3話へ  小説トップへ   5話


 
 
 
 ――須山。ちょっと話、あんだけど。
 話しかける自分の声が緊張しているのがわかって、亮は焦った。
 掃除当番で、ふたりでゴミ捨てに行った帰りだった。ひとけのとぎれた小学校の校舎裏。
 真夏のことだ。校舎をとりまく雑木林には、呆れるほど蝉がいて、大音量でわんわんと合唱していた。
 緊張してしゃちほこばっているチビの自分を、斜め上から見下ろすようにしていた。
 これは夢だ。
 わかっているのに、焦る。馬鹿、やめとけ。叫ぼうとしても、声は出ない。
 呼びとめられた須山は、お下げ髪を揺らして、不思議そうに首をかしげている。
 夢の中の亮は、何度か口を開きかけて、ためらった。それでも顔を上げたのは、須山がじきに、転校してしまうという話を聞いたからだ。
 自分の喋る声が、蝉時雨にかき消されて、耳に入ってこない。
 そのとき自分が何といったのか、亮は覚えていなかった。きっといま聞けば気恥ずかしくて仕方ないような、小学生なりに背伸びした言葉だっただろう。
 手の中で、汗がべたつく。須山が驚いたように、目を丸くしている。その唇が開きかけて、少し迷うのを、目で追っていた。
 自分の声は聞こえなかったのに、大声でもない須山の返事は、なぜだかはっきりと耳に飛び込んできた。
 ――やだよ。だって山邊、乱暴だもん。

 起きるなり低く呻いて、亮は顔をしかめた。まだカーテンを買えずにいる窓から、容赦なく朝日が射し込んでいる。
 いやに昔の夢を見た。
 亮はがりがりと頭を掻いた。初恋の相手にフラれたときのことなんて、自分がまだ覚えているとも思っていなかった。それでもいざ思い出そうとしてみれば、あんがい忘れていないことに気づく。
 さすがに顔はもうおぼろげにしか覚えていないが、飛びぬけて可愛い子ということでも、目立つ子というわけでもなかったと思う。口を開くと気が強くて、からかったらすぐムキになるのが可愛かった。ときどき青あざを作っていて、人に聞かれたら、転んだとか階段から落ちたとか答えていたけれど、あとになって大人たちの噂で、父親の酒癖が悪いと小耳に挟んだ。告白以来、気まずくなって、あれからは一度も口をきかなかった。
 ――だって山邊、乱暴だもん。
 夢の中でいわれた言葉が、耳にこびりついている。実際にいわれたのも、同じようなことだったはずだ。
 喧嘩っぱやいのは、あの頃から変わらない。握った自分の拳を見つめて、亮は苦い息を吐いた。
 思い出してしまえば、恥ずかしさと苦い思いばかりが胸に残る。不機嫌に低く唸ると、つられて起きたのか、文香が隅で体を起こした。
 余分な布団があるはずもなく、文香は畳の上で寝ている。亮が入居する前から、ずっとそうしていたらしい。幽霊に布団を譲って自分が畳で寝るほど、亮は酔狂ではないが、相手が一応は女なだけに、つい気が咎めるような気がする。
「おはよ。なに、朝からご機嫌斜めね」
 欠伸まじりにいわれて、亮は眉を吊り上げた。
 だいたいお前が昨夜、余計なことをいうから。いいかけて、寸前で飲み込む。どう考えても、藪蛇の予感しかしない。
 朝飯用に買ってあったパンの袋を開けながら、ふと見ると、文香の髪にはっきりと寝癖がついている。なんでだよとツッコみかけて、途中で面倒くさくなった。
 そもそも、幽霊が寝る意味がわからない。そういえば、亮が最初に見たときにも、呑気に眠りこけていたし、ついでに寝言までいっていた。
「そういや、幽霊でも夢とか見んだな」
 何気なくいうと、文香は頷いた。
「見るよ。不思議だよね、どうなってるんだろ。生きてたときの感覚、そのまんま引きずってるのかな?」
「そんなもんか」
 ほかにどういいようもなく、亮は曖昧に頷いた。その目の前に、ひょいと透ける腕が伸びてきて、パンをかっさらっていく。ものには触れないとばかり思っていたのに、意表をつかれた。
「おい、こら」
 それきりしかない食べ物を横取りされて、思わず亮は本気で怒りかけたが、文香はしれっと、千切ったパンを口に入れてしまう。
「まあまあ、けち臭いこといわない。どうせ食べても減らないもん」
 たしかに自分の手を見おろしてみれば、食べられたように見えたパンは、そのままの形でそこにあった。
「腹、ふくれんのか、それ」
「ふくれないねえ」
 答えて、文香は腹をさすった。
「でも、なんとなく味がするような気がするし、食べたような気がする」
 その表情が、少しばかり寂しげで、亮は気まずく黙り込んだ。
 幽霊というものは、何か強く思い残すことがあって、この世に留まるのではないだろうか。そのことに初めて思い当たって、亮は唇の端を下げた。
 成仏、という考え方であっているのかわからないが、死んだ人間という人間が皆、わけもなくいつまでも幽霊としてこの世に残っていれば、それこそ地球上はみっしり死者だらけになってしまうだろう。
 文香がいくら能天気にしているように見えても、何かそれなりの理由があるから、こうして留まっているのだろう。いままで考えてもみなかった自分が、薄情なような気がして、亮は思わずじっと文香の顔を見た。
「なに? なんか顔についてる?」
「いや……なんか、未練っつうのか。そういうの、あんじゃないのか。お前」
 歯切れ悪く亮が訊くと、文香は小さく吹きだした。
「未練ねえ。フラれた相手のことをいつまでも忘れられないとか? あんたじゃないんだからさ」
 むっとして、亮はパンの袋を丸めた。変に同情した自分が馬鹿だった。
 仏頂面になった亮を見て、文香はけらけらと笑い声を立てた。


   5話

拍手する




3話へ  小説トップへ   5話


inserted by FC2 system