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 亮が階段を上がっていると、頭上でドアの閉まる音がした。
 三日目のバイトが終わったところだった。夕方までのシフトだったため、まだ空は明るい。
 階段を上りきったところで、人の姿が見えた。三十過ぎくらいだろうか、ひょろりと背の高い男で、顎に無精ひげが目立つ。これから出かけるところなのか、鍵をたしかめているようだった。
 男は亮に気づくと、ぱっと顔を上げた。
「あ。もしかして、二〇二号の人?」
「どうも」
 越してきたら、挨拶して回るものだったろうかと、亮はばつの悪い思いで会釈した。
「俺、二〇一の下山です。ヨロシク」
 男はそういって、人懐こく笑った。そうすると、最初の印象よりも若く見える。
「ねえ、文香ちゃん元気?」
 思いがけない言葉に、亮は面食らった。文香が死んでからどれくらいになるのかしらないが、もしかして、彼女の部屋に転がり込んだとでも思われているのだろうか。
「前に住んでた人なら、死んだらしいっすよ」
 亮が気まずくそういうと、下山はあっさりと頷いた。
「知ってるよ。だってこのへんじゃ、ちょっとしたニュースだったもん、あの交通事故」
「え。じゃあなんで、元気かなんて」
「ああ、彼女が亡くなってからも、たまにベランダで話すんだよ。でもこのごろ俺、仕事が不規則で。あんまり部屋にいなくてさ。そしたら今朝、話し声が聞こえてきたから」
 盗み聞きするつもりはなかったんだけど、ここ壁、薄いんだよね。頭を掻きながら、下山は苦笑した。そのあっけらかんとした調子に、亮は思わず呆然とした。
「それ、そんなフツーにする話っすか」
「や、最初に透けてるのを見たときは、けっこうビビったよ。でも喋ってみたら、文香ちゃん、生きてるときとぜんぜん変わんないしさ」
 そう笑って、下山は鼻をこすった。
「前から野球の話なんかで、よく盛り上がってたんだけどさ。いうことが面白いよね、あの子。けっこう鋭いっていうか」
 のんびりと話す下山を、肝が太いと思うべきか、変わり者だと思うべきか、迷うところだった。亮は何もいわなかったが、呆れているのが顔に出ていたのだろう。下山はちょっと苦笑して、
「文香ちゃんも気の毒にっつうか、もったいない話だよなあ。あんなかわいい子が、若い身空でさ」
 そんなふうにしんみりと呟いた。
 可愛いか、あれ。亮は思わず問いただしたくなったが、下山は用事を思い出したらしく、携帯で時間をたしかめて、急に慌てだした。
「じゃ、これからヨロシク」
 そういって軽く片手を上げると、下山はばたばたと階段を下りていった。

 玄関を開けると、文香は段ボール箱だらけの部屋の真ん中で、やはり寝息を立てていた。西日が顔に当たっているが、眩しくはないのだろうか。
 それにしてもよく寝る幽霊だなと呆れて、玄関から上がったところで、亮はとっさに足を止めた。文香が眉根をぎゅっと寄せて、寝苦しそうにしていたからだ。
 薄く開いた唇から、低く、うめき声が漏れる。うなされているのだろうか。
 起こしたほうがいいのか迷いながら、亮は声をかけた。
「おい」
 何度か呼びかけても、起きる気配はない。ためらいながら近づいて、亮は動揺した。きつく閉じたままの瞼に、涙が浮かんでいる。
 肩を揺さぶろうとして、その手がすっと突き抜けた。ひんやりと、周りよりも冷たいような空気の感触だけがある。
 ぎょっとして手を引っ込めてから、それもそうかと、亮は気まずく顎を掻いた。幽霊に触ろうと思うほうが、間が抜けている。
「おい」
 しかたなく、声を大きくして呼びかけると、文香は小さく呻いて瞼を震わせた。
「……あれ。おかえり」
 何度か瞬きをした文香は、自分がうなされていたことなど気づいてもいないような、のんびりした声を出した。顔をこすって、欠伸などしている。
 なんとなくほっとしながら、亮は玄関のほうに引き返した。慌てていたらしく、買ってきた弁当を放り出していた。
 コンビニ袋を拾って六畳間に戻ると、文香が部屋を見渡して、呆れたような声を上げた。
「ねえ、あんたこの部屋、さっさと片付けなよ。狭いったら。荷解きくらいすぐ済ませらんないの、これだからデキない男は」
 畳み掛けるようにいわれて、亮は唇を曲げた。
 可愛いかコレと、この場にいない下山に訊きたくなったが、たしかに段ボール箱が無造作に置きっぱなしになった部屋は、とても人が住んでいるようには見えない。ひとまず荷物を押し込むかと、亮は弁当を置いて、押入れを蹴りあけた。
「ねえ、なにこれ」
 声をかけられて振り向くと、文香は荷物のひとつを指さしていた。
 亮の兄が、頼みもしないのに持ってきたものだった。小振りな紙箱で、ほかの荷物と違って外に何も書かれていない。それでかえって目に留まったのか、文香は箱をつついて、興味津々という顔をしていた。
「――さわんな!」
 とっさに大声を出していた。びくっと肩をすくめた文香が、一瞬、怯えたような顔をみせたことに気づいて、亮は苦く目を逸らした。
「なによ、そんなに怒ることないじゃない。あんた、傍からみたらただの危ない人よ? ほかに誰もいない部屋で怒鳴ったりしてさ」
「……お前がいうなよ」
 気まずく言い返すと、文香は唇を尖らせた。
「だいたい触るなっていったって、どうせあたしじゃ、フタ開けられないっての」
 いわれてみれば、もっともだった。拍子抜けした亮をみて、文香は急に、にやりと笑った。
「なに、中身エロ本かなんか?」
「バカか。そこまで不自由してねえよ」
 思わず歯を剥くと、文香は大げさに肩をすくめて、いやそうな顔をした。
「うっわなんかムカつく、やな感じ。……あれ、でもそういえば、あんた彼女いるんなら、悪かったわね。あたしがいたら、部屋に呼びづらいんじゃないの。何なら呼んでる間、ベランダに出とくけど」
 いいながら、文香はすまなさそうに眉を下げた。
 そういえば隣のやつもベランダで話すとかいってたなと、思い出して、亮は眉を上げた。たしか、交通事故だったともいっていた。
「お前もしかして、この部屋、普通に出入りできるんじゃないのか。つうか、なんで居坐ってるんだよ。死んだ場所とか、ここじゃないんだろ」
「それがさあ、いつの間にか、気づいたらこの部屋に戻っててさ。なんでか知らないけど、外には一歩も出らんないの。ベランダは平気だけど、手すりは跨げないし、玄関も三和土のとこまで。なんでなんだろうね」
 まあ、何にもない事故現場の隅っこで身動きとれなくなるよりはいいけどさ。そう続けて、文香は首をかしげた。
 そういうもんか、としかいえずに、亮は気まずく頭を掻いた。
「でも、マジメな話さあ。あんた、金欠なんでしょ。外でデートする余裕とかあんの」
 一応は気を遣っているらしく、申し訳なさそうにいう文香に、亮は憮然として答えた。
「別に。いまはいねえよ」
「なんだ。その顔からすると、最近フラれたってとこ?」
 ぎょっとして、亮は自分の顔をこすった。その慌てぶりを見て、文香がにやにや笑う。
「図星? お気の毒さま。そんな顔するくらいなら、もっぺんアタックしてみればいいのに」
「アタックとか、死語にもほどがあるだろ。まさか何十年も前に死んだとかいうなよ、お前」
「悪かったわね。お祖母ちゃんっ子だったのよ。死んだのは去年だけどさ、それよりそんなんで、うまく話そらしたつもり?」
 追及されて、亮は唇の端を下げた。
「……別れた女に未練たらしくつきまとうとか、んなみっともない真似ができるか」
「そりゃ、つきまとったら犯罪だけどさあ」
 呆れたように笑って、文香はいう。「でも、電話の一本くらいはしてみても、バチは当たんないでしょ。あんたもしかして、そういうつまんない見栄のせいで、ろくに続かないとかじゃないの」
 ぐさりと言葉が胸に刺さって、亮は呻いた。
「余計な世話だよ、うるせえな」
 けらけらと笑う文香を見ていると、いわれるがままに部屋を片付けるのが馬鹿らしくなって、亮はふてくされながらコンビニ弁当をあけた。


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