なのはもとからの性分で、その手のやっかみには慣れていたのかもしれない。
 つるむようになったのは、ハーヴェイの起こした気まぐれだ。年の近い同期生が少なかったこともあるが、あまりにも周囲と衝突を起こすので、見ているうちにだんだん面白くなってきた。本人は他人に興味のないようすで、積極的に関わろうともしていないのに、周りのほうでほうっておかない。しょっちゅう絡まれて、そうなるとうまくあしらえずに衝突する。それで、ついおせっかいを焼いて仲裁をするくせがついた。
 話す機会が増えてわかったのは、ジンが馬鹿だということだ。
 適当に答えておけばいい場面で嘘がつけない。そのくせ、いわなくていいことはいう。愛想笑いができない。不機嫌になればすぐ顔に出る。融通がきかず、人の話を真に受けすぎる。
 要は、真面目すぎるのだ。それで馬鹿を見る。
 そのよく出来たおつむを、もうちょっと別のことにも使ったらどうだと、三日にいっぺんは思った。二度に一度は本人に向かっていったが、ジンは面倒くさそうな顔をするだけで、一向に態度を改めなかった。そうやって周りとぶつかってばかりいるほうが、よほど面倒だろうに。
 馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、その馬鹿さに救われていたのが自分のほうだと気付いたのは、卒業してメディカル・スクールに進んだ後、会う機会も少なくなってからのことだ。

   ※  ※  ※

 O&Wカンパニーの社屋は広い。
 従業員三百人規模の会社といえば、地球でなら珍しくもなんともないが、ヴェドにそれだけの社員を置いている企業は、指折り数えるほどしかない。そのO&Wの社屋には、もしここが地球の大都市圏であれば、千人かそこらは詰めているような、尋常でない広さがある。条例によって高層ビルは作れないから、そのぶん横にだだっ広い。
 そうした空間の余裕は、O&Wに限ったことではなく、おおむねどの企業も、ゆったりとしたオフィスを持っている。これはマルゴ・トアフのある地方が、もともとトゥトゥにとってそれほど魅力的な土地柄でなかったというのもあるが、あるいは彼らが土地に関して気前がいいことの、ひとつの証左でもあるかもしれない。
 トゥトゥは旅が好きなだけではなく、移住も気楽にどんどんやる。気に入らない土地に、無理をしてまで住み続けたりはしない。ナワバリ意識がそれほど強くないのは、どこにいってもともかく生きてはいける、彼らの強靭さに由来するものかもしれない。トゥトゥは生物として、強い種族だ。地球人類とは比べものにならないほど。
 その気前のいい彼らのおかげでだだっ広い社屋の、ゆったりとした廊下を、ハーヴェイは足早に歩く。来客を出迎えるためにロビーまでいったら、相手の姿がなかったのだ。
 同僚とぶつかりそうになりながら角を曲がったところで、ハーヴェイはほっと息をついた。目当ての人物が、廊下の先を歩いていた。
 壮年の、風采のいいトゥトゥだ。西部の伝統で、医師であることをしめす刺青を嘴の横に入れている。体格がよく、羽がつやつやしており、またそうした要素以上に、表情やしぐさの醸し出す印象が大きい。どっしりした歩き方には、まさしく威風堂々といった趣きがある。
 すれ違う社員が、トゥトゥも地球人もひとしく驚いて、振り返っている。注目を浴びながら、そんなことは気にも留めないように、医師は泰然と背筋を伸ばして歩いている。
 ハーヴェイは見習って自らも背筋を伸ばし、足を速めて医師に近づいた。
「ロビーにお迎えに上がったらお姿がないので、慌てました」
 医師は足を止めて、じろりとハーヴェイをにらんだ。
「出迎えはいらんといったつもりだが。こんな場所で道に迷うほど、耄碌(もうろく)してはおらん」
 その声は太く、眼光は鋭かった。「あんた方はそれが礼儀というが。それでは礼儀なんだか、ひとを馬鹿にしとるんだか、ちっともわからん」
 苦笑を噛み殺して、ハーヴェイは頭を下げる。「お気を悪くされたなら、申し訳ありません」
 医師は一拍ののちに眼を細めて、嘴を上に向けた。笑ったのだとハーヴェイが気付いたのは、少し遅れてからだった。
「いや。こちらも大人げのないことをいった。――あんたが連絡をくれた医師だな。ギイ=ギイだ」
「ハーヴェイ・トラストです。――遠くから、ありがとうございます」
 名乗り返して、ハーヴェイは医師の横を歩く。背後に従うように歩かれるのが、トゥトゥにとってはあまり気持ちのいい習慣でないというのは、ハーヴェイも知っていた。
 医師を応接室に通して、ハーヴェイはあらためて礼をいった。「――感謝します。これまでなかなか、ここまで足を運んでくださる方がみつからなくて」
 ハーヴェイは当然ながら、地球人を相手にした医師資格しか持たない。彼も前任者も、そのことに危機感を抱きつつも、トゥトゥの医療を本格的に学ぶ時間までは取れずにいた。日々の業務に追われる中で、合間に時間を作ってトゥトゥの医学書や文献に目を通すのがせいぜいだ。
 中央医療センターの医師たちも、その点は似たようなものだ。おかげでこれまでずっと、トゥトゥの従業員には、助成を出してほかの町で健康診断を受けてもらうことしかできなかった。
「ですが、あなたのような高名な方においでいただけるとは、正直なところ、思っていませんでした」
 ハーヴェイは世辞でも追従でもなく、真面目にいった。ギイ=ギイは名の知れた医師だ。彼の論文を、ハーヴェイはいくつも読んだことがある。
 腕のいい医者であればもちろん助かるが、ギイ=ギイのように名の知れ渡った大御所が、まさか自ら乗りこんでくるとは思わなかった。
 なぜだろうと、ハーヴェイは内心で首をかしげていた。ここは救急医療の現場でもなければ、難しい病気を抱えた患者が大勢いる場所というのでもない。さしあたって求めていたのは、健康診断医だ。報酬も破格というほどではないし、異星人嫌いのトゥトゥもまだ多い中で、地球系企業から引き受ける仕事が、たいした名誉になるとも思えなかった。
「――先日、トラムを利用した」
 医師は出された茶のにおいを嗅ぎながら、おもむろにいった。話の転換についてゆけないハーヴェイを気にも留めず、ギイ=ギイは続ける。
「年は取りたくないものだ。昔ならさっさと自分で飛んでいたような距離だというのに――まあ、それはいい。乗り合わせた車両で、急患が出たのだ。テラ系の女だった。私の目の前で急に倒れて、意識はあったが、唇が真っ青になっておった。同じ車両に、テラ系の医者はおらなんだ」
 医師のかぎづめに力がこもっているのを、ハーヴェイは見た。湯呑みを割るのではないかと心配になるような手つきだった。
「幸いにも、大事には至らんかったようだが――その場に居合わせておきながら、何もできなんだ。どういう処置をするべきなのかもわからん、命の危険があるのかどうかも見分けがつかん。――この私が、だ」
 医師は湯呑をテーブルに叩きつけると、怨念のこもった口調でいった。「屈辱である」
 ハーヴェイは思わず口元をほころばせた。なるほどこれは、噂にたがわない立派な人物なのだろうと思った。
 医師はいっときそのまま不機嫌そうに押し黙っていたが、やがて煮えたぎるような口調でいった。
「空いた時間に、そちらの職分の邪魔にならん範囲でけっこうだ。応急処置なりと、ご教示賜りたい」
 いい終えて、医師はじっとハーヴェイを見つめた。
 この眼を知っている、とハーヴェイは思った。馬鹿がつくほど真面目で融通のきかない人間の眼。専門分野のうちで自分の知らないことのあるのが許せない、頑固者の眼だ。
 破願して、ハーヴェイは頭を下げた。
「――こちらこそ、勉強させてください」

   ※  ※  ※

 エトゥリオルは出勤して廊下にジンの顔を見つけるなり、恐縮しきって頭を下げた。
「昨日はすみません……」
 並んで歩きながら、ジンは首を振る。「いい兄貴じゃないか」
「――はい」
 エトゥリオルは素直にうなずいた。ジンが意外そうな顔をしたことに、エトゥリオルは気付かない。うつむいて歩きながら、話を続けた。「昨日は、兄がいつまでも親のすねをかじっているようなことをいいましたけど――本当は、そういうふりをして、僕の様子を見に来てくれていたんです」
 エトゥリオルはいいながら、翼をわずかに動かす。
「僕がこうだから……心配してくれてるんです。過保護すぎるって、よくひとから笑われるんですけど」
「――いいな」
 微笑んで、ジンはいう。エトゥリオルは反応に困って、首をかしげた。
 設計部のフロアに辿りつくと、打ち合わせ用の机の上に、アンドリューが手足を伸ばして寝こけていた。エトゥリオルは困惑して、隣の上司の顔を見上げる。そこで、ジンの目元の隈に気付いた。
 寮にも帰らずに、徹夜で働いていたのではないか。
 エトゥリオルは反射的に、謝ろうとした。けれどそれを遮るようなタイミングで、ジンがぽつりといった。「俺には君たちが、羨ましい」
 その眼は、どこか遠くを見ていた。
 いつだか家族と不仲だといっていた、ジンの言葉を、エトゥリオルは思いだした。家族構成をたしかめたことはなかったが、兄弟がいるのだろうか。彼らはトゥトゥと違って、兄弟と一緒に育つことが多いと聞いていた。
 エトゥリオルは訊くのをためらい、ジンもすぐには話を続けなかった。
 静かなオフィスに、機械の作動音と、アンドリューの鼾だけが響いている。いっときして、ようやくジンが口を開いた。
「俺はとにかく、自分の家族が好きになれなくてな。それでさっさと奨学金をもらって留学したし――最初の就職先も、故郷から少しでも遠い場所をと思って選んだんだ。あとからO&Wに移ったのも、先々こっちに来れるっていう条件があったからだった」
 微苦笑を浮かべながら、ジンはいった。それは、過去の自分の幼さを笑っているように、エトゥリオルの眼にはうつった。
「いい家族じゃなかったが、俺のほうにも問題があった。家族に愛される努力も、愛する努力もしなかったしな。それに、昔から人間自体が、どうも好きになれなくて――報道で見聞きする君たちの話にやたらに憧れたのも、そういうことがあったからかもしれない」
 ジンは自分のデスクについて、書類をディスプレイに表示させたが、ふと思い直したように、その表示を図面に切り替えた。それはいつか見た、航空機の図面だった。
「俺は勝手に、君らの姿に理想を重ねてたんだろう。だが実際に来てみれば、トゥトゥにだって、いいやつもいやなやつもいるし――考えてみれば、そんなのは当たり前のことなんだけどな。どこに行ったって、俺自身の問題が解決しないかぎりは、同じことだ」
 そこまでいって、ジンは視線を図面から外し、エトゥリオルのほうに向きなおった。
「俺はどうも、ひとの心の機微っていうものが――いや、そういうことじゃないな」
 嘆息をついて、ジンは一度、言葉を切った。それから頭を下げた。「この間は、すまなかった」
 エトゥリオルはびっくりして、羽毛を逆立てた。すぐに言葉が出てこなかった。
「――ミスをしたのは僕です」
 いって、エトゥリオルはうつむいた。昨夜、おそらくは徹夜で片付けたのだろう作業だって、自分の失敗のフォローがなければ、おそらくもう少し早く済んだ。
「そういうことじゃない。俺の思い込みで、君を傷つけた」
 エトゥリオルは言葉につまった。違う、と思った。ジンが何かをしたわけじゃない。勝手に傷ついたのは、自分のほうだ。勝手にひがんで――
 そういおうと思った。けれど言葉は喉の奥につっかえて、どうしても出てこなかった。
「――屋上、好きなんです」
 そのかわりに、エトゥリオルはいった。「昔、小さいころに一度だけ、エイッティオ=ルル=ウィンニイの背中に乗せてもらって、空を飛んだことがあります」
 そうか、とジンはいった。それから迷って、何かをいいかけた。
 そのときほかのスタッフが、そろってオフィスに入ってきて、ジンは言葉を飲み込んだ。もう始業時間だ。
 エトゥリオルは頭を下げて、端末に向き直った。今度こそ自分に任された仕事を、きっちりやりとげなくてはならない。

『覚えてるとは思うけど、午後から健康診断だからね』
 ハーヴェイから念押しの内線があったのは、昼休みの直前のことだ。
 食事を終えて廊下を歩きながら、エトゥリオルの足取りは重かった。医者というものに、あまりいい思い出がない。
 健康診断。ふしぎな制度だと、エトゥリオルは思う。トゥトゥの企業ではふつう、そういうことはやらない。
「失礼します」
 医務室に入るのは、初めてだった。その隣の、ハーヴェイの事務室になら行ったことがあるが、入社してからこっち、怪我も病気もしていない。
 漠然と想像していたより、医務室は広かった。たくさんの機械が並んでいるのは、今日が健康診断の日だからだろうか、それともいつもこうなのだろうか。
 机の前に、立派な風采のトゥトゥが座っている。その嘴に医師であることを示す刺青があるのを見て、エトゥリオルは足を止めた。先に入っていたトゥトゥの作業員が、医師と向かい合って問診を受けている。
「入って入って」
 ハーヴェイに手招きされて、エトゥリオルはおっかなびっくり中に足を踏み入れる。どうやら基本的な計測はハーヴェイと、助手らしいもうひとりの地球人が担当して、そのあとにトゥトゥの医師が、問診をしているようだった。
 エトゥリオルは血を抜かれ、よくわからない機械に乗せられて、何だか見当もつかない数値を計られた。いつか自分の骨格の画像を見せられたときのことを思い出して、つい顔がひきつる。
「うん、あとは問診だけだね。――リオ? そんなに緊張しなくてもいいのに」
 ハーヴェイに笑われて、エトゥリオルはなんとか微笑みを返した。
「すみません、こういうの慣れなくて……」
 医師の前に座るとき、エトゥリオルはやっぱり緊張した。どうしても落ち着きなく身じろぎしてしまう。
 医師は、なぜかハーヴェイが差し出すカルテも受け取らずに、いっときエトゥリオルの顔を凝視していた。エトゥリオルがますます委縮して小さくなるのを、じっと見つめたあとで、おもむろに医師は口を開いた。
「リオというのが、君の名前かね」
 鋭い声だった。エトゥリオルはびくりとして、羽毛を逆立てた。ハーヴェイが医師の隣で、しまったという顔をした。
 一瞬、嘘をつこうかと思ったが、エトゥリオルはすぐに思い直した。ハーヴェイの手のカルテが視界に入ったからだ。どうせすぐにばれる。
「――エトゥリオルです」
 医師はゆっくりと瞬きをして、顎を引いた。その仕草から漏れだす怒りの気配に、エトゥリオルはとっさにその場から逃げ出したくなった。けれど医師は彼にではなく、ハーヴェイのほうを振り返って、怒声を発した。
「即刻やめてもらいたい。そちらの文化だか伝統だかを悪くいうのは本意ではないが、トゥトゥにはトゥトゥの流儀というものがある」
「――僕のほうから頼んだんです!」
 エトゥリオルは慌てて叫んだ。医師は首を戻して、じろりとエトゥリオルをにらむと、無言で顎をそらして、説明を求めた。
 しどろもどろになって、エトゥリオルは説明した。テラ系の友人が出来て、彼らのニックネームの習慣が羨ましかったこと、彼らと親しくなりたかったこと。医師は押し黙ったまま、彼の言い分を最後まで聞いて、それからいった。
「こういうことは、君ひとりの問題ではない」
 もう怒鳴ってはいなかったが、医師の声はまだあきらかに怒っていた。エトゥリオルは体を縮める。
「君がそれでよくとも、彼らがそれに慣れて、当たり前のように感じるようになっては、ほかのトゥトゥが迷惑をする。悪くすれば、無用の軋轢を生むかもしれん。違うかね」
 ぴしゃりといわれて、エトゥリオルはうつむく。謝るべきだという自分と、謝ってはいけないという自分が、胸の中でせめぎ合っていた。
 反論が喉のところまでせり上がっていた。自らの名前を誇り重んじるトゥトゥの伝統が、悪いとはいわない。だけどそれなら、自分を誇れないトゥトゥはどうしたらいい。
 黙り込んだエトゥリオルの代わりに、ハーヴェイが頭を下げた。
「僕らが安易でした。気をつけます」
 エトゥリオルはぱっと顔を上げた。ハーヴェイと眼があう。彼は首を振って、申し訳なさそうな顔をした。エトゥリオルにもわかっていた。医師のいうことが正論であることも、この頑固な医師の前では、とりあえず謝っておいたほうがいいのだということも。
 医師は首を振って、気をとりなおしたように問診を始めた。
 自分の震えるかぎづめを見つめたまま、エトゥリオルは質問に答えた。頭の中を言い訳めいた言葉がぐるぐると回っていた。健康に関していくつものことを訊かれたが、エトゥリオルは自分が何を答えているのか、よくわかってもいなかった。

   ※  ※  ※

 ハーヴェイはほっと息をついて、計測器具を片付け始めた。半日かからずに、全員の健康診断が終わった。トゥトゥの社員の数は、まだそれほど多くない。
「――やれ。すっかり嫌われてしまったな」
 ひと仕事おえたギイ=ギイが、ふっと、そんなふうにこぼした。見れば、苦笑している。その横顔には、もう怒りの気配はなかった。
「エトゥリオルのことですか」
 ハーヴェイが訊くと、医師はうなずいて、軽く羽を広げた。
「委縮させたかったわけではないのだが」
 ギイ=ギイは渋面になった。その表情に、よく言動を誤解される友人のことを思い出して、ハーヴェイは思わず微笑んだ。「ええ、わかります」
 エトゥリオルは問診が終わると、ほとんど逃げ出すように診察室を出て行った。ハーヴェイは罪悪感を覚える。自分の不注意のせいで、気の毒なことをしてしまった。
「たかだか呼び名の問題と、あんたがたは思うかもしれんが、そうしたところから、自意識というものは変容するのだ」
 ギイ=ギイは重ねていう。ハーヴェイはうなずいて、もう一度詫びた。
「そういえば、すぐお分かりになったんですね」
 リオというのが彼の本名ではないと、カルテを見る前に、医師は看破した。ハーヴェイが訊くと、医師は首を振った。
「医療関係者のあいだでは、有名な子だ」
 その答えに、ハーヴェイは驚いた。医師は窓の外を見て、つぶやくようにいった。「飛べないトゥトゥというのは、そう多くはないのだ」
 ハーヴェイは返答に迷った。先天性な欠陥で飛べない子どもが、近年、徐々に増えているという報道記事を、眼にしたことがあったからだ。
 ギイ=ギイは彼の戸惑いを察したように、ふと神妙な顔つきになった。
「ほんの百年ほど前には、早いうちに飛べないと分かれば、その子どもは殺されていた――野蛮な話だと思うかね」
 ハーヴェイはうなずきも、首を振りもしなかった。
 トゥトゥの文化や社会性は、むしろ地球のそれよりも、よほど洗練されている。科学技術にしたところで、総合すれば地球の方がいくらか進んでいるにせよ、そう極端に差があるわけではない。
 これほどまでに進んだ文明をもつ種族が、飛べなければ子どもを殺してしまうという風習を、つい最近まで残していたというのは、ハーヴェイには納得のしがたい話だった。野生の鳥ならば、そういうものだろうが――自力で生きられない雛の面倒を、いつまでも見続ける親鳥はいない。
「僕らの故郷にも、かつて似たような風習がありました。僕らには、あなた方を批難する権利はないと思います」
 ハーヴェイはためらって、言葉を足した。「ただ、エトゥリオルを見ていると……飛べないというだけで、なぜそこまでしなくてはならないのか、とは思います」
 ギイ=ギイは眼を金色に光らせて、うなずいた。
「そこに、どうもあんたがたの誤解があるようだ。飛べなければトゥトゥには生きている価値がないというのではない――そもそも飛べなければ、普通のトゥトゥは、弱って死んでしまうものなのだ」
 医師はそういって、かぎづめの手を組んだ。「三歳から四歳のあたりで、トゥトゥの体は作り変わる。代謝量が変わり、内臓の大きさが変わり、筋肉のつき方が変わる。五歳以降のトゥトゥの体は、そもそも飛ぶことを前提にできておる。翼に怪我でもしてひと月も飛ばないでおれば、すっかり内臓が委縮して、弱って死んでしまう……」
 医師は言葉を切って、翼を鳴らした。「それが長年の常識だった――いや、いまでもほとんどの子が、そうなのだ」
 ギイ=ギイはため息とともに続けた。まず育ちあがらんとわかっている子を、そうとわかって育てろというのもまた、親にとっては酷な話だと。
「だが、近年になって、彼のような子が、ちらほら出てきた――飛べないまま育って、そのまま成人するトゥトゥが」
 医師はいって、カルテを眺めた。いたって健康そうにしているにもかかわらず、トゥトゥの標準的な数値を逸脱した、エトゥリオルの診断結果を。
「――勉強不足でした」
 ハーヴェイは恥じ入った。折に触れて、トゥトゥの医学に関する文献も、少しずつ読んできたつもりだった。それなのに肝心なことを知らなかった。
 無理もない、あまり書きたがるもののいないことがらだからと、ギイ=ギイはいった。
「報道はいつも、彼らのような子の増加を、トゥトゥの退化だという。文明に浴しすぎて飛べなくなった、発展の落とす影だと」
 ギイ=ギイは苦々しくいって、首を振る。「そういう側面も、あるかもわからん。だが、見ようによっては、進化なのかもしれんのだ――トゥトゥが樹上で生きることを捨てて、地上に住みかを構えるようになってから、何百万年も経ったいまになって、ようやく、空を飛ばずとも生きられる子が出てきた」
 ギイ=ギイは半ばひとりごとのように続けた。
「だからこそ、彼のようなトゥトゥには、矜持を持ってもらいたい。――トゥトゥの尊厳を、ないがしろにしてもらいたくはないのだ」

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