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 小屋の中の時間は、妙にゆっくりと流れていくように思われた。頭のおかしくなった年寄りと二人きりでいるのは、ひどく気づまりなことだったし、それ以上に退屈だった。
 まともに立ち上がることもできないのでは、やれることなどない。ヨウルは字がほとんど読めないので、老人の本を借りてみようとは、最初から思いもしなかった。読めたとしても、狂人の蔵書を読んでみる気になったかどうかは、怪しいところだが。
 それにしても――ヨウルは再び、老人の正体に想像をめぐらせた。
 どういう経緯でこんなところに隠れ棲んでいるのかしらないが、読み書きができるらしいことといい、老いて弱っていてもなお背筋の伸びていることといい、もしかすると、もとはそれなりの身分の人間だったのではなかろうか。
 老人の着ている服は、色あせてほつれ、ぼろきれも同然になってはいたが、それでもとにかく清潔に保たれており、これまでは気付かなかったが、よくよく見れば、仕立ては悪くないようだった。意匠は古めかしいながらも、もとは銀糸ではないかという縫い取りが、胸と裾のところにあしらわれていて、こうもくたびれてさえいなければ、上流の人間が身につけるもののようにも見える。
 もとは貴族か、あるいは代々続く商人か、そうした出自なのかもしれない。それがどうしたわけか凋落し、世間から隠れる必要に追われて、とうとうこんなところにまで流れ着いたものではないか。
 もしその推量が当たっていれば――ヨウルは目を眇めた。この狭い小屋のどこかに、金目のもののひとつやふたつなりと、隠してあるかもしれない。
 ヨウルはその思いつきを老人に悟られないよう、慎重に表情をつくろって、ことさらにゆっくりとまばたきをした。もっとも、老人の視線はまたしてもあらぬ虚空に注がれており、その口は、ぶつぶつと意味のとれないことをつぶやいていたのだが。
 好都合なことに、老人は日に何度か、ふらりと小屋を出て、森を散策でもしているようだった。その隙に、足の調子を見ながら家探しをしてみるのもいいかもしれない。
 助けられておきながら、いかにも恩をあだで返すようだが、なに、こんな森の奥深くに隠れているくらいだ、金があったところで、爺さんには使い道もなかろうし――ヨウルは無意識に唇を舐めた――どのみち老い先も、そう長いようには見えない。このまま老人が一人きりで死んで、せっかくのお宝が人知れず森の奥で朽ち果ててしまうくらいならば、自分がもらっていって町で売り払ったほうが、よほど誰のためにもなろうというものだ。
 そこまで考えて、ヨウルは我に返り、瞬きを繰り返した。いや、だが、あまり期待はすまい。こんなふうに質素に暮らしているくらいだ。金があったとしても、とっくに使い果たしてしまっているかもしれない。まあ、だめでもともとだというほどの心持ちで、ゆっくり探してみようじゃないか。
 いつしか彼は、すっかりその気になっていた。まとまった金さえあれば、人目につかないように国境を抜ける手立てだって見つかろうというものだ。
 金も見つからぬうちからあれこれと頭のなかで算段を繰り返し、ヨウルは機をうかがった。いっときの間、老人は書きものをしながら、ぶつぶつとここにはいない誰かに話しかけていたが、やがてふと瞬きをして、ゆっくりと腰を上げた。そうして危なっかしい、のろのろとした足取りで、戸口へと向かっていった。
 このときヨウルは、老人が足を引きずっているのが、ただ歳を取って弱っているだけではないことに、ようやく気がついた。どうやらどこか痛めて、それをかばっているらしい。その足取りは、彼にひとつの想像をさせた。行き倒れていた見知らぬ男を苦労して背負い、その弱った足腰で、長い時間をかけて自分の家まで引きずってゆく、痩せこけた老人の姿――
 その光景は、あまりにも容易に脳裡に思い浮かんだので、彼は、いささかばつの悪い思いをした。
 痛む足を引きずってまで家探しをするだけの気力は、それですっかり失せてしまった。ヨウルは寝がえりを打って、壁の方に顔を向けた。考えてもみれば、そもそも何もかもが想像でしかないのだった。
 何、本当に大金を持っているのならば、いくらなんでももう少しはましな暮らしをしているだろうさ。ヨウルは誰にともない言い訳を、口の中で呟いた。
 日がな一日寝転がっているので、これ以上眠れるとも思っていなかったが、それでもヨウルは目を閉じて、眠ろうと努力した。少しでも早いところ体力を取り戻したかったし、どのみち起きていたところで、することがない。
 だが、そうしてぼんやりしていると、思い出したくもないことばかりが、知らず脳裏をよぎり始めるのだった。都合よく彼を密偵として利用しておきながら、いざ露見すればあっさりと切り捨てた軍人。おそらく警吏に彼の情報を売ったのだろう、友人の顔。考えれば考えるほど、裏切りの心当たりは、ひとつしかなかった。
 ヨウルは酒が入っても、記憶を失うような質ではない。むしろ飲めば飲むほど、ますます意識が冴えわたるほうだ。覚えている限り、故郷について他人に具体的な話をしたのは、ただの一度きりだった。
 考えるまいとして、ヨウルは首を振った。そもそも、他人を信用した自分が愚かだったのだ。
 信じるに足る人間など、どこにもいない。人は人を売るものだ――どんなに親しげな顔をしていても。故郷の村での暮らしを思い出して、ヨウルは唇を曲げた。貧しかった暮らし――人買いに売られていった、彼の弟。
 いざ逃げ出すとなったとき、なぜ自分の足が捨てたつもりの故郷に向いたのか、わがことながら、ヨウルには理解しがたかった。いい思い出など、ひとつもないはずの場所だった。わが身を危うくしてまで匿ってくれそうな人間など、誰も思い当たらない。
 ヨウルは爪を噛んで、不毛な思考を打ち切った。そんなことよりも、もっと現実的なことを考えなくてはならない。
 爺さんは、森を抜ける道を知っているだろうか? 村の反対側への道だ――ヨウルはつらつらと考える。猟師でもない人間が、人の往来もない獣道を知っているとは思えなかったが、それでもここに、どうやら長いこと一人で暮らしているのだ。何かの手がかりは持っているかもしれない。
 聞いてみるか――だが仮に老人が知っていると答えたところで、あの様子では、まずヨウル自身がその記憶を信じる気になれるかというと、怪しいものだった。
 この先、どうしたものか。考えれば考えるほど、ヨウルは暗澹たる気分になった。まず無事に森を抜け出せるかもわからず――いまこのときも、どこか遠くで狼が声をそろえて吼えていた――抜け出したところで、追っ手に捕まらずに安全なところまで逃げられるのか。
 そもそも、安全なところがあるのか。国境をひそかに越えるための手段については、人のうわさで耳にしたことがないでもなかったが、そうした手引きをする者に、渡りをつける伝手を持っているわけではない。
 気分はうち沈む一方だったが、それでもいつしか、彼はゆるやかに眠りに落ちていった。


 戻ってきた老人の足音で、ヨウルはうたた寝から目覚めた。
 このときは、老人は彼のことを忘れてはいなかった。少なくとも、寝床に見知らぬ男が眠っていることに驚いたというようなそぶりはみせなかった。老人が足を引きずりながら歩く、その緩慢な物音を聞きながら、ふとヨウルは疑問を覚えた。
「なあ、爺さん。どうしてあのとき、俺があそこで倒れてるって気づいたんだい。あのときは暗かったし、物音だって、木々の枝が鳴るのがうるさくて、聞こえたもんじゃなかったろう」
 ヨウルは答えを期待せずに問いかけたが、ゆっくりと振り返った老人の眼には、いまはいくらか、知性の輝きらしいものが戻っていた。
「この森の中で起こることは、たいてい、私にはおのずと感じられるのだ」
 ヨウルはその返答を聞いて、鼻に皺を寄せた。「あんたが魔法使いだからかい?」
 老人は平然としたようすで、そうだといった。ヨウルは小さく鼻で笑った。
「あんたが本物の魔法使いだっていうんなら、爺さん、俺のこの足のけがも、魔法でちょいと治してくれないか」
 彼の皮肉は通用しなかった。老人は目を伏せてゆっくり首を振ると、彼のほうに向き合う形で、傾いだ木の椅子に腰を下ろした。いかにも軽々とした老人の体重でさえ、受け止めかねるように、椅子はきしむ音をたてて傾いだ。
「魔法というのは、それほど便利なものではない」
 老人は言葉を切って、いっとき視線をさまよわせ、それから続けた。「それに私は、二度と魔法は使わん。ずっと昔に、自分でそう決めたのだ」
 使わないのではなく、使えないのだろう――ヨウルは言いかけたが、結局は言葉を飲み込んだ。
 哀れな狂人が自分の嘘を信じるための方便だ。そんなものをわざわざ否定してみせたところで、何になるだろう。ヨウルは肩をすくめると、老人の話に乗ってみせた。
「へえ、そんなら魔法っていうのは、いったいどんなものなんだい。あいにくと本物の魔法使いっていうやつを、これまで見たことがなくってね」
 老人は顔をあげて、まじまじと、彼の眼を見つめ返した。その目つきの真剣さに、彼がいくらか気おされかかるころになって、老人は再び口を開いた。
「魔法というのは、本来は誰にでも使える力だったのだ――だが、忘れられてしまった。いまや魔法の力を使うのは、ごくわずかな、限られた者ばかりだ――」
 魔法の話になると、途端に老人の声が力を帯び、その口が倍ほども饒舌になることに、ヨウルは気がついていた。苦も無くすらすらと話せるほどに、長年のあいだこの老いた孤独な男の中で、詳細に作り上げられていった嘘なのだろう。
 ふいに哀れみの念が胸の奥にこみあげて、居心地悪く身じろぎするのを、ヨウルは感じた。誰に聞かせるあてもなかった嘘を、一人きりでせっせと作り上げてきた、孤独な男。
 老人は再びうつむき、己の皺ぶかい手を見下ろしながら、滔々と語り続けた。
「この世界の、ほんの薄皮一枚へだてた向こう側には、もうひとつの世界があるのだ。我々の知る世界とは似て非なる異世(ことよ)が。そこにはいつでも、ある種の力が流れ、渦を巻いている……」
 そのときとつぜん風がうなり声をあげて、小屋を揺さぶった。ヨウルは小さく身をすくめた。これまでにないことだった――頭上で樹々がざわめきこそすれ、その風が森の天蓋を破って、地上まで激しく打ちよせるようなことは。
 老人は風になど気づきもしなかったように、話し続けていた。
「魔法というのは、その薄皮をうまく破いて、向こう側の力をこちらに呼び込み、それを支配して、思いのままに制御するわざだ。ただ破れ目をつくるだけでは、何にもならん。力を支配することこそが、肝要なのだ――支配する――」
 言葉は、話が進むにつれて徐々に速度を落としてゆき、やがて老人は、ふっつりと黙り込んでしまった。小屋の外で、風の逆巻く音が強まり、ひとしきり唸りを上げた。
 風が止むのを待って、老人は再び口を開いた。
「だが、一定のところを過ぎれば、今度は――」老人の眼が妙にうつろになり、それでいて、うっすらと皮肉っぽい色を帯びた。「逆に、力に支配される……」
 ヨウルは背筋の寒くなるのを覚えて、あわてて首を大きく振った。老人の口調が暗示をかけるのか、あるいはこの小屋にただよう侘しい空気がそうさせるのか――まるきり信じていなかったはずの話に、いつしか釣り込まれかかっている自分に気づいたのだった。
「支配されたら、どうなるっていうんだい」
 わざとらしいほど明るい口調で、ヨウルはたずねた。老人はわずかのあいだ瞑目して、それから顔を上げた。
「百年と少し前には、ここは森ではなかったといったら、信じるかね?」
 急な話の飛躍に、ヨウルは戸惑った。それから気を取り直して、老人の言葉を咀嚼した。つい数日前に彷徨った森の、果てしない広がり、密に生い茂った樹々の、見上げれば首の痛くなるような背丈――馬鹿馬鹿しいと、彼は笑いとばそうとした。そして黙った。来るときに見た、あの奇妙な廃屋の数々を思い出したのだった。家々の屋根を突き破ってそびえる、巨大な樹々――
「私は、魔法を使いすぎた。私は魔法を支配しているつもりで、いつしか逆に、魔法に支配されていた。お前さんから見れば、私のこの体は、老いぼれてくたびれているにせよ、ともかく自分の意のままに動かせているように見えるかもしれない。だが真なる意味では、私の主は、もはや私ではない――」
 老人の口ぶりに、ヨウルは違和感を覚えた。それではまるで、その魔法の力とかいう得体のしれないものが、生き物のように自らの意思をもって、老人の肉体を動かしているかのようではないか。
 ヨウルの困惑をよそに、老人は低く、語り続ける。
「いまや私は、この森に囚われ、深く結び付けられているのだ。未来永劫、森の外に出ることはかなわぬ。だがそれは、自らの為したことの報いなのだ。私はそれだけの罪を犯した――許されざる罪を。許されようとも思わぬ……」
 老人はすでに、ヨウルに話しかけているのではなかった。それは独白だった。自らに言い聞かせる口調で、老いた男は、つぶやき続ける。
「みな、亡霊になって恨み言のひとつも聞かせてくれれば、せめての慰みにもなろう。だがもはや誰も、私に話しかけてはくれんのだ。しかしそれも、当然のことだ。彼らは死んだのではなく、森になったのだから。みんな、森になってしまった――森に――」
 老人の言葉の後半は、掠れた小さなつぶやきにしかならなかったので、ヨウルにはろくに聞きとれなかった。だが問い返す気にはなれなかった。鳥肌の立った腕をさすって、彼はいっとき黙りこくっていたが、やがて身震いをして、口を開いた。
「罪の報いのと、ずいぶんと大層な話になってきたじゃないか。何が何だかよくわからないが、爺さん、あんたいったい、何をしでかしたっていうんだい」
「――戦だ」
 答えて、老人は遠い目をした。小屋のくたびれた木の壁を通り越して、その視線は、遥かな昔にさかのぼっているようだった。
「魔法のわざに携わるものは、戦やまつりごとには、けしてかかわってはならぬ。どのようなことがあろうともだ。だが、私は掟を破った――」
 大きな戦だった、と老人は囁いた。「ほかに、どうするすべがあっただろう? 愛する人々が戦禍に踏みにじられるのを、かつて過ごした土地が炎にまかれるのを、さんざん目の当たりにして――私の手の中には力があった。ただふるうことを禁じられているだけで、その気になりさえすれば、いつでも意のままになる力が。妹の生んだ赤ん坊が、兵士の乱暴な手に投げ捨てられ、旧い友が血にぬれた刃の下で震え、かつて愛した女が犯されかけているときに、ほかにどんな方法が?」
 いや、いやと、老人は頭を振って、自らの言葉を打ち消した。それまでの緩慢な動作が嘘のような、激しい動きだった。
「だがそれでも、やはり私は、何もするべきではなかったのだ。私は愚かだった。ときにどれほど不条理に思えようと、掟には、いつでもそれだけの理由があるのだ――私がふるった魔法のために、彼らは――彼らは――」
 老人はまだ話し続けていたが、ヨウルは視線を外した。老人の嘆きぶりは、まるきりの嘘とも思うには迫真の響きをそなえていたが、それでもこんな話を信じる気にはなれなかった。彼には学はないが、このあたりの地方で最後に起こった戦が、百三十年ばかり前の出来事だということくらいは知っている。いくらこの老人が年を取っているといっても、それほど長く生きているはずがない。
「魔法使いたちは私を追放したが、そのようなことをする必要は、どこにもなかったのだ――どのみち私はこの森にとらわれて、一歩も外へは出られないのだから。罰は甘んじて
受けよう。私には許しを請う資格がない。許されたいとも思わない……」
 許しを求めはしないと、老人は何度となく繰り返した。際限なく続くかのように思われた老人の独白は、いつの間にか迫っていた宵闇に、徐々に吸い込まれてゆき、やがて途切れた。そうして老人がひとつ瞬きをした、そのあとには、彼はもう、自分のした話をすっかり忘れてしまっているようだった。


 その晩、うつらうつらとしては目が覚めるということを繰り返して、ヨウルはとぎれとぎれの眠りの合間に、風の音に耳を澄ましていた。
 老人は床の上で、寝苦しそうに身じろぎをしていた。その息が苦しげに高まり、いびきとも唸り声ともつかないような音を立てていたのが、あるときから徐々にはっきりと、寝言の体を取りはじめた。
「許してくれ――私が愚かだったのだ。こんなつもりではなかったのだ――おお――」
 許されようとは思わないと、起きているときにはあれほど執拗に繰り返しておきながら、その同じ口が、いまは必死に誰かの許しを乞うている。哀れで、みっともなく、滑稽な姿だと、ヨウルは思った。だがその滑稽さを、笑う気にはなれなかった。昼間と眠りの中にいるときでは、人は往々にして、異なる望みを持っているものだ。
 魔法――戦――報い――罰。口の中でつぶやいて、ヨウルは寝返りを打った。老人の狂気に巻き込まれそうになっている己を少しばかり危惧しながら、それでも同じ心の一方では、やはりこの孤独な老人が、ひどく哀れに思えもするのだった。
 他人を気の毒だと思うことが、久しく絶えてなかったことに、ヨウルは気がついた。都での暮らしは忙しなく、他者の不幸に思いを馳せる余裕など、どこにもなかった。わずかの隙を見せたばかりに、足元の危うくなるような日々――他者が転落すれば、それを横目に見て、ああはなるまいと己を戒めるのが、都のやりかただ。
 魔法だの戦だのというのは作り話としても、かつて老人が何かのあやまちを犯し、その罪悪感に苦しみ続けているというのは、おそらく本当のことなのだろう。ヨウルは老人の寝顔を見下ろした。すべてが作りごとであるにしては、老人の嘆きはいかにも悲痛な響きを帯びていた。
「――私が愚かだった――許してくれ――どうか……」
 ヨウルは眼を閉じて、足の傷にさわらぬよう、そろりと寝がえりを打った。絶え間ない老人の懇願を、うるさいとは感じなかった。
 窓の外では梟が鳴き、狼が声をそろえて吠え、樹々が絶え間なくざわめいている。どこかで水音がしているような気もしたが、それが本当にせせらぎの音なのか、葉擦れがそのように聞こえるだけなのか、彼にはわからなかった。
 そうした雑多な音の飛び交う中で、眠れる老人が、ここにはいない誰かに許しを乞うている。それらの物音のどれひとつとして、夜の森の静寂を破るどころか、かえって深めているようにさえ、ヨウルには感じられた。
 しんと静まり返った水底のような夜、寒くもないのに妙に凍えるような夜だった。


 なじみの酒場のテーブルは、いつも油じみて、たいていの場合はその上に何の痕だかわからない染みが残っていた。店内には酒と食べ物のにおいに混じって、男たちがそこらに平気で吐き捨てる噛み煙草だの、質の悪い革からただよう刺すような悪臭だのが混じり合っていた。育ちのいい人間ならば入るなり鼻をつまむに違いなかったが、そこに通う人々はというと、一向に気にならないようすで、強いほかには取り柄のない酒と、熱いことだけが救いのような料理をつつきながら、気ままに声を張り上げている。
 そんな店にしか入れないほど、給金が少ないわけではなかった。だがそういう店をヨウルは好んだし、この日の連れもまた、そういう人間だった。
 ――へえ、お前、北方の出だったのか。たしか織物の有名なところだろう。
 友人はそんなふうにいって、面白がるように目を丸くした。よく日に焼けた肌と、くるくると回る黒い目を持つ青年だ。頭のめぐりは悪くないのだが、それが立ち居振る舞いにまでは及ばない。悪くいえば大雑把で気の利かない、よくいえば純朴でおおらかな、都では珍しい種類の男だった。
 ――いやあ、もう長いつきあいになるのに、ちっとも知らなかった。それにしちゃ、お前さん、きれいな都ことばを話すよなあ。てっきりこの辺の生まれだとばかり思ってたよ。
 ――田舎者で悪かったな。
 ――それをいうなら、俺だって田舎者さ。いや、たいしたものだよ。生まれ育った土地を離れて、よその言葉や暮らしにすっかりなじむってのは、人が思うよりずっと、大変なもんだからなあ。
 しみじみとそういう友人は、西方の高山地帯の出だという話だった。幼いころから学問がよくできたので、遠縁を頼って町の学校に通わせてもらうことになったのだそうだ。そのままこちらで仕官のくちを見つけた。
 それはヨウルからしてみれば、別世界の出来事のような話だった。それでも妙に馬が合ったのは、この都においては、どちらも同じよそものだという共通点があったからだろうか。
 かつて身一つで飛び込んだ都は、狭い故郷の村とは違い、よそものに寛大ではあったが、その寛大さは、無関心を意味してもいた。まともな職につけるのは、生粋の都人か、そうでなければ、それなりの伝手をもつ者ばかりだった。
 ある日ふらりとやってきた田舎者にでも、投げ与えられる仕事があるとすれば、よほど条件の悪い日雇い人夫か、稼ぎの九割は元締めに吸い上げられてしまうような、けちな商売がせいぜいだった。そして、それさえも見つからないことのほうが、ずっと多いのだ。
 彼がもし女だったなら、また別のやりようがあったかもしれない。だが現実にヨウルを待っていたのは、食べるものさえまともに購えないような日々だった。それは、故郷の貧しさとは似て非なる貧窮だった。都にやってきてひと月もしないうちに、彼は野良犬のように残飯を漁ることにさえ、すっかり慣れかかっていた。
 そうした日々を幾月も過ごしたのちに、彼は、ようやく決意したのだった。まっとうにやろうとしたって、何にもならない。何かを為そうと思って故郷を出てきたのだ――何かを変えるためには、まず金が要る。そして、普通のやりくちでは、ここでは金など、百年あってもたまりっこない。
 腹をくくってさえしまえば、あとは早かった。けちな盗みを皮切りにして、彼の暮らしは変わっていった。そうやって手にした小金で、少しは身なりをとりつくろうことができるようになると、ヨウルは詐欺の手口を学んだ。
 学んだといっても、何も師についたわけではないが、都会というところは、似た者同士がいつの間にか吹きだまるようなつくりになっているらしい。けちな盗人には、けちな犯罪者連中の知り合いばかりが、どんどん増えていくといったぐあいに。そうした中に、天才的に口のうまいのが、ひとり混じっていたのだ。
 自慢げに吹聴されるその手口を、ヨウルは鵜呑みにはしなかった。誇張された話は半分に訊き流し、それでいて、よくよく耳を澄まして慎重に隠された秘訣を勘ぐった。ときにはうまくおだてながら、さらなる手がかりを聞き出し、ひっそりとその男の後をつけて、やり口を目と耳で盗んだりもした。
 そうしてヨウルもまた、鼻と目とを養った。騙されやすい人間を嗅ぎ分ける鼻――騙されたと気づいたときにむきになって相手をとっちめねば気のすまない連中と、黙って泣き寝入りする類の人間とを、見分ける目。
 そんなふうに作った金を持って、今度はもう少し大きい仕事に手を出そうかとしていた矢先のことだった。そうした勘の良さを買われて、ヨウルはある貴族に拾われた。代々軍人の家系だという、高慢な男だった。世話をしてやるかわりに、政敵の弱点をつかんでこいというわけだ。
 それからの十年ばかりは、何もかもが順調だった。ヨウルはいい働きをしたと自負していたし、だからといって、調子にのって欲をかきすぎることもなかった。
 身分をいつわってかかわりあった人々の中には、お育ちの良いわりに、妙にうまの合うようなのもいた。そうした連中と、表面上は気さくに付き合いながらも、ヨウルは心の奥底では、けして油断を崩さなかった。そう、たった一度きり、このときばかりをのぞいては。
 ――なあ、ヨウル。戦は起きると思うか。
 ――さあなあ。起きなきゃそれに越したことはなかろうが、起こしたがる連中が、これだけいるんじゃあな。
 肩をすくめたヨウルに、友人はふと口元をゆるませて、問いを重ねた。
 ――お前はどうなんだ。
 ――起こらなきゃいいって、いっただろう。ちゃんばらなんて、ごめんこうむりたい話だよ。
 そう答えた瞬間、それまで頬を紅潮させて上機嫌にしていた友人の顔から、すっと表情が消えるのを、ヨウルは見た。
 ――嘘をつけ。お前の飼い主は、いまにも誰かれなく斬りかかりたくて、うずうずしているようじゃあないか。
 いっぺんに酔いが醒めた。
 ヨウルはかぶっていたすべての仮面をかなぐりすてて、油じみたテーブル越しに、相手の胸ぐらをつかんだ。
 ――お前だったのか。
 ヨウルは低く、うなるように問いただした。
 友人は答えず、薄い笑みを浮かべて、ただ彼を見つめ返した。その眼の冷たさにぞっとして、ヨウルは空いた一方の手で、テーブルの上を薙ぎ払った。
 真鍮製の食器が転がり落ち、酒瓶が割れ、周りの人々から歓声だか罵声だかわからないような声が上がった。店主がカウンターの向こうで怒っている。ヨウルは立ち上がって、友人にいった。
 ――お前が、俺を、売ったのか。
 だが友人は、冷たい目をしたまま、泰然と微笑んでいる。ヨウルの手を払いのけて、友は肩をすくめた。いつでも底抜けに明るく人のいいこの男に、ひどく似合わない、慇懃なしぐさだった。
 ――そうだといったら、どうする。
 しゃあしゃあといってのけるその顔に向かって、罵声を浴びせかけるつもりだった。少なくとも、口を開いた、その瞬間までは。
 ――嘘だろう。
 実際に口からこぼれ出たのは、みっともなくかすれた声、情けない、懇願するような声だった。
 友人は答えなかった。微笑を崩さないまま、腕を組んでいる。その眼が、はっきりと自分を哂っているというのに、それでもヨウルは目の前にある事実を、認められなかった。
 ――嘘だといってくれ。そんなはずがないだろう。お前が……
 ――裏切り者はどっちだ?
 その言葉は、ヨウルを刺した。だが彼は、すぐに激しく頭を振った。彼らが仕える主からしてみれば、たしかにヨウルは裏切り者に間違いなかった。けれどこの男に対しては、彼は、裏切りを働いたつもりはなかった。その気になれなかったからだ。
 方々からそれとなく聞きだした情報を、本来の雇い主に流すときにも、この友人にだけはあらぬ波紋がおよばぬよう、慎重に言葉を選んできたつもりだった。他人を利用することばかりの日々、抜け目なくふるまってきた都での暮らしの中で、それが彼に残された、唯一の良心だったのだ。
 ――なあ、嘘なんだろう。
 ヨウルは声を枯らして叫んだ。お前じゃないといってくれ――……


 何かを叫んで、その自分の声に驚いて目を覚ましておきながら、ヨウルは自分が見ていた夢を、その一瞬のちには忘れてしまっていた。
 体じゅうが痛んで、ひどく凝っており、そのうえにいやな汗をかいていた。
 空気は冷たく、木戸の隙間から漏れる光はいかにも弱々しかった。まだ朝も早いのだろう。老人はすでに起きていたが、椅子にぼんやりと腰かけたまま、じっと沈思しているようだった。あるいは何も考えていないのか――その茫洋としたまなざしからは、何もくみ取れなかった。
 ヨウルは深く息を吐いて、半身を起こすと、体の具合を確かめた。夢見の悪かったせいか、疲れのとれない感じはあったものの、足のけがは、ずいぶんいいようだった。
 寝床から降りて、ヨウルは床を何度か軽く踏み鳴らした。まだ痛みはあるが、なるべく体重をかけないように気をつけてさえいれば、歩くことはできそうだった。
 いつここを出るか――ヨウルは肩を回しながら、そのことを考えた。この場所が、そう簡単に兵士たちに見つかるとは思えなかったが、いつまでもこんな場所にいてもしかたがない。なにより、長く二人きりでこんなところに籠っていれば、いずれ老人の狂気が伝染しそうで恐ろしかった。

 

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