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 約束の日までには、いくらかの猶予があった。サイトーの仕事の休みが、少し待たなければやってこなかったからだ。それまでの間、わたしは少しばかり不安定な気分のまま過ごした。
 サイトーがどういう仕事をしているのか、あらためて聞いたことはなかったけれど、それはお互い様だ。仮想空間で知り合った相手と現実世界でも友人になるかどうかは、人によって主義の異なるところだが、わたしはあまりそういうことをしないほうだった。
 もちろん、防犯上の用心が主な理由だ。《図書館》については公共の施設であり、市民IDを登録しての利用しかできないが、それだけをもって、利用者の全員が素行のいい人間であるという証明にはならない。
 だが、わたしが約束の日を待つ間、浮かれてそわそわしたかと思えば、しばしば発作のように猜疑心に襲われたのは、サイトーの人間性が信用できなかったというよりも、どちらかといえば、自意識や見栄に邪魔されてのことだった。そうそう誰かに騙されたりはしないのだぞというような、いちいち薄っぺらいプライドであるとか、あるいはこれまでの自分がいかに浮かれていたかという自覚から来る自己不信、そして劣等感。

 約束の日を待つあいだに、マルグリットからショッピングに誘われた。
 もともとあまり人混みが好きではないので、たいていの買い物は取り寄せて済ませてしまうが、服に関してはいくら仮想空間で素材タグとにらめっこしたところで、実際に着てみないかぎりはわからない。とはいえ、普段ならそれでもたいてい妥協するのだが、誘いをあえて断るほどの理由は思いつかなかった。
 もっとも、マルグリットの家にはしばしば外商がやってくる。彼女はわざわざ買い物に出かけなければならないような身分ではない。
 自分の足でふらりと冷やかして回るのが楽しいのだと、マルグリットは言うけれど、半分以上は、わたしを外に連れ出す口実だ。放っておくと家の中と庭と仮想空間との往復だけで一年中過ごしてしまうわたしを、心配してくれている……その好意をありがたいと思うときもあるし、少しばかりおせっかいが過ぎるように感じる日もある。
 とはいえこの日はよく晴れて、風も涼しく、彼女のいうとおり、出かけないのがもったいないような日和だった。それに何より、わたし自身が、気分転換を必要としていた。
 トラムを降りるのに少しばかり手間取って、後ろにいた家族連れを待たせたほかは――いつかマルグリットに皮肉られた十秒というのは言い過ぎだが、しかし他人に迷惑をかけるというのは事実だ――おおむね順調に店を見て回り、途中で歩き疲れて、カフェに立ち寄った。
 マルグリットは育ちがいいわりにというべきか、だからこそというべきか、ジャンクフードが大好きだ。この日も彼女は、みずからの美貌をそこなうおそれのある添加物を摂取すべきかどうか、かなりの葛藤に苦しめられた結果、最終的には悪魔の誘いに屈し、人工甘味料たっぷりのドーナツを注文した。
「それで、どう? 歩き疲れて、そろそろ生まれもった膝とお別れする気にはならない?」
「ならないわね」
 すまして答えながら、カップを口に運んで、水色ばかりが鮮やかで香りもなにもない紅茶に、つい顔をしかめる。このたぐいの店では、ほとんど場所と気分だけにお金を払っているようなものだ。
「ほんの何百年か前、まだ人類の平均寿命が短かった時代には、年を取るまで生きていられたことが、それだけで尊敬の対象だったそうよ。それがいまや、老化っていうのはひたすら憎むべき罪業で、年寄りはお荷物の、厄介者の、軽蔑されるべき存在というのですからね」
「適切な医療を受けて元気に活躍している高齢者だったら、いまどき誰も年寄り扱いなんかしないわよ」
「いまでもアジアの一部の国では、義肢を使って肉体を作り替えることを、神への冒涜と考えている地域があるらしいわよ」
「ここはそんなわけのわからない偏見に満ちたど田舎じゃないし、いまは千年前でもないわよ」呆れながら、マルグリットは歯をむいてみせる。「このへりくつ屋の頑固者!」
 そんなふうに罵ったあとで、マルグリットはふいに、真剣な顔になった。
「ねえ、ほんとのこと言ってよ、スージー。あなた、わたしがこれだけ長年口を酸っぱくして説得しつづけて、いまだにびくともしないのはなぜ?」
 いつもの半分ほどの声のトーンになって、マルグリットは深刻そうに言った。「ほんとうは、何か持病とか体質の都合で、アンチ・エイジング医療を受けられないというのだったら、誰にも言わないから、正直に教えてくれる? わたしがあなたに無理を言っているのだったら……」
 面食らって、つい、わたしは吹き出してしまった。それから、今度は本当にマルグリットの機嫌がみるみる悪くなるのを見て、慌てて謝った。「ごめんなさい、笑ったりして。そうじゃないのよ。ただ天邪鬼なだけ」
「まったくもう、人が真剣に悩んだっていうのに、あなたっていう人は!」
 怒りをこめて、マルグリットは粉砂糖のたっぷりまぶされたドーナツにかぶりついた。まったく、美女というのは何をしていても美しく見えるものだ――ぷりぷり怒りながら指についた砂糖を舐めているときでさえ。
 マルグリットの気遣いに申し訳なく思いながらも、どうしても顔が笑ってしまうのは、彼女があまりにも善良だからだ。
「ありがとう。あなたは本当に優しいひとね」
 言うと、マルグリットは鼻を鳴らした。「あら、今頃ようやく気がついたっていうわけ?」
 まだ憤然としてみせているが、これは照れ隠しだろう。
 彼女に叱られて初めて気がついたのだけれど、わたしはこれまでこの問題について、誰かにちゃんと理由を説明したことがなかった。頑固、変わり者、偏屈。そのたぐいのレッテルに甘んじて、誰から何を言われようと、別にかまわないと思っていたから。
 遠くの他人に対しては、それでもよかったのかもしれない。けれど、四十年来の友人にまでそれで押し通してきたことは、偏屈ではなくて、不義理というものだろう。
「正直に言うとね。死んだ母が、過剰に若さにこだわる人で」
 マルグリットが気を悪くしないよう、言葉を選ぶのに苦慮しながら、わたしは慣れない話をはじめた。
「母は、亡くなるほんの数か月前まで、ずっとティーンエイジャーのような姿にこだわっていたのよ」
 皆、いくら若作りをするといったって、ある程度以上の年齢になったなら、それなりの姿をとるものだ。マルグリットだって、三十代かそこらの容姿を保っている。
 母は違った。白髪の一本、小じわのひとつでも見つかろうものなら、そのたびにこの世の終わりであるかのように大騒ぎをした。
「その容姿じゃあ、母親らしい物言いなんて、ミスマッチでしょう? だから子供を連れて外を歩くのもひどく嫌がったし、口の利き方から仕草から、なんでも十七、八の小娘みたいに振る舞っていてね。服も、観る映画も、入るお店も、なんだってそう。それをずっと見て育ったものだから、つい反発してしまって」
 母はとうとう死ぬ直前まで過剰な若作りをやめなかった。だが皮肉なもので、急な病気で倒れたあと、亡くなるまでのわずか一月の間にやせ細り、急激に老け込んで、息を引き取る直前には、とうとう実年齢以上に老いた女に見えた……
「生前にね。母にむかって、年を取ったなら取ったなりでいいじゃないって、ずっと思っていたものだから、そのまま引っ込みがつかなくなっちゃったのね。もうとっくに死んだ人なのに、いつまでもこだわるようなことでもないのだけれど」
「そんな話、初めて聞いたわ」
「そうね。ごめんなさい。ずっと、こういうことを人に話すのは、恥ずかしいと思っていたから」
 わかるわ、とマルグリットが相槌を打った。自分がつい先日使ったのと同じ言葉だと思うと、思わず苦笑がこぼれる。けれど反発は覚えなかった。
 マルグリットは神妙に言った。「家族のことって、外の人に向けては話しづらいものよね」
「あなたにもそういうことってあるの?」
 あるわよ、と笑って、マルグリットはアイスティーのグラスを撫でた。
「うちはちょうど逆ね。母がとにかく堅苦しくって、わたしが二の腕の出る服でも着ようものなら、もうぎゃんぎゃん。その反動でこうなっちゃったわけだけど」
 その話も初めて聞いた。マルグリットとはハイスクールのころからそれなりに親しくしてはいたが、あのころは家族ぐるみのつきあいとはいかなかったし、大人になって再会したときには、彼女の母親はすでに亡くなっていた。
「でもね、スージー。あなただっていい年なんだから、いつまでも母親の束縛にがんじがらめになってる場合じゃないわよ。あなたはあなたの人生を生きなきゃ」
 そこまで言ってから、マルグリットはいさましく握り拳を作った。「そこで、恋よ」
「またその話に戻るわけ?」
 呆れるわたしに目もくれず、マルグリットはいさましく立ち上がった。「さあ、買い物に戻りましょう。まずは戦の支度からよ!」

 そこからさらに小一時間ばかり歩きまわって――弱った膝にはいいかげんこたえたが、ギブアップを宣言すれば、それ見たことかと勝ち誇られそうな気がして、わたしは意地を張りとおした――マルグリットが足を止めたのは、普段の彼女の好みとはいささか趣を異にする、可憐なデザインの衣料品を扱うショップだった。
「あっ、ねえ待って。このカーディガン、どうかしら?」
 マルグリットが手に取ったのは、優しい色味をした、藤色のニットカーディガンだった。細かな花模様が編目で表現されていて、可愛らしくはあるけれど、こういう雰囲気の服を彼女が着ているところを、わたしは見たことがなかった。
 珍しいこともあるものね、と思いながら、わたしはうなずいた。「そうね、似合うと思うわ。いつものあなたの服からしたら、少しおとなしいように思うけれど……」
「ばかね。違うわよ、あなたによ」
「ええ?」
 目を白黒させるわたしの胸元に、その藤色のカーディガンを当てながら、マルグリットはうなずいた。「うん、悪くない」
 悪くないと彼女は言ったが、しかし、控えめに言ってもそのデザインは、わたしには少しばかり少女趣味にすぎるように思われた。
「わたしが着るにはちょっと、可愛らしすぎるんじゃないかしら」
「スージー、大事なことを教えてあげる。服っていうのはね、ちょっと若すぎるかと思うくらいがちょうどいいの」
 重々しく力説してから、マルグリットは楽しげに笑ってみせた。「それに、本当に似合うわよ。このごろあなた、少し若返ったみたい。よく笑ったり怒ったりするしね。何か変わったことでもあった?」
 そう言われて思い当たることといえば、ひとつしかなかった。
 よせばいいのに、馬鹿真面目に答えてしまったのは、気が緩んでいたとしかいいようがない。「さあ、特には。しいていうなら、読書仲間が増えたことくらいかしら」
 言い終えるよりも早く、マルグリットはにんまりとした。
「そのお仲間って、若い子?」
「マルゴ!」
 つい素っ頓狂な声がでた。「あなたったら、いつもそんな話ばっかり! 言っておきますけどね、あなたが想像しているような色っぽい話なんか、どこをつついても出てきやしませんよ!」
「男の子とは言ってないじゃない」
 にやにやと――彼女の育ちを思えばいささか下品に感じられるくらいの笑みを浮かべて、マルグリットはわたしの背中をばんばん叩いた。
 わたしがいくら否定しても耳も貸さず、上機嫌にカーディガンをたたみなおすと、マルグリットはすばやく会計を済ませた。「プレゼントしてあげる。あなた、今週バースデイでしょう」
「誕生日なんて、この年でいまさら……」
 言いながら尻すぼみになったのは、自分が一度もまともにマルグリットの誕生祝いをしたことがないという事実に思い当たったからだ。
《チップ》のスケジューラーに、忘れないようにマルグリットの誕生日を書き込みながら――そうでもしなければ忘れてしまうのだ、情けないことに! ――ようやく神妙に感謝を述べた。「ありがとう」
「どういたしまして。贈り物なんだから、ちゃんと着るのよ? そのお友達に会うときにね!」
 満面の笑顔で、マルグリットは念を押した。
 まったく、いつだって彼女にはかなわないのだ。


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