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 深崎スミは町工場の職工を父親にもって生まれた。職工といってもさして飛び抜けた腕があるわけでもなし、日がな一日汗水垂らして部品と取っ組み合っていても、暮らしはかつかつだった。母親は若いうちから病を得てしじゅう寝たり起きたりを繰り返しており、必然的に、三人いる弟妹たちの面倒を見るのはスミの仕事になった。
 二人の妹たちはまだしも、末の春太郎は手がかかった。母の体質をもっとも色濃く受けついでしまったこの哀れな弟は、なにかと言っては高熱を出し、ひとたび伏せれば、すっかり良くなるまでにひと月かそこらは要するのが常であった。
 一家にとって幸いだったのは、町内に診療所を構える佐藤という医者が、非常によくできた人物だったことだ。満足に治療費も払えないような患者であっても、ちっともいやがらずに診てくれ、診察代もずいぶんとまけてくれた。しかし、だからこそ一家はこの医者に少なからぬ引け目を抱きもしていて、よほどのことでなければ頼ろうとしなかった。
 とはいえ、そのよほどのことが何度となく起こってしまうのが、この弟だったのだ。

 その晩も、スミは春太郎を背負って、診療所への暗い道を急いでいた。真冬の、雪がちらつく寒い夜だった。登り切らない月は細く頼りなく、薄雲の向こうに隠れたり出たりを繰り返していた。
 一般家庭に電話がまだ普及していなかった時代のことだ。診療所に駆け込んでも、佐藤が旅行にでも行っていればそれでしまいだという不安が、スミの背中をどやしつけていた。
 もっとも佐藤は責任感の強さ故か、めったに遠出をすることがなかったのだが、それでもどこかの家に往診に出向くことがないではない。だから弟の身を思うならば、寒空の下に春太郎を連れ出すよりも、スミがひとりで走って行って、医師を家に呼ぶほうが間違いがなかった。
 そういう道理は、スミにもわかってはいたのだが、まけてもらってもなお払いきれずに溜まった診療費のツケを思えば、どうしても佐藤を呼びつけるのが忍びなかった。
 息を切らせて、スミは夜道を駆けた。春太郎はまだ数えの四つで、同じ年頃の他の子らに比べたらずいぶんと体重が足りていなかったのだが、それでも十になったばかりのスミの背には、ずっしりと重かった。
 春太郎が熱を出したのは、宵の口のことだった。本人もまわりも慣れたもので、すぐに床をとり、手ぬぐいを濡らして額に当てたり、布団をかきあつめて着せかけたりと、細々と面倒を見ていたのだが、夜更けになって急に、ぐうと低い音をたてて吐いた。それぎり朦朧として、話しかけてもはっきりとした返事がない。
 母は動転するあまり、手ぬぐいを握りしめたままおろおろと立ったり座ったりを繰り返していたが、その母自身も先頃から寝付いていて、足元がまだ怪しかった。その母を叱りつけて休ませ、大丈夫だからと励ますと、スミはおんぶ紐を引っ付かんだ。父は寄り合いに行ったまま、まだ戻ってきていなかった。いつものように酔いつぶされて寝ているのだろうと、家族の誰も口にはしなかったが知っていた。
 冬の空気が肺に飛び込んで、スミはその冷たさにむせた。いやににおうと思って、自分の体を見下ろしたら、継ぎだらけの半纏のすそが、春太郎の吐いたあとで汚れていた。
 こんな風に弟をおぶって走るのも、スミには初めてのことではない。これまで何度も繰り返してきたのだし、これからも何度も繰り返すことなのだろうと、弟の重みにあえぎながら、そんなことを考えていた。
 だが……、
 その同じ頭の反対側の隅で、ちらりとも考えないわけではないのだ。今度こそ、春太郎は助からないのではないのかと。この子はもしかすれば、もとよりそう長く生きられるさだめにはないのではないのかと。末弟がひどい高熱を出すたびに、家族の誰も言葉にしないが、おぼろげならぬ不安の影を、背中のあたりにはりつけていた。いつものことだと、口では互いに言い聞かせ合いながら。
 ふと、風が吹いて、月が隠れた。
 近道と思って足を踏み入れた、暗い裏路地だった。不安に首根っこをひっつかまれて、スミは辺りを見渡した。左手には空き地があった。先月までは、持ち主が首を吊って以来誰も住まなくなった廃屋が、風に揺れて気味の悪い音を立てていたのだが、ようやく地権者の整理がついたとかで、取り壊されたばかりだった。
 そんな謂われのある土地だから、何でもないときならば、スミもこの近くを通るのは避けていた。弟を早く医者に診せねばという焦りが、この薄暗い路地に足を踏み込ませた。
 ぶるりと背すじを震わせて、スミは止まった足を動かそうとした。だが、そのとき、何かが空き地の真ん中にぼとりと落ちた。
 そう、落ちてきたのだった。そばに高い樹や塀があるわけでもなければ、となりの工場の屋根から飛び降りてきたというような激しい動きでもなく、ただ何もない中空から、降って湧いたとしか思えなかった。
 スミは足を釘で打ち付けられたように、その場で立ちすくんだ。しびれたような頭の隅では、走って診療所に向かおうと考えていた。正体の知れないものから急いで逃げたいというばかりでなく、この寒い中、背中の弟をいつまでも風に吹きさらしにしておくわけにはゆかなかった。
 だが、視線を外せなかった。
 スミの見ている前で、それは、むくりと鎌首をもたげた。蛇のような仕草だったが、蛇ではなかった。強いていうのならば、黒い布きれに包まった、人間のような形をしていた。
 仮にそれが人間なのだとしたら、そいつは白い仮面を被っていた。面といっても、能面のように何らかの表情が彫り込まれているわけではない、ただぽっかりと空いた目と口があるだけの、白い板ぎれだ。それだというのにその白い面は、笑っているかのように、スミの目にはうつった。
「重かろ」
 仮面の奥から低い声に話しかけられて、スミは飛び上がった。その揺れでどうにかしたのか、弟が咳き込んで、苦しげな音をたてた。
「かわいそうにの。その細っこい腕にゃ、荷が重かろ」
 面の内側に籠もった声は、年を取った男のものと思えた。スミは首を振りながら、じりじりと後じさった。だが下がったのと同じだけ、影は近づいてきた。滑るように。足を動かしもせずに。
「そん子は、助からんの」
 その声は、まるで本当に、憐れんでいるかのように聞こえた。
 スミは肩越しに弟の顔を振り返った。影の言葉が聞こえているのかいないのか、春太郎は目を瞑って、ただぐったりしている。寒風に打たれた頬が、痛々しいほど赤い。
「それとも、助けてやろか」
 スミは影のほうを振り返った。まともに耳を貸すべきではないと、子供の頭にでもわかっていた。だが……
「助けてやってもええが。かわりに、なにを差し出す。おっ母さんか。ほかの妹か」
 なぜ自分の家族を知っているのかと、問い返すだけの余裕は、スミにはなかった。ぞっとして、駆け出そうとした。だが足がもつれて、背中の弟ごと転んだ。尖った砂利がスミの頬に食い込んで、すり傷を作った。
 声は、すぐ真上から振ってきた。
「逆がええかの。おっ母さんがちっとは元気になったなら、お前さんも、いくらか生きやすかろ」
 もがいて立ち上がろうとしていたスミの手から、力が抜けた。
「なんもかも全部がうまくいくんは、無理だあな。そりゃあ、あんまり虫のええ話だ」
 スミは答える言葉をもたず、ただ震えながら、影を振り仰いだ。そうして、仮面の目のところにぽっかり空いた黒い穴を見た。
 彼女がひとことも答えられないでいるのにかまわず、影はたたみかけるように言葉を重ねた。
「いまなら、選ばしてやってもええが。言ってっこと、わかるか?」
 わかっていた。わかってしまっていた。影は、スミに、誰を捨てるか選べと、そう言っているのだ。
 弟を捨てれば、楽だろうと。
 だが……、
 スミは歯を鳴らして震えた。震えながら、考えていた。春太郎が死ねば、たった一人の男子だ、両親の嘆きは深かろう。
 そればかりではない。いまはまだいい。父が働いている。家族はどうにか食べてゆかれている。だがその父がいつか、大きな怪我をするか、病でも得た日には? あるいは何ごともなくとも、いずれは父も老いる。そのときに春太郎がいなければ、深崎の家には稼ぎ手がない。親類はいずくも遠方で、頼れるような相手がないことは、父母の話からスミも漏れ聞いていた。
 選ばせてやると、影は言っているのだ。差し出すのは誰でもいい、そうしたら、少しは楽にしてやろうと。
 春太郎がだめなら、誰を。父は論外だ。母ならどうだ。妹たちのどちらかなら?
 家の役に立つかどうかをいうならば、いちばん働きでがないのは下の妹だろう。まだ六つだというのに、体の弱い母にあまりかまってもらえずとも文句もいわないで、家のことを手伝い、弟を可愛がっている。けなげな子だ。それを差し出すというのか。
 あるいは母が死んだら、どうなるだろうか。体調のよいときにならば家事も切り盛りするが、そうでないときのほうが多い。家のことはいまでも半ば、スミと妹たちで手分けをして回しているようなものだ……、
 春太郎が、火のついたように泣きだした。
 いきなりのことだった。理由はわからない。スミの怯えが伝わったのか、それとも単純に寒さがこたえたのか。あるいは熱が上がったのか。
 だがともかく、その声に弾かれたように、スミは立ち上がって駆け出した。
 恐ろしくて、後ろを振り返れもしなかった。追いかけてくるような足音はなかったが、振り返れば、影がぴったりとくっついてきているのではないかと思った。
 走って、走って、揺さぶられた春太郎がますます激しく泣いた。
 診療所の戸を激しく叩いた。医者に呼びかける口上などひとつも出てこず、怯えに息の上がったまま、必死にあかぎれの拳を戸にたたきつけた。早く。早く。
「何事だい」
 夜中の非常識にも厭な顔ひとつせず出てきた佐藤の、白衣ではなくくたびれた甚平を来た姿が、漏れ出た明かりに照らされるのを見るなり、スミはばっと背後を振り返った。
 何もいなかった。
 振り回された弟を、佐藤は慌てて受け止めると、こりゃいかんと呟いて、スミの体から引きはがした。
「上がんなさい、そんなに泣かんでも、大丈夫だから」
 言われて初めて、スミは、自分が泣いていることに気がついた。
 疲労と恐怖で足がもつれた。それでもともかく、スミは這うようにして診療所の中に入り、佐藤の手が戸を閉めるのを、息を詰めて見守った。大丈夫。あれは入ってこない。もう追いかけてはこないと、自分に言い聞かせながら。
 佐藤はそういうスミの怯えるようすを、弟の身を案じるがためのことだと思っただろう。大丈夫だからと、何遍も繰り返した。
「夜更けにすみません」
 ようやく声が出たのは、ずいぶんと経ってからだった。
「いいんだよ」
 老医師の声は穏やかだった。スミちゃんがつれて来たってことは、お母さんはまた調子が悪いのかね。あんまりがまんしないで、早い内に呼びなさいよ。
 弟の熱を測りながら、優しいような、苦いような声を出す医師に、涙を飲み込んでうなずきながら、スミは弟の寝かしつけられた診察台の、足元にうずくまった。大丈夫、あれはもう追いかけてはこない……

 その晩は春太郎だけを診療所に泊まらせて、佐藤は彼の妻にスミを家まで送らせた。弟は翌朝には持ち直して、その後、何度も病を繰り返したが、少しずつ元気になっていった。
 母親は起きたり伏せたりを繰り返したあと、あの晩からおよそ二年がたった頃、とうとう力尽きるように死んだ。
 スミが件の影に再び会うことはなかった。あの路地を通ることも二度となかった。
 それでもスミはあの日から、毎晩、何度も自分に繰り返し言い聞かせねばならなかった。大丈夫だ。自分はあの影に何も答えてはいない。自分は何も選ばなかった。
 あとになって春太郎に、何度か訊いてみたことはある。お前、あの晩、診療所にゆく道の途中のこと、何か覚えている?
 だが弟は首を傾げる。夜中にスミに負ぶわれて診療所まで連れてゆかれたのは、一度や二度のことではなかったから、長姉が訊ねているのがいったいどの晩のことかさえ、わからないようだった。
 だが、ほかの誰が知らずとも、スミは知っている。あの晩、あの得体のしれない影に向かって、はっきりと答えこそしなかったが、それでも自分が、選ぼうとしたことを。家族の誰が助かるのが自分にとって楽な道で、誰ならば犠牲にしてもかまわないのか、冷静に秤に掛けようとした自分を。スミだけが知っている。
 スミはあの晩のことを誰にも話さなかったが、母が死んだのがほんとうに自然のなりゆきなのか、疑ってみる日もある。自分は口に出して答えはしなかったが、あの仮面の影が、自分の心の裡を読み取って、母を選んでつれていったのではないのかと。



(終わり)

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