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 週明け、残業していると、牧田がふらりとのぞきにきた。
「お、いたいた。まだかかる? もう上がれるんなら、飯でも食って帰んないか」
 何気ない口調での誘いだったが、何か話があるのかと思ったのは、牧田が落ち着かないようすで視線をさまよわせていたからだった。
「いいけど。料理のうまい嫁はどうした」
「向こうも飲み会。自治会の集まりだってさ」
 それで暑い暑いと騒ぐ牧田と連れだって、会社を出た。
 営業マンなんだからもっといい店をいくらでも知っているだろうと言いたくなるような、やたらと小汚い店に連れて行かれた。こぢんまりした焼き鳥屋で、常連がひっきりなしにやってくるというほどでもなく、気兼ねなく長居できて、安い。
 いっとき飲み食いしながら、馬鹿話の合間に仕事上の情報交換をした。あとは罪のない愚痴と、いつものうっとうしいのろけ話と。
 話があるのかと思ったのは気のせいだったかと、そう思い始めた頃になって、赤ら顔の牧田が、めずらしく絡む口調になった。「なあ、お前、何が楽しくて生きてんの?」
 えらい言われようだが、実際のところそれは、聞き飽きた台詞だった。
 趣味とかないの。休みの日とか何してるんですか。そういう世間話の延長線上の。独身男がのめり込むような趣味のひとつも持たず、酒も風俗もパチンコもやらないのが、そんなに珍しいかと、僻みっぽく考えるほどのことでもない。
 いつもだったら適当に受け流す。それができなかったのは、相手が牧田で、気がゆるんでいたからか。それとも、自分で思うよりも酔っていたからだろうか。
「生きるのに、楽しみって必要か?」
 自分で予期したよりもうんざりした声が出たことに、ぎくりとした。
 だが、牧田は気を悪くしたようでもなく、何度かしょぼしょぼと目をしばたくと、焼酎グラスを握りしめて、
「しんどくなんないか」
 そんなことを言った。
 やけに疲れた口調だった。
 しんどいのは、牧田のほうなのだろうかと、漠然と考えた。生きるのがしんどくなるような何かが、あったのだろうかと。料理のうまい嫁をもらったばかりの、幸せ太りの男が。
「なんかあったのか」
「……なんもないよ。俺はね」
 思わせぶりなことを言っておきながら、牧田はいきなり話を変えた。取引先の偉いさんに関する罪のない愚痴、営業部の人間模様、同僚の笑える失敗談。
 酔っ払いらしく、話題はあちこちに飛び、そうかと思えば同じところに戻って、ぐるぐると回った。
 何か言いたいことがあったのだろうに、飲み込ませてしまったような気がした。
 だがその違和感を、ビールと一緒に飲み下して、俺は気づかないふりをした。素知らぬふりで適当なあいづちを打って、人生の楽しみがどうのという話は、それで終わったものだと思っていた。

 再び牧田のようすがおかしくなったのは、店を出てからだ。
 いつになく飲み過ぎているなとは思っていた。接待で自分の酒量をよく知っている牧田が、酔ったふりをすることはあっても、足がふらつくまで飲むところは見たことがなかった。
 それがいきなり立ち止まったから、まさか気分が悪くなったのかと思って、あわてて振り返った。
「大丈夫か」
「遠野、ごめん」
 頭を下げてそんなことをいうから、吐くのかと思って、あわてて近づこうとした。だが牧田は、予想もしなかったことを言いだした。
「ずっと言えなかったんだけどさ。お前が総務に配置換えになったの、あれ多分、おれのせい」
 は? と、素っ頓狂な声が出た。
 牧田は頭を下げて、顔を見せないまま、話を続けた。
「あのころ。ひとりで残ってたら、相川専務がふらっとのぞきにきてさ」
 最初は単なる世間話だったんだと、牧田はろれつの回らない舌で言った。「そのまんま話の流れの、なんでもない感じで、そういえば遠野君って営業での仕事ぶりはどんな感じ、なんて聞かれてさ。あのころちょうどお前の前任の、下山係長だっけ。あの人の退職のうわさが出てたから、ああ、これそういうことだなってぴんときて」
 通行人の邪魔にならないように道の脇に寄りながら、牧田は立っていられずに電柱にもたれた。
「遠野は人のフォローばっかりして回って、自分の成績とか後回しにしちゃうから、営業ずっとやんの、本人にとってはしんどいんじゃないですかねっつった」
「……なんだそれ」
「実際、お前の営業スマイル見るたびに、こいつ無理してんなって思ってたし。嘘ついたつもりはないけど」
 じゃあ何がごめんなんだと、聞き返す前に、牧田は言った。
「あのころお前、成績だって悪かなかったけど。そんだけ無理してがんばってたくせに、自分の評価自体はちっとも気にしてないって顔してただろ。……お前、皆から信頼されてたし、もててたし。同期でさ、おれこのままおんなじ営業で、この先ずっとお前と比べられ続けんのかな、正直しんどいなって」
 それが懺悔の理由かと、ようやく理解した。
 想像してもいなかった。そもそも当時、成績でいうなら牧田のほうが上だった。無愛想を宮須に罵られる俺と違って、社内だろうと取引先だろうと、人当たりのよさでどんどん相手の懐に入っていく。
 信頼というなら当時だって、俺なんかより牧田のほうがよほど、誰からでも信頼されていただろうに。
「お前の異動、左遷みたいに思ってたやつもいたみたいだけど……うちの会社、社長の方針で、総務系の人材大事にしてるだろ。会社の屋台骨だっつって。じゃなかったらいくらなんでも俺だって、あんなこと言わなかった。……専務がおれの言葉だけで決めたなんて思わないし、べつにおれが何言っても、結果、変わんなかったのかもしれないけど」
 そこで言葉を区切って、牧田は片手で顔を覆った。「でも、いままでずっとお前に話せなかったんだから、やっぱりずっと気が咎めてたんだよな。しかもお前、営業出てもあいかわらず残業ばっかりしてるし、面倒くさい仕事しょいこまされてばっかりいるみたいだし」
 よろけて転びそうになるのを、とっさに腕を引いて支えると、牧田はごめんと繰り返した。
「別に、謝らなくていい」
 けど、と牧田は言った。「なんだかんだお前、営業の仕事、打ち込んでただろ」
 どうだっただろうと、言われてから考え込んだ。
 当時の自分の心境を思い出そうとしても、もうよくわからなかった。任された仕事をちゃんとこなそうという意識は、あったと思う。だが、それ以上の情熱が自分にあったという気はしない。
 自分が何を好きかとか、何をしたいかとか。そんなことは、考えもせずに生きてきた。考えることを、避けてきた。
「俺は……」
 言いかけて、いったん口をつぐんだ。そばにあった自販機で水を買って、牧田の手に握らせる。そのあいだに言葉を探した。
「お前のいうとおり、俺は多分、無理してたし、営業は向いてなかった。あのまま続けてたら、お前が言うように、そのうち顔面神経痛になるか、胃に穴でもあけてたよ」
 それは単なる慰めというか、フォローのつもりで口にした言葉だったが。
 言い終わってから、案外、正直な気持ちだということに気がついた。
「いまの仕事も、嫌いじゃない。だから別に、気に病まなくていい」
 遠野お、と情けない声を出して、牧田がようやく顔を上げた。
「お前いいやつだなあ」
 そう言った声は、やっぱりろれつが回っていなかった。そこまで酔っぱらわないと言いだせなかったのかと思えば、憎めないやつではあったが。
 その直後に牧田が道端にうずくまって吐きはじめたので、あまりいい話になった気はしなかった。


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