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 暮れに古い懐中時計を買ったところ、妖物が付いてきた。
 妖物、という呼び方が適当かどうか分からないのだが、掌に載るほどの、小さな鬼の姿をしている。大きさこそままごと遊びの人形のようなものだが、ざんばらの髪の間からは、立派な角が顔を出している。土気色といったらいいのか、何日も前に死んだ人間のような膚(はだ)の色の中で、二つの眼ばかりをぎょろりと金色に光らせて、ふと気がつけば、いつでもじっとこちらを見ている。その眼つきを見ていれば、いかにも妖しのものという気もするのだが、なんせ、いかにもそこらの長屋に住む子供らが身につけているような、着古した着物の裾から、骨と皮ばかりの手足が伸びていて、見ていると恐ろしいというよりも、何だか哀れになってくる。
 そもそも時計は、貰いものの上等の品を長らく愛用していて、何も新たに求める必要はなかったのだが、偶々(たまたま)用があって出向いた歳の市で、ふと細工に目がいった。舶来の品と見え、小ぶりな蓋に女の横顔が彫刻されている。髪を見慣れない形に結いあげた、素朴な顔立ちの女だ。その顔が、外国女だというのに、不思議とどこか、早くに亡くした姉の面影を偲ばせた。我ながら女々しいと思わないではないのだが、そう思ったときには、もう包みを受け取っていた。
 手にとってみれば持ち重りがして、どうも銀で出来ているようなのだが、奇妙なことに、がらくた同然の古物の中に交じっていて、値も子供の小遣いほどのものだった。店主をつかまえて訳をきけば、その婆さんがまた正直者で、いわく付きの品なのだと、あっさりと答えた。何でも、これまでの持ち主がことごとく、この時計を手にして数年で命を落としているのだという。
 そうした品を悪びれもせずに売ろうというのだから、図々しいにも程があるのだが、しかしまあ、黙って高値で出せばわからないだろうに、捨て値で売りさばこうという。よほど早く手放したかったのだろうが、それにしても正直なことだ。兄さん、あんた縁起は担がないほうかいと、婆さんがきいてくるのに、まあ担がないでもないがと笑って答えると、随分と気味の悪そうな顔をされた。
 鎖が包みの中でしゃらりと優雅な音を立てるのを聞きながら、帰る道々、いまとなってはおぼろげな姉との思い出を、つらつらと思い浮かべていた。母があまり子供らに関心のない人で、幼い日の私にとっては、姉が母親がわりのようなものだった。
 しかし、そうして包みを後生大事に抱えて歩いている己の姿を、ふと冷静に振り返ってみれば、いい年をした大の男が、いかにも女々しいことだという気がして、遅れて気恥ずかしさが追いかけてきた。しかし、もう買ってしまったものを捨てるのも、どうにも偲びない。そのまま帰宅し、書きもの机の上で包みを開いてみたところ、その中にいたのだ。痩せっぽちの小鬼が。

 小鬼はいつも懐中時計の上に腰かけて、痩せ細った足をぶらぶらとさせている。私が蓋を開けるときには、妙に律義なもので、必ずひょいと足をどけて、邪魔にならないところへとよじ登る。その足指の爪が、なるほど鬼らしく、いやに鋭く伸びている。
 螺子を巻けば、時計はきちんと動いた。外出の際に持ち歩くのには、愛用の品があるものだから、私はその時計を机の上に置いたまま、気まぐれに螺子を巻いたり、巻かなかったりした。時計の針が正しい時刻を指していようがいまいが、その上に腰かける鬼の様子は、ちっとも変わらなかった。
 初めのうちは、いつも黙ってこちらを見るばかりだったものだから、てっきり口のきけないものと思っていたが、ある月のない晩、ふと机の上に眼をやると、小鬼は折れそうに細い首をこきりと鳴らして、おもむろに言葉を吐いた。
 ――明日、転んで足を捻るぞ。
 低い、嗄れ声だった。意表を衝かれてまじまじと小鬼を見ると、鬼は金色の眼で、いつものように、ただじっとこちらを見つめ返している。
 ――いま喋ったのは、お前さんか。
 訊いてみても、返事もしない。ただじっと、何を考えているのかわからない眼を、光らせている。
 気にはなったが、それでも長らく先のばしにしていた用があり、翌日はいよいよ否が応でも、役場に出かけねばならないという日だった。やむなく往来を歩く間、いつになく、足元に気をつけていた。
 肝心の用事のほうは、何ということもなく片付いたのだが、さあ家に戻ろうというとき、急に背後で甲高い悲鳴がして、背中にどんと突きあたるものがあった。もともとさして体格のいいほうではない私は、簡単によろけて、その場に転んだ。
 私を突き飛ばしたのは、見知らぬ女学生だった。がらの悪いのに絡まれかけて、慌てて手を振りほどいて逃げ出し、その勢いで私にぶつかったものらしい。
 連中のほうは人目を気にしてか、ばつの悪い様子でどこかに行ってしまったのだが、私の方はというと、たいしてひどく転んだわけでもなかったというのに、間の悪い具合に足が捩れて、いっときの間、随分と腫れていた。

 あれはいったい、何だったのだろう。小鬼と目の合うたびに思いだすのだが、何か尋ねてみても、鬼は返事をするどころか、肯くことも、首を振ることもしない。私の言葉を聞いているのかどうかさえ判然とせず、ただじっと目を光らせて、細い足を揺らしている。
 不思議なもので、同じ家で暮らす母の目には、鬼の姿は映らないようだった。ときおり時計に向かって独り言を零す私を見て、母は気味悪そうに眉をひそめていた。
 やがて、捻った足がすっかりよくなる頃、ふたたび小鬼が口を開いた。
 ――蔵が、焼けるぞ。
 私はそのとき、古い知人に宛てて、以前に貰った見舞いの礼をしたためているところだった。手にしていた万年筆を置き、首をひねって懐中時計を見ると、その上で鬼はいつものように、ただじっと金色の眼を光らせている。表情らしい表情は、そこにはなかった。恨みがましいようでもなければ、人を慌てさせて揶揄うようでもない。鬼と人の感情の発露が同じようなものとは限らないが、いずれにせよ、その眼から何かしらの感情を読みとることは難しそうだった。
 しばらく螺子を巻いておらず、蓋を開けたままの懐中時計の針は、あらぬ時刻を示している。その盤面に鬼の脚の、小枝のような細い影がさしている。なるほど、俗な怪談話とは違って、こうした妖しのものにも、どうやら影はあるらしかった。
 庭にはたしかに、小さな蔵がある。この家を親類から譲り受けたときに、すでに建っていたもので、どうせ大した品を置いているわけでもないのだが、先の出来事もあり、そう言われてみればやはり、気には懸かる。その夜、突然の私の行動に驚く母をよそに、蔵の錠前を開け、何か燃えては困るようなものはなかっただろうかと見回りをした。
 すっかり存在を忘れていた、貸した金に関する証文が一枚と、姉の遺した着物がわずかばかり。燃えてまずかろうと思うのは、それくらいのものだった。
 それらを座敷に持ち込んで、いったい何事かと怪訝そうにしている母に、そろそろ虫干しをしましょう、思い立ったうちに出しておかねば忘れそうだなどと誤魔化して、その晩は庭に面した部屋で、書きものをしながら過ごした。
 しかし夜の間には何事もなく、翌日の昼になって、私のもとに電報が届いた。本家の伯父からのもので、昨夜遅く、蔵が焼けたという。
 怪我人のなかったことをひとまず知らせる電報だったのだが、思うところあって、すぐに身支度をすると、本家へ向かった。自分では平静のつもりでいたが、思うよりも動転していたものか、それとも何かの怪しげな力が働いたのか、普段は持ち歩かないはずのあの懐中時計を、この手にしっかり握りしめていることに気が付いたのは、電車の中でのことだった。
 車内はそれなりに賑わっていた。相席になった年配の紳士が、どうもしきりに私の手元に視線をやるので、まさかこの人物にも小鬼の姿が見えているのかと、とっさに勘繰ったのだが、そうではなかった。
 ――随分とご立派な時計ですな。
 男は人の良さそうな下がり眉をさらに落として、話しかけてきた。
 ――余計な差し出口のようですが、貧乏人には目の毒だ。近頃はどうも置き引きや掏摸が出て、物騒なようですから。
 忠告に感謝しつつ、私は手元の時計にちらりと視線をやった。鬼は、窓の外に流れる景色にも、車内をにぎわす人々にも、とんと興味がないようだった。首を捻じ曲げて、平静のごとく私の顔をじっと凝視している。その小鬼ごと、時計を懐に放り込んでしまうと、胸元に感じられるのはただ丸く冷たい感触ばかりで、この中に小さいながらも立派な鬼が入っているなどということは、とても信じられないような気がした。

 本家を訪ねてみると、幸いにして母屋にまでは燃えうつらずに、どうにか消し止められたという話だった。それでも実際に庭に出てみれば、蔵の白壁は煤け、梁は落ち、なんとも無残な有様だった。
 出迎えてくれた伯母は、すっかり悲嘆に暮れていた。あれもこれも焼けてしまったのよと、ため息交じりに彼女が指折り数えた品は、名の知れた美術品だの、名工の手による陶器だの、まあよくもそれだけ溜めこんだものだと、思わず呆れるような数だった。
 久しぶりに会った伯父は、私が足を運ぶとは思わなかったらしく、面食らったような顔をしたが、それでも遣り手の実業家らしく、すぐに取り繕って笑顔になった。
 ――わざわざ心配して来てくれたのか、手間を取らせるまいと思って、電報を打たせたのだが。しかし君、見ないうちに痩せたようじゃないか、ちゃんと食っているのかい。
 ――ええ、おかげさまで。
 答えつつ、私は燃え落ちた蔵に、ふたたび視線をやった。
 ――あすこには確か、父の蔵書もあったと思いますが。
 伯父は髭をかすかに震わせて、気まずそうな顔をした。
 ――ああ、あらかた燃えてしまったよ。管理が行き届かなくて、悪いことをしたね、こんなことになると知っていたなら、無精をしないで、さっさと形見分けをしておけばよかったのだが。
 父が遺した本の中には、本邦ではなかなか手に入らないような洋書や、稀覯本(きこうぼん)の類もあったはずだった。もともと父は、いずれ私にくれてやるといっていたのだが、いざ父が早々に逝ってしまえば、あとに残ったのは口約束ばかりだった。貰い受けようと思った私が訪ねて来ても、この伯父は、ああ、そろそろ整理せねばなるまいねなどと誤魔化すばかりで、一向に埒があかなかった。
 本音のところでは、価値ある品とどこかで耳に挟んで、惜しくなったのだろう。父が生きているうちにさっさと持ち出しておかなかったのが、所詮はこちらが世間知らずだったということだろうか。私の方も次第に億劫になって、あえて波風立ててまでという気になっており、そうこうしているうちに、今回の火事で焼けてしまった。
 火の元について、伯父は言葉を濁したが、物騒なことに、どうやら放火と思われる形跡があったらしい。伯父の事業が近ごろ順調にいっているというので、それを妬むものの仕業ではないかと、陰で使用人たちが噂するのが耳に入ってきた。

 本家を辞して帰る途中、焼けてしまった父の蔵書のことを思った。人死にが出なくてよかったのだと、そう思うべきだったのかもしれないが、しかしやはり、惜しいことをしたという悔いは残った。あの中には以前から、死ぬまでに一度は読んでおきたいと思っていた戯曲の邦訳やら、文献やらがあったのだ。
 とはいえ、形あるものは失われるのが常だ。それよりも、また妙なこともあるものだと、ふと思い立って、道々、懐中時計を懐から出した。鬼はその上に大人しく座り、痩せた首を曲げて私を見ている。
 この鬼はいったい何を思って、不幸を告げるのか。
 おかしな話だが、私はこのとき、この小鬼が、わが身に起こる不運を先どって預言しているのだと、頭からそうきめてかかっていた。あとになって考えれば妙なもので、このような状況であれば、この鬼が災いを呼び寄せているのではないかと、そんなふうに考えてもおかしくはなかったのだが、不思議と手元に小鬼のいる間、一度もその可能性を考えてみなかった。
 いったいどのような通力を発揮して、この掌に載るようなちっぽけな鬼が、先々の出来事を知るのだろうかと、私は興味津々の体で、手の中の小鬼を見下ろした。鬼はぱちくりと瞬きをして、妙に人間くさく、片目を眇めてみせた。私はこのとき初めて、この鬼が表情らしい表情を作るのを見た。
 しかし瞬きをするほどのうちに、鬼はもういつもの無表情に戻っており、今度は何を見とおそうというのだろうか、双眸を光らせて、じっと私の顔を見上げていた。

 それからも、鬼はときおり思いだしたように、おもむろに首を鳴らしては、不運を告げた。
 ――近く、失せものをするぞ。
 ――金を貸した相手に、裏切られるぞ。
 ――来月、お前の母親が、倒れるぞ。
 失せものというのは、姉の形見の着物だった。気付いたときには、忽然となくなっていた。母親は泥棒でも入ったのではないかといったが、そんなはずはない。おそらくは私の目を盗んで、質に入れたか何かしたのだろう。
 私に妻子でもあればまた別だっただろうが、母子二人の余生を賄うほどの金ならば、父の遺産で事足りる。しかし母は本質的に贅沢の好きな人間で、金を稼ぐすべも知らないくせに、ときおり発作的に身の回りの品を買う悪癖を持っていた。その金を作るためになら、たとえ我が子の形見だろうと、躊躇わず手放すだろう。
 実際のところ、それからしばらくしてから、ほとぼりが冷めたと本人は思ったのだろう、華美な装飾の入った姿見がひとつ、母の部屋の隅に増えていた。しかしそのことを、今さらどうこう言い立てる気にはならなかった。それが母の生き方で、そういう人なのだ。
 梅雨の頃、古くからの友人が、借金を踏み倒したまま、行方をくらました。どのみち大した額ではなく、帰ってくることをあてにするつもりもなかった金でもあったし、行方を捜す気にはなれなかった。どこかちゃっかりしたところのある男だったから、ほかの借金取りからも、うまく逃げおおせることだろう。
 盛夏を過ぎたころ、母が前触れなく高熱を出し、そのまま後を引いてしばし寝付いた。ひゅうひゅうと苦しげな咳をして、一時は危ないかと思ったが、ひと月ほどであっけらかんと恢復した。
 鬼の言葉はいつも的中し、だからといって、どうやら災いを避けるすべもないようだった。
 そうこうするうちに、風が冷たさを帯びはじめた。
 書きかけの手紙がはかどらず、しかしいまのうちに出しておかねば、あまりに不義理だろうと、文机の前で唸りながら、腕を組んでいた。秋口に風邪をひきこんで以来、長らく夜になると微熱が出、どうにも頭がぼうっとして、なかなか文章がまとまらない。
 亡き父は文筆を業としていた。なにも文豪の偉い先生であったということではなく、もともと生家より分け与えられた財産があったので、食べてゆくのに困らなかっただけのことではある。とはいえ、まがりなりにも文章を書くということを、商売にしていた人だった。姉もその血を引いたか、ひどく字の達者な女で、生前にはことあるごとに、心濃やかな文を書いていた。比べて私一人、文才というものをどこかに置き忘れて生まれてきたらしく、父の遺品の万年筆を手に、たまの必要に迫られては、ひどい悪文を書き散らしている。
 その己の悪筆に嫌気がさして手を休め、顔を上げたところだった。小鬼が、こきりと首を鳴らした。
 ――お前、さ来年の冬に、死ぬぞ。
 意表を衝かれて、思わずぽかんと口を開けた。小鬼は、その喉の奥でも見ようというのか、いつものように、じっと眼を凝らしている。木枯らしが吹いたか、障子戸ががたがたと不穏に揺れ、遠くで母親が、小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。
 ――そうか。
 いっとき間抜け面を晒したあとで、私はようやく驚きから立ち直って、顎をさすった。何度も目を瞬き、首を振ってみたが、戸惑いはなかなか抜けきらない。実感がわかなかった。二年後の、冬。
 ――そうか。二年後か。
 呟いて、もう一度だけ首を振ると、知らず、口元が緩んだ。自分でそのことに気がついて、驚いた。もう少しばかり生きていたいという欲が、まだこの身の内にもあるらしかった。
 医者は、次の春まで持てばいいほうだといった。
 かかりつけの医者から余命を宣告されたのが、去年の晩秋、歳の市で小鬼つきの懐中時計を買う、ひと月ほど前のことだった。
 なんとはなしに、その前から予感めいたものがあったので、そう言われてもさして驚きはしなかった。もとより丈夫な質とは言い難く、子供の頃にも、この子は成人できるかどうかと、そう言われていたのだ。思いがけず長じたはいいが、私が成人するのを待たず、父も姉も、胸を病んで逝った。私の番もそう遠くはなかろうと、いつからかそんなふうに、漠然と思っていた。
 私は小鬼から視線を外し、目頭を揉むと、書きかけていた手紙を読み返した。この手紙を書くのは、まだもう少し経ってからのほうがよかろう。そう思ってから眺めれば、我ながら、なんとも辛気臭い文面だった。遠方で暮らす旧友にあてて、まるで近いうちに死ぬかのようなことを書き送っておきながら、その後ずるずると二年も生きていたのでは、あまりに間が抜けているというものだ。もうひとつ、苦笑が漏れた。
 ――妙なやつが、いたものだ。
 耳を疑って、私は振りかえった。先の不幸を告げる以外の言葉を、この小鬼が口にするところを、このとき初めて耳にしたのだった。しかし、驚いてまじまじと見下ろせば、小鬼はもう素知らぬ顔で、いつものように口を噤んでいた。

 それから半月ほどが経った頃だった。秋も深まり、世間ではそろそろ暮れの準備もしようかという時節、伯父からの呼び出しがあって、本家へ足を運んだ。
 駅を降り立って、吹きつける冷たい風に首をすくめながら、本家へ向かう途中、何とはなしに探った懐から、入れたつもりのなかった件の懐中時計が出てきたのだから、やはりあれは、そういう縁だったのだろう。
 ――やあ、わざわざ呼びつけてすまなかった。
 そういって私を出迎えた伯父は、客間にまで書類を持ち込んで、忙しなく目を通していた。事業はいよいよ順調らしく、前よりさらに羽振りのよくなっているのが、伯父の身につけた洋装の生地や、袖口に光るカフス釦ひとつからでも、よくわかった。
 ――なに、これが出てきたものだから、君に渡さねばと思ってね。
 そういって伯父が差し出してきたのは、小ぶりな手帖だった。
 手にとると、それは、随分と古いもののようだった。伯父が目線で促すのに従い、ページをめくってみれば、どうやらそれは、父の若かりし頃の、日記帖のようだった。日焼けして褪せたインクは、ところどころ読みとりづらくなっているものの、流れるような筆跡に覚えがあった。
 ――これも、あの蔵にあったのですか。
 よくもまあ燃えずに残ったものだと思い、そう聞くと、伯父は首を振った。
 ――いいや、あれの使っていた部屋の、書棚の裏から出てきてね。隠していたのか、何かの拍子に落としたのか……。
 礼をいい、帰ってから読むつもりで、懐に仕舞おうとした。そのときだった。件の懐中時計を、取り落としたのは。
 絨毯の上で時計が弾んでも、小鬼はその上から落ちもせず、器用に尻を載せたままでいた。伯父が目を瞠って、かすかに息をのむのがわかったが、それは鬼の存在に気付いたのではなく、時計の細工に目を奪われたためのようだった。
 ――随分と、立派な品のようだね。
 ――さあ。見た目には上等そうに見えますが、何せ、市で投げ売られていたものだから。
 ――ちょっと、見せてもらってもいいかね。いや、もちろん、君が厭でなければだが。
 そういわれて、厭ですとは答えづらい。鬼の座っている位置を避けて時計を拾い上げ、伯父に手渡すと、その手つきが、大事そうに扱っているというふうに見えたものか、伯父の視線が食い入るように、西洋女の横顔を凝視するのがわかった。
 ――いや、見事な細工だ。
 ひとことそういって、伯父はいっとき、黙り込んだ。
 ――どうだろう、信用できる古物商を紹介するから、一度、鑑定でもしてもらっては。こうした骨董は、もしや、それなりの値がつくかもしれないよ。
 ――いえ、手放すつもりはありませんので。
 ――そうかい。しかし君も先々のことを考えれば、心細いものがあるだろう。いずれ所帯も持つだろうし……
 ――そのつもりはありません。こちらのことは、お気づかいなく。
 きっぱりと告げると、伯父は少し、鼻白んだようだった。
 ――いや、余計なことをいったね、しかし私も君たちのことは、心配に思っているのだよ、君からしてみたら、いらんお節介と思うだろうが。
 言葉が滑って宙に浮くのが、目に見えるようだった。伯父は重ねて、何のかんのと言い訳めいたことをいい、それでも私が表情を変えないのを見ると、尻すぼみに言葉を濁して、懐中時計を返してよこした。
 その一瞬、私はたしかに見た。時計に腰かける鬼が、このとき初めて私から視線を外し、伯父のほうを、じっと見つめるのを。

 この時計は、いずれ手もとを離れることになるのかもしれない。そんなふうに思ったのは、小鬼の眼つきが、私をじっと見ていたときのそれと、同じだったからだ。
 結果からいうと、その予感は当たっていた。
 年が明け、伯父が唐突に家を訪ねてきたとき、私は縁側に腰かけて、父の遺作を読んでいた。すでに初冬に差しかかっており、庭木も随分と葉を落として、うら寂しい眺めだったのだが、何とはなしに、外の空気を吸っていたかった。いつもの年ならばじきに雪もちらつこうかという時節だったが、その日は朝から妙に暖かく、ぬるく湿り気を帯びた風が吹いていた。
 後になって振り返っても、何か前触れがあったという覚えはないのだが、何かしらの予感がしたのだろう。いつもは文机に置いたままの懐中時計を、縁側の、自分の腰掛けるすぐ傍に置いて、蓋も開けたままにしていた。手元に視線を向けると、小鬼はいつもと変わらず、小枝のような足をぶらぶらと揺らしていたが、ひとつだけいつもと違うことがあった。鬼の視線は私を離れ、伯父のやってくるほうを、凝視していた。
 ――やあ。商用でちょうどこの近くまで来たものだから、どうしているかと思ってね。
 伯父はいっとき、当たり障りのない世間話をしてから、たったいまそのことを思いだしたというように、懐中時計の話を持ち出した。
 ――そうだ、忘れていたが、ちょうどよかった。先に見せてもらった、その時計だがね。
 そんなふうに切り出した伯父は、それまでの朗らかな表情を一変させた。
 ――実はね、知人にその話をしたところ、もしや、盗品ではないかというのだよ。
 ――こんな古ぼけた時計がですか。
 わざとらしく話に乗ってみせたのは、伯父の言い分を信じたからというわけではなく、小鬼の双眸が、ぎらりと光るのが見えたからだった。伯父は身を乗り出して、ぐっと顔を寄せてきた。
 ――そうか、君はしっかりしているようでいて、案外世間を知らないところがあるからな。古いほど価値のある品というものも、世の中にはあるものさ。それがね、知人のいうには、その時計の特徴を聞くにつけて、さる華族のお屋敷から、三年前に盗まれたという逸品に、酷似しているというのだよ。
 伯父は、立て板に水といった名調子で、もっともらしく話を続けた。仏蘭西によく知られた高名な細工師がおり、当人は十年も前に亡くなっているのだが、女性の肖像をあしらった意匠が有名で、華族の邸から盗まれた時計は、その手による品なのだという。
 ――そんな立派な品なら、歳の市の隅でぞんざいに投げ売られていたりはしないでしょう。贋物ですよ。
 ――まあ、そう思うのも無理はない。しかし、世間には、ときにそんなこともあるというよ。間の抜けた話だがね、盗人の方で、品の来歴を知らずに盗み出したはいいが、後で調べると、あまりに有名な品だったもので、処分に困っただとか、そういうようなことだ。下手なところで売れば、そこから足がつきかねないからね。そうした品を秘密裏にうまく捌くだけの伝手もなく、泣く泣く捨てたり……いや、笑い話のようだがね、実際に、しばしばあることなのだそうだよ。
 私が半信半疑といった体で首を捻って見せると、伯父は畳みかけるように続けた。
 ――もちろん君のいうとおり、贋物か、でなければただ単に、よく似た別の品なんだろう。いや、気を悪くしないでもらいたい。君も、またとんだ言いがかりをつけられたと思っているだろうね。しかしまあ、ほかならともかく、相手が華族様となればね、何かの間違いであらぬ疑いをかけられたら、たまったものではないだろう。ここはひとつ、しかるべき人物に、鑑定をしてもらってはどうかと思うんだよ。それで贋作なり、まったく別の品なり、それがはっきりすれば、安心できるじゃないかね。そうだろう?
 ――それはまあ、そうかもしれませんが。
 ――そうだろう。実は、長く昵懇(じっこん)にしてもらっている取引先にね、その筋の、古物の真贋についてはまず信頼できるという人がいるんだ。ちょうど商談で、近いうちに会う機会があるものだから、もし君さえよければ、ちょっと預かっていって、内々に見てもらおうかと思うんだが、どうだろうかね。なに、金の心配はいらない、事情が事情だからね。観てもらって何事もなければ、すぐにその足でここに届けるし、もし万が一のことがあっても、そこは君の名前は出さずに、うまく先方に渡りをつけられると思うよ。
 ――しかし、どうしてそこまで気にかけてくださるのです。
 声に皮肉の色がにじまなかったとは、自分でも思えない。しかし伯父も大した狸というべきか、私の言葉の刺に気付かなかったかのように、いかにも親切そうに笑って見せた。
 ――可愛い甥っ子のことじゃあないか。いや、格好をつけるわけじゃないが。それにまあ、正直なところをいうとだね、万が一にも君があらぬ疑いをかけられたなら、私も困るんだよ。それは君もわかってくれるだろう。君がそんな人間ではないことは、私にはよくよくわかっているけれども、しかし世間様の目というやつは、実に怖いものだからね。窃盗だのなんだのと、そんなことに親類のものがかかわっていると思われるのは、商売をやっている人間としては、ほら、何かと厄介なことだから。こういうことは、慎重になるに越したことはないものなのさ。
 その長い口上の間、小鬼はずっと、伯父の顔を見上げていた。くるくると忙しなく動く、伯父の眼球のあたりを。
 私はため息をついて、肯いた。伯父のやり口は、見え透いていた。いったん渡してしまったが最後、戻ってくるのはなんだかんだともっともらしい言い訳ばかりで、この時計は私のもとには、もう帰ってこないだろう。
 わかってはいたが、これはもうそういう縁だったのだろうと、そういう気持ちのほうが、ますます強くなっていた。私がこの時計を選んだのではなく、おそらく時計のほうで、自ら持ち主を選んで、渡り歩いているのだ。それならばこれも、仕方のないことなのだろうと。
 ――わかりました、ですが、伯父さん。
 この口出しが、伯父の命運に、あるいはこの懐中時計の行く末にとって、はたして吉凶どちらと出るか、鬼ならぬこの身にわかりはしなかったが、敢えて告げた。
 ――この懐中時計を買ったときに、店主がどうにも気になることを言っていたのですよ。何でもこの時計の持ち主が、これまで次々に、悲運に見舞われたのだとか。
 伯父はぎょっとしたように目を剥いたが、私は気付かなかったふりをした。
 ――いまのところ、私もこうして無事で過ごしておりますし、ただ揶揄われただけのことかもしれませんが。しかし、どうか充分お気をつけて。そうまでこの身を気遣ってくだすったというのに、それで伯父さんにご迷惑をおかけすることになっては、あまりに申し訳ない。
 しゃあしゃあとまあ、どの口がいうものかと、言いながら自分で呆れた。なるほど、たしかに伯父と私とは、血の繋がっている間柄らしい。
 伯父は笑顔をひきつらせ、いっとき気味悪そうに時計を見ていたが、欲だか見栄だかのほうが、結局のところは勝ったらしかった。私の差し出した袱紗に、そろそろと時計を包むと、慎重に懐に仕舞いこんだ。

 はたして半年の後、伯父の訃報が入った。
 増水した川に、誤って落ちたらしいという話だった。梅雨の最中のことで、前の日からしきりに生ぬるい雨が、ざあざあと降りしきっていた。
 姉の葬儀以来の喪服を引っ張り出し、母と連れ立って通夜へ向かうと、驚くほど多くの参列者が集っており、そのほとんどが、商売がらみの知り合いのようだった。そこかしこで交わされる黙礼の上に、欲得や打算の色を重ねて見たのは、あるいは私の目の方に色眼鏡がかかっていたのかもしれない。ひそめられた声での噂話を、雨音が曖昧に覆い隠していた。
 母はもともと、伯父夫婦とは折り合いが悪かったから、たいして気落ちする風でもなかったし、それを隠そうという体裁さえ繕わなかった。私のほうはというと、血のつながった肉親でもあり、さすがにそうまで開き直ることもできず、それらしい顔をして親族連中に弔意を述べて回ったのだが、しかし悲しみを自らのうちに見出すのは、正直に言って難しかった。気の毒にと思いはするのだが、それ以上の感慨が、どうも湧いてこない。己の言葉が、さぞや白々しく響いているだろうと思うと、自分がとんだ人でなしになったような気がした。
 あの人がいま居なくなって、商売はこの先どうしたらいいのかしらと、そんなふうに繰り返し嘆く伯母に、頃合いを見計らって尋ねてみた。
 ――伯母さん、こんなときになんですが、伯父さんに預けていた懐中時計を知りませんか。銀色で、女性の横顔の細工が入ったやつです。
 ――あの時計。
 伯母の血相が変わった。
 彼女が大きく身ぶるいをして話しだしたことには、亡くなる前のひと月、伯父はひっきりなしに懐中時計に向かって、ぶつぶつと薄気味の悪い独り言を繰り返していたのだという。
 この時計を手にしてから、碌でもないことばかりが起きる、知り合いの寺に預けてなんとかしてもらう。ついにはそんなことを言いだして、あの時計を手に出かけて行ったのが、十日ばかり前のことだという。しかし帰ってきてからも、伯父は始終、怯えたような目つきのままで、辻褄の合わないことばかりを呟いていたそうだ。そうして昨夜、酒を喰らってふらふらと出掛け、今朝早く、川岸に打ち上げられているところを発見された。流れ着いた先は、かなり川下のほうだったらしい。
 ――ああ、気味が悪いったら。
 伯母の、泣きはらした様子もないその目が、私のほうをじろりと見て、急に狼狽えた。時計が私のものだということを、忘れていたのだろう。私は小さく首をすくめた。
 ――どこの寺か、聞いてませんか。
 ――さあ、悪いけれど。
 気味の悪いものを見る目で、じろりと睨まれた。お前が何かしたのではないかと、矛先を向けられそうな気がして、早々に退散することにした。

 あの鬼はその後、どうなったのだろう。
 生憎と、これまで生きてきた中で、法事以外のことで寺と深く関わった経験もなかったものだから、いわゆる高僧と呼ばれる人々に、どれほどの法力があるものか、とんと察しがつかない。小鬼は、うまく逃げおおせたのだろうか。それともすでに、折伏されてしまっただろうか。そう考えれば、あまりに哀れに思えた。ただ先の災厄を告げるというだけで、忌み嫌われ、追い立てらねばならぬというのは。
 伯母の話から察するに、伯父は己の身の不運を、時計のもたらす災厄であると、思いきめていたようだった。故人の振る舞いについて悪く言うのは褒められたことではないと、重々承知の上ではあるが、私は心の中でそういう伯父の心根を、浅はかなことだと思っていた。
 だが、伯父の置かれた状況を思ってもみれば、それもまた、致し方のないことだったのかもしれない。
 小鬼は、私のもとにいたころと同じように、伯父が怯え、荒れてゆく様を、ただじっと見据えていたのだろう。あの金色に光る、二つの眼で。その眼の上に、伯父は悪意を見出し、私はそうではなかった。
 私はずっと、あの小鬼がただ私の行く先を読んで、それを告げているのだと思っていた。だが、そもそも私の場合は、あの小鬼に何を告げられるより先に、己の命数の残り僅かであることを知っていた。それも偶々のことで、特別に私が人より達観した眼差しを持っていたというわけではない。私にしたところで、ほんの少し状況が違えば、伯父がそうであったように、鬼の言葉に怯え、恐れて遠ざけようとしたかもしれない。
 あの日、雨の降りしきる通夜の席で、己のことを人でなしのようだと思ったが、まさしく私は、すでに人の心を失っているのかもしれなかった。そりの合わない相手だったとはいえ、血の繋がった実の伯父が死んだというのに、そのことよりも、あの鬼はどうなったのだろうかと、そちらのほうがよほど気に懸かっている。
 思えば、鬼が告げたいくつもの不幸のうちで、私を本当に嘆かせたのは、父の蔵書の焼けてしまったこと、ただそれきりだった。実の母が病みつこうが、旧い友が借金取りに追われて逃げようが、通り一遍の心配をしてみせるだけで、そうした災いを告げる鬼の存在を、憎むこともなかった。それは私の心がとうに、人よりも鬼の方に近づいているためではなかったか。

 いずれにせよこの身に残された時も、残すところ一年をきった。このような人間にも、はたして御仏の救いのあるものかどうか、じきに厭でも解るだろう。
 これを書いているいま、伯父の訃報からすでに半年あまりが経ち、じき冬も終わろうとしている。庭に咲いていた寒椿もすべて落ちた。まだ姿こそ見かけないが、今朝からどこかで梅が香っている。
 この冬は何度となく雪が降り、よく冷えた。寒さが身に堪えたか、近頃では厭な咳が出る。まだこの体の動くうちに、あの時計にまつわる顛末を、ひととおり書き遺しておこうという気になったのは、私にしては、悪い思いつきではなかったように思う。
 

(終わり)
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