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 森は暗かった――樹々が密すぎるのだ。重なり合った枝葉が頭上を覆い、陽射しが地上にまで届かない。
 だがそのおかげで、足元は悪くなかった。下生えはごく貧相なもので、地面の上を這うのは、光をあまり必要としない、苔や羊歯の類ばかりだ。
 森の中を走る男にとって、それは、都合のいいことだった。少なくとも、低木の繁みに足を取られることはない。そのかわり、ときおり濡れた朽ち葉に足を滑らせることはあったが。
 男――ヨウルが森に逃げ込んでから、すでにどれほどの時間が経っているかしれなかった。彼はもうほとんど走っているともいえないような足取りで、それでもなお、走り続けていた。ふいごのような息が、たえず喉を焼いている。汗は冷え、悪寒がしじゅう彼をさいなんだ。恐怖がその背を押しつづけていた。
 ヨウルはひどく足を引きずっていた。疲労のためばかりではない。左の短靴が破れて、そこから乾きかけた血の色がのぞいている。
 遥かな頭上で、けたたましい鳥の鳴き声が響いた。ヨウルはびくりと肩を震わせて、走りながら顔を上げた。だが彼の眼にうつるのは、鬱蒼と生いしげる木々の枝葉ばかりだった。
 首をひねった拍子に足の痛みが増して、ヨウルは低く毒づいた。まったくもって、馬鹿馬鹿しいような失敗だった。森に逃げ込んですぐに、兎捕りの罠を踏み抜いたのだ。
 救いようのないほど、間の抜けた話だった。どういう場所に猟師が罠を仕掛けるのか、ヨウルは、いやというほど知っていたはずだった。ここは彼の故郷のすぐ近くであり、そして彼はもとはといえば、猟師の息子だったのだ。
 それだけ動揺していたということだろう。ようよう辿りついた故郷の村に追っ手の姿を見た、その瞬間の戦慄を、ヨウルはまざまざと思い出す。
 兵士どもはどうやって、彼の逃げる先を嗅ぎつけたのか。あるいはただ単純に、捜索の手を四方に広げただけなのか――自分のその思い付きがひどく馬鹿げていることを、ヨウルは知っていた。それならば、あれだけの数の兵士が、あの小さな村で待ち構えていたことの説明がつかないではないか。あてずっぽうの、散り散りになっての捜索だとすれば、彼の見た兵士は、全体のうちのごく一部だということになる。彼のような小物に、それほど多くの手勢を差し向けてくるとは考えづらかった。行動を読まれ、先回りされたのに違いない。
 都で暮らしたこの十年あまりの歳月のなかで、出自を他人に話したことなど、数えるほどもなかった。彼を売った者がいるとすれば、思い当たる顔は――ひとつしかない。
 歯ぎしりをして、ヨウルは背後を振り返った。誰かが追いかけてきているような気配は、感じられなかった――少なくとも、いまこのときは。
 ――畜生。
 低く唸ったその声とともに、残った力もすべて、吐き出してしまったようだった。がくりと膝を折って、ヨウルはその場にへたりこんだ。
 いっときの間、彼は自分のふいごのような息の音を聞きながら、そこにうずくまっていた。ほかに聞こえてくるのは葉擦れの音と、鳥や獣の気配ばかりだった。
 どうにか息を整えたのちに、ヨウルはよろめきながら再び立ち上がった。逃げなくてはならない。
 しかし、一度でも立ち止まってしまえば、傷の痛みは否応なしに、より強く意識された。もう走り出すような力は、彼の痩せた体のどこにも残っていなかった。
 けがをした左足に体重をかけないように、のろのろと、ヨウルは歩きだした。道がわかるわけではない。子どもの時分には森の入口のあたりでよく遊んでいたが、これほど奥深くにまで足を踏み入れたことはなかった。
 ――森の奥には、気のふれた魔法使いが住んでいる。
 それは村の年寄りが、よく子どもらにいって聞かせる話だった。だから、けして森に近寄ってはならないと。
 とはいえ、子どもらは、そんな話をまともに信じてはいなかった。姿を見られれば呪いをかけられて石に変えられるだの、狼の姿をした使い魔に食い殺されてしまうだのと、大人たちのいうことはまちまちで、要するにそれはいうことを聞かない子どもらを脅しつけるための、決まり文句のようなものだった。夜に貯め池に近寄ると亡霊に呼ばれて引きずり込まれるだとか、鍬を粗末にするとその年は凶作になるだとか、そういったものと同じ、迷信のたぐいだ。
 皆がそう思っていたにも関わらず、誰一人として、猟師が目印もつけないような森の奥深くにまでは、けして足を踏み入れようとはしなかった。森はあまりに広大で、ひとたび迷えば、無事に帰ることができるとはとても思えなかったからだ。
 その森を、あえていま、彼はさまよっている。無謀だということは、誰よりも彼自身が承知していた。だが追手の姿を見てしまったいまは、故郷の村にも、都に通じる街道にも、戻る気にはなれなかった。


 どれほど歩き続けたころだろうか、あるとき急に明るくなった視界に、ヨウルは何度も目を瞬いた。
 見れば、巨木が朽ちて倒れており、そのあたりだけは頭上がひらけて、空がのぞいていた。
 足元には、さっきまではちらりとも見かけなかった雑草や灌木の類が、まばらに葉を伸ばしている。頭上から差し込む陽射しは、ひどく白々としていた。どうやらまだ太陽が高い位置にあるらしいことに、彼は驚いた。森に逃げ込んだのが昼まえのことだ。もっと長い間さまよい続けたような気がしていたが、思ったほどの時間は過ぎていなかったらしい。
 光に怯えて、彼はあたりを見渡した。こうも明るくては、追っ手がやってきても隠れられないと思ったのだった。だが、再び暗い方へ向かうということにも、理屈ではない不安があって、彼は躊躇した。
 しばしの葛藤ののちに、ヨウルは恐る恐る、光の輪の中へと足を踏み入れた。
 そこで彼は、奇妙なものを見た。
 倒れた樹のその向こうにそびえ、半ば朽ちかけているのは、建物のように見えた。だが彼は、すぐには自分の目を信じなかった。疲れきって、幻覚を見ているのかもしれないとさえ考えた――このような森の奥深くに、いったい誰が、なんのために家を建てるというのか。
 だが、雑草を踏み分けて歩み寄ってみれば、たしかに建物だった。日の射す一角に、かろうじて壁の一部だけをさらけ出して、残りの大部分は、影の中に沈み込んでいる。
 古びて朽ちかかった、屋敷だった。都の暮らしを知っている彼にしてみれば、それは屋敷などと呼ぶのも馬鹿らしい、小ぢんまりしたつくりの家屋に過ぎなかったが、それでもこのような辺境にあっては、農夫たちの住む掘っ建て小屋とはたしかに一線を画した、邸宅だった。幾部屋かの間取りがあり、馬小屋があり、建物のわきには井戸まであった。水がすでに枯れているのかどうかまでは、見ただけでは知りようもなかったが。
 人の暮らしていたときには、少なくとも使用人の一人か二人は雇わねば維持のできなかっただろう、屋敷だった。だが、ひどく荒れ果てていた。人が住まなくなったのちに、少なく見積もっても何十年かは経っていると見えた。壁という壁はひび割れて、ところどころ崩れている。窓の木戸という木戸は朽ちて、そこからのぞく部屋は、ぞっとするほど深い暗闇に沈み込んでいた。
 そうしたことより何より――彼は振り仰いで、ぞくりと背筋に悪寒の這い上るのを感じた――その屋敷の屋根には大穴があいていて、そこからは巨大な樹が、天を衝かんばかりに聳え立っているのだった。
 はたしてこのようなことが、あるものだろうか? これほどの巨大な樹につらぬかれた――それほどの歳月のあいだ放棄されていた屋敷が、なかば朽ちかけているとはいえ、まだ原型をとどめているということが。
 知らず知らず後ずさって、彼は廃屋から離れようとした。そうしてみて、ようやく気付いた。その屋敷の向こう側にも、まだ廃墟が広がっていることに。
 生い茂る樹々に紛れてわかりづらいが、目の前の屋敷のほかは、どれもごく小さな家々のようだった。それこそ彼の故郷にあるような農家と大差ない、ぞんざいな作りの小屋だ。建てたばかりの年にでさえ、冬には隙間風がしただろうし、雨が降ればどこかからは常に洩ったに違いないというような。そのほとんどはすでに古びて倒壊しており、そう遠くないうちにはすっかり土に帰るだろうという有様だった。そして、それらの廃屋のほとんどが、さきほどの屋敷がそうであったように、樹々につらぬかれ、おしつぶされているのだった。
 彼はきびすを返して、この薄気味悪い廃墟を避けるように、できるかぎり大きく回り込んだ。そうしてさらに、足をひきずりながら、森の奥へと向かった。
 いったい何があったのか――ヨウルは鳥肌をさすりながら歩き、やがて、首をふって頭を切り替えた。考えれば考えるほどうす気味が悪かったし、どのみち真相を確かめるすべもないのだ。それよりもいまは、自分の身の心配をするべきだった。
 目指す方角に森を抜けることができたならば、その先には、町があるはずだった。
 街道筋の田舎町だ。都とは比ぶべくもない、辺境の鄙びた町には違いないが、それでも国境にほど近く、それなりに人の行き交う土地だ。彼の故郷のように、そこに暮らす誰もが顔見知りであるというような場所に比べれば、まだしも人のあいだに紛れることができそうに思われた。
 だがそれも、無事に森を抜けることができたならばの話だ。
 本当に自分が正しい方向に向かって歩いているのか、ヨウルにはまったく確信がなかった。道のりは平坦ではなく、すでに何度となく崖だの谷間だのに突き当たっては、そのたびに迂回していたし、鬱蒼とした木々に覆われた頭上のせいで、太陽がどちらの方角にあるかさえ、はっきりとは見出しようがなかった。
 そもそも自分のかつて見た地図が、どれほど正しいものかということさえ、ヨウルにははかりかねた。このような辺鄙な土地では、概して正確な測量など望みようもなく、地図などは推量でいいかげんに作られるものだ。
 ただほかにすべがないというだけの理由で、彼はあいまいな見当のもとに歩き続けていた。先ほどから喉がひどく渇いていたが、先ほどの気味の悪い廃虚の井戸から、水をくみ上げる気にはなれなかった。


 あるとき辺りが唐突に、そして速やかに暗くなってゆくことに、ヨウルは気がついた。もしや自分の意識が遠のきかかっているのかと、彼は真っ先に疑ったが、そうではなかった。いよいよ夜が近いのだ。
 だがいずれにせよ、同じことになりそうだった。傷を負った足は、もはや痛みを伝えてはこず、その代わりに元の倍ちかくにも腫れあがって、ひどく熱を持っていた。その熱が頭にも回ってきたのか、彼の意識は朦朧として、夢とうつつのあいだをたよりなく彷徨いはじめていた。
 すっかり視界が暗闇に染まるころになって、とうとうヨウルは立ちすくんだ。
 頭上を仰いでも、天に輝くはずの星を見出すことはかなわなかった。風が出てきたのか、頭上で梢の鳴る音は、ざわめきというような可愛らしいものではなく、いまや轟々と吼えるような音を立てていた。だがその樹々にさえぎられるのか、彼のいる地上にまでは風もさして届かず、それだけが唯一の救いのように思われた。
 あたりがほとんど完全な闇に閉ざされていたので、彼は、自分の視界が揺れたことにも気がつかなかった。ただ強いめまいのような感覚がして、その次の瞬間には、自分の体が濡れたつめたい地面に倒れこんでいることに気がついた。
 けがをした左足が、焼けるように熱かった。体のそのほかの場所は、ぞっとするほど冷えていたが、それでも彼はいまや、恐怖を感じてはいなかった。不安に怯える心も、もはや疲労の波にすっかり押し流されて、いまはただぼんやりと、曖昧な浮遊感にもてあそばれるばかりだった。
 木々の轟々と唸り、ひとしきり強まってはまた弱まってゆく、その音の波だけが、このとき彼の世界のすべてだった。自分が目を開いているのか、それとも眠りの中にいるのかさえ、判然としなかった。
 だが、その暗闇の中で、彼は灯を見た。
 ヨウルはいっときのあいだ自分の目にしているものの意味がわからず、ただ意識の痺れたまま、ぼんやりとそれを眺めていた。やがてそれが紛れもなく灯であると気付いたとき、彼はまず、己の正気を疑った。熱に浮かされて幻覚を見ているのか、あるいは死にかけてすでに魂が肉体を抜けだし、この世のものならぬ光を目にしているのではないのかと。
 だが光はゆらゆらと規則的に揺れながら、彼の方に、ゆっくりと近づいてきた。彼が瞬きをすると、その動きにあわせて光も明滅した。その灯の周りにだけ、ときおりわずかに樹の幹のささくれた皮や、そこにしがみつくように生えた苔や、ちらちらとまとわりつく虫といったものの、あいまいな輪郭が照らし出された。持ち主の姿はぼんやりとした影となって暗闇に沈み、ただ灯りを持つ節くれだった指だけが、くっきりと浮かび上がっていた。
 近づくまで足音が聞こえなかったことも、ヨウルの感覚から現実感を削いでいたのかもしれない。葉擦れの音があまりに騒々しすぎて、かすかな足音などは、そのなかに紛れてしまっていたのだ。
 やがて光は、彼のすぐ傍まで近づいて、そして止まった。そのとき、ようやく彼は、灯りの持ち主の足が朽ち葉に埋もれた地面を踏みしめる、かすかな音を耳にした。
 だが、自分を覗き込む何者かの顔をたしかに見定めるまで、彼は目を開け続けてはいられなかった。どうやら助かったらしいという曖昧な安堵だけが、彼の疲れ切った思考を包み込んで、そのほかのことを考えられなくさせていた。
 ヨウルは意識を手放した。朽ち葉の甘ったるいにおいだけが、彼の夢の中にまでついてきた。


 深い眠りからようやく抜け出したとき、ヨウルがまっさきに感じたのは、ほのかに苦い、薬のようなにおいだった。
 目を開ける前から、ここが誰かの部屋の中だということは分かっていた。背中にあたっていた感触が、腐ったやわらかい朽ち葉のそれではなかったからだ。
 体の下にあるごわごわとした感触は、彼にとって、ひどく懐かしいものだった。かつては毎日のように馴染んでいたが、もうずっと離れていた感触――わらの上に布をかぶせただけの、粗末な寝床の手触りだった。
 ゆっくりとまぶたを持ち上げると、素朴なつくりの木の梁と、くすんだ天井が見えた。彼は身じろぎをして、低く呻いた。けがをした左足ばかりでなく、体中の節という節がひどく痛んだ。
 倒れた前後のことを、ヨウルはおぼろげに思い出した。夜の森を包む深い闇――樹々が吠え立てるような轟々たる葉擦れの音――近づいてきた頼りない小さな灯り。あの灯の持ち主が、彼をここまで運んできたのに違いなかった。
 どうやらこの部屋には、ごく小さな窓しかないようだったが、そこからは、かすかに日ざしが入っていた。そのおかげで、ともかくものの姿を見分けるのに苦労しないくらいには、あたりは明るかった。ここが森のどのあたりだかは知らないが、周囲はいくらか開けているらしい。
 古びているが清潔そうな水瓶や、壁に干された薬草のようなもの、書棚とそこに積まれた紙の束、そうしたものを、彼は熱にかすむ眼で、ひととおり見てとった。ヨウルはさらに首を捻り、そして、そこにいる人物を見た。
 うす暗い部屋の隅、壊れかかってなかば傾いだ木の椅子に、一人の老いた男が座っていた。
 ヨウルがとっさに息をのんだのは、その人物の異相に驚いたためだった。ほつれの目立つ服の裾からのぞく老人の手足は、目を疑うほど痩せほそって、ひからびた蜥蜴のような、生気のない灰色の皮膚をしていた。真っ白の髪は伸び放題で、皺に埋もれたような顔には、たくさんの斑点が浮いている。小さな目は、かろうじて開いてこそいたものの、その瞳はなかば白く濁り、老人が彼のほうを見つめ返しているのかどうかさえ、判然としなかった。
 これほどまでに年を取った人間を、彼は、生まれて初めて目にした。かつて村で一番の年寄りだといわれていた老爺は、七十の年まで指折り数えるというほどで、すでに目も足腰も弱りきって、まだ生きているのが不思議になるほどに弱っていたものだったが、それでもいま彼の目の前にいるこの人物ほどは、老いてはいなかった。
 こんな年寄りが、彼をここまで運んできたというのだろうか? ヨウルはまじまじと老人を眺め、訝しく眉を寄せた。
 彼の見ている前で、老人の皺ぶかい瞼がふいに下りて、その濁った瞳を隠し、再び持ち上がった。それから老人は、ゆっくりと腰を上げた。
 古びた床板が、老人の歩みにあわせて小さく軋んだ。その足取りはひどく緩慢なものだったが、それでも老人の背や腰がまっすぐに伸びていることに、ヨウルは気がついた。少なくとも、農夫ではないのだ――彼はそう考えた。
 日々鍬と鎌を握って屈んでばかりいる農夫たちは、たいして年をとらないうちから、みなそろって腰が曲がっている。猟師もそうだ。獣たちに気配をさとられないよう身を隠し、息を殺してじっと伏せるか屈みこむかしてばかりいるから、年老いるころには、すっかり背が丸くなってしまう。
 農夫でも猟師でもないとすれば、この老人は、こんな辺鄙な森の奥で、いったいどうやって暮らしているというのか。あらためて見れば、ここは、炭焼き小屋にはとても見えなかった。それらしい道具もないし、それに、空気が違うのだ。この部屋に漂うにおいといえば、先ほどから彼の鼻をくすぐっている、苦い――そう、薬のようなにおいだけだった。
 ――森の奥には、気のふれた魔法使いが住んでいる。
 幼いころに言い聞かされたその言葉が、このとき再び脳裏をよぎって、彼はぎょっとした。まさかこの老人が、そうだというのだろうか?
 馬鹿馬鹿しい――ヨウルは自らをあざけりながら、ゆっくりと半身を起こした。緩慢な動きでまだ彼のもとに近づいてこようとしている老人は、どう見ても、ただ信じられないほど年をくっているというだけの、ただの人間だった。
 長い時間をかけて、彼のすぐそばまで歩み寄ってきた老人は、皺に埋もれた色のない唇を、かすかに動かした。
「気分はどうかね」
 えらく古めかしい喋りかたをする爺さんだ――その言葉の抑揚を聞いて、ヨウルは思った。それから目を眇めて、慎重にうなずいた。
「おかげさんでずいぶんといいが――体の節が痛むようだ」
 歯切れの悪い言い方になったのは、警戒したからだ。本当のことをいうならば、まだ臥せっていたかった。体じゅうが火照って痛むし、頭の芯にも鈍くしびれるような感覚があった。だが、弱った姿を露骨にさらすことには、少しばかり抵抗があった――この老人が、善意から彼を助けてくれたのだとは限らない。もっとも、いまさらといえば、あまりにいまさらのことではあったが。
「あれだけ熱が出たならば、さもあろう」
 老人はもごもごといって、手にもっていた布を差し出してきた。
「あんた、自分で汗を拭けるかね。めんどうをみてやりたいところだが、何せこのとおり、すっかり手足が弱ってしまっておるものだから、時間がかかってしようがない」
 口の中で礼をいって、ヨウルは布を受け取った。よれて痛んだ古布ではあったが、ともあれ、清潔そうには見えた。
 改めて体をぬぐってみて、ヨウルはようやく、自分が信じられないほどの寝汗をかいていたことに気がついた。この分では老人のいうように、よほど熱を出していたのだろう。口の中にかすかに苦い味がするのは、自分の胆汁か、それとも薬湯でも飲まされたからだろうか。
 体を拭く間、沈黙に耐えかねて、ヨウルは口を開いた。
「爺さん、あんた、みんなが噂している魔法使いかい」
 それは半ば、冗談のつもりだった。老人に、笑い飛ばしてほしかったのだ。辺境の農村の、迷信と噂の尾ひれの滑稽さを自嘲して、笑い話にしてしまいたかった。
 だが老人はすぐに答えず、じっと彼の眼を見つめ返した。ヨウルはその視線にうす気味の悪さを覚えて、体を拭く手を止めた。
 白く濁った老人の瞳のなかに、彼はなにか、得体のしれない感情を見出した。警戒――自嘲――絶望――悲嘆――彼の知っているどんな感情とも、それは、少しずつ違っているように見えた。老人は長い間の後に、ゆっくりと唇を動かした。
「いかにも、わたしはいやしくも、魔法使いのはしくれだ。だが、それを知って、お前さんはどうするのかね」
 問い返されてヨウルは気おされ、せわしなく瞬きをした。
「どうにもしないさ」
「そうだろうとも。さあ、拭き終わったなら、もう一眠りしたがいい――喉が渇いたなら、水はそら、そこにある。すまないが、藁の替えはないのだ」
 そういって、老人は彼に窓辺の水差しを示してから、のろのろと背を向けた。
 ――魔法使いだって?
 薄気味のわるい爺さんだ――心のなかで毒づきながらも、ヨウルはいわれたとおり水を飲んで、おとなしく体を横たえた。
 たしかに藁は汗に湿って、あまり快適とはいいがたかったが、それについては、彼は文句をいうつもりはなかった。もっと寝心地の悪い場所――汚れた床や、どうかすれば地面の上で眠ることだって、もとより珍しくはなかったからだ。
 眠りの気配は、速やかにやってきた。地の底に体を引きずり込まれるような睡魔に襲われ、あいまいに溶けてゆく思考の中で、彼は考えた。なによりまずは、体を治すことだ――歩けるようになったら、さっさとこの気味の悪い小屋を出ていこう。


 ヨウルが次に目を覚ましたのは、叫び声を耳にしたためだった。
「ああ――許してくれ――どうか許しておくれ――」
 暗闇のなかで目を開けて、ヨウルは用心深く、そっと体を起こした。老人は、部屋の反対側のすみにいた。もとより質素な自身の寝床を、見知らぬ男に貸し与えてしまったがために、ただ床に布を敷いて、そこに横たわっているようだった。
 老人は、自らの胸をかきむしるように腕を折り曲げて、ひっきりなしにうめいていた。その瞼が固く閉ざされているのを、ヨウルは見た。窓からはかすかに月光が入っており、それがちょうど斜めに老人の顔に射しかけていた。
「私が愚かだったのだ――何もかもが間違いだった――許しておくれ――」
 よくも自分の声で目を覚まさないものだと思うほどの、大音声の寝言だった。寝床を這い出して老人を起こそうかと、ヨウルは考えたが、結局のところ、それを実行に移す気にはならなかった。
 ひとつには、うるさいと思うのよりも、立ち上がるのが億劫だという気持ちのほうが強かったためだったし、もうひとつには、眠っている人間にけして声をかけてはならないという、子どものころにいいきかされた話が、頭の隅に残っていたからだ。
 眠りは死に通じているから、眠れる者と話をすると、冥府に魂を引きずり込まれるというのだ。そうした迷信を、理性ではくだらないと考え、まるで信じていないつもりでいても、子どもの時分に身にしみついた習慣というものは、思いがけないほど強く、行動を縛るものだ。
「ああ――どうか――クレフ――エリオット――ヴァルカ――エイウェン――知らなかったのだ。知らなかったのだ――どうか許してくれ――」
 老人は長いこと、魘され続けた。延々と誰かの名前を呼んでは、許しを請う。譫言が止むのを待つのはあきらめて、ヨウルは再び体を横たえると、老人のいるほうに背を向けた。そうして目を開けたまま、壁のしみを数え始めた。
 老人の皮膚がしみだらけであったように、この建物の壁も、どこもかしこもくすみ、削れ、痛んでいた。それでも不潔な感じがしないのは、掃除が行き届いているからか、それとも壁に掛けられている薬草の束のためだろうか。
 ここにはいない誰かに許しを請う老人の寝言が終わるよりも、ヨウルがみたび眠りに落ちるほうが早かった。


 つぎの朝には、すっかり熱も下がっていた。ヨウルは寝藁の上で慎重に体を動かして、どこも、疲労に凝り固まってはいても、ともかく自分の意志のとおりに動かせることを確かめた。
 左足はいまだに腫れ上がり、少しでも動かすとひどく痛んだ。それでも、巻かれた布をはがしてみれば、傷口はきれいなものだった。足が腐って切り落とすはめになる心配は、ともかくしなくてすみそうだった。老人が塗ってくれていたらしい、膏薬のようなものが、乾いてぱらぱらと床に落ちた。
 老人は、ヨウルの傷を確かめてひとつうなずくと、あとは素知らぬふりで、傾いだ机に落ち着いた。
 老人はときおり思い出したように何かを書きつけては、手を止めて、ぼんやりと宙をにらんだ。その様子を、ヨウルはじっと見守った。字を読み書きできるものなど、彼の郷里には数えるほどもいなかった。どうやら身かけによらず、教養のある人物らしかった――農夫ではなさそうだという最初の印象を、ヨウルは思い出した。
 老人がいつまでも朝食の用意をするようすがないので、やがてヨウルはばつの悪い思いで、空腹を訴えた。老人はいっとき振り返りもせずに、ぼんやりとしていたが、あるとき急に目の覚めたような顔をして、ああ、そうかというようなことを、もごもごとつぶやいた。
 昨日言葉を交わしたときには、頭ははっきりしているように見えていたのだが、日が変わって朝になると、どうやら様子が違っていた。老人はときおり、誰もいない場所に向かって意味のとれないことを話しかけ、そうかと思えば振り返って、なぜ見知らぬ男がここで寝ているのだというような目で、ヨウルのことを見た。
 ――爺さん、呆けてやがる。
 あるいはかつて村人たちが噂していたように、気がふれているのか。だが、どちらにしても同じことのように、ヨウルには思えた。
 食べ物を取りにゆくのか、老人がよろめきながら小屋を出て行ったとき、このまま戻ってこないのではないかという不安に、ヨウルは襲われた。
 だが、長い時間ののちに、老人は戻ってきた。たったいま土の中から掘り出してきたのだろう、見慣れない形の芋のようなものと、まだ緑もみずみずしい草を、手に提げていた。
 ヨウルは老人が火を熾して料理をする間、その一挙手一投足に、油断なく目を凝らしていた。呆けているふりをして抜け目なく人を観察する老人というのが、中にはいるものだ。何もわからないと思わせ、人を油断させておいて、その実、冷静に相手の本性を見極めようというような者が。
 だが見れば見るほど、老人は、もうどうしようもないほど耄碌してしまっているように思えた。のろのろとした動作の途中でふと手を止め、さて自分は何のためにこんなものを持っているのだろうというような顔を、ときおり見せた。
 それに――たとえその様子が演技だとしても、彼の不意をついて危害を加えることができるようには、とても見えなかった。老人の手足は見るだに細く、まるきり枯れ枝のようだった。
 その細い手から、老人は何度となく食材を取り落した。よくもこうまで弱っていながら、こんな森の奥で、これまで暮らしてこられたものだ。ヨウルはあきれて肩をすくめた。それもどうやら一人きりで――見るかぎり、小屋のなかはこの部屋ひとつきりのようだし、藁の寝床や、机や椅子、食器というようなものは、いずれも一組しかなかった。この分では、老人がいずれものを食べることを忘れて飢え死にする日も、遠くはないのではないかと、彼には思えた。
 それでもともかく、出された芋粥は、まともな出来上がりだった。老人が寝床まで運んでくれた暖かい粥を啜りながら、ヨウルはその熱が、胃の腑にしみわたるのを感じた。塩気はうすいが、何か香草のようなものが入っていて、いかにも滋味のありそうな味がした。
 むさぼるように啜り、ほとんど食べ終わるころになって、ヨウルはようやく、老人が何も食べていないことに気がついた。
「爺さんの分が、なくなっちまったんじゃないのか」
 さすがに気が引けるような思いがして、ヨウルがそういうと、老人は目をしばたいた。それから、年寄りはあまり食べなくても平気なのだというようなことを、もごもごと呟いた。
 彼が手渡した空の椀を、老人が片づけているあいだ、ヨウルはじっと、その背中を観察した。緩慢な動き――危なっかしげな手つき。まさか魔法使いだから、何も食わずとも平気だとでもいう気だろうか。自分の思いつきを、ヨウルは笑った。
 老人がほんものの魔法使いだとは、ヨウルは思っていなかった。
 子どものころには、村の年寄りたちの話を、笑い飛ばしながらも、半ば真に受けていたようなところがあった。いにしえの世には魔法使いたちがそれぞれに王に仕え、まつりごとにその神秘の力を貸していただの、この世のどこかに魔法使いたちの棲む隠れ里があって、いまもひっそりと不思議の力をふるっているのだというような話を。
 だがいまはもう、魔法などというものは、おとぎ話かつくりごとだとしか思えなかった。成人してからのこの十数年間を、雑多な人の行き交う街で過ごしたいまとなっては、彼はあまりにも多くのペテン師、辻芸人、見世物の類を目にしすぎていた。
 そうした人々が魔法といって披露して見せるものは、どれもこれも仕掛けのある目くらましか、そうでなければ、言葉を巧みに弄しての暗示によって、さもそこに不思議な力が働いているかのように人々に思い込ませる、いんちきの類だった。魔法使いというものは、人から言葉巧みに金を巻き上げようとするうさんくさい連中なのだと、いまやヨウルは、頭からそう思い込んでいた。さもなくば――自分のことを魔法使いだと思い込んでいる、ただの狂人か。
 森の奥ふかくに隠棲しているらしい、この変わり者の老人もまた、そうした気ぐるいの一人だろうと、ヨウルは踏んでいた。
 何の事情があったかはしらないが――ヨウルは昨夜、老人がひどくうなされていたことを思い出した――人里離れたこんな場所に隠れ住むうちに、孤独に押しつぶされて、妄想に捕まったのかもしれない。自らを偽り続けているうちに、本当にそうであると信じこんでしまう人間がいることを、ヨウルは知っていた。
 半ばからかうような気分で、ヨウルは老人に呼びかけた。
「爺さん、あんた、なんでこんなところで、一人で暮らしているんだい」
 老人は振り返ったが、答えずに、ただじっと、彼の眼を見つめ返した。
 答える気がないのだろう――あるいは考えているうちに、質問されたことを忘れてしまったのか。そう思ったヨウルが、答えを待つ気をなくしたころになって、ようやく老人の視線が動いた。
 その眼は、いまのいままで、この世のどこでもない場所を見ているような具合だったが、それがこのとき、突如として知性を取り戻したようだった。
「わたしはこの森から、出られんのだ」
 低くかすれた、それでいて、これまでの話しぶりとは比べようもないほど、明瞭な声だった。ヨウルは意表をつかれて、少しばかりたじろいだ。
「そりゃいったい、どうしてだい」
 ヨウルは聞きかえしたが、さして興味があったというわけではなかった。気ぐるいのいうことだ――真に受けるほうが馬鹿馬鹿しい。老人は、苦く、吐き捨てるように答えた。
「かつて私が使った、魔法のせいだ」
 ヨウルは小さく鼻で笑った。それに気づいているのかどうか、老人は細く長く息を吐いて、それから二度、ゆっくりと首を振った。
「愚かだったのだ――私は愚かだった。だからこのような場所にいるのだ」
 それきり老人はぴたりと口をつぐんだ。その眼は再び茫洋とした霧の中に飲み込まれて、どこかにさまよいだしたようだった。

 

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