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 軽やかな打球音とともに、走り出していた。
 高く上がったフライが、風に流される。顔をあげ、陽射しに目を眇めながら方向を確かめる。ぎりぎり、間に合う。スパイクの底がグラウンドを蹴立てる。土のにおい。
 公式戦だった。相手は格上で、奇跡的に僅差の戦いを続けている。ここは何としてでも守りたかった。
 センターがカバーに来ているのが、視界の端を掠める。ほとんど飛び込むように体を投げ出して、めいっぱいグラブを突き出す。
 ――届け。

 目が覚めると、何もない空中をつかもうとするように、手を伸ばしていた。
 天井に焦点が合って、亮は何度か瞬きをした。汗が首を伝う。窓からは、午後の陽射しが射し込んでいる。
 低く呻いて、頭をかきむしる。髪の中も、汗でぐっしょり濡れていた。動悸が早い。
 まだ、夢に見るのか。
 グラブの中で握り締めた硬球の感触が、手のひらに残っていた。口の中が、ひどく苦い。
 近頃どうも、夢見が悪い。これも幽霊付きの部屋の弊害かと、文香に八つ当たりしそうになるのを飲み込みながら、亮は体を起こした。
 時計を見ると、午後を回ったところだった。食欲はない。
 夕方からのシフトの日だ。起きて出かける用意をするにはまだ少し早い。それでも同じ夢をみるかもしれないと思えば、寝なおす気にはなれなかった。
 見れば、文香が部屋の隅に座り込んでいた。窓から外を眺めてぼんやりとしている。
 顔を洗って着替えると、亮は部屋の鍵を手に取った。
「ちょっと、その辺走ってくる」
 いちいち行き先をいう義理はないのだが、それでもいちおう声をかけると、文香は首をかしげた。
「あんた、昨日もおとといも、走ってたよね。なんかスポーツやってるの」
「そんなんじゃねえよ」
 声が不機嫌になった。
「なんで怒るの」
 答えずに、亮は部屋を出た。
 外の空気はひどく蒸していた。空の端に、厚い雲がかかっている。一雨くるかもしれない。
 ようやく地理が頭に入ってきはじめた町内を、軽く流して走る。車通りの少ないほうを選ぶと、自然と川沿いに出た。
 河川敷に降りると、案外人が多いことに気がつく。犬の散歩中の老人だの、ウォーキングをしている中高年だのとすれ違いながら、亮は走った。平日の昼間だが、夏休み中ということもあって、子どもたちの姿もちらほら見える。
 スポーツなど二度とやる気はなかったし、健康に気を遣うような柄でもない。走る必要なんか、どこにもなかった。それでも忌々しいことに、適度に走らなければ、夜、うまく眠れない。
 昔はヒマさえあれば走り込みをしていた。その頃の習慣がいまだに体に染み付いているのが、自分で腹立たしかった。
 川べりに座っている老人の持ち物らしいラジオから、高校野球の中継が漏れ聞こえてきて、亮は顔を顰めた。そんなことぐらいでいちいち不機嫌になるのが、引きずっている証拠だと、自分でもわかっていた。
 ――亮、ゴメン。オレのせいで。
 ふとした拍子に、耳の奥に蘇る声がある。
 小学校のクラブチームからの付き合いだったそいつは、高校に入学してすぐ監督に目をかけられ、一年の夏からスタメンに抜擢された。それが上級生の嫉妬を買って、人目につかないところで、陰湿な嫌がらせを受けていた。
 それは長く続いて、二年の夏大会が始まる直前になると、ますますエスカレートした。いつ怪我をさせられてもおかしくないように、亮の目には見えた。公式戦に出られないまま夏を終えることが決まった連中の目に、二年生四番がどう映ったのか、わからないではない。それでも亮は、そいつらに同情する気にはなれなかった。
 ある日、ついに堪えかねた亮は、その三年生連中に殴りかかった。
 怪我をしたのは、そいつらだけだった。
 騒ぎはその連中の親を通して、学校側にも伝わった。暴力事件が表沙汰になれば、場合によっては出場停止になる。そこまでいかなかったとしても、学校側の判断で、自粛せざるを得ないだろう。
 お前が謝罪して部を辞めれば、内々に済ませてもいいと、向こうはいっている。顧問の口から伝えられた話は、ひどく回りくどかったが、要約すれば、そういうことだった。
 ――俺のせいだ。
 顔をくしゃくしゃにしてそう謝った友人に、あのとき自分がなんと答えたのか、覚えていない。
 いくら走っても、苦い思いは消せなかった。雨のにおいを感じて、亮はもと来た道を引き返し始めた。

 予選大会は盛り上がっているらしく、文香は毎日のように高校野球ニュースを観たがった。
 亮がそのたびに嫌がっても、文香は粘った。そうなると根負けする。その日の夜も、ニュース番組にチャンネルをあわせて、亮はベランダに向かった。
 その背中を、文香が呼び止めた。
「ね、あんた野球やってたんでしょ」
 振り返ると、文香は妙に真剣な顔をしていた。
「……なんでだよ」
 とぼけるのも難しくて、亮はそんなふうに問い返した。
 画面の中では、試合のダイジェストが流れている。球場の熱気を伝えるブラスバンドの音が耳障りで、亮は顔をしかめた。
「だってほかにどう考えろっていうの、その態度。あの箱の中身も、どうせ、捨てられなかった野球の道具か何かじゃないの」
 何か言い返そうとして、できなかった。震える息だけが、亮の唇からこぼれた。
 図星だった。兄が強引におしつけていった荷物の中に、あの箱があった。実家の物置につっこんだままにしていた、かつての道具。
 兄が何を思ってあれを持ってきたのか、考えればなおさら腹立たしくて、何度か、捨てようと思った。けれどそうしなかった。
 いつでも捨てられる、ただ面倒だからだと、自分に言い訳をしていた。だが文香のいうとおりだ。捨てられるなら、もうとっくに捨てていた。部活を辞めた、高二の夏に。
「ね。なんでやめたの、野球」
「うるせえよ」
 思わず、強い調子になった。文香が一瞬、びくっと肩をすくめる。
「なによ。大声出さないでよね」
 怒った調子を装う文香の声が、わずかに震えていることに気がついて、亮は急に罪悪感を覚えた。苛立ちがそのまま苦く冷えて、腹の底に落ちる。
「……気に入らねえやつらがいたんだよ」
 文香から目を逸らしたまま、亮は、低く呟いた。
「あきれた。それでこのあいだは、バイト先でむかつく客殴ってクビ? 子どもの頃から、ぜんぜん成長してないんじゃない」
 痛いところを突かれて、亮はますます顔を顰めた。それでも、もう一度怒鳴る気にもなれず、黙って立ち上がると、煙草の箱をつかんだ。
 ベランダに出ると、近くの家で犬が吼えた。甲高い、威嚇の声。つられて遠くで、ほかの犬も吠え出す。
 もう夜も遅かった。湿った夜風に、煙が流れる。少し雲が出ていて、月はその向こうでぼんやりと霞んでいる。最終電車だろうか、踏み切りの音がいっとき響いて、止んだ。
「あのさ」
 煙草を吸い終わるころ、文香がひょいとガラス戸から顔を突き出した。
「あんたにも、言い分はあると思うのよ。たいした理由もないのに、ひと殴ったりする人間とも思えないしさ」
 ほんの数日前に知り合ったばかりの男に、なぜそんなふうにいえるのか。亮は皮肉を挟もうとして、やめた。文香が思いがけず、真剣な顔をしていたので。
「でも、殴っちゃったら、やっぱり駄目なんだよ」
 一方的に決めつけたのを謝っているつもりなのか、それともまだ怒っているのか、どちらともつかない早口で、文香はいった。
「手を出したらその時点で、どっちが悪いとか、関係なくなっちゃうんだよ。相手に非があったら、殴ってもいいなんてことない。そういう社会だし――そうじゃなきゃ、困るんだよ」
「わかってるよ、んなことは」
 憮然として、亮はいった。それが、自分の耳にさえいかにもふてくされた声に聞こえて、ますます仏頂面になる。
「わかってないから、手が出ちゃうんじゃない」
 ふっと口調を和らげて、軽口のように、文香はいった。そのまま、ひょいと引っ込んでしまう。
 亮は溜め息をついて、新しい煙草に火をつけた。向かいの犬は、まだ切れ切れに吼えている。

「ねえ、いいかげんこの部屋、ホントに片付けなよ」
 そう何度目かに文香にせっつかれたところで、亮はようやく重い腰を上げた。シフトの入っていない休日の、午後のことだ。
 どうせ段ボールを押入れに詰め込むだけなのに、それさえ面倒がって途中で投げ出していたのは、収納が狭く、少しは考えて放り込まないと、兄が実家から持ってきた荷物が入りきらなさそうだったからだ。
 兄夫婦のあいだには、じきに小学校に上がる娘がいる。この機会に亮の使っていた部屋を空けて子ども部屋にするのだといって、実家に放置してあった荷物だの、いらなくなった古い家電だのを、車で運んできたのだ。いっそ捨ててくれればよかったのにと毒づきながら、亮は押入れに頭をつっこんだ。
 すでに奥に放り込んでいた荷物を、いったん外に引っ張りだしたところで、亮は、見覚えのない箱に気がついた。
「なんだ、これ」
 これも、兄が勝手に置いていったものだろうか。亮はまずその可能性を考えたが、後ろで高みの見物を決め込んでいた文香が、驚いたような声を上げた。
「あ。それ、あたしのだ。そっか、忘れられてたんだね」
「なんつうずさんな管理会社だ……どうすんだ、これ」
 異常に無愛想だった不動産屋の顔を思い出して、亮はぼやいた。連絡先をどこかに控えていたはずだったが、とっさに思い出せない。
「うーん、大家さんの手をわずらわせるのも、なんか申し訳ないなあ。それでなくても、いろいろ迷惑かけたし」
 文香は頬を掻いて、亮を振り返った。
「ね。あんたウチの親に連絡して、取りに来るようにいってくれない?」
 亮はぎょっとして眉を吊り上げた。
「俺がお前の家族の連絡先なんか知ってたら、不自然だろ」
「うん、でもその箱の中にたしか、古い手帳とかも入ってるし。そこに実家の番号も書いてあるよ。なんなら一回開けて、確かめてみてもいいけど」
 文香はあっさりといったが、亮はますます渋面になった。いくら本人が死んでいるからといって、女の荷物をひっくり返して漁るのは、気が進まない。
「いや、いいよ。人の荷物なんか興味ねえし」
 いいながら、亮は渋々、携帯を手に取った。電話自体があまり好きではない。そのうえ娘を亡くした親を相手に、なんといって電話を掛けるかを思えば、気が進まないことこの上なかった。
 それでも連絡する気になったのは、文香が家族の顔を見たいのかもしれないと、そう思ったからだ。不動産屋に頼めば、宅急便で送って終わりになるかもしれない。
 文香の姿は、誰にでも見えるわけではないらしいし、家族と意思の疎通ができているのならば、誰も住まないこんなアパートの部屋で、一年もひとりで過ごしてはいなかっただろう。
 文香が読み上げる番号を押しながら、亮は眉を上げた。市外局番からすると、亮の実家と地理的に近い気がする。そのことを訊こうかと思った矢先、先方が応答した。
『はい、もしもし』
 掠れた声は、中年の男のものだった。文香の父親だろうか。気まずさに押されて、亮は口早に用件を告げた。
「あの、槙野文香さんのご家族の方ですか。コーポ花丘の202号に越してきた者で、山邊と申しますが、押入れに槙野さんの荷物が残っていたみたいで」
 慣れない堅苦しい言葉遣いに舌をかみそうになりながら、亮が一息にいうと、電話の向こうで、戸惑う気配があった。
 まさか、電話番号を押し間違えたりしてないだろうか。亮は思わず焦ったが、沈黙は短かった。
 取りに伺うが、いつが都合がいいか。口ごもりがちに、そういうようなことを聞かれて、亮はなるべく事務的な口調をこころがけながら、自分のバイトのシフトを伝えた。
『それでしたら、明後日の午前中に伺います』
 まだ電話の向こうの声には戸惑いの色があったが、ともかく、悪戯電話を疑われている様子はなかった。
 ため息をついて通話を終えた亮は、振り返ってぎょっとした。
 文香が青白い顔をして、何もないところを睨みつけている。
 それは、家族の顔を見られるのが嬉しいという表情には、とても見えなかった。亮は思わず、唾を飲み込んだ。事情を訊こうかと思ったが、いざ口を開くと、ぜんぜん違うことをいっていた。
「そんな顔してると、お前、本物の幽霊みたいだな」
 ふ、と文香の視線が亮に戻った。それから、小さく吹きだす。
「本物の幽霊だっつの」
 そう笑う表情は、もういつもどおりの明るさだった。


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