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 まさか五十をいくつも過ぎてから、小娘のように恋に振り回されるなんて、思ってもみなかった。
 もちろん五十歳だろうが百歳だろうが、恋をする人間はする。いまや部分的なサイボーグ化は当たり前で、生体部品の交換もすっかり一般市民の手に届く相場に落ち着きつつある。百を過ぎても体の中身まですっかり若作りなんていう人さえ、いまどきはめずらしくもない。
 そこまでいかなくても、アンチ・エイジングのたぐいに一切手をださないなんていう人間は、よほど経済的に困窮しているか、宗教上の理由か、そうでなければ相当の偏屈者だろう。
 わたしはその偏屈女のひとりだ。
 若さというものに、常々いい印象を抱かずに生きてきた。夜遊びも馬鹿騒ぎも、勢い任せの決断も、愚かしいこととしか思えなかった。ましてや恋だなんて! そんなものに振り回されるのは、もうまっぴらだと感じていた。娘時代に戻れたらだなんて、誓って言う、これまで一度たりとも思ったことはなかったのだ。
 だからといって、その種の欠点――自分の中にもたしかに存在するはずの愚かしさに、目を逸らして蓋をしていれば、いつかなかったことにできるなんて、そんなふうに甘く見ていたのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。

 サイトーが初めて《図書館》にやってきたのは、夏のはじめの頃だった。
 短く整えられた黒髪に、アジア系の風貌にしては色白の肌――長い睫毛。電脳空間で他人の容貌に見とれることがどれだけ空疎なことか、頭で理解していたとしても、人間の精神はたやすく惑わされる。
 それでも、ただ容姿が整っているだけであったなら、けして彼に惹かれたりはしなかった。何気ない所作、遠慮がちに微笑む目元、あるいは穏やかで理性的な声――しぐさや言葉の端々ににじみでる知性と思慮深さ。彼を美しく見せている、そうした要素がなかったとしたら。
 いや、よそう。どれほど言い訳を重ねたところで、たいした自己弁護になりはしない。わたしは認めなくてはならないだろう。自分がこれまでもっとも軽蔑してきた人種、年齢相応の分別を持ち合わせない、軽薄で愚かな女たちのうちのひとりにすぎなかったのだということを。
 紙の本なんて、もはや博物館に厳重保管された文化財以外にはお目にかかることもないこのご時世に、あえて古色蒼然たる前近代の読書を体験しようなんて考えるのは、よほど限られた分野の研究者か、懐古主義者のどちらかだろう。そのどちらにしても、彼のような若者では珍しいことだった。
 もっとも、興味本位でここをのぞきに来る若い人が、まったくいないわけではない。だがそうした人たちは、たいていの場合、ページをめくって文字列を目で追うなんていう、果てしない根気を要する行為には、せいぜい半日かそこらで飽きてしまうのが常だった。
 サイトーは違った。彼はこの仮想空間の《図書館》に、足繁く通い詰めた。そして最初の一週間で、十冊あまりの本を読破した。データを《チップ》にインストールしたのではない。テキストを一行ずつ目で追って、最後まで読み切ったのだ。
 そういう人間は、若者に限らずとも、非常に珍しかった。なんせここにやってくる会員たちの大半は、ただ気分を味わいたいだけなのだ。古典を読んでいる自分――そういうポーズを楽しむことが、彼らの目的なのであって、そのあたりの棚に並んでいる本を一冊、最初から最後まで通して読み切るだけの集中力を持った人間は、滅多にいない。
 当然のことながら、サイトーは会員たちの注目を集め、彼らのコンプレックスをおおいに刺激した。だからといって、変わり者をつまはじきにするようなことは、彼らの美学に反するものだったから、むしろ古参の会員たちは余裕を装って、口々に彼のことを褒めたものだった。
「いや、その若さでたいしたもんだ。君、それは原書で読んでいるのかね?」
 会員の一人にそう話しかけられたとき、サイトーは読んでいた『赤と黒』のページをいったん閉じて、礼儀正しい微笑みを浮かべた。
「ええ。フランス語の勉強をしたくて」
 そう答えたサイトーの声音には、いやみにならない程度のかすかな謙遜が混じっていた。鼻につく高慢さは、彼の態度のどこにも見当たらなかったが――いや、だからこそ、かえって話しかけた男性は鼻白んだようで、もごもごと負け惜しみめいたことを口にして、そそくさとその場を立ち去った。
 言語データを《チップ》にインストールしさえすれば、語学を学ぶ必要性など、あってないようなものだ。もちろん、その国の生活に根ざした微妙なニュアンスというものは、そうした手段でインスタントに理解できるものではない。しかし、そういう深いレベルで他国の言語を学ぶというのは、酔狂なことに違いなかった。
 その若さでと件の男性がわざわざ付け足したのは、何も、サイトーの容貌からの決めつけではない。生身であっても、外見を若く取り繕うことはいまや容易なことだし、まして仮想空間の中でアバターが現実の姿に即しているほうがめずらしい。そうではなく、サイトーは自身の年齢情報を、公開情報タグに書き入れているのだった。
 これを偽装するのは生半なことではない。つまりサイトーは、外見年齢を裏切らずたったの二十五歳で、それでいて若者に特有の青臭さ、鼻につく生意気さ、輝ける傲慢さを、欠片ほども感じさせはしないのだった。
 いったいどのような環境で育てば、彼のような人間が出来上がるのだろう。そんなことを考えながら、ついその美しい横顔に見とれていたわたしは、サイトーが顔を上げるのに気がついて、あわてて目を伏せた。
 だが、不躾な視線を恥じるわたしに、サイトーは親しみを込めて笑いかけた。
「中国文学、お好きなんですか?」
「え、ええ」
 答えながら、わたしは意味も無く、手に持っていた本の表紙を撫でた。サイトーは微笑みを絶やさないまま、上品に首を傾げて、遠慮がちに申し出た。
「近いうちに、何か読んでみようかと思っているんです。おすすめの本があれば、教えていただけますか?」
 図書館の壁には“私語はお控えください”と書かれた張り紙が掲示されてはいるが、それが単なる演出上の小道具にすぎないことを、わたしたちは知っている。本当に読み物に集中したいのなら、ひとりきりで本に没頭できる環境設定だって、きちんと用意されているのだ。皆がそのたぐいの機能を利用することなく閲覧室にたむろしているのは、つまるところ、この場所を一種の社交場と捉えているからだ。
 そういう空間にいる以上、サイトーが読書仲間を作るきっかけを探していたのだとしても、ちっとも意外なことではなかった。それだというのに、わたしはなぜだか彼の言葉にひどく動揺した。
 その狼狽がアバターに出ていないかどうかを気にしながら、いくつかの中国古典文学に関する自分なりの好みや評価を伝えると、サイトーは通り一遍とは思えない熱心さでそれを聴き、ときおり遠慮がちに質問を差し挟んだ。
 話に一区切りつくと、サイトーは親しみと礼儀正しさの折り合いのついたトーンで、礼を言った。「お時間を取りました」
「いいえ。お役に立てたのなら何よりだわ」
「こちらには、よく?」
「この三十年ばかりはね」
 さりげない口調を心がけながら答えると、サイトーは軽く目をみはった。彼が礼儀として口に出さなかった台詞を、わたしは年長者の特権として――あるいは自分のための予防線にするべく――笑って言った。「あなたが生まれる前から、ということになるわね。この《図書館》が作られたときに、父が設計に関わっていたものだから」
「それは、羨ましい話ですね。秘密の書庫の鍵だとか、関係者にしか入ることのできないテラスの入り口だとか、そういう素敵な秘密をご存じでは?」
 悪戯っぽく笑うサイトーに、わたしは苦笑を返した。「あったらとても楽しいでしょうね。NPLCに訴訟を起こされないで済むのなら、だけど」
 あくまでもここは、公共の図書館の一部なのだ――この『場所』は。いささか趣味的で、公共というにはあまりにも限られた人間しか利用することがないのだとしても。

 その日を境に、わたしたちは少なくとも顔を見ればあいさつくらいはするようになったし、何日かに一度は、互いの読んだ本の感想を言い合った。
 サイトーとの会話は、決まって心弾むものとなった。自分でも愚かしいと思いながら、彼のことが気になってしかたがなかった。若く美しい青年に親しみを込めて笑いかけられれば、嬉しくないはずもない。恥をしのんで率直に言うならば、わたしはすっかり浮かれていた。
 だがその一方で、頭の中にいる冷静なもうひとりの自分が、いささか自虐気味の警告をささやいてもいた。この青年はいったい何の目的があって、わたしに愛想良くふるまうのだろう。
 被害妄想ぎみだという自覚がなかったわけではない。だが考えてもみてほしい。容姿にも知性にも充分すぎるほど恵まれた若い男が、見るからに年を取った、美しくもない女に、わざわざ近づいてくることに、どんな理由があるというのか?
 年を重ねるほど、人間は臆病になるものだ。単純な友情というものを頭から信頼しきるのは、杖を持たずに歩くようなもの。
 とはいえ書類上の年齢にたいした意味もなくなりかかっているこのご時世に、わたしが心の隅で思い浮かべているような、古色蒼然たる詐欺の手口が、いまだ息をしているものだろうか? 孤独な年寄りの寂しさにつけこんで、たとえば大金を巻き上げるとか、そういったような?
 そんなふうに、ねじくれた屈託に振り回されながら、わたしはこれまで以上に《図書館》に入り浸り、そのたびにサイトーの姿を目で探した。


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