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 それからの数日、老人は魔法だの、過去の戦だのという彼の妄想については、まったくといっていいほど口にしなかった。ヨウルは黙りがちに日々を過ごし、老人は彼が返事をしてもしなくても、何もない空に向かって脈絡のないことを話しかけた。
 その日は朝から、老人は机に古い書物を広げて、ずっとぼんやりとそれを眺めていた。ヨウルは何気なくその手元を覗き込んだが、紙は痛んで虫食いだらけになっているうえに、インクもすっかり褪色して、とても書かれていることが読めるとは思えなかった。それとも老人の眼には、かつてそこに書かれていた文章が、見えているのだろうか。
 もし自分に読み書きができたなら――ヨウルはぼんやりと考えた。何の展望もないまま都に飛び込んだ、あの十年余り前の若かりし日々にも、多少なりとまっとうな仕事に就くこともできたのだろうか。そうしていたなら、いま自分は、どこで何をしていたのだろう。
 それは、いまさら考えたところで、あまりに詮無いことではあった。それでもこのとき、妙に感傷めいた気分になって、ヨウルはもしもの先を空想した。
「サナンや、シキミを切らしているのではなかったかね」
 もの思いから呼び戻されて、ヨウルは瞬きをした。さっきまでぼんやりと書物を見つめていた老人が、いつの間にか顔をあげて、彼のほうをじっと見ていた。
 彼を、誰かと間違えているのだ。
 ときおり老人の頭が過去に戻ってしまうらしいことに、ヨウルは気がついていた。彼はあいまいに首をひねった。
「シキミ――何だって?」
「おやまあ!」
 老人は目を丸くして、大げさに唸った。「そんなことも忘れてしまったのかね。私が毎日毎日教えてきたことは、そのおつむのどこにいってしまったんだね。お前さんというやつは、まったく、魔法の腕前は一級品のくせに、そのほかのことの覚えときたら――」
 老人はいっとき嘆いていたが、やがて深くため息をついて、戸棚に向かった。そのシキミだかなんだかいうのを探しているのかもしれない。ヨウルは肩をすくめて頭を掻いた。
 どうせろくにものもわからなくなっているのだし、適当に調子を合わせてやったほうが、親切というものかもしれなかった。だが話を合わせるにも、いわれていることの意味さえわからないのではどうしようもない。
 いっときあきらめ悪く戸棚を探っていた老人は、やがて首を振りながら戻ってきた。
「あとで採ってこなければ。狼どもはシキミのにおいを嫌うから……」
 老人はくどくどと、その草だか実だかの効用をいってきかせた。そのどこまでが彼の妄想で、どこからが正しい知識なのか、ヨウルには判じようもなかったが、それでも、老人がかつて生徒をとってものを教える立場にあったのだろうということだけは、本当のことのように思われた。というのも老人の話しぶりは、説法をする坊さんのような、人にものを教えることに慣れた人間のものだったからだ。
 老人はあきれかえってはいたけれど、その口調やまなざしは、できの悪い教え子に情愛をそそぐ、根気強い師のそれだった。
 たとえ老人の眼に映っているものが、まやかしにすぎないとしても――ヨウルは苦いものを飲み下しそこねるように、その考えを持て余した――彼が去ってしまえば、この老人は、また一人きりの暮らしに戻るのだ。
 ふっと、老人は瞬きをして、不思議そうにヨウルの顔を見た。夢から覚めたような表情だった。それから腕まくりをして、彼にいった。「どれ、足の傷の調子はどうだね。診せてみなさい」
 素直に従って、ヨウルは傷口をおおう包帯を解いた。傷あとはまだ生々しかったが、腫れはすっかりひいていた。
 経過はいいようだと、老人はもごもごとつぶやき、おぼつかない手つきで古布を裂いて、替えの包帯をこしらえた。
 町まで新しい布地を買いにゆくことなどできないのだろう、老人の暮らしに思い当って、ヨウルはいくばくかの胸苦しさを覚えた。かつて故郷の村では、彼もまた、それに近い暮らしを送っていたのだ。ほかの家がそうするように、新年に布地を新調する余裕さえなく、使い古してくたくたになったぼろきれの一枚さえも、無駄にはできないような日々を。
 腹は減っているかねという老人の言葉に、ヨウルがすぐにうなずかなかったのは、そうした気兼ねが、とっさに彼の喉をふさいだからだった。そうして、そういう自分の心の動きに、彼は戸惑った。人の好意の裏側を疑うことには慣れていたが、相手の窮状を思って言葉に詰まるなどということは、かつて久しく覚えのないことだった。
「なに、遠慮をすることはない」
 老人はわずかに笑い、ヨウルの包帯を替え終わると、ゆっくりと戸口に向かった。
 その足取りが、昨日よりはずっと軽いことに、ヨウルは気がついた。
 昨夜の罪の告白が、老人の心ばかりでなく、肉体をも軽くしたのだろうか。彼は漠然とそんなふうに考えて、それから、違うと気がついた。老人はもう、足を引きずってはいなかった。痛めた足が、恢復したのだろう。
 年寄りというものは、怪我の治りが遅いものではないだろうか。ヨウルは違和感を覚えて、眉をひそめた。そもそも最初から、たいしてひどく痛めていたわけではなかったのかもしれないが、それにしても、早すぎはしないだろうか?
 足を痛めていたというのは、さては、演技だったのか。だが、いったい何のために? 彼の同情を引くためにか、彼を油断させるためにか――
 ヨウルが判じかねているうちに、老人は芋と薬草と、何かの果実を持ち帰ってきた。そうして質素ながらも暖かい朝食をこしらえると、やはりかすかな微笑みを浮かべたまま、彼が食べるのを見守った。
「爺さん、あんたは食べないのか」
 ヨウルが尋ねても、老人は緩く首を振るばかりだった。
「飢え死にでもされた日には、こっちの寝覚めが悪いよ」
 ヨウルがいうと、老人は静かに瞬きをして、ふっと笑った。「私に食べ物は、必要ではないのだ」
「あんたが魔法使いだからかい」
 ヨウルが呆れてからかうと、老人はさもありなんといわんばかりの表情で、静かにうなずいた。その淡々としたようすに、ヨウルはなぜだかこのとき唐突に、はげしい苛立ちを覚えた。
「なあ、爺さん。魔法だなんて、嘘っぱちなんだろう」
 口に出していってしまってから、ヨウルは悔いた。わざわざ問い詰めて暴き立てることもないはずだった。
 老人は、無言のまま彼の眼をじっと見つめ返したが、そこには怒りだとか、疑われたことへの嘆きやあきらめだとか、そうした感情は、いっさい浮かんでいなかった。老人は静かなまなざしのまま、ただ、すっと、指を動かしただけだった。
 ただそれだけで、空気が変わった。
 ヨウルはわが目を疑った。昨夜、老人はなんといったのだったか――薄皮に上手に破れ目を作って、向こう側の世界から、力を呼び込むこと。
 まさにその通りのことが、いま、彼の目の前で起きているのだった。そこにあるのは老人の指先――皺だらけの、痩せて節くれだった、骨と皮ばかりの手だけだ。目には、何の異常も映らなかった。そして、にもかかわらず、そこは異質だった。
 小屋の中を、生ぬるい風が逆巻いた。その風が、老人の指の先、何もない空間から吹き出してくるのを、ヨウルは感じた。
 物音はしなかった。ついさっきまで窓の外から聞こえていた、木々のざわめきや鳥のさえずりさえもが、いまは止んでいた。異様なほど静まりかえった小屋の中で、古びた紙の一枚、わらの一本さえも、微動だにせずそこにある。それだというのに、風が小屋の中を、轟々と逆巻いている――ヨウルの肌は、しきりにそう訴える。
 ヨウルはいまこの瞬間まで、魔法というものを信じていなかった。これまで真実の魔法と呼べるようなものを目にしたことはなかったし、その本質など知りようもなかった。だが、理屈ではなかった。何を説明されるまでもなく、何者かの見えざる手、巨大な冷たい手が、彼の魂をわしづかみにして、乱暴にひれ伏させた。
 全身の肌を粟立たせ、冷たい汗を流しながら、ほとんど崩れ落ちるようにして、ヨウルは床に膝を折り、力に屈した。渦巻く風に肺腑を押さえつけられて、助けを求めるどころか、声を出すことさえできなかった。
 その力の暴風の中で、老人が平然と微笑んでいることが信じられなかった。耄碌し、醜く萎びた、やせっぽちの老人――過去と現在とを往ったり来たりして、半ば夢の中に暮らしている、哀れな狂人。さっきまでそういうものだった目の前の人物が、いまは、おそろしい力の渦巻く中で、まったく気負いなく背筋を伸ばし、涼しい顔をして椅子に腰かけている。
 老人の指が、再び虚空をすっと撫でた。
 その瞬くほどの間に、何もかもが元に戻った。森の生き物たちの気配は蘇り、ヨウルの体を押さえつけていた見えざる手は、一瞬にしてどこかへ消え失せていた。それでも長い時間、彼の体はこわばったまま、いっさいの緊張を解こうとはしなかった。脂汗が頬を伝い、怖気が波のように押し寄せては、彼の鼓動を乱した。
「何か、感じたかね」
 ヨウルは答えなかったが、その表情と荒くなった息が、言葉よりも雄弁な返答だった。
「いまの力を感じとることができたのなら、お前さんには、素養があるのかもしらんな……」
 そう囁いた老人の口元には、どこか満足げな微笑がにじんでいた。ヨウルは何度か首を振って寒気をふりはらい、それからようやく口を開いた。
「いまのが――」
 声は掠れて、ほとんど音にならなかった。ヨウルは何度か唾を飲み込み、それからどうにか体を起して、寝藁の上に座りなおした。
「いまのが、魔法なのか」
 老人は首を振った。「いいや。いっただろう――ただ薄皮を破いてみせるだけでは、何にもならん。その力を支配し、思うように操ることこそが、肝要なのだと」
 いまの力を、支配して、操る――ヨウルは再び唾を呑んだ。そうして鳥肌もまだおさまらないうちに、声を張り上げていた。
「爺さん、俺に、魔法の使い方を教えてくれ」
 老人はかすかに目を瞠った。それから何か、思案するような目の色をのぞかせた。ヨウルはじっと息を詰めて、老人の返答を待った。
「魔法――魔法を、学びたいというのかね」
「頼む」
 息せき切って、ヨウルは身を乗り出した。老人はいっときのあいだ、考え込むように顎に手を触れ、ぶつぶつと何事かを口の中で呟いていた。そうしてあるとき突然、はっとしたように目を瞠った。それから顔色を変えて、激しく首を振った。
「いかん――魔法だと? ばかなことを――ばかなことを。私は二度と、魔法は使わんと決めたのだ。他人に教えもせん。絶対にだ」
 呻いて、老人は立ち上がった。それから部屋の中を歩き回り、何度も頭を振った。「私はいま、何をした? なんということだ。忘れてしまえ、お前さんは何も見なかった。忘れてしまえ――」
 ヨウルは引き下がらなかった。ほとんど床にぶつけるような勢いで頭を下げて、声を張り上げた。「頼む。俺には力がいるんだ」
 老人は歩き回るのをぴたりとやめた。そうしてまじまじと、ヨウルの顔をのぞきこんだ。ヨウルは期待を込めて、その濁った瞳を見上げた。
 目を逸らさないでいることには、努力が必要だった。視線は勝手に老人を恐れ、避けようとした。だがヨウルはかろうじてその衝動をこらえた。
 だが老人は、うなずかなかった。今度は静かに、ゆっくりと首を振った。
「人は、魔法になど頼るべきではない」
 その声は、厳かな気配をにじませていた。さっきまで彼をほかの誰かと混同していた、頼りない老人と同じ人物のものだとは、とても思えない声だった。
「力が――」
 ヨウルの声は、震えていた。「使える力があるんなら、なんだって使うべきだ。そうだろう、あんただってそうしたんじゃないのか」
 老人の、ただでさえしみだらけの灰色の皮膚が、いっそう色を失って、青ざめた。だがヨウルは頓着しなかった。
「それだけの力があるんなら――爺さん、あんた、なんだってできたんじゃないのか。ずっとここにいて、森のようすを見ていたっていうんなら、俺たちの村の状況だって、知ってたんじゃないのか。どうしてこれまで何もしなかったんだ――その力を使えば、この国をもっと豊かにすることだって、簡単にできたんじゃないのか」
 老人は唇を引き結んだまま、まばたきもせず、濁った眼でヨウルを見つめ返していた。その瞳から視線をそらさずに、ヨウルは叫んだ。「そうすりゃ、俺の弟だって――」
 自分の口から飛び出した言葉に、ヨウルは戸惑った。だが唇はかってに動いて、老人を非難した。
 それは、自分でもほとんど忘れかかっていたような、古い記憶だった。
 痩せた土地しかない、ちっぽけな村だった。農作業の合間にしつらえた織物を町に売りにゆき、暮らしの足しにしてさえ、税を納めたのちには、食べてゆくのがやっとの家も少なくなかった。
 ヨウルの母は早くに病を得て死んだ。猟師の父親が獲ってくる獲物だけでは、とても兄弟みなが食ってゆくには足りなかった。
 ある日ヨウルが目覚めると、末弟の姿がなかった。問いただしても父親は頑として口を割らなかったが、人買いの姿を見かけた村人たちがひそひそ声で話すのを聞けば、何が起きたかは明らかだった。
 予兆はあったのだ。
 兄弟の誰かが捨てられるのではないかという恐れは、ずっと前からあった。戦がはじまるかもしれないと噂が立ち、税が増えた。村人たちの暮らしは、前よりさらに苦しくなった。村にはほかにも姿の見えなくなった子供らが何人かいて、遠くの親戚の家のやっただの、嫁入り修行のために嫁ぎ先に早くから引き取られただのと口ではいうが、その実、みなが本当のことを知っていた。
 いつかそうした日が、自分たちのもとに訪れることにおびえながら、いざそのときがやってくるまで、兄弟の誰も、口に出して父親に訊いたりはしなかった。自分らを捨てるつもりなのかと、言葉にしてしまえば、それが本当になりそうで恐ろしかった。
 ほかに何ができただろう? 彼らは畑を持たなかった。兄弟みなでほかの村人たちの農作業を手伝ったが、引き換えにわけてもらう作物は、不作の年には十分な量にならなかった。だがそれを分ける側の村人たちでさえ、己らが食ってゆくのにかつかつなのだ。
 売られていった弟が、どこの誰に買われたのか、その後どうなったのか、わからない。父親はとうとう口を割らなかったし、そもそも知らなかったのかもしれない。
 知らずにいれば、まだしも楽観的な希望に縋ることもできる。買われていった先でこき使われるにしても、まだ村で不作に飢える冬より、いくらかましな暮らしを送っているかもしれないと。同じ捨てられるのでも、森に捨てられて狼に食われるよりかは、どこか知らない異国で生きているほうが、まだしもではないかと。
 ヨウル自身も、長いことそうした空想で、自らを慰めていた。だが、都で長く暮らしたいまでは、もう彼は、知ってしまっている。人買いに連れられてゆく子らが、そんな幸運に恵まれることは、まず百に一つもないのだと。
 弟は運がなかった。兄弟みなが仲良く飢えて死ぬよりはましだった。そう思って、忘れようとつとめた。実際に、とっくに忘れてしまったつもりだった。それだというのに、いまこのとき、彼の胸の内には、幼いころの弟の姿が、あざやかに浮かび上がっているのだった。弟は年の割には体が小さく、要領も悪かった。甘ったれで、幼い時分には三人の兄の後ろをよくついて歩いては、手伝うつもりで邪魔ばかりしていた――
「どうして助けてくれなかったんだ。それだけの力があるんなら、畑を肥やすことも、性根の腐りきった税吏どもを黙らせることも、なんだってできたんじゃないのか」
 自分が口にした言葉にあおられて、ますますいきり立っている己に、ヨウルは気がついた。それは、彼が普段、もっとも軽蔑している人間のすることだった。人を利用し、自分が足元をすくわれないためには、まず冷静でいなくてはならない。いまだってそうだ。感情任せに怒鳴り散らすより、機をうかがって老人を丸め込み、その気にさせるほうが賢いと、頭のなかではわかっていた。だが、どうしても歯止めがきかなかった。
 ヨウルが叫び疲れて黙るまで、老人はじっと唇を引き結んだまま、彼の話を聞いていた。そして、とうとう声を枯らしたヨウルが黙り込むと、ゆっくりと目を伏せて、首を振った。
 どっと重い疲労に襲われて、ヨウルは目を閉じた。興奮で息が上がっており、まぶたの裏がちかちかした。
 汗をぬぐって立ち上がると、彼はわずかばかりの荷を背負って、よろめきながら戸口に向かった。
 まだ足は痛んだが、この小屋の中に居たくなかった。行く先の展望など何も見えないが、もはやここにいては、体を休めるどころか、気がおかしくなりそうだった。
 外に出る前に、何かに押されるようにして一度だけ振り返ると、老人は先ほどまでよりも、ひとまわり萎んだように見えた。その眼は何もない虚空をぼんやりと見つめており、老人がつい先ほどまでの会話について、まだ思いをはせているのか、それともすでに忘れ去ってしまったのか、それさえわからなかった。
 自分は何をしているのだろう。怒りは失せて、いまはひどくむなしい思いばかりがヨウルの胸を占めていた。あんな耄碌した爺さんに、何を期待するというのか。魔法が本物だったとしても、長い時間まともな話をすることさえできないような、呆けた年寄り一人に――
「世話になったな」
 言い残して、ヨウルは歩き出した。これでまた老人はひとりきりだという思いが、わずかに胸の底を掠めたが、彼はそれをつとめて無視した。
 戸口をくぐり、ヨウルは木漏れ日の眩しさに目を眇めた。小屋の周囲だけは頭上が開けており、そのおかげで、ともかく太陽の位置だけは見定めることはできた。おおよその方向を頼りに、やみくもに歩くほかない。
 この森を、果たして自分が生きて抜け出せるかどうかさえ怪しかったが、いまはひどく捨て鉢な気分になっていた。どのみち、死ぬまでこの森に籠っているわけにはいかないのだ。
 小屋を少し離れれば、再び樹々が深く生い茂り、あたりは暗く木陰に沈み込んでいた。ヨウルは立ち止まって何度も瞬きをした。一度すっかり明るいところに目が慣れたのちには、日陰がいっそう暗く感じられるものだ。
 何日も寝ていたせいか、体が重かった。ヨウルは背負った荷を揺すり、背後を振り返らないように歩き続けた。


 ときおり視界に明るい光の筋がかすめ、そのたびに、ヨウルはその下に向かった。暗い森の中では、方向感覚はすぐに失われる。そうやって太陽の位置をたしかめながら、ゆっくりと歩いた。
 かつての青臭い思いが、いまだ自分の心のうちに残っていたことに、彼はあきれ、自嘲した。村の貧しい暮らし、子を捨てねば食ってゆかれないような日々――それだというのに、その同じ時、都では貴族だの商人だのという連中が金を湯水のように使い、戦が起これば誰の得になるかということばかりを考えている。そういった世の中に腹を立て、何かを変えたいと思っていたときが、彼にもたしかにあったのだ。
 それは、とうの昔に忘れてしまった、遠い過去のはずだった。危うい綱渡りをしながら、自分が生きてゆくだけで手いっぱいの日々の中で、他人のことなど構ってはいられないと、いつしか割り切ってしまった。
 人が集まれば、そこには損をするもの、割りを食うものが必ず出る。それならば、せいぜい自分がそちら側に回らないよう、うまく立ちまわるくらいしか、できることはない。そうではないか?
 たいして歩かないうちから、すぐに汗が吹き出てきた。息が上がるたびに、ヨウルは足を止めて体を休めた。そうやって、半日も歩かないうちには、すでに後悔に飲み込まれかかっていた。
 魔法だなどと――なぜ自分はあんな話を、鵜呑みにしたのか。小屋から遠ざかるにつれて、その思いばかりが膨れ上がっていった。たしかに目の当たりにしたと思った、あの得体のしれない力だって、ただ彼が勝手にそこに何かがあると思いこんだだけで、実際に老人がそれをふるって何かをなしたわけではない。小屋の中にあったものは何一つ、微動だにしなかったのだ。
 ヨウルは苛立ち、舌打ちを漏らした。目くらましに違いなかった――ひとたび冷静になると、そうとしか思えなかった。しかけがあったのだ。暗示をかけられた。あるいは、食べるものに何か混ぜられていたか――
 そうまでする必要があるのかという疑問が、ちらりと胸を掠めたが、ヨウルはその声を胸のうちで握りつぶした。そうでもなければ、辻褄が合わないではないか。魔法が本物だと思い込んだがために、老人の昔語りもうっかりと信じかかっていたが、そもそもそんなことはあり得ないのだ。戦は大昔の話なのだから――
 何度目に、倒れた巨木を迂回したところで、ヨウルは川に突き当たった。足を踏み入れてもくるぶしまでしか浸からない、浅く、流れの穏やかな小川だ。
 長く歩いたせいで、足が痛みだしていた。そこで水を汲み、火照った足を冷やして、ヨウルはいっとき体を休めた。川の回りでは樹々が途切れて、燦々と陽光が降り注いでいた。水気を含んだ微風が汗を冷やしたが、陽射しのおかげで、寒くはなかった。
 老人が食事のたびに掘っていた芋の、蔓にぶらさがっていた葉の形を、彼は覚えていた。川辺に同じものを見つけると、ヨウルはためらいながら、手で地面を掘り返した。朽ち葉の下の黒土は軟らかく、掘るたびに甘ったるいにおいがした。
 まさかこの芋が、暗示のもとの薬だったわけではあるまいが――ヨウルはいっとき、薄気味の悪い思いで土のついた芋を眺めたが、じきに思いきって、川で土を洗い落としはじめた。森に飛び込んだときには闇雲だったが、抜けるまでに何日かかるかわからない。食べられるうちに食べておくべきだった。
 集めた枯れ枝を地面の上に組み、荷の中から鍋と火打石を取り出した。そうして火を起こすための準備を整えたところで、ヨウルはその異臭に気づいた。
 朽ち葉の甘く湿ったにおいと、水のにおい、その二つにまじって、かすかに、異質な臭気があった。生ぐさい、さすような――
 はっとして立ち上がったときには、木立の向こうに、金色に輝くいくつもの目があった。
 ヨウルは手にしていた火打石を取り落し、反射的にそれを眼で追いかけようとして、かろうじて思いとどまった。夜中にはあれほど大声で吠えたてていた狼たちが、いまはまったく音を立てずに、彼を取り巻いていた。
 群れで狩りをする生き物なのだ――ヨウルはぞっとして、すばやく視線を巡らせた。
 走り出せば、かえって注意を引く――ヨウルはじりじりとあとずさった。水が跳ね上がり、彼の足を濡らす。いまはこの穏やかな流れが恨めしかった。まだしも流れの速く深い河であったなら、いちかばちか、泳いで逃げるという道があったかもしれないのに。
 狼が嫌うにおいがどうとかいっていた、老人の言葉が頭をよぎって、ヨウルは悔いた。もっと詳しく聞いておけばよかった――だが、いまさらどうしようもなかった。
 木下闇の中に、涎に濡れた牙が光るのを、ヨウルは見た。狼たちは音も立てず、確実に距離を詰めてきていた。
 待てば待つだけ、包囲の隙がなくなる――その思いが、とっさに彼の背中を押した。地面におろしていた荷物をあきらめて、ヨウルは駆け出した。
 視界の隅で、灰色の、巨大な塊が跳ねた。
 前触れなく激しく視界が回り、その次の瞬間には、顔を地面に打ち付けていた。反射的に閉じた目の中で、ちかちかと光が瞬き、鼻の奥で血のにおいがした。
 叫ぶことさえできなかった。背中を、信じられないほどの力で押さえつけられている。肺がひき絞られて、いやな音を立てた。
 焼けるように、背中が熱かった。まだ痛みは追いついてこなかったが、うつぶせに突っ伏す自分の背中に、太い爪が食い込んでいるようすが、ありありと想像された。
 次の瞬間には、牙が自分のうなじを噛み砕いているだろう――言葉にならない刹那の思考の中で、ヨウルは考えた。
 だがその瞬間は、なかなかやってこなかった。
 ふっと、肌に触れる空気が冷たくなった。
 いぶかしく目を開けた彼の背に、生暖かい液体が、音を立てて降りかかった。
 ヨウルははじめ、それを狼の涎だと思った。だが違っていた――鉄さびのにおいが、むせ返るように広がった。狼たちがやけに遠くで、しきりに吠えている。
 地面が激しく揺れた。ついさっきまで、彼の背に覆いかぶさっていた狼が、横倒しにどうと倒れた衝撃だった。風が逆巻いた――音のない風が。
 ヨウルが身を起こすまでには、かなりの時間が必要だった。ようやく周囲を眺め渡したとき、あたりは淡い光に包まれていた。頭上からさしこむ陽射しとは違う、青ざめた、奇妙な光だった。
 その淡い光の中心に、老いた魔法使いがたたずんでいる。
 ヨウルはぽかんとして、その場に尻餅をついた。そして、へたりこむ自分のすぐわきに横たわる、巨大な狼のすがたを見た。銀色の毛をもつ、美しい獣――そのつやのある毛並みは、いまや、赤黒い血に汚れていた。鋭い牙のならぶ口が緩み、そこからは舌がこぼれていたが、それでもまだ、かすかに息があるようだった。
 その体が、びくりと、跳ねるように動いた。
 ヨウルは息をのんだ。だが、狼は立ち上がって飛びかかろうとしていたわけではなかった。何かに下から突き上げられるように、その巨躯が二度、大きく震えた。
 その毛皮の中から、緑色をした小さな突起がいくつも吹き出すのを、ヨウルは見た。それは、彼の見ている前で脈打つように伸び、微細な繊毛をびっしりと生やした、植物の蔓となった。
 緑の蔓は、音を立てながら伸びてゆく。自分が目にしているものの意味もわからぬまま、ヨウルは唖然として、座り込んでいた。蔓は見る間に狼の体躯をすっぽりと覆ってしまうと、絡まりあいながら、空に向かって勢いを増しながら伸びてゆく。
 ヨウルが呆然と顔を上げたとき、青い光はまだ失われておらず、たたずむ魔法使いの体を、ぼんやりと取り巻いていた。いや――その光は、老人の体に、ゆっくりと吸い込まれてゆくように、彼の目には見えた。実体のないあの風はすでに止んでおり、ほかの狼たちの姿は、もうどこにも見当たらなかった。
「爺さん――あんた――」
 ヨウルはかすれた声で老人に呼びかけ、その途中で声をとぎれさせた。あんたが助けてくれたのかと、そうたずねかけた唇は、ただ震える息を飲み込んだだけだった。
 青白い光の中にいるその人物は、たしかにこの数日をともにした、あの老人に違いなかった。だが、その眼はもう白濁してはおらず、青く澄んでいた。
 目の前にいる男は、たしかに年老いてはいたが、それはあの百も生きているというような、死の床を思わせる疲弊した老いではなく、年をとったといえど、まだ充分に働く力を残している男のそれだった。
「ああ――」
 老人はうめいて、自らの顔を、片手で覆った。その手指は変わらずしわ深かったが、もはや枯れ木のようではなく、いくらか血の色を通わせて、その気になれば鍬でも振るえそうな力を備えていることが見て取れた。
 ヨウルは何度も目をしばたき、しまいにはまぶたを手で擦ったが、いくら確かめても、それは、錯覚ではなかった。老人はたしかに、若返っていた。
 老魔法使いを取り巻いていた光は、徐々に失せていったが、だからといって、その中の男が、再び老いのなかに戻ってゆくわけではなかった。
「ああ――なんということだ――だから魔法を使いたくはなかったのに……」
 ひと声さけび、魔法使いは苦悶するように、激しく身をよじった。悲痛な声――聞きなれたものとは違う、ずっと太い声だった。
「どうせ死ねぬのなら――せめて、耄碌して何もわからないでいるほうが、まだしもよかった――」
 へたり込んだまま、ヨウルは唾を飲み込んだ。いったい何が起きているのか、まだ彼は完全には理解してはいなかったが、ともかくこの老人が狼たちを追い払って、彼を救ってくれたのだということだけは、はっきりしていた。
「爺さん……」
 ヨウルはためらい、ためらいして、それからようやく、口を開きかけた。だが老人は、ヨウルのほうを振り向き、彼を黙らせた。
「去れ――」
 ヨウルは言葉に詰まった。老人の声は怒りの気配を帯びていたが、その青い眼は、むしろ哀しげだった。
「すぐに去るがいい――二度とこの森に近づくな」
 その言葉が終わるやいなや、またしても風が巻き起こった。一度は消えた青白い光が、ふたたび膨れ上がって、川辺を満たした。ヨウルは目を開けていられなくなって、まぶたを固く閉じ、それだけでは足りずに、とっさに腕で目を覆った。
 何も聞こえなかった。川のせせらぎも、葉擦れの音も、狼の声も、何も。自分の体が浮かび上がったような感覚があったが、暴風に吹き飛ばされたというよりは、ただ静かに地面を離れ、音もなく舞い上がったように、彼には感じられた。
 次に目を開けた時には、老人はもう目の前にいなかった。
 それどころか、小川もなかった。緑の蔓に飲み込まれた狼の体も、朽ち葉の甘ったるいにおいに包まれた地面も、周囲に聳えたつ巨木も、それらがさしかける木下闇も、何ひとつなかった。
 彼は街道の敷石に尻をついてへたり込んでおり、頭上には青空が広がって、太陽が燦々と明るい日差しを投げかけていた。視線の先、歩いてはいっときかかるほどの距離の先に、深い森が広がっているのが見えた。
 ヨウルはぽかんと阿呆のように口を開いて、周囲の風景に見入った。見知らぬ景色だった。街道は左右にうねりながら伸び、一方は地平の向こうまで続き、もう一方の先には遠く、連なる家々の屋根が見えている。振り返ればはるか彼方に、鋭い峰を見せて山脈が横に連なり、頂には、うっすらと雪がかぶっていた。そのすぐ手前には、青々とした河が悠然と横たわり、かなりの距離があるというのに、ここからも水面が光をはじいているのがわかった。
 隣国との境界だった。
 ヨウルは呆然として、森に視線を戻した。頭の中の地図と、目の前に広がる光景を、何度も照らし合わせた。あざやかな色をした鳥が、枝から飛び立ち、彼の頭上を通り過ぎる拍子に、ひと声高く鳴いた。
「爺さん――」
 ヨウルは叫んだが、その声は黒々とした森に吸い込まれてゆき、こだまひとつ返さなかった。
 声を上げた拍子に、背中の傷がずきりと痛んだ。混乱した頭で、ヨウルは老人の言葉を思いかえした。だから魔法を使いたくなかったのだと、老人はいった。
 食べ物はいらないのだといったときに、老人が浮かべていた微笑みが、ふいにヨウルの脳裏をよぎった。二十も三十も若返ったかのような魔法使いの姿――もはや濁ってはいない、澄んだ青い瞳。
 ほかに彼は、なんといったのだったか。この森で永劫の時を過ごすと、老人はいわなかったか。
 せめて耄碌したままでいたほうがよかったと嘆いた、老いたる魔法使いの言葉を、ヨウルはやっと理解した。そのほうが、自らの犯した罪を、眼前に広がる途方もない孤独を、まともに見据えずに済んだだろうに。
 ヨウルはいっときの間、呆然として座り込んでいたが、やがて街道の向こうに、馬車が近づいてくるのをみとめて、のろのろと腰を上げた。そうして足を引きずりながら、ともかく町を目指して、歩きはじめた。

 

   (終わり)


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