小説トップへ   2話


 
 ちゃんとしたものが食いたい。
 
 それは、唐突な思いつきだった。
 三十八年生きてきて、食事にこだわったことなど、まったくと言っていいほどなかった。同年代の男のうちではまめに料理をするほうだとは思うが、食事というものは、エネルギー補給ができて最低限の栄養バランスがとれていれば、それで充分だと思ってきた。
 グルメ番組なんかは退屈で見ていられず、リポーターの歓声にも、何を大袈裟なとしか感じない。同僚から呑みに誘われて、ちょっと気の利いた酒だの料理だのに対する蘊蓄を聴かされたところで、感心したふりをしながら右から左に聞き流してきた。
 舌がどうにかしているわけではない。甘いとか辛いとか、味の区別はつく。ただ興味がないだけだった。
 いつだったかテレビに味覚障害の若者が登場して、尋常でなく塩辛い味付けの食べものをうまいうまいと嬉しそうに食っていたが、彼らのほうが、俺よりよほど味というものに重きを置いていると思った。
 好き嫌いは少ないほうが、何かと楽だ。だからそういう自分に、特段の不満はなかった。その瞬間までは。

 日曜日の午前中、そろそろ日も高くなりつつある時分だった。持ち帰ってきていた仕事の資料を投げ出して、散らかすというほどものを置いてもいないワンルームマンションの床にだらしなく転がった、その瞬間、何の前触れもなく、発作のように思った。
 何でもいいから、ちゃんとしたものが食べたい。
 その衝動は、唐突である以上に、強烈だった。自分がなぜ急にそんなことを思ったのかは、考えてもわからなかった。しばらく仕事が立て込んでいたからといって、食事を抜いたわけでもなければ、カップ麺やレトルト食品頼みになっていたわけでもない。食事の手間を惜しんで体調を崩せば、よけい時間を無駄にすると考えるくらいの頭はあった。
 そもそも、ちゃんとしたものと言ったところで、何が思い浮かぶというわけでもない。有機農法の野菜だけを使ったオーガニック料理? 馬鹿らしい。自己暗示と気分に金を払うようなものだ。星のつくようなレストランか料亭? そんなところにはもっと舌の肥えた人間が行くべきだろう。
 あとは何があるだろう。家庭料理? おふくろの味?
 その単語は、思い浮かべるだけで俺を苦笑させた。
 母は、子どもに手料理を作って食べさせることに、あまり熱心な人ではなかった。というよりも、そういうことに情熱を注ぐには、少しばかり忙しすぎた。
 恨んでいるわけではない。女手ひとつで俺を育てるだけで手一杯で、育て上げたと思うが早いか過労であっけなく逝った母親に、感謝こそすれ、恨む筋合いがあるはずもなかった。
 ちゃんとした食べ物、か。
 馬鹿馬鹿しいと思いながら、仕事に戻るだけの集中力が帰ってこなかった。
 立ち上げっぱなしのパソコンで近くの飲食店を検索すると、あきれるほどの数の店がヒットした。どこだかの有名レストランで修業した料理人が作る創作フレンチ。家庭的な雰囲気を売りにした食堂。いかにも頑固そうな店主と自慢のスープの画像が載ったラーメン屋。
 一巡して、しまいにはお取り寄せグルメのサイトまで覗いたが、別にどれも食べたくはなかった。
 疲れているのかもしれない。あきらめてパソコンの電源を切り、暑くて脱ぎっぱなしにしていたシャツを羽織った。
 どうせ、そろそろ買い出しにいかなくてはならなかった。スーパーで安売りの食材でも見ているうちに、食べたいもののひとつくらいは思いつくかもしれない。

 外に出ると、日射しが強烈だった。
 梅雨もとっくに明けて夏本番、連日の猛暑のさなかだ。蝉がわんわんがなりたて、どこかの家のテレビからや、高校野球の中継が漏れ聞こえていた。
 スーパーまでの近道で、マンションの前の公園を斜めにつっきろうとして、知っている顔に出くわした。
 同じ課の女子社員だった。臼井……、下の名前はなんだったか。この四月に入社したばかりの新人。
 気づいた時点では、まだ少し距離があった。反対側の出口近くで、誰かと言い争っている……というよりも、彼女のほうが一方的に罵られているように見えた。
 相手は髪を明るく染めた、若い男だった。わずらわしそうに彼女の手を振り払って、荒い足取りで去っていく。
 ひとりあとに残された臼井は、少しのあいだ立ち尽くしていた。やがて、とぼとぼと歩き出したかと思えば、ゴミ箱の前で立ち止まって、何かを捨てるそぶりを見せた。
 弁当包みのように見えた。そのまま放り込もうとして、直前でためらっている。
 とりあえず、見なかったふりをしよう。そう思うのと同時に、臼井が顔を上げた。
「あ……遠野さん」
 目が合ったばかりか、声までかけられてしまった。
 こうなると無視するわけにもいかず、ああ、とかうん、とか、あいまいな相槌を返して、仕方なく歩み寄った。
「あー、その……悪い。のぞき見するつもりはなかったんだけど」
「いえ。……このお近くですか?」
「うん、まあ。そこのマンション」
 近くまで来ると、目が赤くなっているのがわかった。非常に気まずい。だからといって、それじゃあと立ち去るのも、それはそれで難しかった。
 臼井のほうも、やはり気まずかったのだろう。うつむいて、それで、自分の手の中の弁当包みのことを思い出したようだった。
「それ、捨てるの?」
「あ、えっと……はい」
 うなずいたきり、またすぐにうつむいてしまう。
 臼井はやや丸顔で、童顔だ。たしか二十一か二のはずだが、どうかすると高校生くらいに見える。泣きべそをかいていると、なおのこと幼く見えた。
「捨てるくらいなら、俺がもらっても?」
 いったい俺は、何を言っているのかと、言った端から自分であきれた。
「あ……、ええと」
 案の定、臼井は困惑したように瞬きをして、手の中の弁当包みと俺を、交互に見比べた。
「あー、……悪い。迷惑だよな」
「いえ。あの、そうじゃなくて」
 臼井はかぶりを振って、早口に言った。「申し訳ないです。こんな――捨てようとしたものなんて」
 途中から涙声になって、焦った。
「だけど」がらじゃないんだけどなと、言いながら思う。「一生懸命作ったんだろ」
 よけいに泣かせてしまった。

 聞けば彼女もすぐ近くに、部屋を借りているらしかった。
 とはいえまさか、上がり込むわけにもいかない。それで、クソ暑い公園の、かろうじて木陰になっているベンチに並んで座って、弁当包みを開いた。
 臼井はタオルハンカチを黒縁眼鏡の下にねじこんで、涙を拭っている。
 なんだろうな、この状況はと、内心でぼやきながら、泣いている臼井の顔を見ないように、いただきますを言った。
 こんな状況でものを食って、まともに味がするとも思わなかったが、
「うまい」
 素に戻って、でかい声が出た。
 もし不味くてもそう言うべき場面だろうと、身構えてはいたのだが。臼井は小さく鼻を啜りながら、律儀に会釈を返した。
「どうも……」
 若い女の子がいかにも張り切って作りそうな、凝った横文字の料理が入っているわけでもない。品数が多くて彩りがきれいなのが、女性の料理らしいといえばらしいが、卵焼きとか焼き鮭とか、ほうれん草の白和えとかの、肩肘の張らない弁当だった。
 何が違うのだろうと、食べながら考えた。味付けなのか、下ごしらえなのか。何か工夫があるのだろうが。
 気まずさも忘れて、黙々と続きを食べた。
「ごちそうさま」
 最後の一口まで食べ終わってから、さっきまで自分の部屋で考えていたことを思い出した。
 ちゃんとしたもの。
 いま食べた弁当が、多分、そうだった。そんなふうに後付けで考えるのも、滑稽なことには思えたのだが。
「お粗末さまです……あの、ところで、大丈夫だったんですか。こんなところでお弁当広げて」
「何が」
 返事を聞くよりも先に、俺の社会的立場がだよと、自分で内心つっこんだ。なんせ臼井は高校生くらいに見えてしまうほど童顔だ。
 援助交際という呼び方もとっくに死語かもしれないが、傍からはその手の光景に見えるだろうか。
 いや、いくらなんでもそれはない。日曜の午前中の公園だ。やましい間柄なら、こんなところで弁当なんか広げるとは、誰も思わないだろう。そう信じたい。
「その……お近くなんでしょう? わたしはまあ、こんなですけど、それでも一応は年頃の女ですし。奥さんとかに見られたら、誤解されませんか」
 こんなですけどって何だと、聞き返そうかと思ったのだが、立ち入った話になりそうで腰がひけた。それで結局、誤解だけを解くことにした。「それは大丈夫。俺、独身だから」
「あ……、そうなんですか。てっきり」
 そのあとの言葉を、臼井は濁した。
 結婚していないことを不自然に思われる年齢でもある。いちいちそれくらいで気を悪くしたりはしなかったが。
「こっちこそ、考えなしで悪かったな」
「え?」
「さっきの……彼氏? がここに戻ってきたら、それこそ誤解されるかもしれないだろ」
 ああ、と臼井は気の抜けたような声を出して、それから皮肉っぽく笑った。
「彼氏、だと思ってたんですけど」
 言いながら、語尾が震えている。
「なんか、ほかにちゃんと本命の彼女がいたらしくて」
 二股か。さっきの男の後ろ姿を思い出す。まあ、いかにもそういうことをしそうなタイプには見えた。遠目にちらっと見ただけで人間の性格がわかってたまるかという気もするので、偏見かもしれないが。
「お前重いわ、だそうです」
 再びうつむいて、臼井は肩をふるわせた。また泣かせたかと思って慌てたところで、
「ああ、もう。いまごろになって腹立ってきた。思い切り殴ってやればよかった」
 力強く拳を握りしめてそんなことを言うので、つい、声を出して笑ってしまった。
「ぐーで?」
「できればでっかい石かなんかで」
「それは警察呼ばれちゃうな」
 臼井はようやく顔を上げて、ちょっと笑った。
「やりませんよ」
「うん」
「……今日は、すみませんでした」
「いや、謝らなくても。弁当、ほんとにうまかった。また食べたいくらいだ」
 考えなしに言ってしまってから、臼井が反応に困っていることに気がついた。
「あー。その」
 口説いているように聞こえたかもしれない。それは警戒のひとつもされるだろう。なんせこちらは倍とはいわないまでも、一回り以上は年の離れた中年男で、彼女にとっては直属ではないながらも、上司にあたる立場だ。セクハラで訴えられたら一発だ。慌てて弁解した。
「違うんだ。本当にうまかったから、つい。その……まったく他意はない」
「そんなに全力で否定されるのも、それはそれで傷つきますけど」
 くすりと笑いながら、臼井。
「あー、なんだ、……悪い」
「いいですよ」
「え?」
 思わず聞き返した。臼井はちょっと恥ずかしそうに、早口で言った。
「たまに、気が向いたときでよかったら」
 ああ、うんとか何とか、また間の抜けた相槌しか出てこなかった。
 

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